美しい世界
①
無知の知、とは誰の言葉だっただろう。そもそもこの言葉を知ったのは、確か現代文の授業か、いやそれとも倫理だったか。それとも世界史の授業だったっけ。
分からないけれど、高校の何かの授業で先生が機械的に唱えていたことを、ただ何となくノートに、事務的に写していて知った言葉だと思う。
結局どうだろうとも、高校での僕の日常は何となくでしかなかったし、日常の全てがどうでもいい存在だったことは間違いなかった。
僕らの興味は、僕らの手元に集中していたのだから。
目にするのはリアルからかけ離れた液晶からの映像ばかりだった。耳から入ってくるのは世間の声などでは無く、お気に入りのアーティストの声だった。それは生の肉声ではなく、イヤフォンを通して聴いていた声だった。
時折駅前の広場で、選挙カーで政治家が何かを喋っていても、騒がしいとしか思わなかった。それに反発する世論の声だって僕らにとっては雑音で、頭の中は自分を待ち受けている試験のことか、大抵は周囲の人間関係のことしか考えてなかった。
あの時の僕は、自分の無知に無関心だった。
無知の無知、でもなく、無知への無関心だ。
高校二年の十月。
僕らの高校は体育祭を六月に行い、九月に文化祭を行う為、十月からの日々というものは特に何もなく、退屈な時間を過ごしていた。
「あー、何か面白いことないかなー」
椅子の背もたれに頭を乗せて、ほぼ椅子と接地している面がないのではないかと思うくらい寝そべった姿勢で圭介が言う。言ってからすぐ、大きな欠伸をした。「次の授業って何だっけ?」
「数Ⅱ。次当たるし、予習しなきゃやばいよ」
「え、卓郎当たんの?出席番号いくつだっけ」
「二十一」僕は当たるであろう問題を解きながら答える。
「あ、じゃあ平気だ。俺三十一番だし、流石にそこまでは授業進まないだろ」
僕らの数学の教師は、出席番号順に問題を割り当てていき、当てられた生徒は黒板に出て問題を解くという事になっていた。書き終わったらその場で丸付けされるため、この授業では予習が必須だった。
「余裕そうだけど、圭介が当たる問題難しそうだよ?」
自分の問題が解き終わり、先の方の問題を眺めた。ベクトルの問題が圭介の当たる問題だった為、何となく“難しい”と、表現した。
「平気だって。今日じゃないなら家帰ってから兄貴に聞くし」
スマートフォンをズボンのポケットから取り出して、圭介はそれに話しかける様に答える。
僕もスマートフォン、通称スマホを取り出し、何となくアプリを作動させる。
傍に生身の人間が、リアルの人間関係が存在するのに、僕らが目を向けているのはこの小さな電子機器であることの不可解さに、僕らは既に摩耗していて、何らおかしいとは思わなくなっていた。
少しの間、お互い声を発さずに画面を眺めていた。
窓際の僕らの席に窓から秋の風が冷たく吹いて来て、換気の為とクラスの女子が開けた窓を閉める為に僕は立ち上がった。
窓の方に行き、閉める時に校庭の様子が見えた。次の授業が体育である生徒たちが、各々の肩を摩っている。今日は寒いんだなと思った。
「なあ、このゲーム知ってるか?」
圭介がスマホの画面を見してきた。僕は席に着きながらどれどれと言い、それを見る。
画面には黒い背景に白い文字で大きく、“BW”と書かれていた。
「何これ。BW?ブラック ホワイトってこと?」
「残念。ビューティフル ワールドだ」圭介は笑いながら答える。
「へー」圭介のスマホの画面をもう一度見る。「知らないなー。ゲームなの?これ」
「ああ、シューティングゲームっぽいやつ」そう言いながら画面をタッチして、ゲームを作動させる。
「銃を使ってさ、敵の兵士を打っていくんだ。森の中とか街の中に敵が潜んだりしてて、あっちも攻撃してくるからなかなか難しいんだよ」
へえ、と圭介のやっている様子を眺める。
ゲームの様子は圭介の言う通り、銃などの武器を使って敵を倒していく感じだった。映像はクリアで、鮮明に周りの様子が描かれている。
「最近、こういうスマホのゲームも凄い綺麗になってきてるよね、映像とか画面とか」
「そうだな。テレビゲームだってさ、俺らが昔やってた様なやつより全然違って、もう実写の映画見てるみたいだもんな」圭介はそう言って、最近発売された有名ゲームの名前をいくつか挙げた。
何作品も続編を出しているクリスタルの力を使うアドベンチャーゲームや、配管工の髭男が冒険するゲームなど、誰もが知っているものばかりだ。
皆全て、グラフィックが高度になっていて、僕も宣伝などをテレビで目にすると、それが新作の海外映画なのではないかと思ってしまう程綺麗でリアルだった。
圭介が教えてくれたゲームも、それらと同じく現実味のある映像をしていた。
授業開始の鐘がなり、散り散りになっていたクラスメートが一つの教室という部屋に集まってくる。化学の先生がこの様子を、水が氷になる凝固反応に例えていたのを上手い表現だな、と思ったことを思い出す。
教室の前の扉から数学の教師が入ってくる。
日直が挨拶をして、それに合わせてクラス全員が挨拶をした。
教科書を開くよう指示され、次いで問題が各生徒に割り当てられていく。僕も当てられ、前に出て黒板に先程ノートに書いておいた解答とその途中式を写していく。
十数分経って、書き終えて席に戻ろうとした時に圭介の方を見ると、今日は当たらないと慢心した表情を浮かべていた。
数十分後、皆が予習をしてきていたことで予定よりも授業は早く進んだため、圭介のその表情はどんどん青くなり、その青くした顔で黒板の前に立つのだった。
②
一日の授業は全て終わり、家に帰ろうとしていた僕に圭介が声をかけて来た。
「卓郎、帰りにどっかで勉強でもしてかないか?」
「別にいいけど。どうしたの圭介、数学で当てられて答えられなかったこと根に持ってんの?」笑いながら僕は言った。
