二度と帰りません
いつも誤字報告ありがとうございます。
何度も確認するのですがやっぱり漏れがあるみたいで、凄く助かっています。
本当にありがとうございました。(絶対に今回も誤字があると思うので、先にお礼を……。) 三香より
リリゼットは伯爵家に生まれた。
後継者である8歳年上の兄と、双子である妹マリゼットがいる。
しかし双子ではあるが、リリゼットとマリゼットの待遇には大きな差があった。
リリゼットも可愛らしい容姿をしていたのだが、マリゼットは天使のごとく極上に愛らしかったのだ。
伯爵令嬢としての生活は保障されていたものの、優先されるのはマリゼット。
両親と外出するのもマリゼット。
マリゼットが病気になれば両親は「心配だ」と看護をするが、リリゼットが病気になっても両親は「伝染るから」と見舞いにも来なかった。
常に両親の関心はマリゼットにあり、それはプレゼントやドレスやアクセサリーやあらゆる全ての差となって、冷たい現実としてリリゼットに覆い被さった。
寂しいと何度も泣いたがリリゼットは早々に両親からの愛情を諦めた。手の届くところにあっても決して掴めない水面の月のようなもの、と諦めることに慣れてしまったのだ。
諦観とともに聡いリリゼットは明瞭と覚ってしまったのだ、どれほど縋り付いても両親の目はリリゼットには向けられない、と。リリゼットは切られた糸を結び直す蜘蛛にはなれなかった。触れるとすぐに固く閉じてしまう貝のように、固い殻に心を入れて自分で自分の心を護るしかなかった。兄がリリゼットを気にかけて可愛がってくれることだけが唯一の救いであった。
リリゼットは10歳の時、その利発さを親族のガイオン公爵に見込まれて、嫡子である3歳年上のコーネリアスと婚約をした。
コーネリアスは温和な性格であったが凡庸だった。平民ならば問題はなかったであろう、決断力と理解力に欠ける能力は高位貴族それも公爵家の継嗣としては致命的であった。
そんなコーネリアスを助けて、ガイオン公爵家を守る役割をリリゼットは求められたのだ。リリゼットだけではない。コーネリアスの側近たちも同じだ。
ガイオン公爵家を支えるために。
10歳のリリゼットと選ばれた側近たちは高度な教育を受けることとなったのである。
そしてリリゼットが17歳となった時。
「リリゼット。申し訳ないが婚約破棄をしてほしい」
昨夜の三日月の細い光が刃となって胸に刺さった気がした。リリゼットは知っていた。コーネリアスとマリゼットが密会していることを。覚悟はしていたが、7年間も婚約をしていたのだ。やはり衝撃は大きかった。
ガイオン公爵家のコーネリアスの私室である。
高級な革張りのソファに座るコーネリアスの隣にはマリゼットがいた。
リリゼットから婚約者を奪って得意満面な笑顔だった。小さな石にさえ躓いた経験のないマリゼットは、リリゼットの苦労を知らない。知ろうともしなかった。だからマリゼットは喜色を浮かべ自慢げに笑うのだ、次期公爵夫人の地位を得たと。
リリゼットはため息をついた。
注意をしても、両親から溺愛されて育ったマリゼットはリリゼットを見下しているので聞く耳を持たなかった。コーネリアスを愛している、というよりも単純に公爵夫人になって贅沢をしたいという態度が見え見えだったので、両親にも訴えたが無駄だった。両親はマリゼットの味方であった。
「むなしいだけだ。マリゼットに関しては父上も母上も悪い面を見ようとしない。天使の外面同様、マリゼットの内面も天使のように清らかだと信じこんでいる」
兄の言葉にリリゼットは頷くしかなかった。
だから、もしかしたら今日のような事態が起こるかも知れないと予測をしてリリゼットは万全の準備をしていた。兄も両親には秘密にして協力をしてくれた。
