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川辺の空気は日曜日の味がする。まだ火曜日の、午後七時だっていうのに。
俺、相川陽介は、ひどくぬるくなった風が頬を撫でていくのを感じながら、そんなことを考えていた。
河川敷のいつも座る場所。会社と自宅の中間地点。公でも私でも、そのどちらでもないこのコンクリートの護岸が俺の定位置。
コンビニで買った缶チューハイに口をつける。レモン味のアルコール度数7パーセント。名前は『ストロングレモン』。安くて、手っ取り早く、頭のネジを緩めてくれる、いつものやつ。
カシュ、という音が、やけに大きく響いた。隣で。
本当に、すぐ隣で。
ゆっくりと顔を上げると、いつの間に来たのか、ひとりの女性が、俺と全く同じように、護岸に腰を下ろしていた。
キャップを目深にかぶり、度の入っていなそうな伊達眼鏡の奥で、長いまつ毛が伏せられているのが見えた。ゆったりとしたパーカーに少し丈の短いズボンにスニーカーと、オシャレではあるけれど仕事帰りには見えない格好だ。
顔のほとんどは隠されているのに、なぜか、そこにいるだけで空気が変わるような、不思議な存在感があった。
手には、俺と寸分違わぬ缶チューハイが握られている。レモン味の、7パーセント。
気まずい……。
こういうときの正解を、俺は知らない。会釈でもするべきか。いや、でも、向こうはこっちを見ていない。自意識過剰だと思われたら最悪だ。かといって、わざとらしく立ちあがるのもそれはそれでおかしい。
結局、俺にできることといったら、目の前の、淀んだ川の流れをぼんやりと眺めることだけだった。
川面が、夕陽の残り火を反射して、チカチカと光っている。
酔いが回るのに十分な時間が経った頃、気まずい沈黙を破ったのは、女性のほうだった。
「……これ、美味しいですよね」
独り言のような、でも、明らかに俺に向けられた声だった。
一瞬、自分の耳を疑う。え、俺? 俺に言ってる?
「あ……えっと……はい。まあ……甘すぎないのが、いいですよね」
声が妙にうわずった。
「あ、わかります。甘いのはなんか違うんですよね。気分的に」
「そう。仕事の後だと特に……」
「わかります! すっごく。求めてるのは、こういう、ガツンとくるやつで」
「そうそう」
なんだか不思議な感じだった。初めて会ったはずなのに、昔からの知り合いみたいに、会話の波長が合う。
「いつも、ここで?」
彼女が聞いた。
「え? あ、はい。まあ、大体……」
「そうなんですね。私は今日初めてここに来たんです。落ち着くっていうか……空が広くて。つい座っちゃいました」
「ああ……広いですよね」
言われてみれば、そうだ。
ごちゃごちゃした街中と違って、ここには遮るものがない。背後や川の向こうにはマンションが立ち並んでいるけれど、上を向けば視界には入らない。
彼女は隣でマンションをじっと見ていた。
「不思議ですよねぇ。ここからだと小さく見える箱が中ではいくつもの部屋に分かれてて、それぞれの部屋に家族が住んでいて、それぞれの人生がある。すごいことじゃないですか?」
「確かに。俺、新幹線に乗ってる時なんかも思いますよ。知らない街や集落を通り抜ける度に。田んぼの中にぽつんとある古い家も誰かの実家なんだろうなって」
「ふふっ……同じですね。じゃ、あの最上階の角部屋、どういう人が住んでるんでしょうね」
女性は川を挟んで向こうにそびえるマンションを指差した。
「俺ですよ」
「えっ!?」
「嘘です」
「びっくりしたぁ……」
俺が冗談を言うと女性はニッと目を細めて笑った。
「ま……最上階だからそれなりにお金のある人じゃないですか?」
「ね、そうだと思います。お兄さんはなんでここで飲んでるんですか? たそがれたくなるような嫌なことでもありました?」
「いや……単に気分の問題です。家だと天井が狭くて」
「部屋の広さ、どのくらいなんですか?」
「6畳ですね」
「なら、天井の広さも6畳ですね。ここは……何畳くらいあるんでしょうね」
僅かに星が見え始めた空を見上げ、女性がそう言った。帽子のつばに隠れていた顔がよく見える。
横顔は彫刻のようにはっきりとした陰影があり、一言で『美女』と言い切っても差し支えないような人だった。
空の広さを畳数で例えようとする感性にふと笑ってしまう。
「ははっ……確かに。畳何枚分あるんでしょうね」
「やってみます?」
「フェルミ推定ですか?」
「酔っ払いがすることじゃないですね」
女性は知的な笑みを浮かべて肩をすくめた。
「でも……変じゃないですかね? 女ひとりで、こんなところで缶チューハイ飲んでるのって」
「いえ。そんなこと……俺もひとりなんで。お互い様というか」
「ふふっ。そっか。お互い様、ですね」
彼女は小さく笑った。
そのとき、ふと思う。
あれ……?
どこかで、見たことあるような……。
顔の輪郭の小ささとか。すらりとした首筋とか。パーカーから覗く手首の細さとか。
記憶の引き出しを、片っ端から開けてみる。同級生? 会社の同僚? 取引先?