「そうじゃねえから。もうすぐ期末試験だからノート写させてほしいだけだから」
「ノート?」
「そ。ノート」圭介が、両手を出してねだってくる。
「俺、寝てて書いてない所があるんだよね。だから卓郎に見せてもらおうと思ってさ」圭介は笑いながらそういった。
「ああ、そういうこと」圭介の笑顔に、何となく僕は意地悪がしたくなった。
「タダ?」
「ん?」圭介が聞き返す。「どういうこと?」
「だから、」勘の悪い圭介に答えを突きつける。「なんか奢ってよ」
ああ、と言って圭介が笑う。「なんだそういうことか」と言って肩を叩いてくる。少し痛いなと思いその手をはじこうとするが、その時にはもう手は僕の肩から離れていて、圭介は教室の外へと向かって歩き出していた。肩を摩りながら鞄を持って、圭介を追う。
「なんだ、奢るとか全然余裕だって」
「全然って言葉の後には否定語が来るべきだと思うけど」
「細かいこと気にすんなって」圭介がまた肩を叩いて来ようとするので、圭介から少し離れてその手をかわす。
「卓郎の食いたいもの何でも奢るからさ」
「じゃあ店の品全部」
「出た!絶対食いきれないくせにそういうこと言う奴!」圭介が笑う。
まあメニュー見てから決めるよ、と言いながら顔は自分のスマホに向けていた。母親に帰りが遅くなることと、夕飯は少しだけでいいことをメールで連絡する。
「そういえばどこで勉強するの?」スマホをポケットにしまいながら僕は尋ねる。
「んー、とりあえず駅の方に行こうぜ」
学校の廊下の窓から、橙色の光が差し込んで、僕らと教室を照らしていた。温かみがあり、今日が寒いということを忘れさせるような光だった。
駅に向かって圭介と横並びで歩いた。
話す内容はたわいもなく、それこそ政治経済の話なんて出るはずも無く、出てくるのはどこのクラスの誰と誰が付き合っているとか、今通った女子高生が可愛かったとか、そんな事だった。
次第に駅が見えてくるにつれて人は増え、騒がしくなる。
一層騒がしいのは、朝僕が学校へ向かう時にもいた政治家だった。選挙カーの上から何かを拡声器を用いて喋っているが、それを立ち止まって聞いている人は誰もいなかった。
駅前の雑踏に、声だけがただ落ちていく。
「なんか最近やたらと政治家を見るよな。何か選挙でもあったんだっけ?」
圭介は政治家の方を見ながら、耳を手で叩いて騒がしいという事をアピールした。あまりにも子どもじみた仕草に僕は笑ってしまう。
「さあ。テレビでニュースなんか見ないからよくわかんないな」
「アメリカがどっかの国を攻めてるってのはネットで見たけど、あれはそれに反対してるやつらかな」
僕はそのニュースを初めて聞いたが、さして興味も湧かなかった。
「そうなの?てか、何で他の国のやることに日本が口出ししてんのさ」
「知らね」圭介ももうすでにどうでもいいといった表情をしていた。「日本はアメリカのやることに敏感だから、ちょっと気になるって感じじゃね?」
夕方の駅には色々な人がいる、と言いたいが大半は学生かサラリーマンだ。そのせいか、恐らく今駅上空から眺めたらここら一帯は黒い点々が多く見えるのだろう。それこそ、夕焼け空に飛んでいる烏の様に。
秋は夕暮れ。
心の中で呟いてしまう。群れになり、拡声器で声を上げる人がいる騒がしいこの駅前は、本当に烏みたいだと思う。
あの拡声器によって、何人の人の平穏が壊されているんだろう。それに反して成果を得られているのか、平穏さを代償にしてまで票がほしいのか、といつも僕は思う。
「なんかさ、」そう考えていると、圭介がまた選挙カーの方を見ながら喋りかけてきた。
「何?」
「ああやってさ、選挙の時だけ張り切っているのを見ると腹立つよな」圭介が政治家に向かって舌を出す。「政治家ってさ、たまにテレビとかで国会の様子とかを見ると寝てるやつとかが沢山いるんだぜ?」
「圭介、国会中継なんか見るの?」僕はそっちに驚く。たまにな、と圭介が言う。
「そういうの見てるとさ、あいつらもそこらへんの学生と変わらないよな」
「どこが、どう変わらないのさ」
「普段の授業は寝てるのに、試験一週間前になると急に頑張り出すような、そんな感じ」圭介は得意げにそう言った。「もしくはあれだ、授業参観の日だけ頑張る小学生と同じだ」
「なるほどね」
頷きながら、選挙カーの方に目を向ける。言われてますよ、そこのあなた。心の中でそう言い放った。
「なあ、そう思わん?卓郎」
「そうだね」圭介の方に向き直しながら僕は答える。「そうすると圭介は政治家だってことになるな」
「なんでだよ」圭介は不満げに聞いてくる。
「だって普段は寝ていて、試験前に頑張るのが政治家なんだろ?」
「そうだよ」
「圭介は授業を寝てたから、今から僕にノートを見せてもらうんでしょ?それはつまり今あそこでやかましく声を上げている政治家と同じことをしているということじゃないんですか?」
政治家を追及する記者になり切って僕は圭介に質問する。左手には見えないマイクを持って圭介に向けている。
「えー、」圭介は言葉を詰まらせ返事に困り、「えーと、記憶にございません」と返事を濁して、駅構内にあるファストフード店へと逃げるように足早に入っていった。笑いながら、「待ってください、逃げるんですか」と言いながら僕も中に入っていく。
チーズバーガーのセットを圭介に奢ってもらってから席に着いた。
圭介はサイズが一番大きいポテトを買い、それを一本ずつゆっくり食べている。
ノートを鞄から出そうとするが、まずどの教科から見せるべきなのかが分からなかったし、小腹が空いていることに気付いた為、目の前のトレーに置かれているハンバーガーを手に取って食べた。包み紙は全て取り、丸めてトレーの端に置く。