「了承いたしました。実は私、コーネリアス様とマリゼットの【真実の愛】を密かに応援しておりましたの。だって歌劇のようで素敵ですわ。【真実の愛】だなんて乙女の憧れです、コーネリアス様とマリゼットは【真実の愛】なのでしょう?」
【真実の愛】を強調して手を叩き、ニコニコしているリリゼットに強ばっていたコーネリアスの表情が緩む。
「突然婚約を破棄してもリリゼットは怒っていないのだな? そうなのだ、リリゼットという婚約者がいながら僕はマリゼットを愛してしまった。これは【真実の愛】だから僕とマリゼットが惹かれ合うのは必然なのだ、運命の相手なんだよ」
と、コーネリアスは胸を張る。
考えが浅い、浅すぎる! リリゼットはコーネリアスに尽くした7年間の時間を泣きたくなった。泥水を呑んだみたいに胸が重い。何故、コロッと手のひらで転がされてしまうのだ、と。しかしリリゼットは意志を貫く。すでにリリゼットは攻撃に転じているのだから容赦はしない。
こうなったからにはコーネリアスの軽はずみな迂闊さを、リリゼット自身のために最大限に役立たせてもらうつもりである。
「こちらの書類にご署名を。婚約破棄の公的書類ですわ」
王宮の上級文官である兄が用意してくれた書類だ。法律に詳しく、頭の切れる兄が整えた書類には不備はない。ただ、わざと長々と難解な法律用語を多用して内容の把握を困難にしているだけである。
「むぅ、難しそうな書類だな。これが婚約破棄の書類なのか?」
「はい。本来ならばお互いの家の家長の許可が必要ですが、私もコーネリアス様も成人年齢に達しております。王国法百五条、「成人年齢後の貴族の権利」の形式に基づいた書類なので、私とコーネリアス様の署名で婚約破棄ができます」
「ふーん」
コーネリアスが躊躇もなく名前を次々に記入して印を押す。
リリゼットの視界がゆらゆら滲む。見えない棘が突き刺り、心のやわらかい部分から血が流れる。
書類は内容をきちんと確認すること。
安易に署名しないこと。
たとえ親しい間柄であっても用心をすること。
その他もろもろを口を酸っぱくして繰り返したのに、コーネリアスは何も学習していなかった。これでは周囲に優れた人材を揃えても無意味である。
たった今、リリゼットを足蹴にするような婚姻破棄をしたくせに、まだリリゼットが誠実に補佐をしてくれて、出来ないことは補って難しいことは助けてくれるとコーネリアスは思っているのだ。
お花畑に住んでいる玉の輿狙いで勉強嫌いのマリゼットはともかく公爵家で後継者教育をされたコーネリアスが、婚約破棄の書類なのに複数枚あることや直ぐ様書類が目の前に出されたことなど疑問点は多数あるのにどうして怪しく感じないのか……。
砂を噛むような気持ちになったリリゼットの心に、費やした7年間の空虚さが澱のように沈む。軋む。コーネリアスに対して捨てきれない情もあった。それでもリリゼットは、ぎゅっと目を閉じると涙を落とすことなく瞼を上げて、感情を制御して明るい表情をつくった。細心の注意を払い平静を装って、血を流す心には蓋をして微笑む。
もはやリリゼットとコーネリアスとは、進む道は分かれてしまっているのだ。リリゼットはリリゼットの未来に繋がる道へと進むだけである。
「では、この書類を王宮の役所に提出してきます」
扉へ向かうリリゼットに背後から声がかかる。
「頼むね、リリゼット。帰ってきたら今日の残りの仕事もよろしくね」
と、公爵家の一人息子として我が儘は何でも叶えられて人々から傅かれ仕えられることを当たり前とする、顔面の攻撃力だけが高いコーネリアス。
「お姉様。私とコーネリアス様のために仕事に励んで下さいませね」
と、天使の容貌で泣けば何でも許されて庇ってもらえて、愛らしさと弱さを武器にしてリリゼットを切り裂くマリゼット。
―――二度と帰ってなんか来ないわっ!