いや、違う。
でも、この既視感は、なんだろう。
考え込んでいると、彼女が不思議そうにこちらを見ていた。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ! なんでもないです!」
慌てて首を振る。そうだ。デジャヴュだ。きっと、そういうやつだ。
そのとき、ポケットでスマートフォンがぶるぶると震えた。時間を確認すると、もう、結構いい時間だった。
「すみません。俺、そろそろ……」
「あ、はい! 引き止めちゃって、ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ。その……楽しかったです」
「……私もです。今度しましょうね。フェルミ推定」
俺は、少しだけ名残惜しさを感じながら、護岸から立ち上がった。
「じゃあ、また。空の広さ、先に調べるのは禁止ですからね」
「ふふっ……分かってますよ。また」
その「また」が、いつなのかも、そもそも、次があるのかもわからない。
それでも、俺たちは、当たり前のようにそう言い合った。
背中に彼女の視線を感じながら、俺は土手を上がり自宅へと向かう道を歩き出す。
今日の出来事を、頭の中で反芻する。
不思議な人だったな。
顔は結局よくわからなかったけど。
でも、なんであんなに、見覚えがあるような気がしたんだろう。
同じ缶チューハイを飲んでたから? いや、そういうことじゃなくて……。
脳の片隅で、何かが引っかかっている。
思い出せそうで、思い出せない。気持ちの悪い感覚だ。
コンビニの明かりが、やけに眩しい。
そのときだった。
会社の同期、鳴海千晶の顔が、ふっと脳裏をよぎった。
あいつ、デスクにアイドルの写真立てとか置いてたな。毎日、拝むように眺めてた。仕事中だろうがお構いなしに、その子の話をしてきた。
『陽介はわかってないわね。ルミナス・ティアーズの凪ちゃんは、現代が生んだ奇跡なのよ! この透明感! 儚さ! なのに笑うと太陽みたいになるギャップ!』
……そうだ。
夕薙凪。
たしか、そんな名前だった。
俺は、思わず立ち止まった。
点と点が、線でつながる音を、確かに聞いた。
あの人だ。
いや、違う。本人ではない。あの人に、めちゃくちゃ似てたんだ。そっくりさん、ドッペルゲンガー、うり二つ。
さっきの、河川敷にいた彼女は、夕薙凪に似ていたんだ。
だからあんなに既視感があったのか。
なるほどなあ……と、俺は一人で大きく頷いた。
まぁ、本人のわけがない。
国民的アイドルグループの、不動のセンターだとされている人が、平日の夜に、ひとりで河川敷で缶チューハイなんて飲んでるはずがない。
スケジュールとか、ガードとか、そういうのが、絶対にあるはずだ。
ってことは……。
やっぱりそっくりさんかあ……。
世の中には、自分とそっくりな人間が三人いる、なんて言うけれど。
だとしても、だ。
すごい。
ただ可愛いだけでも、それはもう、ひとつの才能みたいなものなのに。国民的アイドルのそっくりさんって、どれだけの確率なんだろう。
きっと、普段から、しょっちゅう間違えられたりして大変なんだろうな。
だから、ああやって、ひとりでぼーっとできる場所を探してたのかもしれない。
そんなことを考えると、さっき交わした、どうでもいい会話のひとつひとつが、なんだかとても尊いものに思えてきた。
明日も、あの場所に行けば。
また、あの「そっくりさん」に会えたりするんだろうか。
なんて、少しだけ。
本当に、少しだけ、期待しながらコンビニに立ち寄りレモンチューハイの空き缶をゴミ箱に入れた。
◆
知らないお兄さんの背中を見送っていると、一台の黒いワンボックスカーが、静かに滑り込んできた。
後部座席のドアが開き、パンツスーツを着こなした、仕事のできそうな女性が降りてくる。マネージャーの黒田美咲さんだ。
「凪さん。時間です」
美咲さんは、凪が手に持っている缶チューハイを見て、わずかに眉をひそめた。
「またそんなものを飲んで……あなただけの身体ではないんですよ?」
「……ごめん、美咲さん」
「別に謝ってほしいわけではありません……それで? 今の人はどなたですか?」
美咲さんの鋭い視線が、あの男の人が去っていった方向を向く。
「……別に、誰ってわけでも」
「記者は追いかけないようにしていますが……もし今の人に週刊誌に売られたらどうするつもりですか?」
「大丈夫だよ。ただの会社員さんみたいだったし。私のこと、気づいてなかったみたい。だから大丈夫」
「ただの会社員……」
「私のこと、まったく知らないみたい。久しぶりだなぁ……顔を指差されずに人と話せたの」
私はもう一度男の人が消えていった暗がりに目をやった。
あの人は、夕薙凪を見ていたんじゃない。
キャップをかぶった、ただの飲んだくれ女の子として私を見ていた。
そして、缶チューハイの好みが同じだっていう、それだけのことで、話をしてくれた。
私を知らないでいてくれたことが、どれだけ私の心を軽くしたか、きっと、あの人は知りもしないのだろう。
「……ね、美咲さん」
「何でしょうか?」
「私、明日もここに来てもいいかな」
私の問いに、美咲さんはすぐには答えなかった。
ただ、呆れたように、そして、少しだけ心配そうに、自分の担当する、あまりにも不器用な国民的アイドルの横顔を、黙って見つめているだけだった。
「まぁ……プライベートは本人にお任せしております、としか言いようがありませんね。自分を知らない人と話したいのであれば高齢者施設に訪問でもしますか? きっと、誰も知りませんよ」
「孫みたいな可愛がられ方をしたいわけじゃないもん」
ぷくっと頬を膨らませて美咲さんを睨む。美咲さんは飄々とした態度で私を車へと誘った。