かぶりつくと、ハンバーガーから肉汁とソースであるケチャップが口の中で広がった。それを肉とチーズと合わせて味わった。苦手なピクルスがかじり跡から見えたので、それだけ歯で先に取って、ハンバーガーとは別で食べる。
「何かそういうのって血液型によって違うんだってな」
ポテトをかじりながら、圭介が顎で僕の方を示してくる。
「ん?」ピクルスを取り出す際に口の端についたケチャップを拭いながら、僕は聞き返す。「何の事?」
「それだよ、それ。ハンバーガーの包み紙」圭介は指に付いたポテトの塩を舐めている。「A型だと几帳面に畳んだり、O型は卓郎みたくぐしゃぐしゃに丸めるらしい。AB型は鶴を折るらしいぞ」
「へえ」と僕はさっき自分で丸めた包み紙を見る。確かに、僕のこの包み紙の処理の仕方は大雑把な感じがした。
「でもそんなの血液型で変わったりするのかな」
「わかんね。でも血液型なんか気にするのは日本人だけらしいな。海外の人はそれを見てドラキュラだって笑うらしいぞ」もう一度ポテトを取ってかじるが、「硬いな」と圭介は文句を言う。
「だいたい血液型なんかで本当に性格が決まるのかね。占いとかもあるけど、いまいち信じられないよな」
「まあ確かに、血液型の違いって凝集素とか凝集原の違いでしかないからね」僕はハンバーガーを食べ続けながら喋る。
「何それ?」
「血が固まるかどうかの元になるやつ。例えばA型の血にはB型の血が入ったら固まる様なものが入ってるし、B型も同じくA型の血が入らない様になってるんだって。それに比べてO型の血液にはそういう固まらせるものが入ってないからどんな血液型にも合うらしいよ」
「へえ、じゃあAB型はどうなるんだ?」
「AB型の人は逆に大変だよ。怪我して輸血が必要になったらAB型の血しか入れられないから。だからAB型って希少らしいよ」
「ふーん。じゃあO型って万能なんだな」
「うん。でも遺伝子的にはO型って劣性の遺伝子らしいけどね」
「劣性?」ポテトを銜えながら喋るため、圭介の口元でそのポテトが縦に揺れる。
先程まで食べていたハンバーガーがもうあと一口で食べきれる大きさになったので、僕はそれを一気にほおばって、セットで付いて来たジュースで流し込む。
「遺伝子って、そのまま身体に現れるものと現れないものがあるんだ。その現れる方を優生の遺伝子って言って、現れない方を劣性の遺伝子って言うんだよ。O型の血液は、遺伝的にはその劣性の遺伝子に分類するんだって」
「そうなのか。え、でもじゃあO型の血液型の人間がいるのは何でなんだ?劣性の遺伝子ってのは、身体には現れないんだろ?」
僕は自分の鞄からノートを探ろうとして、手に付いた油を気にする。見たところ油はそれ程付いていなかったが、軽く紙ナプキンで手を拭いて鞄の中に手を入れた。
「遺伝子の元って言うか、そういう遺伝情報を持っているのが染色体ってものなんだけど、それって細胞の中に二本で一つのセットになってなきゃいけないんだ。だから、例えば二本の内の一つがA型で、もう一方がO型の血を造る遺伝子だったら血液型はA型になるんだけど、もしその二つがどっちもO型の血を造る遺伝子だったら、どちらも劣性同士なんだから比べようがない。そうすると血液型はO型になるんだよ」
「へー!」圭介がわざとらしく拍手をする。「卓郎、頭いいんだな。どこでそんなことを知るんだよ」
「授業だよ」
「え?」驚いた顔を、圭介はした。僕は半ば呆れながら笑っている。
「生物の授業の中で全部やったことだよ、今の」
「え、そうなの?」
圭介はまだ驚きを隠せないと言った表情をしていた。そして少し照れた顔して、頭をかいた。
「いやあ、俺実は生物の時間ってどうしても眠くなっちゃってさ。どうも話とか聞いてられないんだよね」
「だと思ったよ」圭介の前に、僕はノートを置く。「ほら、生物のノート。僕は基本起きてるから、多分大体のことは書けてると思うよ」
圭介の曇っていた表情が瞬時に明るくなっていた。
「ありがとう卓郎!最高!」
ポテトを触っていた手でそのままノートを開こうとしたので、「汚さないでくれよ、僕のノート」と釘をさす。
えへへ、と圭介は手を止めてまた頭をかいた。
それから一時間、圭介は黙々と僕のノートを写していた。
僕はそんな圭介を邪魔しない様に、自分の勉強をした。
苦手な英語の勉強はなかなかはかどらず、何度も電子辞書に手を伸ばしてはその小さな機械から発せられる英語を一生懸命聞いたり、単語の意味をノートに書き写したりしていた。
時折、テーブルの上に置いた二人のスマホが震えることがあったが、液晶からそれが何による震えかだけを確認して、僕らは各々の作業を続行した。
「あー!」と圭介が我慢しきれず声を出し、伸びをしたのはそこからさらに三十分経ってからの事だ。
外を見ると、学校を出る時にはあったあの温かな光はすっかり無くなっていて、薄暗くなってしまっていた。店の前を通っていく人影も、その服装まではっきりとは視認できず、わずかに聞こえて来ていた選挙カーの声も止んでいた。
駅のバスターミナルからバスの明かりだけがはっきりと見えている。
「なんか手を動かしてばっかで疲れたなー」と手を振って、その疲れを吹き飛ばすようにした圭介は、その手で今度はスマホを操作する。僕も欠伸が移った様につられてスマホに手を伸ばす。母親からの、夕飯は少しだけでいいという連絡に対しての「了解」というメッセージが届いていた。
「そういえば卓郎、これインストールした?」
圭介がゲームの画面を見せてくる。数学の授業の前に僕に教えてくれたゲームだった。「まだ」と、僕は答える。
「これさ、ゲームやってるとポイントが付くんだ。このポイントで競えるからさ、卓郎も早く始めて俺と勝負しようぜ」
「そんなことよりもテストじゃないのかよ」僕は苦笑する。