喉元までせり上がった言葉を呑み込み、リリゼットは静かに扉を閉めた。
コーネリアスへの最後の情がガラスのように砕けた瞬間であった。破片すら残らなかった。
リリゼットは足早にコーネリアスの執務室へと歩く。
窓から側近たちがテラスでお茶をしているのが見えた。が、ひとり足りない。
トントントン。
「入りますね」
ノックとともにリリゼットが執務室に入室する。部屋で仕事をしている人物が予想できるので、遠慮なく突撃をした。
「やっぱり。仕事を押しつけられていたのね、ギリアム」
執務室でひとりで仕事をするギリアムに、リリゼットは溜め息を吐いた。
ギリアムもコーネリアスの側近だが、最近では他の側近たちと上手くいっていなかった。原因はコーネリアスである。
ギリアムは男爵家の嫡子であったのに、両親の死後、男爵家を継ぐことができなかったのだ。コーネリアスが、ギリアムが男爵家を継ぐと多忙になって側近の仕事が疎かになる、と反対したのである。もともと公爵家の権限で与えられた爵位であるので、コーネリアスの意向が汲み取られて男爵位はギリアムの叔父が継承してしまい、ギリアムは平民となってしまったのだ。
他の側近たちは全員が貴族の子弟である。
平民となったギリアムが蔑ろにされるのは、当然の結果と言えた。
「リリゼット様」
立ち上がって礼をしようとするギリアムにリリゼットが手を振る。
「様はもういりませんわ。私、コーネリアス様に婚約を破棄されましたの」
「はぁっ!? コーネリアス様は正気ですか! リリゼット様がいるからこそ公爵閣下から後継の立場を認められていると言うのに!」
「うふふ、コーネリアス様は性格もボンボン菓子のように砂糖漬けですし仕事面でも有能とは言えませんものね。次期公爵としては、ちょっと、いえ、かなり……」
リリゼットが語尾を濁す。
リリゼットとギリアムはコーネリアスの二大支柱であった。他にも側近たちはいるが、優秀さではリリゼットとギリアムに誰も敵わなかった。
「それでですね、ギリアム。私と結婚をしてくれませんか?」
呼吸をするようにリリゼットが何でもないことのように言う。
「はぁっ!??」
「理由は3つ。まず1点目、もうウンザリなのです。コーネリアス様は私やギリアムが身を粉にして働く価値のある方かしら? 次に2点目、私たちはガイオン公爵家を守るために教育を受けてきましたわ。コーネリアス様は次期公爵に相応しい方かしら? おそらく私とギリアムがいなくなれば、コーネリアス様の能力では公爵位を継承できないと思うのです。そして、それは公爵家の繁栄にとって望ましいことと私は愚考するのですわ」
ガイオン公爵家という花が咲くための土壌となるべくリリゼットもギリアムも教育をされてきた。だからこそ。コーネリアスはガイオン公爵家を蝕み甘い蜜を吸い取る害虫だと、リリゼットはオブラートに包まずに言った。
それがガイオン公爵本人の希望とは異なっても。
ガイオン公爵家の存続を第一とする厳しい教えを、リリゼットもギリアムも洗脳されるみたいに受けてきたのだから。リリゼットは10歳から7年間、ギリアムは9歳から12年間。
ギリアムを平民にして、リリゼットと婚約を破棄した時点でコーネリアスは、自分や周囲への影響力を推察できない愚かな次期公爵と公言したに等しいのだ。自分で自分の足場を崩すコーネリアスが家臣から支持されて忠誠を誓ってもらえるか、言うまでもない。
長年リリゼットを便利に使ってきたガイオン公爵への復讐―――公爵の願いを断つこと、と。
六ヶ国の外国語に不自由しないなどの諸々の高度な教育を授けてくれた公爵家へのお礼。
この二点を両立させようとリリゼットは企んでいた。
―――ガイオン公爵様、誠に申し訳ありません。でも、賢いからと言ってこんな性格の私を選んだガイオン公爵様にも責任はあると思うのです。
