あやかしの恋
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」
少し緊張を含んだ子どもの声が静かに響く。
目を合わせる前に立ち去るつもりだった。
そのつもりだったのに、風がザワッと吹き付けて導かれるように視線を子供に向けてしまった。
「キュッ」
目が合った瞬間身体が動かなくなる。
「――えっと」
何やらごにょごにょ言っているがそれを聞いているうちどんどん身体が子供の方に惹かれていく。
「急急如律令!」
最後の言葉を聞いた時には既に遅く尻尾を振りながら子供、主の側へと駆け寄っていた。
あれから幾歳月たったのだろう。
あんなに小さかった主の手は少し皺のあるゴツゴツしたものになり、だけどその手に撫でられるのは心地が良かった。主の側に横たわりながらその手をじっと見つめ、ふっと笑う。
――それはわたしも同じか。
主に初めてあった時、わたしは小さな狐の妖だった。小さくて力も弱いわたしは、強い妖に会わないようにビクビク怯えながら生きていた。いつも日の当たる場所には出ないようにしていたのに、あの日はネズミを追いかけて遊んでいて、だから気が付いたときには藪を抜けて草原に出てしまっていたのだ。
縁とは不思議なものだ。
あの日、いつものように大人しくしていればわたしはきっと力を手にすることもなく、今でも強い妖に震えながら、ひっそりと生きていた事だろう。
そんな事を考えながら少し休もうかと欠伸を一つして主の顔の横に頭を下ろすと、
「――コタ?」
下ろした瞬間主が目を覚ました。
「コタ……? 居ないのかい?」
主の手がピクリと動く。
――もうこんなに。
主は数年前から病を患い床に伏している。それでも最初の1、2年は起きている方が多かった。
時折呼ばれては主の意に沿った。
どんどん病状が悪化していき、今では起きている事の方が珍しい。
「此処に」
頭を少しずらして主の頬をペロリと舐めた。
主は嬉しそうに口元を緩めると、小夜の夢を見た。と話した。
小夜は主の奥方だ。
彼女と初めて会った時のことを今でも鮮明に覚えている。少し震えながら名前を告げてペコリと頭を下げたのだ。大抵の奥方は主の仕事は理解していても使役されている妖だとしても恐れていて、姿を見せると嫌そうに目を細めると聞いた事がある。
主の奥方は少し変わっていたのかもしれない。
震えながらも触っていいかと尋ねては、わたしを撫でてくれた。そんな奥方に、大きな欠伸をして硬直させては主に良く叱られたものだ。
一度奥方に聞いた事がある。わたしが怖くないのかと。他の奥方達はわたし達を忌み嫌っている。使役されているとはいえ、所詮は妖。主の命であればどんな事でも厭わず従う。家族を守れと言われればどんなに嫌われていても守り抜く。だが主が死ねば縛りは消え家族に襲いかかるかもしれない。所詮主の縛りなのだ。
すると奥方は真っ直ぐに私を見て、
「――旦那様に、コタ様はご自分の一部であり、家族なのだとお話しくださった事があります。正直、怖くないと言ったら、きっと嘘になると思います。ですが……旦那様にとってコタ様が大切な家族なのであれば……私にとってもコタ様は大切な家族なのでございます」
いまだ緊張の消えない声色にクスリと笑う。
「あの……。まだ緊張なくコタ様とお話しが出来ないかもしれませんが」
奥方もはにかむようにクスリと笑う。その姿を懐かしみながら主に返事をした。
「奥方は、何と?」
頭を上げて上から主の顔を見つめて首を少し傾げた。
「――いつまで私を一人にするの、と」
言って主は目を細めたが、それは違うとわたしは主をじっと見つめた。
それは主の願望だ。
奥方が自分を優先するような事を言うはずが無い。いつでも彼女は自分より周りを優先する。いつでもわたし達妖を守ってくれたのだ。
そんな奥方は昨年流行り病に掛かり亡くなられた。
「――そうか」
違うと思ったが主があまりにも幸せそうに笑うので、静かに頷いた。
それから何を話すでも無く、ただ静かに時間の流れに身を任せた。
それでも、わたしはこの時間が好きだった。もともと主は寡黙でわたし達妖や自身のお子達が騒ぐのをニコニコしながら見つめているような人だ。決して誰かを傷つけたり貶めるような事はしない。いや、出来ない人間だ。それでいて戦うことを生業にしているのだから、ある意味恐ろしい男なのかも知れない。
「考えてくれたかい? 前に話した事。――僕にはもう、この方法しか君に力を与える事は出来ないんだ。僕の死を待つより、僕を食べた方がより力も手にできて、何より直ぐに解放される。何を考える事があるんだい?」
突然声をかけられびくりとする。
「寝たのでは無かったのか」
主は緩く首を横に振って、わたしを見つめた。なぜかその目に苛つきを覚える。
「いつからそんな事を考えていた?」
「……」
「解放される、だと? わたしがそれを望んでいると? それを望んでいるのは主の方なのであろう?」
いつしか苛立ちは怒りへと変わっていた。
「なぜそんな事!」
「――コタ」
「いつ死んでもおかしくない小さな妖だったわたしが今も生きているのは主に出会ったからだ! 主がわたしを選んでくれた。わたしも主と共に居たいと思った。だからわたしはここにいる! 妖より人間が早く死ぬことは理解している。だが、それはわたしが主を食してのことではない! そんな事までして今以上の力を手にしたいとは思わない!」