「テストもだけど、でも楽しいじゃんか。な?やろうぜ」
「いいけど、」と僕はゲームのインストール画面を開く。「何だっけ。BWだっけ」
「そうそう」
画面を操作して、目当てのゲームを探す。
「これ?」
「そうそう、それだよ」と圭介が言うので、僕はそれをインストールした。
「ポイントもさ、競うだけじゃなくてそのポイントに応じて色々な武器が使えるようになるから楽しいぜ」
「お金はかかるの?」ゲームにお金をかけたくなかったので、そこだけ確認する。
「基本かからないな。ポイントで使えるようになる武器を金を払えば使えるようにもなるけど、だったらゲームやってればポイントが自然に増えてくし」
「ふーん」ならお金はかからないな、と安心する。その他の注意書きはインストール画面にも書いているが、基本的には英語ばかりだったので読むのを止めた。
僕がゲームのインストールを終えてから、圭介が「帰るか」と言ったので帰ることにした。
外に出ると、すっかり空気は冷え込んでいて寒い。足早に駅の改札へと向かって行く。
「あ、そういや卓郎、今日生物の勉強するか?」改札を抜けて、僕とは反対のホームへと上がって行こうとする直前に、圭介が聞いてきた。
「いやしないけど、何で?」
「ならノート一日借りるな。これ、コピーしようと思って」
「別にいいけど」と許可するが、なら今日残ってノートを写した意味はないんじゃないだろうか。圭介は無駄に僕に奢ったことになってしまうけど、それでいいんだろうか。
そんなことにはお構いなしといった圭介は、「そっか。じゃあノート借りてくな」と満足げな顔をして、「じゃあな」と言って階段を駆け上がって行った。
「また明日」と圭介の背中に向かって言い、その後僕はエスカレーターでゆっくりと反対方向のホームへと上がっていった。
スマホを取り出し、電車の到着時間を見ると後七分程あったので、縦に持っていたそれを横向きにして、先程インストールしたゲームを起動した。
③
家に到着したころには、既に夜の九時を回っていた。
帰宅すると母がソファーに座ってテレビを見ていた。「ただいま」と言うが聞こえなかったらしく返事が返ってこない。
もう一度、今度は大きく「ただいま」と言うと「あ、おかえり」と少し驚いた様子で母は言った。
「ご飯、少し食べるんでしょ?もう食べる?」
「うん、食べる」言いながら鞄を置いて学校の制服を脱いだ。ネクタイの、首を絞めて拘束してくる感じから解放されて気分がいい。
母はソファーから立ち上がって台所へと向かって行った。僕の為の料理を温め直してくれるようだ。
さっきまで母が見ていたテレビを見ると、ニュースキャスターが無表情で淡々とニュースを読み上げていた。ドローンという遠隔で操作出来る機械の、それのさらに進化したものが開発されたという内容だった。
何でも遠隔に操作できる万能なロボットらしく、遠くにいながらそのロボットで様々な作業が出来るらしい。日本とアメリカの自動車会社の共同開発のそれは、他国からでも遠隔にロボットを操れ、またその操作が非常に容易かつ細かな作業も可能で、移動も素早くスムーズなことから、各工場でそれを用いて自動車を造っていこうとする、いわばロボットによる工場を考えているというニュースだった。
ロボットによる社会の誕生。いつか人間はロボットに操られてしまうんじゃないかと、僕は思っている。
それこそ、どこかのハリウッド映画のような未来が、もしくは少年の元にロボットが来て何でも助けてくれるような未来がくるのではないか。
立場が変わり、今度は人間がロボットによって造られてしまう未来だってあるかもしれない。
ロボットの遠隔操作、それだけの言葉で漠然とした期待と不安がよぎってしまう。
やがてニュースは全く別の内容のものになった。興味が無くなったので違う番組に変える。その他の番組は基本的にバラエティー番組で、芸能人がクイズやスポーツなどに挑戦していた。
さして興味も無かったが、無音よりかはましなのでその番組に固定する。
微かに、耳でその番組の音を拾いながら僕はスマホを取り出してゲームをする。圭介に教えてもらった、あのゲームだ。
やってみると確かに面白く、何より映像が鮮明であるため、やっていてやりがいがあって楽しい。
プレイヤーとなり、自分が兵士の一人となって兵士目線で戦いに参加するため、最初の方は操作が難しく敵にすぐにやられてしまうが、何度でも兵士として参加出来るし、慣れてくれば銃などを使って敵を倒すことも出来るようになり、達成感が得られる。
圭介がはまってしまう理由も何となく分かるな、と思った。
やってるいる内にポイントも増えてきて、そのポイントによって新たな武器を手に入れて、新しい武器の性能を楽しむことも出来た。
こうした達成感が、ゲームによって得られることが何よりも楽しかった。
日々の生活における、ちょっとしたスパイス。ただ淡々と過ぎる毎日の流れに、一つ小さな新たな流れが出来るこの感じを、僕は望んでいる。
朝起きて、学校に行き、帰ってきて、明日の予習をして、寝る。それの繰り返し。
その中に飛び込んでくるこういった興味の湧くものと言えば、勉強でもニュースでも無い。ちょっとの“満足感”。僕らにワクワクを与えてくれるものを僕らは求めている。
僕らの生活が、ただ何となく、退屈で無ければ後はどうでもいい。
台所から温められた料理が母親によって運ばれてきたのでゲームを止めた。
「いただきます」と言い、箸で運ばれてきた肉じゃがのじゃがいもを掴んで口に入れる。それを噛みながらテレビの方を向き、先程変えたバラエティー番組を見ようとしたが、母がまたニュースに番組を変えたのでテレビからの興味はいよいよ完全に無くなって、僕はテレビを見ることを止めた。
