「雨漏り」
ものごころついた頃には僕に父はいなかった。
あったのは母と綺麗なお庭のお家だけ。
仏壇の傍には怒ったような顔をした父の遺影が飾られていた。
「泣き虫でとびっきり魅力的な笑顔の人だったんだけどね。写真嫌いでちっとも撮らせてくれなかったのよ」
母はよくおかしそうに寂しそうに笑いながらそう話してくれた。
父の泣き顔も笑い顔も母の記憶の中にしかなかった。
思い出ってどうして形に出来ないのかしら。
ポツリと呟いた母の言葉が今も記憶に残っている。
腕の良い庭師だった父は仕事中に脚立から落ちて亡くなったらしい。
我が家の綺麗なお庭はそんな父が僕たちに唯一残したものだった。
母は女手ひとつで懸命に僕を育てながら、その庭を保つことを決して忘れなかった。
丁寧に手入れをされた木々。季節の花々。
室内にある縁側、くれ縁に座って。瑞々しく美しく輝くそれを母は愛おしそうに眺めていた。
僕が独り立ちをしてからもそれは変わらず。
母と父の庭はそこにあり続けた。
「最近、縁側が雨漏りするのよね」
母から困ったように電話があったのは梅雨入りが発表されて数日経った頃だった。
「雨漏り?」
リビングのソファーでネクタイを緩めながら僕はくり返す。
去年の年末に行った時は大丈夫そうだったけど……。
そう思いながらも母も今年で70歳。実家の築年数も大分長くなってきた。
まあ、今までこう言うことがなかったのが不思議なくらいか……。
「分かった。今週の金曜日にでも仕事が終わってからそっちに行くよ」
返事をすると母から安心したような「ありがとう」が返ってきた。
金曜日。夜。
「おかえり」
「ただいま」
外は激しい雨。
母に迎えられ、僕は濡れた傘を傘立てに立てる。
靴を脱ぐと早速、縁側に向かう。
「どこが雨漏りするの?」
天井を見上げてみる。
滴っているものも染みらしきものもどこにも見当たらない。
「それが分からないのよ……」
母は困ったように右頬に手を当てる。
「分からない?」
「ええ、ここに座ってお庭を見てたらね。上からポタリポタリと落ちてきて」
母は天井を見上げる。
「私が見上げると止まってしまうの」
「見上げると止まる……」
雨漏りってそんな「だるまさんがころんだ」みたいなものだっけ。
そのまま庭へと目が移る。
「あれ、雨戸閉めてるの?」
なんか暗いなと思ったけど、目の前には庭ではなく我が家の木製の雨戸があった。
「ああ、今日、雨強いから」
母はそう言って苦笑した。
「そう、なんだ……」
「今日、泊まっていくでしょ。晩ごはん、まだよね」
「あ、うん、まだ」
「じゃあ、用意しちゃうわね。ちょっと待っててね」
そう言って母は台所へと行く。
「手伝うよ」
僕はちらりと雨戸が閉まったままの庭を見る。
違和感を感じたが、そのまま母の後をついて行った。
晩ご飯を食べた後、他愛のない話をして僕は布団に入った。
縁側に繋がる和室。
布団に寝転びながら微かに障子を開ける。
外の光が遮断されたくれ縁は暗くて何も見えない。
明日の朝、明るいところでまた見てみるか。それから業者を呼んで、この時期だから中々来てくれないかな……。
そんなことを思いながら瞼は段々と閉じてくる。
外はまだ雨の音がしていた。
ポタリ。
ポタリ。
水の音がする。
これは外の雨の音?
それにしても音が近いような──
ポタリ。
え?
頬に冷たいものを感じて目を開ける。
暗闇の中で見えたもの。
それは真っ暗な影のような「何か」。
それが上からこちらを覗き込んでいた。
「うわあ!」
飛び起きる。
え、今の、何、
見回してみるが誰もいない。
おそるおそる右頬に触る。
指先に水滴がつく。
夢じゃ、ない。
確かにここに「何か」がいた。
立ち上がり電気を点ける。
僕の頬だけじゃない。
水滴は点々と畳に落ちていた。
ここから縁側へと。それは向こうの庭へと続いていく。
この向こうに、いる?