「ガイオン公爵様はコーネリアス様が後継となられることを望んでおられますが、ガイオン公爵家継続のための婚約者であった立場の私は、コーネリアス様を容認できません。公爵様は過ちを犯しました。公爵様の希望を通すためには軽重の順位を、コーネリアス様を重視するべきでしたのに公爵家そのものを最重度となさいました」
リリゼットは苦しそうに眉根を寄せた。天秤の重く傾ぐ方だけが想いの重さではない。軽く浮いた方にも真実はある。あるいは量る重さは、重い時は重いなりに、軽い時は軽いなりに、天秤は釣り合い水平となり振れ止まらぬ針がちょうど静止する時もあるのだ。
「私だけが正しいわけではありません。反対の方も多いでしょう。でも、私の意見としては公爵家にコーネリアス様は必要ありません」
「1点目と2点目は納得できます。公爵閣下はお怒りになるでしょうが、そろそろ僕も見切りをつけようかと計画をしていたのです。閣下は僕を家柄のよい側近たちの裏方として、コーネリアス様のために消費するおつもりみたいですし。幸い、今までの給料と亡き両親の遺産とで生活の心配はありませんから機会を窺っていたのです」
「そうなのですか? よかったですわ、これが役に立ちそうで」
リリゼットが差し出した書類は、コーネリアスの署名入りのギリアムの解雇通知だった。ギリアムが辞職するとなれば引き止めで一悶着起きること間違い無しである。リリゼットは先手を打ったのだ。
「ハハハ、さすがリリゼット様」
「3番目の理由は、貴方とならば幸福になれると思ったからです。ギリアムを好ましいと思いますけれども正直に言って恋愛的な好きではありませんわ。でも、コーネリアス様の尻拭いの仕事で忙しくしている私を気遣ってくれたのはギリアムだけでした。昔、貴族は農民たちの暮らしを知るべき、とガイオン公爵様によって3ヶ月間農家に預けられた時もギリアムは優しかったですわ。おかげで掃除も洗濯も料理も繕い物の針仕事もできるようになりましたけど、慣れない生活で泣いていた私をギリアムはいつもソッと助けてくれました。7年間、寄り添ってくれたのはギリアムでした」
リリゼットはギリアムを見つめる。真摯な瞳だった。
「私、色々なものを諦めてきましたが、幸せになることは諦めたくないのです」
「まいりましたね。僕も、親や教育者がコーネリアス様に対してしなければならない仕事を丸投げされても健気に頑張るリリゼット様を好ましいと思っておりましたが、正直に言って恋愛的な意味でリリゼット様を見たことはありませんでした。ハハハ、同じですね、僕たち。でも、そうですね、僕もリリゼット様とならば幸福になれる気がしますが、リリゼット様は伯爵令嬢で僕は平民です。身分が違いますよ、無理ですね」
「それならば大丈夫です。私、コーネリアス様にも両親にも呆れ果てていますので伯爵家から出奔する予定ですの。ですから私をお嫁にもらって下さいませ」
「貴族籍を捨てるのですか!?」
「それぐらいしなければ公爵家からも伯爵家からも離れることができません。コーネリアス様たちに便利に使い潰される生活なんて嫌です。伯爵家の兄が支援をしてくれますし、逃亡資金も持っております。ね、私といっしょに逃げてもらえませんか?」
ガシリ、とリリゼットに手を握られてギリアムは苦笑する。
「本当にまいりましたね。喜んで、と言ってしまいたい誘惑に抗えません」
「うふふ。私、上手に籠絡できたのかしら?」
リリゼットとギリアムは視線を合わせた。口角があがる。ロマンチックな雰囲気など欠片もない仕事モードで会話をサクサクと始めた。
「逃亡計画ですが、まず僕は喧嘩をしようと思います。他の側近たちは僕を平民と蔑んでいますから、僕が少し煽って反論すれば生意気だ躾けてやると掴みかかってきますよ。そこで僕が辞めてやると捨て台詞を残せば、この解雇通知の件も勝手に誤解をしてくれますでしょう。コーネリアス様の言い訳が楽しみですね、聞けないのが残念です」