そもそもニュースというものに興味がない。
明るいニュースはない。毎日どこかで誰かが亡くなっている。その報道ばかりだ。
「今日は何と誰も死にませんでした!」と、笑顔で言うニュースキャスターを一度でもいいから僕は見てみたい。
どこかの誰かが亡くなったという暗い事実は、突きつけて欲しくないし見ないふりをしていたい。
政治におけるニュースも同じく、今日圭介が言っていたことじゃないけども、国会の様子をニュースで見たって子どもの喧嘩を見ているようにしか見えない。
みんな野次ばっかり飛ばしているくせに、会見の時だけ妙に背伸びして大人びて、よく分からない言葉を多用している。
そんなものを見ていても内容など理解できず面白くない。だから僕はニュースが嫌いだ。
肉じゃがと白飯を一杯、そして味噌汁を飲んでお腹いっぱいになった。さっき圭介に奢って貰ったハンバーガーは、思いのほか僕の胃の中を満たしていたようだ。
「ごちそう様」と母に言って、食器を台所の流しに置く。「はーい」と間延びした母の返事を聞きながら、僕は鞄と脱ぎ捨てたネクタイとブレザーを持って自分の部屋へと入っていった。
部屋の床にそれらを投げ捨てて、僕はベッドに横になる。油断していると、満腹感と一日の疲労感から寝てしまいそうだったのでスマホを取り出していじる。
何気なくSNSを眺めて、特に面白そうなことも無かったので、再びゲームを起動させた。
一時間程して、それでも眠気が襲ってきたので、僕はスマホをベッドの上に置き去りにして、風呂へと向かった。時計を見ると十一時を指していたので、どおりで眠いわけだ、と一人で納得する。
④
朝。憂鬱な時間で、僕は嫌いだ。
新しい朝は来ているが、希望の朝ではない。
気だるげにベッドから起きて、学校へ行く準備をする。母は既に起きていて、父はもう家を出て会社へと行ってしまっていた。
用意されている朝ご飯を口に入れるが、味はほとんどしない。無味で、あまり食べているという感じがない。
歯を磨き、制服を着て、家を出る。ネクタイによって、今日も僕は縛られる。
電車に揺られ、高校の最寄り駅に着いたら人の流れに沿って、僕は外へと出ていく。何も変わらない。昨日と同じ今日だった。
駅前ではやはり、政治家が拡声器を用いて演説をしていた。「おはようございます」と言っているが、その声の大きさで言うその挨拶は一体何人の人に不快感を与えているのだろう。
政治家の周りには、その政治家の名前が書いてあるタスキを付けた人が何人かいた。通行人に対してビラを配り、彼らが身に着けているタスキの人物を必死にアピールしている。
「朝早くから、寒い中ご苦労様です」と思ったが、それ以上の応援は別にする気はわかなかった。頑張れ、とも思わない。
立ち去ろうと、大きなその声をしり目に学校へと向かおうとした僕の背中に、政治家の声が駆けつけて来た。
「皆さんは選挙の時にのみ、皆さんのその自由の権利を行使できるのです!今こそ、その自由の権利を輝かす時ではございませんか!」
その言葉に聞き覚えがあったので少し立ち止まるが、数秒してすぐに歩き出す。
最近、試験勉強をしていてそんな言葉を目にしたな―――。そう考え込むが、しかし出てこない。確か昔の偉人だ。
さらに後から政治家が、「アメリカの野蛮な行為に賛同してはいけません!」と言うが、僕の頭の中は期末試験に出てくるであろうその偉人の名前を思い出すことで専念されていた。
名前を必死に思い出しながら通学路を歩く。
ノートに書いたその名前を、僕は蛍光ペンでなぞりもしたのに、何故か今思い出せないでいる。しかも、あと少しで出てくるかもしれないという感覚なので、それがさらに僕の気持ちをモヤモヤと濁らせていた。
うんうんと一人唸りながら歩いていると、後ろから不意に肩を強く叩かれた。
昨日からずっとゲームをしていた僕は瞬時に撃たれた!と思い肩を触るが、そこから血は流れておらず、そもそも銃などこの世界ではあり得ないという事に気付いた。
肩を気にしながら振り向くと、そこにいたのは敵兵などではなく、圭介が笑顔で立っていた。
「おはよう、卓郎」
「ああ、おはよう圭介」僕は胸を押さえながら返事をする。
「どうした?胸なんか押さえて」
「圭介が急に肩を叩いてくるからドキドキしてるんだよ」
「え、それって恋じゃね?」にやけながら圭介が肘でこづいてくる。「困っちゃうなー」
「何で困ってるんだよ。普通にびっくりしただけだって」
「なんだ、そうなのか」と圭介はわざとらしくしょげる。なんでしょげるんだよ、と僕は突っ込んだ。
そのまま二人で学校へと向かい、教室へと入っていった。
鞄を机の上に置き、教科書とノートを机の引き出しの中に入れる。
「一時間目って何だっけ?」圭介が伸びをしながら聞いてくる。
「現代文」僕は引き出しの左側に教科書、右側にノートを積み重ねて入れていく。
「よし、寝れる!」ガッツポーズをしながら、勢いよく圭介は椅子に座った。
「寝るの?またノート見せてくれって言われたって見せないからな」
「えー、卓郎冷たいことを言うなよ。また奢ってやるからさ」
「どんだけ僕に奢ってあげたいんだよ、圭介は」僕はため息をつく。
ノートをしまいながら、一番上にきた政治経済のノートを見て思い出す。「ああ、あれはモンテスキューの言葉だ」と独り言がつい出てしまう。
「え、何を揉みたいって?」と訊いてくる圭介の言葉には「何でもない」と言って適当に流した。
自由の権利。僕らは選挙の間のみ自由なのだ。
そんな言葉を授業で習い、何となく心に焼き付いていたが、それを言った人物についてはすっかり忘れていた。僕の記憶力、もしくは人間の記憶力そのものに残念な気持ちになった。
「うへー、卓郎ってば几帳面だね」と、僕の机の引き出しを見た圭介が舌を出す。
「そう?」