恐怖を抑えつけながら雨戸に手を掛ける。
この向こうに──
雨戸を開く。
途端、
「え……」
目の前が真っ暗になった。
誰かが、後ろから僕の両目をふさいでいる。
その手の感触を僕は知っていた。
「……母さん?」
「見ないで……」
震える母の声。
僕はそっとその手に触れる。
「何をしてるの? ねえ、何を見せたくないの?」
「…………」
母は黙っている。
僕は優しくその手を外す。
違和感はあった。
雨戸が閉まったままの縁側。
綺麗なお庭はいつだって母の自慢で、大切で。
夜明けの光に照らされたもの。
それは僕が知っている美しいお庭ではなく。
枯れた木々。萎れた花々。
あの瑞々しさ、美しさはどこにもない。
そこにあったのはただの荒れ果てた庭だった。
「母さん……?」
「こんなはずじゃなかったの。こんなはずじゃ……。私、ちゃんと守れると思っていたの。思っていたのに……」
僕の背中に縋りながら母は泣く。
いつから?
だって、前に来た時はこんなことになっていなかった。
同時に気付く。
年末。あれは冬のこと。
それから春が来て、もう夏が来ようとしている。
目元に触れる。
さっき感じた母の手の感触。
僕のよく知っている手。
その手はこんなに老いていたか。
「拾えなかった」と母は言った。
大切なものがひとつふたつとなくなっていく。
取り戻したいから拾いに行く。
でも、その間にまたこぼれていく。
ひとつ。ふたつ。みっつ。よっつ。
ああ、だめだ。また、こぼれた。また、また、また、
そして、母は途方に暮れた。
「ごめんなさい……」
母の涙で背中が濡れる。
僕は掛ける言葉が見つからないまま立ち尽くす。
呆然と見つめる庭。
そこに誰かがいた。
誰かがこちらを見ていた。
あれが水滴の主だろうか。
男性。
じっとこちらを見る一人の男性。
あれは──
「……父さん?」
思わず言葉が漏れる。背中の母がビクリと震える。
「お、お父さんが、そこにいるの……?」
「うん……、父さんがこっちを見てる……」
「怒ってる……?」
母は怯える。
ものごころついた頃には僕に父はいなかった。
あったのは母と綺麗なお庭のお家だけ。
仏壇の傍には怒ったような顔をした父の遺影が飾られていた。
だから、初めてだった。
「ううん、笑ってる」
僕は父の笑顔を初めて見た。
こんなに愛しそうに笑う人、見たことがない。
母が僕の背中から顔を出す。
見開かれる目。
その目にはまた涙がたまり出す。
それはさっきまでの悲しい涙ではなく。母はその目に焼き付けるように父を見ていた。
「きっと、父さん、悲しかったんだよ。この庭が母さんの苦しみになっていること」
僕にも気付いてあげて欲しかった。
だから、父はここに僕を導いたのだろう。
「母さん、僕も手伝うよ。だから、もう一度、取り戻そう?」
「うん……」
「それにしても、父さんってこんな風に笑う人だったんだね」
「とっても魅力的な笑顔でしょう?」
そう言って母は父に負けないほど魅力的に笑った。
それから、縁側の水漏れはピタリと止まった。
僕は頻繁に実家に帰るようになり、母と一緒に少しづつ美しいお庭を取り戻していく。
父の姿はあの日以来、見ていない。
でも、時々、母と一緒に庭にいると、縁側に誰かの気配を感じることがある。
嬉しそうな心配そうな、そんな気配。
母はいそいそと近付いて行く。
「ここら辺かしら?」
そう言いながらちょこんと縁側に腰掛ける。
何も見えない。
何も見えないけれど、僕は二人が寄り添っていればいいと。
そんなことを思っている。