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 俺と七瀬さんは、この日、いつもより口数が少なかった。でも、その沈黙は少しも気まずくはない。


 ただ、隣に座って同じ方向に流れていく川を眺めているだけで満たされるような穏やかな時間が流れていた。


 距離はいつものように缶チューハイ二本分。縮まることも遠ざかることもない。


 缶チューハイの最後の一口を飲み干す。七瀬さんも缶の中身がなくなったらしく、指で缶を摘んで振っている。


「なくなっちゃった。二本を買うには多いんだけど、一本だと物足りないんだよね」


「350を2つにしたら?」


「や、500の缶で飲みたい」


「我儘だ……」


「今度、2つ買ってくるから1つは陽介が半分飲んでよ。そしたらちょうどいい」


「350の缶を二本買ったら?」


 俺はめげずに提案してみるも、七瀬さんは「500を2つ。1つは半分こね」と言ってにっと笑った。砕けた笑みにそこそこ酔っていそうな雰囲気を感じ取る。


 俺が「わかったよ」と根負けして苦笑いしていると、遠くの土手の上から、二つの人影がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。


 最初はただのぼんやりとしたシルエットだった。近づくにつれて、楽しそうな男女の話し声が、風に乗って微かに聞こえてくる。


「……!」


 隣で七瀬さんが息を呑むのがわかった。


 さっきまでのリラックスした空気が一瞬で張り詰める。彼女の体が糸を張ったように硬直した。


「七瀬さん?」


 俺が、不思議に思って彼女の顔を見ると、その瞳は、近づいてくる人影を、怯えるように見つめていた。


「陽介、ちょっと、こっち向いて」


 彼女の声は、押し殺したような、緊迫した響きを持っていた。


「え?」


 俺が言われるがままに彼女のほうへと体を向けた、次の瞬間。


 七瀬さんは、被っていたキャップのつばを、ぐいと目の下まで深く引き下げた。


 そして。


 何の予告もなく、俺との距離を詰めるように座り直し、俺の肩にこてんと自分の頭を預けてきた。


 肩に彼女の髪の柔らかい感触。すぐ耳元で彼女の小さくて速い呼吸が聞こえる。ふわりと甘い匂いがした。


「ごめん、ちょっと、このままで……」


 俺の肩口に顔をうずめるようにして、彼女が囁く。


「顔、見られたくないから」


 頭が真っ白になる。


 心臓が、どくどくと嫌な音を立てて跳ね上がった。


 近い。あまりにも、近すぎる。缶チューハイは一本も入る隙間がない距離。黄昏時に帰りたがらないバカップルの距離だ。


 七瀬さんの顔を隠して後ろを通り過ぎるのを待っていると、七瀬さんが「ゴフッ」と喉を鳴らした。


「……ゲップ?」


 俺が囁くと七瀬さんが吹き出す。


「ふっ……ふふっ……言わなくていいじゃん……」


 七瀬さんは笑いを堪えるように身体を震わせながらペシペシと俺を叩いてくる。


「まぁ……人間だしね」


 デリカシーのない一言を言ってしまい、焦って理由のわからないことを口走る。


「や、それはそう。私はあいどるじゃないから、ゲップも出るしおならも出るんだよ」


「それはアイドルだって出るでしょ……アイドルになったら体内でガスが出なくなるわけじゃないんだし」


「ガス抜きか……ん。確かに。ここはガス抜きだね」


 七瀬さんは一人で納得したように頷いた。


 二人で合宿の消灯後の会話のような小さい声量で話していると、ザッ、ザッ……と、土手の上を歩く、二人の足音が、すぐそこまで迫ってくる。


「てかさー」「ウケるー」「マジで?」


 男女の、弾んだ会話が、すぐ真上を通り過ぎていく。


 俺は、動けなかった。


 ただ、肩にかかる彼女の重みと、すぐ隣にある体温を感じながら、息を殺すことしかできない。


 これが、彼女の言っていた「そっくりさんの苦労」なのか。


 ただ、男と一緒にいるところを見られるだけで、本物の夕薙凪の、あらぬ噂の火種になってしまう。だから、こんなにも必死に顔を隠す。


 永遠のように、長い数十秒。


 やがて、話し声も足音も完全に遠ざかって聞こえなくなった。


 周囲に、また静寂が戻ってくる。


「……行った、かな」


 彼女が小さな声で呟いた。


「うん……もう、大丈夫だよ」


 俺がそう言うと、七瀬さんは、ゆっくりと、体を離した。


 彼女が離れた方の肩が、急にひやりと冷たくなる。


「ごめん、急に……助かった」


 彼女はそう言って、気まずそうに顔を背けた。


 その耳が、街灯の光に照らされて、少しだけ、赤くなっているように見えた。


「ううん。大変なんだね、やっぱり。そっくりすぎるのも考えものだね」


「……まあね」


 いつもの、穏やかな空気が戻って来る。


 ただ、距離は缶が一本も入る隙間がない。離れはしたものの、普段よりも近い距離感のままだ。


「ね、陽介。私、ふと思ったことがある。聞いてください、気づき」


「歌の前フリみたいな言い方だね!?」


「なんかさ……今はここがガス抜きで、陽介の前でゲップもできる。けど……そのうちここでゲップもできなくなるのかなって思ってさ」


「なんで? すればいいじゃん」


「や、私の気持ちの問題」


 七瀬さんはにっと笑ってそう言った。


「ふぅん……」


 俺は腹に力を込める。炭酸が身体を上ってくる感覚があり、げえっとゲップが出た。


「ふはっ……私も私も」


 七瀬さんもはしゃぎながら胸をとんとんと叩く。出てきたのは「けぷっ」と可愛らしい音。


「七瀬さん、ズルくない? 可愛い音じゃん。さっきみたいなやつじゃないと」


「や、とんでもない性癖の人だったか……」


「違うよ!?」


「意識すると出ないもんだなー」


 七瀬さんはそこから何度かトライするも、初回のような人間味のあるゲップは出ず、まるでアイドルのような可愛らしい音ばかり身体から発生させていた。


―――――


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