18
約束の日。俺と七瀬さんはいつもと違う場所にいた。
特急電車に揺られて一時間半。観光地の賑わいから、少しだけ離れた静かなターミナル駅。ここが、俺たちの冒険の始まりの場所。
「よし、手続き終わり。行こうか」
駅前のレンタカー屋で小さな車を借りた俺は、少しだけ得意げな顔で助手席のドアを開けた。
「ん、ありがと。陽介って運転できるんだ。意外だね」
いつも通りのズボンにパーカー、帽子に眼鏡と変装フル装備の七瀬さんが車を挟んで話しかけてきた。
「まぁ……頻繁じゃないけど、商品在庫を融通するのに駆り出されて営業車に乗ったりしてるからね……」
「へえ……すごいじゃん」
彼女は楽しそうに笑いながら助手席に乗り込み、シートベルトを締めた。
俺が運転席に乗り込むと七瀬さんが隣から「ねぇねぇ」と話しかけてきた。
「何?」
七瀬さんはシートベルトが食い込んだ胸の谷間を指差す。
「や、パイスラッシュ」
「七瀬さん!?」
釘付けになりそうな視線を一気に上げて前を向く。慌てふためく俺を見て七瀬さんがケラケラと笑う。
「ふはっ……そんなに驚かなくてもいいじゃん」
「いやいや……七瀬さん。パイスラッシュとか言わない方がいいよ……」
「や、はしたなかったかな……」
七瀬さんが助手席の窓を見ながら恥ずかしそうに頬をかいた。
「それは良いんだけど……パイスラッシュって『あー、あの人なってるなぁ』って思うものじゃん。自らが『私、パイスラッシュなってます!』なんて言うものじゃないじゃん」
「……そっちか。パイスラッシュの鑑賞マナーについて熱く語られるとは思わなかった」
七瀬さんはニヤリと笑ってシートベルトを胸からずらして続ける。
「趣だね。短歌、俳句、水のせせらぎ、侘び寂び、パイスラッシュ」
「これから運転するから笑わせようとしないでくれる?」
「パイスラッシュで笑う方が良くないんだよ」
開けた河川敷ではなく二人きりの小さな車内。そこでも心理的に安心感を持ったまま会話ができるので大丈夫そうだ。
知らない街の風景に知らない街の道路。カーステレオから流れる当たり障りのないポップス。たまに隣から聞こえる七瀬さんの鼻歌。そのすべてがいつもと違って新鮮だった。
俺たちはスマホの地図を頼りに、山奥へと車を走らせる。目的地は、ガイドブックの隅に小さく載っているような小さな滝だ。
「……うわあ」
駐車場に車を停め木々の間の小道を歩くこと、数分。目の前が開けた瞬間、七瀬さんが感嘆の声を上げた。
木漏れ日の中で、白い飛沫がキラキラと輝いている。幾筋もの絹の糸のような水が、緑の苔に覆われた岩肌を滑り落ちていく。
ザーという、心地いい水音だけが、辺りを支配していた。
俺たちの他には誰もいない。
「……本当に、誰もいないね」
「ん。貸し切りだ」
二人で、滝壺の近くの岩に腰を下ろし、ただ、ぼんやりと、その光景を眺めた。
言葉は、いらなかった。
「……水のせせらぎ、侘び寂び、パイスラッシュ」
「……七瀬さん?」
俺がジトーっとした視線を向けるも、七瀬さんは笑いながら水面に手を伸ばし、水の冷たさを感じていた。
言葉は、いらなかった、ということにする。
「……ね、陽介。なんかさ……ここにいると全部がどうでもよくなっちゃうね」
七瀬さんがぽつりと呟いた。
「うん。会社の、嫌なことも、全部、この水が、洗い流してくれる気がする」
「ふふっ。陽介にも、嫌なこととかあるんだ」
「そりゃあ、ありますとも」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
「……ってかさ、陽介。これだといつもとやってること変わらなくない? ずーっと水面を眺めてる。酒がないだけの違いだ」
「たっ、確かに……」
「ふふっ……ま、楽しいから良いんだけどね。楽しいから続いているんだし。いつもと違うこと……あ、そうだ」
七瀬さんはその場で靴と靴下を脱いで素足になると、そのままくるぶしまで水に浸けた。
「お〜……ぎもぢぃい……」
七瀬さんが極楽に行ったかのような声を出す。
「あー……陽介ぇ。ノンアルくらい買ってくればよかったね」