「他の側近たちはギリアムの才能に嫉妬しているのだわ。デキる男性も大変ですね」
「男爵家は騎士の家系だったので僕も鍛錬をしております。他の側近たちには負けません。派手な喧嘩で騒動を起こして公爵家を混乱させます、逃亡の時間稼ぎにはなるでしょう。貴族である側近たちに怪我を負わせたとイチャモンをつけられる可能性がありますから、いっそ逃亡先は国外にしましょうか」
「領地に視察に出ているガイオン公爵様に気付かれてしまえば、私もギリアムもコーネリアス様のために飼い殺しにされてしまいますものね。公爵様が帰って来られるのは明日。それまでコーネリアス様の注意を喧嘩に向けて、その間に逃げる策は有効だと思いますわ」
「書類にも少し細工をしておきましょう。これらは本来ならば他の側近たちの仕事ですので、彼らの責任問題となることでしょう」
ギリアムが書類の山をポンと叩く。笑顔が黒い。
「私は王宮の役所に婚約破棄の書類を提出に行ってきますわ。役所の役人たちは全員が貴族ですもの。そこで悲劇のヒロインのように哀愁たっぷりに泣いて、コーネリアス様の浮気と無能ぶりを皆様に宣伝いたします。私たちがいなくなっても別の優秀な人物を補佐とすればコーネリアス様の地位は安泰ですが、収拾がつかないほどの醜聞に塗れてしまえば……。うふふ、私、卑怯であろうと搦手であろうと使えるものは使ってコーネリアス様の後継の梯子を完全に外してしまいたいのです、公爵家のために。もう公爵家に忠義をつくす義務はありませんが、お金も時間も労力も注いでもらったのですから最後のお礼とイヤガラセです。後始末に公爵様は東奔西走することとなるでしょうね」
リリゼットが薄く微笑む。背筋がゾクリとするような笑みであった。
「連絡を受けてガイオン公爵様が早馬で帰って来られるでしょうし、早々に解決の手段を講じられるでしょうから、逃亡可能な時間の猶予は多くないと思いますけれども。貴族の悪い噂は野火のように速いものですから、私たちを追うよりも噂の火消しをガイオン公爵様は優先的に選択する可能性が高いですわ。それにガイオン公爵様の弟君のサジス侯爵様とユーシス伯爵様にも手紙でお知らせしておきましょう。公爵位を虎視眈々と狙っておられる方々ですもの、喜び勇んで公爵家に乗り込んで来られますわ」
「では、為すべきことを為して3時間後に貴族街の中央噴水広場で集合、でいかがでしょうか?」
「ええ、3時間あれば十分だわ。お互い悪巧みを頑張りましょうね!」
「ハハハ、悪巧み! 追い詰められれば鼠だって猫を噛むのです。踏みつけられた者が反撃をしないと、反撃ができないと思うのは傲慢ですよね。未来の妻との協同での初仕事ですからね、悪い悪い狼になって公爵家をひと咬みしてみせましょうか!」
有言実行。
秀でた実力のあるリリゼットとギリアムは、言ったことを成功させる能力がある。
執務室を出ると、リリゼットは公爵家から与えられた私室に駆け込んだ。
すでに荷造りしてあったトランクをベッドの下から引き出し、クローゼットからフード付きの地味な色合いのロングコートをフワリと羽織る。トランクはロングコートに隠れて見えない。それから小物入れの二重底から準備してあった手紙を取り出した。
「コーネリアス様のお使いで王宮の役所に参ります。近いので護衛はいりませんわ」
玄関で見送る執事にリリゼットが伝える。まだ婚約破棄の件は使用人たちに広まっていないらしく、執事が恭しく頭を下げた。
「それと、この手紙をサジス侯爵様とユーシス伯爵様に届けてもらえるかしら。ご相談の手紙だから急いで配達してほしいの」
相談とは名ばかりだが嘘ではない。コーネリアスの今までのアレやコレやのヤラカシをあますことなく詳細に綴り、最後の一行にアドバイスを頂戴したいとちゃんと書いてあるのだから。
