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011


   ♪



 あれからまた一週間が経ち、曲の完成はもう間近だった。後は時間の問題だ。


 沙耶の今の実力で十分弾ける楽譜を、作ってもらった。フレーズはすっかり頭に入っているし、リズムも身体に叩き込んだ。一番難しく感じていた弾き始めの指運びもなんとかマスターできたし、あとはフレーズ毎の繋がりの部分をもう少し滑らかにできれば完成だ。


 未だに弾く度にケアレスミスはあるけれど、曲自体が止まってしまうような大きなミスはもうなくなってきた。もう少し、もう少し。指と耳に曲を染み込ませて、完成を待つだけ。


 毎日、その日の最後の演奏を録音して、行き帰りの電車やベッドの中で、お手本にしている牧野先輩の音源と交互に聞き続ける。少しずつ滑らかに、踊るように、華やかになっていく自分の演奏に、沙耶は手ごたえを感じていた。


 ――だから、今日はきっと弾ける。


 牧野先輩が、メトロノームをセットする。暖房の排気音しかしない静かな旧音楽室の中に、勇気を出して最初の一音を落とす。導かれるように繋がっていくメロディが室内を満たして、やがてほんのりと赤く色づき始めた。


 少しずつ、曲調が盛り上がっていく。このあたりで、王子様とシンデレラが出会う。この小節のあたりで、シンデレラが一歩前に出て、本格的に踊り始める。華やかさを宿したピアノの音が、踊るように放たれていく。これならきっと、舞踏会のBGMにも相応しい。


 最終盤に入った。残るはあと四フレーズ。三、このまま無事に弾き終えることができるんじゃないだろうかという期待に、胸が高鳴っていく。二、最後まで気は抜けないから、丁寧に丁寧に弾く。一、最後の音符にたどり着く。


 全ての音が部屋の中に響き渡り、そして消えていく。ピアノの音が完全に止んだ後、指の力を抜けば、一曲のピリオド代わりに鍵盤がカタンと音を立てて持ち上がる。この一瞬が、沙耶はたまらなく好きだった。


 静寂を取り戻した旧音楽室の中で、沙耶は殆ど叫びそうになりながら立ち上がった。


「……弾けました」


 振り返って、先輩を見る。窓際にいるせいで逆光に包まれていて、表情はよく分からない。


「弾けました、私、弾けるように……なりました!」


 驚くほどの高揚感が、沙耶を包んでいた。弾けた。出来た。演奏を頼まれたあの日は、あんなに無理だって思ってたのに。断り文句を必死に考えていたほどだったのに。


 ――弾けた!


 牧野先輩が、光の中から一歩踏み出して影に入る。眩しさがやわらいだその場所で、先輩は微笑んでいた。その笑顔を一目見ただけで、沙耶はもう一度喜びなおしたくなった。先輩が満足してくれるほどに、沙耶はきちんとこの曲の演奏をやりとげたのだ。


「うん、ちゃんと聞いてたよ。間に合ってよかった」


 文化祭までは、あと一週間。これならかなり余裕がある。


「あの、文化祭……やっぱり、来られないんですよね?」


 わがままなのは分かっていても、当日も牧野先輩に聞いてほしい。たくさんの人の前でピアノを弾いている姿を、一番見て欲しい人。

 期待を込めて聞いてみたけれど、先輩はただ静かに首を振るだけだった。


「……ごめんね」


 小さな失望の影が沙耶の心に落ちた。でも、これは前々から分かっていたことだ。今はとりあえず、弾けるようになったことを素直に喜びたかった。


「ていうか……弾けるようになるの、間に合って本当によかったよ」

「もうっ、さっきからスケジュールのことばかりですね。残りあと一週間、もっともっと仕上げます!」


 この完成度を、もう少し安定させたい。ただ無難に弾けるようになるだけじゃなくて……できたら、牧野先輩のように、誰かの心を動かせるような演奏がしたい。まだまだ粗が目立つこの曲を、できるだけ自分のものにしてから本番に臨みたい。


 そう思いつつ時計を見ると、すでに下校時刻の十五分前だった。片付けの時間も考えると、今日はもう終わりにしてもいいかもしれない。


 同じことを考えていたのだろう、牧野先輩が口を開いた。


「そろそろ帰る? でも最後に、沙耶のピアノが聞きたいな」

「今日はもう何度も弾いたじゃないですか。なにか気になるミスでもありましたか?」

「ううん、完璧だったと思うよ。でも総復習も兼ねて、弾いてよ」


 牧野先輩にピアノの演奏をねだられるなんて、変な感じだ。いつもと逆だななんて思いながら、沙耶は張り切ってピアノの前に座りなおす。


「じゃあ、行きますね」


 もうピアノを弾くのは怖くない。ピアノは、沙耶をより自由に、より遠くまで連れて行ってくれる。


 メトロノームの音が、機嫌よくカチカチとリズムを刻んでいた。



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