15
7月に突入すると、気温も去ることながら川の側の空気はまとわりつくような湿気を含んでいて、じっとしていても、額にじんわりと汗が滲む。
「……なんか、今日蒸し暑くない?」
七瀬さんが、自分の首元を手でぱたぱたと扇ぎながらそう言った。
「うん。昼間よりむしろ暑い気がする」
「ん。そうだよね。地球にエアコン実装されないかなぁ……排熱は宇宙へ、だね」
「それ、何度が適温なの?」
「や、そりゃ冷房で26度の、あの感じだよね。どこに行っても、あの冷たい風に包まれる感じがいいや」
「あぁ……確かに。けど、そうなったらワカサギ釣りはできなくなるね」
「ふふっ……寒い中でやることの代表がワカサギ釣りなんだ?」
「ウィンタースポーツはやらないからなぁ……」
「や、ワカサギ釣りもウィンタースポーツだよ」
「座ってるだけだよ!?」
「そんな事言ったらスケートだって滑ってるだけだし」
「まぁ……確かに。スキーも滑ってるだけか……」
「ん。スノボも滑るだけ」
「……座るか滑る以外のスポーツあるの!?」
「や、ボブスレーとかさ」
「滑ってるね!?」
「……カーリング?」
「滑らせてるね!?」
「今日、進学塾の前で飲んでたら危なかったね」
七瀬さんはイタズラ好きの小悪魔のような笑みを浮かべた。
「そんな時は今後も起こり得ないから大丈夫だよ……」
進学塾の前で『滑る』なんて不穏な言葉を連呼する酒飲み二人は明らかに不審者だろう。
一度缶チューハイを口にした七瀬さんが「けどさぁ……」と言った。
「こんなこと普段は絶対に言えないんだけどさ、誰かと一緒に住むことを考えた時にまずすり合わせないといけないのってエアコンの温度設定だよね」
「そっ……そうなの?」
「ん。だって、暑がりと寒がりが一緒に住んだらどちらかに合わせないといけないじゃん。例えば、私が暑がりで陽介が寒がりだったらエアコンの温度を何度にすれば良いの? ってならない?」
「あー……なるほど。七瀬さんって、家のエアコンの設定温度は何度にしてるの?」
「うーん……」
彼女は、少しだけ考えるそぶりを見せる。
「私は、24度かな」
「24度!? 低くない!?」
「そう? ガンガンに冷やして、ちょっと厚めの布団かぶって寝るのが、最高に気持ちいいんだけど」
「風邪ひかない? 体に悪そう」
俺が純粋な心配を口にすると、彼女は楽しそうにケラケラと笑った。
「それが、いいんじゃん。あの、なんていうか、冬眠してる動物みたいな、安心感? 世界から、守られてる感じがするんだよね」
世界から守られてる感じ。その、少しだけ大げさな表現に、俺は彼女らしいなと思った。
「陽介は? 何度?」
「俺は……28度かな」
俺の、あまりにも現実的な答え。それに、彼女は、また声を上げて笑った。
「わ、現実的! でも、陽介っぽい」
「そ……そうかな?」
「ん。なら私達が一緒に住んだら、間を取って26度が落としどころだろうね」
「七瀬さんはそれだと暑くない?」
「や、陽介こそ。寒くない?」
「まぁ……重ね着すれば」
「や、私も1枚脱げばいいね」
「夏に脱ぐものあるの!?」
俺は赤面してそう言う。七瀬さんはからかうよにニヤニヤしながら「部屋を寒くして長袖着てるから」と言った。
半袖Tシャツ1枚の七瀬さんがそのまま最後の1枚を脱ぐ姿を想像しかけたことを見透かされているかのようだった。
「や、たいへんへんたいさんがいます、だね」
七瀬さんは笑いながらそう言った。
「大変な変態なのか、普通の変態がいることに大変だって驚いてるのかによるけどどうかな?」
俺の質問に七瀬さんはこちらを見て首を傾げた。
「その答えは陽介の中にあるよ? エアコンが効いた26度の部屋、私は何枚を服を着てたかな?」
「……にっ、2枚だよ!?」
「ん。たいへんへんたいだ。じゃあさ、夏と冬、どっちが好き? 寒がりならやっぱり夏なの?」
「えぇ……どうかな」
「いいから。教えてよ」
彼女は、子供みたいに答えを急かしてくる。
「うーん……俺は夏かなあ。なんとなく、気分が開放的になるから」
「へえ。私は冬の方が好きかも。寒いのは苦手だけどいっぱい着込めるから」
俺は皮肉を込めて「暑くなったらすぐ脱ぐくせに」と言ってみるも、七瀬さんはケラケラと笑ってそれを受け流した。
「夏祭りとか花火とか行かないの? 夏って、そういうのいっぱいあるじゃん」
まったくの下心がないと言えば嘘になる。その前フリとしての質問。俺がそう尋ねると、彼女は、一瞬だけ、遠い目をした。
「……あんまり、行けないかも。仕事が結構忙しくて」
彼女は、少しだけ、寂しそうに笑った。
「そっか……確かに。夏休みとかだとイベントも多いしライブやらフェスやらで裏方のスタッフも仕事多そうだもんね」
「ふふっ……ご明察」
俺はそれ以上、何も聞かずにただ頷いた。
「でも……いつか行けるといいな。お祭り。浴衣を着て、顔は……仕方がないからお面で隠そう。狐のお面とか」
「確かに……人混みだとパニックになっちゃうレベルのそっくりさんだもんね……」
「……うん。そうだよ」
しばらく、二人で、黙って、缶チューハイを飲む。
虫の声と、遠くの車の音だけが、BGMみたいに流れている。
やがて、彼女が、ぽつりと、呟いた。
「なんか、陽介と話してると」
「うん?」
「どうでもいいことでも、全部、特別に聞こえるね」
彼女は、まっすぐに、俺の目を見て、そう言った。その、不意打ちみたいな言葉に、俺は、うまく、返事ができない。
心臓が、また、少しだけ、うるさくなる。
「エアコンの設定温度、大事だよ? どうでもよくはない」
ようやく、それだけを、絞り出す。
「ふふっ……それもそうだ。じゃ、25度で」
「いやいや、27度かな」
俺の言葉に、彼女は心の底から嬉しそうに、ふわりと笑った。
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