その時、ガシャーン、とテラスの方からガラスの割れる音が響いた。ドガン! バキッ! と何かが壊れる音も聞こえる。
「あら? 何かしら?」
リリゼットが白々しく小首を傾げる。
「騒がしいことね。王宮から戻って来たら何があったのか状況の報告をお願いしますね」
と、屋敷に帰ってくるつもりのないリリゼットは口先だけのことを言って馬車に乗ったのだった。
公爵邸が遠ざかる。
婚約者に選ばれてから伯爵家にほぼ戻ることなく、コーネリアスを補助するために7年間過ごした屋敷だった。
伯爵家でも。
公爵家でも。
リリゼットは子どもではいられなかった。一方的な砂時計のように搾取されると定められた世界で、リリゼットは子どもらしい子どもでいることは許されず大人同様に振る舞わなければいけなかった。
リリゼットは、馬車の窓によって刻まれた四角い空を仰いだ。
薄衣をまとったような淡い水色の絵具が滲んだみたいな空だった。
全ての色が混ざり合って透明になった光が乱反射して空を柔らかく包み、流れる雲と空の境界線をぼんやりと曖昧にしている。
風のように光がそよぎ。
淡い霞のように風がそよぐ。
空の奥から見えない手のような風が降りてきて、街路樹の葉をさわさわと揺らす。
囁く蝶の翅のような葉擦れは緑のさざ波のようだ。
太陽の光を浴びて呼吸する緑の葉の落とす影が地面に影絵のように模様を紡ぎ、木漏れ日が星屑のようにちらちらと照らす。
日当たりのよい場所で伸びる花と日陰で湿気を吸うようにして咲く花とが、夜と昼との温度差から生まれた風に花びらを散らされていた。
ひとひら、ふたひら、風が花びらを運ぶ。
美しい風景に背中をおされた気がして、リリゼットは硬くて壊れ易いガラスの靴をはいた姫君のように頭を上げて馬車から降りた。
しとやかに王宮の役所に足を踏み入れると、待ち伏せしていたみたいな風が吹き抜けた。一歩を踏み出すつま先にひとひらの小さな花びらが、まるで小さな勇気をくれるように触れて飛んでいく。
ゴクリ、と息を呑み込みリリゼットは瞳を潤ませハンカチを手に持つ。リリゼットは、コーネリアスの尻拭いのお詫び行脚のおかげで涙が自由自在なのである。
感情を制御するべき高位貴族の令嬢が涙を浮かべるなど恥ずかしい行為だが、リリゼットは使えるものは何でも利用する性格だった。
役所の受付は、伯爵家の兄が手配してくれた役人だ。当番の順番を操作して、羽のように口の軽いお喋りな人間を担当にしてくれていた。
なのでハンカチで目頭を押さえて華奢な肩を震わせているリリゼットに、担当者は好奇心を刺激されて目をギラギラさせている。
「婚約破棄ですか!?」
書類を見て、担当者が鼻息荒く言う。
「はい。婚約者が私の妹と浮気をして、妹と新たに婚約をするからと……」
「なんと酷い! 婚約者が貴女の妹と浮気とは!」
担当者の大きな声に周囲の視線が集まる。弱々しく震えるリリゼットの姿に、人々は庇護欲を掻き立てられて同情的だ。痛ましげな眼差しが多い。
「はい。それなのに婚約者はまだ自分の仕事を私にさせようとするのです…」
涙を見せまいとするかのようにリリゼットはハンカチを目にあてる。震える指先が痛々しかった。
「もっと酷い! まるで先王の側妃様のような境遇ではないですか!!」
先王の側妃の物語は有名で、先王は婚約者との婚約を破棄したのに無理矢理に側妃とするのだ。そして、お花畑王妃の仕事を押しつけたので側妃は心労の果てに病死してしまうのである。悲劇の側妃として劇となり、王家の支持率低下の原因となって未だに王家の人気は低いままであった。
知名度の高い「悲劇の側妃」の言葉に、さらに人々がリリゼットを注目する。
「元婚約者はガイオン公爵家のコーネリアス様!?」
「はい。7年もコーネリアス様に尽くしたのですが、感謝の言葉のひとつもいただけませんでした……」