「普通そんな風にノートと教科書を分けて入れないって。俺なんかほら、全部どさっと何も考えないで入れてるぜ」
「それは圭介がだらしないだけだと思う」僕は率直な意見を述べる。
「そんなことねえって。これが普通だよ」と圭介は言い、自分の横を通ろうとしていた女子に話しかけた。
「なあ、これって凄い几帳面だと思わん?」圭介は僕の机の中を指さした。
「え?」と、多少困惑した様子だった彼女だったが、素直にその示された指先をまじまじと眺めた。
女の子に、自分の机の中を見られていることが、どうにも言えないこそばゆい感じがして僕は目線に困った。
「えーと、卓郎ってA型?」彼女は少し考えた後にそう言った。
「ううん、O型」僕は答える。
「あー、ぽいかも!」僕の答えを聞いて、彼女は納得した様な表情をした。
何で納得したんだ、と僕は疑問に思った。というより、僕の返事で納得したのなら、最初に彼女が発した僕に対する、A型なのかどうかの確認にはどんな意図があったのだろうと、不思議に思ってしまう。
「何だそれ。お前何で納得してんだよ」と圭介も疑問に思ったらしく、彼女に問う。
「えー、だってO型の人ってなんかそういうとこで変に几帳面じゃない?自分だけのルール持ってるみたいな」彼女はふわふわと、まるで綿菓子のように緩く喋った。
「私も血液型O型だけど、やっぱり自分ルールあるもん。筆箱は机の左端に置く、とか」
なるほど、何となく理解できる。
「電車ではなるべく優先席は座らない、とか」
それはルールというか、マナーだ。
「赤信号は渡らない、とか」
それはもう絶対そうしてほしい。
「なんかそういう自分のこだわりがあるのってO型の人の性格みたいよ!」
君のはこだわりとはちょっと違うけどね、と心の中で彼女に言った。
「ふーん、そうなんだ」と、圭介はあんまり納得していない様子だった。「じゃあさ、俺は何型っぽい?」
「圭介は簡単だよ」彼女は笑いながらそう言った。圭介はその笑いに少しふてくされている。
「何でだよ」
「B型でしょ」
「な、」当たっていたらしく、予期せず、的中された圭介は言葉を失っていた。そして何とか言葉を絞り出して、「何でだよ。何で分かったんだよ」と彼女に問い詰める。
「マイペースだから」探偵が犯人を示すように彼女は言った。「B型ってマイペースな人が多いんだって。あんたマイペースじゃん?だから分かったのよ」そう言って彼女は僕らの元から去って行った。
圭介は血液型を与えられた驚きと、マイペースと言われたことに固まっていた。目線は一点を見つめていて、口はポカンと開いている。
「まあマイペースって悪口じゃないし」と、微妙なフォローをする。
それでも落ち込んでいる圭介に、かける言葉が見つからず、というより何故そこまで落ち込むことが出来るのか疑問に思った。
「なあ卓郎。血液型って、血を固まらせる種類が違うってだけなんだよな?」
「ああ、そうだね」昨日話したことを、圭介は覚えていたみたいだ。
「そんなんで性格なんか決まるもんなのか?」圭介は落ち込んでいると言うよりかは悔しそうだった。
「どうだろうね」本当に分からなかったので、僕は曖昧に返事をした。
「俺はそんなんじゃ決まらないと思うぞ!絶対に!」強い口調で圭介はそう言った。
僕も、凝集素や凝集原の違いで性格が決まるとは思えなかった。でも、と思う。
「でも、例えば几帳面な人にはA型の人が多いとかさ、そうやって考える事は出来るんじゃない?生物学的にっていうよりかは統計的に、みたいな」
「なんだそれ」圭介は納得していないようだったが、そこで丁度、授業開始の鐘が鳴ったため、その話はそこで終わりになった。
僕が現代文の教科書とノートを出そうとした時、横から「そんなみんなが良いって言うから正しいみたいなのってありかよ」と言う声が聞こえて来た。
⑤
その日の現代文の授業は俳句についての勉強だった。
ノートを取る僕の横からはすーすーと寝息が聞こえてくる。
圭介は、授業開始十分後には既に寝ていた。また僕がノートを見せるのか、と呆れながらも、次は何を奢ってもらおうと考えながら僕は黒板の文字を写した。
現代文の教師はやはり国語が好きらしく、俳句について語るその一言一言には熱がこもっていた。反して生徒たちには熱が無く、無機質にただ淡々と時間が過ぎるのを待っている様子だった。
僕もその一人で、窓の方を眺め、訳も無く今日の天候を気にした。昨日とは違い、暗く重たい雲が空を覆っている今日は、見ているだけでいかにも寒いという事が分かった。
この教室だけでなく、空さえも冷えている。そんな感じだ。
唯一熱が入っている先生は、誰も聞いていないと分かりつつも、その熱弁を全く止めないでいた。
黒板に書かれている俳句は、有名な俳句だ。
『咳をしても一人』
尾崎放哉の有名な、自由律俳句と呼ばれるものらしい。
俳句と聞くと、五七五を思い浮かべてしまうので、この俳句は相当の印象があり、僕はノートに取りながらもう既にそれを暗記してしまっていた。
「尾崎放哉の自由律俳句と言えばこれが一番有名だが、私としてはこちらの俳句の方が好きだ。テストには出さないが、教養として覚えておくように」と先生はチョークを手にして黒板にその俳句を書きだした。
この教師の「テストに出さない」は「テストに出すぞ」という意味であることは、僕を含めて生徒全員が知っていたので一斉にノートを取る準備をした。
静まり返った教室に、チョークが黒板に当たるカッカッという乾いた音だけがリズミカルに響く。
先生は書き終えると僕らの方に向き直した。「いいか、これだ。しっかり写しておくように」
黒板には、男性の字とは思えない、しかし国語の教師らしい綺麗な字で、一つの俳句が書かれていた。
『入れるものがない両手で受ける』
