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「おっ、陽介だ。やっほ」
「七瀬さん。こんばんは」
河川敷で会うなり、お互いの名前を呼び合って少しだけ笑う。
あれから数日が経ち、少しぎこちないものの心地いい習慣ができつつあった。仕事が早めに終わった日は、コンビニで酒を買い、河川敷に向かう。そんなルーティン。
「七瀬さん、どんなペースでここに来てるの……? いつもいるよね?」
「その『いつも』っていうのは陽介が観測した時の話でしょ。私からしたら数日おきだよ」
「つまり、毎日来ていると……」
「ま、別に誰かを待ってるわけじゃないから。気が向いた時に来てくれたら、それで。私もある日突然来なくなる可能性もあるわけで」
「ま、そうだよねぇ……」
名前を半分知っているだけの脆弱な関係性ということを再認識しつつ、いつものように、レモン味の缶チューハイを隣に並べて座る。
特に何を話すでもなく、川の流れを眺める時間が俺は嫌いじゃなかった。むしろ仕事で疲れた頭をゆっくりとほぐしてくれるような大切な時間になっていた。
今日は缶チューハイだけでなく、ちょっとしたツマミとしてスナック菓子も買ってきたため、ガサガサと袋を開けて口にはこぶ。
隣からジト目でじーっと俺のスナック菓子を見てくる七瀬さんが視界に入り、袋の口を彼女の方に向ける。
「食べる?」
「う……た、食べたいのはやまやま山猫なんだけど……」
「やまやま山猫?」
「や、そこは良くて。私、お菓子は食べないことにしてるんだ。この一週間くらいは」
「ダイエット?」
「体型維持、と言ってほしいな」
七瀬さんはぷくっと頬を膨らませてそう言った。
「お酒飲んでるけど……」
「や、けどこれって人工甘味料だけでカロリーは控えめだし。でしょ?」
七瀬さんは『同じ物を飲んでいるから商品の特徴は理解しているだろう』と言いたげに俺の缶を顎で指した。
「じゃ、後でこっそり食べるよ。ごめんね変なもの出して」
「や、食べて食べて……というかやっぱり一口だけ。いい?」
七瀬さんは誘惑に抗えなかったらしく、眉尻を下げて俺を上目遣いで見てきた。
「まぁ……七瀬さんがいいなら」
再度袋の口を見せると、七瀬さんは目を輝かせながら「ありがと」と言って袋から菓子を一つ取り出して食べた。
「ん……んまっ。これ、何?」
「ドリトス。トルティーヤを揚げたお菓子かな」
「うーん……こういうお菓子の粉、美味しいよねぇ……指まで美味しいや」
七瀬さんは微笑みながらそう言って菓子の粉がついた指をぺろりと舐めた。
そして、流れでまた袋に手を伸ばすも、ピタリと手が止まった。
「あ……我慢だぞ自分……」
七瀬さんはそう言って目をぎゅっと瞑る。なんだか可哀想になり、俺は菓子のパッケージ袋の口を閉じるように折りたたんでビニール袋にしまった。
「あう……」
「なんか、悪いし。俺、あたりめ好きなんだよね。今度はそっちにしようかな」
「や、ヘルシーじゃん。気を使ってる?」
「全然。たまたま居合わせる人のために気は使わないよ」
「ん。それでいい。気遣い神」
七瀬さんはニッコリと笑ってそう言った。
七瀬さんと夕薙凪は別人。だが、ふと気を抜くと二人が重なって見える瞬間もある。それくらい二人は似ているように思った。
「あの……」
先に口を開いたのは、俺だった。
「七瀬さんは、その……そっくりさんで、何か大変なこととかあるの?」
自分でも唐突な質問だとは思う。
俺の問いに、七瀬さんはきょとんと目を丸くした後、ふっと笑った。
「ん。大変だよ、そりゃあもう……」
ぽつりと彼女が呟く。最初は口角を上げてニヤけていたが、徐々に真剣な顔つきに変わっていった。