「いよいよいつもと変わらなくなっちゃう――」
喋っている途中で七瀬さんがべしべしと俺の肩を叩いてきた。
「陽介、鹿だよ、鹿」
「え? どこ?」
七瀬さんが指差す先には何も見えない。
「あそこの茂みの横! 見えない?」
七瀬さんは声を落としつつも興奮した様子で俺に近づきながら指を指す。徐々に俺の方に近づいているのに気づいていないようだ。
「ど、どこ……?」
「やっ、い、今動いた! ほら! 右右!」
鹿に夢中な七瀬さんが俺に密着してきた。そこでやっと七瀬さんの動きが止まる。
二人で至近距離でみつめあい、そのまま固まってしまう。
「あ……し、鹿が……おりまして……」
「鹿がね……」
「だから……これは……その……」
「「仕方ない」」
二人で同時にそう言い、ケラケラと笑う。
「や、熊がいたら怖いし行こっか」
「そうだね。お腹すかない?」
「空いた。なんか食べよ」
滝のマイナスイオンに、すっかり癒された俺たちは昼食を食べに向かった。
◆
ランチを食べてゆっくりと道の駅をぷらぷらと歩き回った後、夕暮れ時の静かな海にやってきた。
「わあ……」
砂浜に立った七瀬さんは、水平線にゆっくりと沈んでいく夕日を見て、また小さな声を上げた。
「俺……ちょっとトイレ行ってくる」
「ん。私はお茶買ってくる」
俺は近くの公衆トイレへと向かい、彼女は駐車場にある自販機へと歩いていった。
数分後。
俺がトイレから戻ってくると、七瀬さんの周りに人影があった。
若い大学生くらいのカップルだろうか。彼女に何か話しかけている。
七瀬さんの顔が、こわばっているのが、遠くからでもわかった。
俺は嫌な予感がして、駆け足で彼女の元へと向かった。
「……あの、すみません。何か?」
俺が声をかけると、カップルの男の子の方が、少し興奮した様子で言った。
「あ、あの! ルミナス・ティアーズの、夕薙凪さん、ですよね? そうですよね? 俺ファンなんですよ〜」
やっぱりか。さすがそっくりさん。こんなところでも間違われるなんて。七瀬さんの顔が、さっと青ざめていく。
俺は彼女を守るように、一歩足を踏み出した。
「ああ、すみません。よく間違われるんですよ、この人」
俺は努めて穏やかな声で言った。
「この人、夕薙凪さんじゃなくて、七瀬さん、ていうんです。ほら、そっくりさん。テレビとかでも、たまにいるじゃないですか。そういう感じで」
「え、そうなんですか!? けど……似過ぎじゃないですか?」
「ええ。だから結構大変みたいで。街中だと間違って声を掛けられちゃうから、こうして人がいないところに来たんですけど、それでも声をかけられちゃいましたね……」
俺は続けてまくし立てる。
「だから、この人は本人じゃないです。その証拠に、この前の週末、本物の夕薙凪さんは音楽フェスで野外ライブやってたでしょう? でも、この人……七瀬さんは、その日友達の結婚式で全然違う場所にいたんです。だから、絶対に本人じゃないんですよ。なので、どうか、そっとしておいて貰えませんか。その……ただ一般人同士がデートしてるだけなので……」
俺の必死な熱弁に、カップルは完全に気圧されていた。
「そ、そうだったんですね……! うわ、めちゃくちゃ、似てたから……! すみません、本当に。申し訳ありませんでした!」
二人は、何度も深々と頭を下げるとバツが悪そうに、足早に去っていった。
「……大丈夫? 七瀬さん」
俺が振り返ると、彼女は俯いていた。
その表情は窺えない。
でも、次の瞬間、顔を上げた彼女の瞳は、少しだけ、潤んでいた。
嬉しいのか、悲しいのか、わからない。
一瞬だけ、今にも泣き出しそうな複雑な顔をした後、彼女は、俺に今までで一番にも思える優しい笑顔を向けてくれた。
「……ん。ありがと、陽介。助かった。本当に」
その笑顔を守れたことが、誇らしかった。
彼女の「そっくりさん」としての苦労を、俺が、少しでも、軽くしてあげられたのなら、いいな、と思った。
二人で海の方を向くと、夕日が海に溶けていく。
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