また五七五じゃない、と僕は思いながらそれをノートに書いた。
「これはな、」と先生が話し始めたので、一回書いている手を止めた。横にいる圭介は変わらず寝続けていた。
「これはな、晩年の放哉がお金も常時無く、食べるものも無いときに書かれたものでな、ある時施しものを受けることになった放哉は、それを入れるものが無かったのだ。でもそうやっていただけるものをいただくってことも相手のためでもあるから、何もないことを言い訳にしながらも両手を差し出したのだ。その両手で、直に硬さや重さを感じることで、物理的に人の優しさを感ずることで、精いっぱいの感謝の気持ちを伝えようとしたわけだ」
両手で受け取る。それが感謝の意味なら、昨日の圭介のあのノートせがむ姿勢も感謝の念のこもったものだったんだな、と思った。
物理的な重み。体現できない、感じられない人の心の重み、気持ちの重量を、そうして物体の重さから両手で感じようとしたのか。
片手ではない、両手という所に感謝が表れているんだな、と思いながらさっき途中までしか書けていなかった黒板の文字の続きを書く。
「だけどな、私はこの俳句を全く別の解釈をして理解している。その解釈もあって私はこの俳句が好きなのだ」
書き終えた直後に先生はそう言った。もう既に、さっき聞いた話も大体メモしたのに、まだ書くことがあるのか、と僕は肩を落とす。
「これはな、現代の私たちへのメッセージだと思うのだ」先生は軽く、しかし音が鳴る程度に、平手で黒板を叩いた。
「私たちは昔の人たちの苦労を知らない。私たちは戦争というものを知らない。そんな私たちは、これから脈々と、次世代に戦争の苦しみや恐怖を伝えていかなければならないのだ。それは、世界で唯一原子爆弾が投下された国として。その国民として」
急に出て来た“戦争”という言葉に、教室の誰もが顔を強張らせた。
何人かは、何を急にそんな事を喋っているのだと怒っているのかもしれない。
僕は不意なその言葉に拍子抜けしていた。唖然としていた。
「いいか、戦後七十年が経って、当時のことを経験した人間なんてもうほとんどいないんだ。こうやって君たちに戦争について語る者たちはせいぜい四十代だ。私だってそうだ。戦争を知らない者が、戦争を知らない者に戦争の恐怖を伝えるのだ。経験がない中で、そうやって恐怖を想像して、悲劇を想像して、次世代へと今度は君たちが伝えていくのだ」
教室の数人が、この熱弁に飽きて、黒板の上にある時計を確認する。
「言わば、君たちは全く経験のない、そんな入れ物の無い状態で、戦時中の無念や恐怖、そういった人間の感情を重りとして受けなければならないんだ。君たちは、そんな重さを感じていかなければならないのだ」
先生がそこまで言ったところで、授業終了の鐘が鳴った。
先生の熱は冷め、生徒たちの顔には生気が満ちていく。
日直が合図をして礼をすると、先生は荷物を持って、黒板に尾崎放哉の俳句を残して去って行った。
「はー」と圭介が大きな欠伸をしながら起きた。「あれ、もしかして終わった?授業」と呑気なことを言っている。
「終わったよ」と言いながら、僕は現代文の教科書とノートをしまった。
思いがけず、さっきまでこの教室で響いていた先生の声は、ノートに書いていないにも関わらず、何故か僕の頭の中に残っていた。
⑥
その後の授業は、いつも通り飄々と過ぎていった。
特に印象深いものなんてなく、それどころか、午後の英語の授業に少し苦戦したことで、僕の頭の中から午前の授業の内容なんてすっかり抜けてしまっていた。
微かに覚えている俳句のことも、最早それは誰によって謳われたものなのかすら曖昧になってしまっていた。
圭介に至っては、午前の記憶がほとんど無いといった状態だった。
僕が見た限りでは、起きていた時間より寝ていた時間の方がはるかに長い。
窓ガラスからは光が入ってきていない。ただそこには薄暗がりが存在していた。雨が降り出しそうで降らないどっちつかずなその天気は、今現在の僕らの立場を表しているようでもある。
大人ではないが、子どもでもない。
曇り空の様な僕らには、黒々とした、雨雲の様な未来が待っているような気がした。
学校で行っている勉強は、雲間から覗く光でも雨を遮る傘でも無く、手段でも希望でも無い。何でもない。
ただ、そこに存在する石ころの様なものばかりだ。
大人はそれらを拾って歩けと言うけれども、僕らは既に気が重いというのに、これ以上の重しを抱えたくないと、それらを避けて忌み嫌う。
真面目な人間か、それとも何も考えていないロボットの様な人間は機械的にそれら石ころを拾っては満足げにしている。手には抱えきれない重さを背負って、背中を丸めている。
僕はそうはなりたくなくて、でもその他にすることもないから、とりあえず軽そうな石を大人に怒られない程度に拾う振りをして、抜け道を探している。
途方もない、この暗がりから、目を背けられるような道を探している。
「卓郎!」圭介の声ではっとする。「どうした?窓の方見てぼーっとしちゃって」
「何でも無い」と平静を装って、机の中の教科書類を鞄の中に入れる。「というか、今日はどうするの?またどこかで勉強していく?」
「あ、そうそう。そのことなんだけどさ」手を合わせて申し訳なさそうにしている圭介。「今日はちょっと部活の方に行かなきゃいけなくてさ、勉強出来ないんだわ。すまん」
「いや、いいよ全然」
部活に入っていない僕はそういったことが無いため、圭介が一緒に帰れないといったことは結構あった。
そのことで別に腹を立てることもない。
「本当にごめんな。また今度奢るから」
「いいって別に、そこまでしなくて」
「いや、そうじゃなくてさ」圭介が何かを言いにくそうにして下を向く。何故そこまで申し訳なさそうにしているのかと、僕は不思議に思う。