「本物さんが、急に髪型を変えたりすると、SNSで見て、『あ!』って思ったら、こっちも慌てて次の日に美容院の予約入れなきゃいけないし」
「それはもう寄せに行ってない!?」
「あ……そっか。けど向こうは見られるプロだし、似合うスタイルは参考にしたいし!?」
七瀬さんは何故か焦りながら帽子を被り直した。帽子の中には綺麗な黒髪がまとめられていて、下ろすと夕薙凪と瓜二つなんだろう。
「あと、食べたいものも自由に食べられないんだよね。本物さんが『野菜中心のヘルシーな食生活』って言ってるから、私もこってりしたラーメンとか、食べたくなっても我慢してたり」
「……」
「一番しんどいのは……勝手な行動ができないこと、かな」
七瀬さんは、自分の膝を、ぎゅっと抱きしめる。
「もし、私がどこかで歩きスマホとか、立ち食いとか、そういうことをしてたら、『夕凪凪が、あんなことしてた』って、ネットに書かれるかもしれない。そしたら、本物さんのイメージダウンに繋がっちゃうから……」
彼女の声が、少しだけ、震えている気がした。
「だからいつも誰かに見られてる気がして……時々息が詰まりそうになる……って本人は思ってたりするのかも。たまーに気持ちはわかる」
そっくりさん、という、どこか滑稽で現実味のない響き。その裏側にこんな悩みが隠されているなんて思いもしなかった。
「そっか……」
ようやく、それだけを口にするのが精一杯だった。
「俺、全然知らなかった。そっくりさんって、そんなに気を使うものなんだ……純粋に尊敬する」
俺が心からそう言うと、七瀬さんは顔を上げてじっと俺の目を見た。瞳が少しだけ潤んでいるように見えた。
「それに、七瀬さんって……夕薙凪のアンチなのに、そんなに本人の風評に気を遣って……七瀬さんの方がよっぽど気遣い神だよ」
俺がそう言うと何故か七瀬さんはずっこけた。
「ど、どうしたの?」
「や……確かに。なんで私がここまで気遣ってるんだろうって思ってさ。私は私なのに」
「だよね。アイドルのあの人はお菓子を食べた後に指は舐めないだろうし」
「や、それはわかんないぞ〜案外舐めてるかもよ?」
「ヨーグルトやアイスの蓋も?」
「こっそり舐めてるかも。メンバーから隠れて」
「パピコの先っちょも?」
「むしろ本体より先に食べてるかもね。右手に本体、左手に先っちょ」
「ポテチの最後の欠片も?」
「ん。ラッパ食べしてるまである」
「アイドルも人間だもんなぁ……」
似ているとはいえアンチの主張なので話半分くらいに聞いておくのがいいんだろうけど、妙にリアリティのある言い方だった。
「ま……そういう意味じゃここは人通りも少ないし、気を遣わないでいいから楽。指どころか肘まで舐めても誰も見てないレベルだよね。陽介以外は」
「肘は美味しくないと思うよ!?」
七瀬さんは「肘、しょっぱいかな?」と冗談をいい、缶チューハイを口にした。ほぼ飲み干したのか、上を向いてラッパのように最後の一滴まで飲んでいる様はアイドルらしからぬ光景だった。まぁ、七瀬さんはアイドルではないのだけど。
「陽介、話したらなんだかすっきりした。ありがと」
そう言って、七瀬さんは、ふわりと笑った。
雲間から月が顔を出すみたいに、自然で、綺麗な笑顔だった。
その笑顔を見て、俺も、なんだか、少しだけ救われたような気持ちになった。
「また、いつでも。愚痴でも、なんでも」
「……ん。ま……また会えた時ね。時間とか決めちゃうと重荷になっちゃいそうだし」
「確かにね。決めずに気が向いた時に」
「ん。そうだね」
彼女の小さな返事が、夜風に溶けていく。
二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。でも、それはもう、ただの沈黙じゃなかった。
缶チューハイの味もいつもより少しだけ、人工甘味料を甘く感じた。