身を乗り出して聞いてくる担当者の耳元に、リリゼットはコーネリアスの過去の数多の愚行を囁く。担当者はガイオン公爵の政敵側の貴族なので、蜜にまみれた飴玉をもらった子どものようにウキウキランランである。
「ひぇー、そんなことも!」
「信じられない!」
「うわっ、最低です!」
非常に声量の豊かな担当者の声に、周りの人々の目と耳は釘付けである。何しろガイオン公爵家の大醜聞なのだ。瞬時に噂は、尾ビレも背ビレも生えた巨大魚に成長をして社交界を泳ぎ回ることとなるだろう。
「不備はありませんでしたので、これにて書類の受理が終わりました」
興奮で高ぶり湯気が上がっているような担当者は、美味しい情報の数々にホクホクと頬を緩める。
リリゼットの方は一貫して哀愁を漂わせ悲嘆に暮れる様子で、されど貴族の令嬢らしく健気に背筋を伸ばし礼儀正しい。周囲の同情心を集めまくりである。
「はい。では失礼をいたします……」
立ち去るリリゼットの雨に打たれた花のような風情に、さらなる憐憫の情が集中したのであった。
リリゼットは公爵家の馬車に戻らず、別の馬車に乗った。家紋のない馬車だ。資産のある家ならばお忍び用に所有するような特徴のない馬車である。これも伯爵家の兄が用意してくれたものだった。
馬車内には兄がいた。
「お兄様、ありがとうございました。こちらが婚約破棄の賠償金です。コーネリアス様名義の金山の譲渡書類でございます。もう伯爵家の名義になっておりますわ」
リリゼットは兄に書類を渡す。役所での弱く儚い雰囲気が夢のように霧散して、大量の同情票の獲得の成功にリリゼットはイキイキとしていた。
「わたしの方も伯爵位の爵位の継承が完了した。父上と母上は領地の片隅での余生となる。マリゼットはコーネリアス殿に責任をとってもらって娶ってもらうつもりだ」
「まぁ! コーネリアス様にマリゼットを押し付けるのですか?」
話しながら服装を替える。時間がないので恥ずかしがってなどいられない。それに高位貴族の令嬢のドレスは一人では脱ぎづらい。兄に手伝ってもらい、飾りがなく目立たない庶民の富裕層が着るワンピースに着替えた。
「顔しか取り柄のない浪費家の妹をヤバい貴族たちに売らないのだ。優しい兄だろう?」
「でもコーネリアス様は個人財産の主である金山を手放してしまったので貧乏になりますよ。公爵家の後継も難しい立場になりますし。マリゼットは我慢できないかと思います、かんしゃく玉が破裂しますわ」
「面倒になったコーネリアス殿が再び婚約破棄をするならば、また代償をもらうだけだ。その場合マリゼットは修道院だろうな」
「あと、ガイオン公爵が激怒するだろうから派閥の鞍替えをするよ。ガイオン公爵の政敵の派閥に。そこから花嫁をもらうことも決定しているし、ガイオン公爵家の内情をチラリと密告しているから地位も盤石だし。やっぱり情報は最高の命綱だよね」
「お兄様、抜かりがありませんね」
「だからリリゼット、こちらの心配はしなくていい。リリゼットは何にも縛られずに幸福になればいいんだよ」
優しく目を細める兄に、リリゼットは胸が詰まる。
「お兄様……」
「旅費と新しい身分証明書だ。……ごめんよ、子どもの頃はリリゼットを助けてあげることができなくて……」
「お兄様、私たちはお互いに子どもで力がありませんでした。それでもお兄様は私を庇ってくれましたわ。私はずっと感謝をしているのです!」
「そうかい?」
「ええ! 今も昔もこうして助けてくださっていますわ!」
嬉しそうなリリゼットの表情に、兄も肩の力を抜き表情を和らげたのだった。
「困った時はいつでも頼っておくれ」
「はい、お兄様」
リリゼットは馬車から降りると、噴水広場で待っていたギリアムに駆け寄った。噴水の流れ落ちる清冽な水音が涼やかだ。
「お待たせしました」