怒りのまま捲し立てると、主が力を振り絞って身体を起こした。
「……わたしは」
「コタ」
「なぜ……」
たまらず、フイッと顔を逸らす。逸らした先の庭で、小さな池に浮かぶ桃色と黄色の睡蓮が風に揺れていた。
奥方の好きな花。
花言葉は何だったか。いつかあの花を池に生けた時教えてもらったのだが、今となってはもうどうでも良い気がした。ただとても暖かい気持ちになった事だけは覚えている。
「……コタ。僕にとって君は、特別なんだ。だから、……最後まで君の力に、なりたい」
苦しそうな呼吸に振り返って心の臓がドクリと鳴った。
――そうか。
分かってしまった。
なぜこんなにも苛ついてしまうのか。
わたしは主と離れたくないのだ。勿論。使役されている間は主の側を離れたくないと思う。だけど、自分が今感じているこの感情はそれ以上のような気がした。
この感情がどういったものなのか分からない。主に使役されてからずっと側にいて彼と一緒に強くなってきた。だから一心同体の様に感じているだけなのかも知れない。なのに主はあっさり自分を手放そうとしている。奥方の側に行きたいと言う訳の分からない事を言って。
「……違うな」
主はポツリと零すと真っ直ぐにわたしを見つめた。それを黙って見つめ返して先を促す。
「僕はね。僕以外の誰かに、君を使われたくないんだ。だから僕は、君の血肉になりたい。そうしたら、ずっと君と一緒にいられるし……君も、僕を忘れられなくなるでしょ?」
「ならば命令すれば良いではないか……」
「そんな事、言えないよ」
「酷な事を。命令出来ないと言いながら、私に食せと言うのか? わたしに決めろと?」
「……そうだね。酷な事を言っているね」
でも、と言いながら少し震える手を伸ばし耳の下を優しく撫でる。
嬉しさと気持ち良さで思わずうっとりと目を細めてその手に頭を押しつけてしまう。
「それだけ君が特別で……とても大切なんだ」
離れていく手を淋しく思いながら目で追い、思わず主を睨んでしまう。
大切だと言いながら、何故簡単に手放そうとする。それがとても哀しくて同仕様もない感情が芽生えて来る。
無理をしたせいか、主は咳き込むと押さえた手から腕を伝って血が流れてきた。
ちょうど寝間着の替えを持って来た女中が慌てて医者を呼びに行った。その後は何人もの人が出入りして、わたしはそれをただ側でじっと見つめていた。
人の動きを見つめながら終わりなのだと思った。この穏やかで幸せな時間。とても大切で大好きな世界。
主はそう長くはあるまい。ならばいっそ……。
――そんな思いが頭に持ち上がった。
くあっと、大きな欠伸をして目を覚ました。
すごく懐かしい夢を見た。
何故あんな夢を、と思ったのと同時に胸の辺りで何かが動いてそちらに目を向けると、そこには小さな狐の妖がお腹を出して安心しきった顔で眠っていた。
――ああ。この子を助けたからか。
昨日狒々に抱えられていたこの子を咄嗟に奪い取ってしまった。助けようと思ったわけではない。気が付いたらこの子を咥えて寝床に戻って来ていた。
初めはどこにでも行けばいいと放っておいたが、寝床にしている洞穴の入り口からいなくなる事もなく、だからといって中に入ってくることもなくただ入り口にいて、そのうちその場で眠ってしまった。
夜になると風が強く吹き始め、震える小さい塊をとうとう寝床に招いてしまった。
主と出会った頃の自分と重なってしまったのかもしれない。
そう言えば、と子狐を見て思い出す。
「主と出会ったのも今頃の季節か……」
だから尚更どうしたものかと考えてしまう。
――育てるか。それとも。
気持ち良く眠っている子狐を見つめていると、コロンと横に寝返りを打ち四肢をピンと伸ばしてからうっすらと目を開けた。
「キュっ!」
目が合った瞬間子狐は横になったままカタカタと震え始めた。
何もしない、と顔を舐めてやると「ピッ」と固まってしまった。
緊張している体をほぐす様に毛繕いをしてやると気持ち良さそうに小さく鳴き始めた。
「怖かったな。でももう大丈夫だ」
「キュウ〜」
余程気持ち良かったのか、寝返りを打って反対側もするように要求してきた。
「くくっ。お前は大物になるな」
「キウ〜」
「お前、どうしたい?」
先程浮かんだ――育てるという言葉が蘇る。
「わたしと居るなら、いろいろと教えてやらなくも無いぞ」
「……?」
「力を得たくはないか?」
わたしの言葉に子狐は目を見開きジッと見つめて来た。
それに見つめ返して居ると、子狐はゆっくり起き上がりお辞儀をするように身を伏せた。
「承知」
そうとなれば、久しぶりに墓参りにでも行くか。わたしにも弟子が出来たと話したら、なんと言うだろうか。
そんな事を考えるだけで嬉しくてたまらない。ただの妖に戻ってもう随分経つのに主の事を思うと心の臓がキュッと鳴り温かくなるのだ。
この何ともむず痒い思いを、少しはこの子にも分からせてあげたい。
「また誰かと居るのも悪くないかもしれない」
「……?」
呟くと子狐が首を傾げてこちらを見上げた。それに小さく頭を振りここから見える景色のずっと先にある場所に思いを馳せるのだった。
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