「いえ、僕も今きたところです。意気揚々とサジス侯爵とユーシス伯爵が公爵邸に乗り込んできて、その混乱に乗じて屋敷からコッソリと抜け出してきたところなんですよ」
「まぁ、大変!」
自分で撒き餌をしたくせに、リリゼットは空々しくとぼける。ギリアムもわかっていて調子をあわせた。広場なので人の目も耳もあるからだ。
「あやうくデートに遅刻しそうになって走ってきたんですよ」
「まぁ! うふふ、私たちの初デートですものね。どこへ行きます?」
デートに似つかわしくない大きな鞄を持っているが、人々が不審に思う間もなく二人が並んで歩き出す。目的もなさそうな緩やかな歩き方をしているが、確実に王都門へと向かっていた。
ゆっくりと、自然な動作でリリゼットとギリアムが群衆にまぎれる。沈むように。閉ざすように。ざわめきとともに二人の姿を人波がのみ込んだ。
その消えゆく後ろ姿をリリゼットの兄が、いつまでも見つめていたのだった。
【コーネリアス】
コーネリアスはわからなかった。
何故、まるで犯罪者のようにコーネリアスは公爵家の後継者に相応しくない、と親族たちが処罰を求めるみたいに告発をしてくるのか。
あれほどベッタリとくっついてきて愛を捧げてくれたマリゼットが、恐ろしい顔をして目を吊り上げて責めたてるのか。
社交界で後ろ指をさされてヒソヒソと囁かれ、咎められるみたいに嘲笑されるのか。
だって今まで誰もが優しかったのに。
常に優しい世界だったのに。
何故、激昂した父親に殴られたのか。
コーネリアスには理解できなかった。
その後、長い親族会議の果てにコーネリアスは公爵家所有の領地無しの男爵位が与えられることが決定した。
【ガイオン公爵】
小娘にしてやられた!
激しい怒りがガイオン公爵の胸の裏を焙る。
リリゼットの残していった撒き餌は、時、場所、場合、話の内容、7年間の教育の披露とばかりに全てが完璧だった。王宮の役所での囁きも。サジス侯爵とユーシス伯爵への手紙も。
ギリアムの置き土産も、順調だった公爵家の政務を川の氾濫のように大きく混乱させた。
すさまじい耳鳴りが響く。憤怒のあまりガンガンと頭の中が痛む。ざわざわと髪が逆立つようだ。
最悪なことは、公爵家の富の源といえる金山を奪われたことだった。コーネリアスの後継者としての立場を確実とするために名義をコーネリアスにしたことが完全に裏目に出てしまった。
先祖代々の大事な金山を失った原因であるコーネリアスを親族たちは絶対に許さないだろう。親族たちは誰ひとり味方ではない。
愚かさは罪だ、公爵家にとっては。
だからこそ、リリゼットとギリアムを洗脳するように教育してコーネリアスの支柱としたというのに。まさかコーネリアスが、自身で両翅を毟ってしまうほどの愚者であったとは。
まさか、平民におとして生涯都合よく消費する予定であったギリアムが反抗するとは。
まさか、従順であったリリゼットがコーネリアスに一瞬で背くとは。
数多のまさかが渦巻いて、公爵はギリギリと奥歯を噛んだ。
孤立無援のガイオン公爵は自分の力だけでコーネリアスを守らねばならなかった。いや、公爵の地位そのものを。
ガイオン公爵は暗い顔に目だけを爛々と光らせて、扉をゆっくりと開いた。一斉に親族たちが公爵に凍える冬のような冷たい視線を向ける。
長い親族会議の始まりだった。
読んで下さりありがとうございました。
【お知らせ】
リブラノベル様より加筆して電子書籍化。(短編を加筆していますので罠が増えたり色々しています)
「悪役令嬢からの離脱前24時間 〜護衛騎士に溺愛されて、私は《物語》から離脱します〜」
6月25日にシーモア様より先行配信です。シーモア様特典SSあります。
スピラ様より「溺愛生活は溜め息とともに」が改題して「宝石の乙女は腹黒侯爵様に迫られる」としてコミカライズ。
作画は露草空先生で、6月22日に配信予定です(とても綺麗な絵の先生です)
よろしくお願いいたします。