「何?」
「いや、またノートを写させて欲しいんだ」照れ笑いしながら、圭介はそう言った。
「またか」ため息が出る。「なんだそういうことか」と。
「別に構わないけど、だったら授業中寝なきゃいいのに」
「いやー、昨日も卓郎のノートを夜遅くまで写してたんだけどさ、そのせいで今日寝不足になっちゃったんだよね」
「そんなの、」本末転倒じゃないか。授業中寝ていた分頑張って、また授業中に寝ていたんじゃ全くもって意味がない。
「とにかくさ、頼むよ。な?」
それでも、必死になって頭を下げてくる圭介を無下には出来ず、「いいよ」と僕は承諾してしまう。
「そっか!ありがとう卓郎!最高!」と、圭介の顔が、窓の外とは正反対に輝いて晴れていった。
「じゃあまた今度、部活の無い日にノート見せてくれよ。頼むな」と言って圭介が部活に向かおうと、教室の出口にかけて行こうとする。
僕も「じゃあね」と言おうとしたところで、圭介が「あ!」と言うので、僕はその言葉を飲み込んだ。
「何?」
「卓郎さ、あのゲームやってる?」
「ゲーム?」と反射的に聞き返すが、「ああ、ゲームね」とすぐに理解した。
「やってるよ」
「どうだった?」同意や共感を求める目を圭介は向けてくる。
「楽しかったよ。圭介がハマる理由も分かった」素直にそう、僕は言う。
「だろ!楽しいよな、あれ」と、圭介は子どもの様にはしゃいでいる。
誰しも、共感されることは嬉しいだろう。誰もが、自分と共感できる人間を探している。それは自分自身も然り。だからこそ、誰かと出会ったら、まずは共感してあげようとすべきだと僕は思う。
「卓郎今何ポイントぐらい溜まった?」
「え、どうだろう」覚えていなかったので、スマホを取り出してゲームを作動させる。
昨日圭介と別れてから結構やっていたので、僕としては多くポイントを稼いでいた気がしていた。
「えっとね、500ポイントだ」画面右上に表示されている数字を、僕は読み上げる。
それを聞いた圭介は得意げな顔をしていた。
「なんだ、卓郎もまだまだだな」わざとらしく、両の手の平を天井に向けてくる。
「じゃあ圭介は何ポイントなのさ」僕はその仕草に少しむっとして、ムキになって聞く。
「俺は1200ポイントだ」と満足げ圭介が言う。「半分以上の差があるな」と笑っている。
どうでもいいことではあったが、何となくそれが悔しかった。
圭介は笑いながら「じゃあな、頑張れよ」と言って教室から去っていく。
ムキになっていた僕は「じゃあね」とは言えず、圭介が部活に行っている間に圭介のポイントを追い抜いてやろうと、一人意気込んでいた。
今日の授業のことなんて、ほとんど頭から消えていた。
⑦
学校から家へ帰るまでの道には何もなかった。
昨日の様に寄り道をするわけでも無く、昨日と同じく駅前には選挙カーから政治家が何かを話していた。
僕らの耳に届く声とは、若者に対して響く声とは一体何なんだろう。
僕がもし、僕のクラスメートに何かを伝えたいと思った時に、いったい何人の人が耳を傾けてくれるのか、僕は何人の興味を引き付けることが出来るのか。
人の心を引き付ける何かはどんなものだろうか。
今日の現代文にしたって、先生の話は生徒の心を引き付けられてはいなかった。選挙カーからの声だって、街行く人々の足を止めることは出来ていない。
結局僕らの、みんなの興味は自分たちの半径五メートル程にしかない気がする。
だからテレビで放映されているニュースだって、大半の人が聞き流しているだろうし、むしろ見てすらいない。
殺人事件を見て「可哀想」だとか「これは酷い」と言ったって、心のどこかじゃ他人事だと理解している。
同情にも、限度がある。他人を思いやるのにも、限りがある。
それでも、だからといってそれらをしなかったら何かが終る気がする。
人として、何かが足りない気がしてしまう。不安になる。
だからこそ、僕は自分が人であることを、その唯一の自信を無くしてしまわない様に、僕に関わる人への思いやりだけはせめてしなければならないと思う。
でも、なのに、僕の近くにはないものまでには、その思いやりや同情が届かせられない。
テレビから流れるニュースは、僕とは何も関係の無いものにしか感じられない。
地球温暖化。異国の紛争。不況。交通事故。
僕らは画面から情報や映像を見ることに慣れ過ぎて、そこからリアルを感じることが出来なくなってしまった。
無駄に線引きが上手くなってしまった。
水は水道から垂れ流し続けるし、異国の文化や宗教だって理解しようとは思わない。もしそうやって宗教を理解しようなんて誰もが考えていたら、クリスマスの後にすぐ元旦を楽しみにして、初詣を家族や友人たちと行こうとするだろうか?
誰かがニュースを見て、「自分も他人事じゃないな。気を付けよう」と思えば、そもそも交通事故なんて起こらないんじゃないだろうか。
結局みんな、想像力が欠けている。自分は平気、自分とは関係ないと考えているのだと思う。
僕らの注意は僕らの周りにしか存在しえない。
帰りの電車の揺れに身を委ねて、左右に身体を動かす。
つり革も僕と同じく揺れていて、それを眺めていたからだろうか、スーツ姿の男性が立ったまま寝ている。
催眠術の類だ、この電車の揺れは。
電車の窓から見られる景色はどこか奇妙で僕は好きだった。近くの様子は電車の動きと同じく素早く後方へと流れていくのに、遠くの方を見るとゆったりと景色が流れている。
まるで電車の中にいる人たちだけが何かに追われて急かしているようで、他の世界はのんびりと、時間の流れそのままに過ごしている様な、そんなあべこべな感じが何とも言えず、僕は好きだ。
山川草木。
時の流れに身を任すその様子を、そう言うらしい。何となく、心地いい。
地元の駅について、電車をおり、改札を抜けて徒歩で十分程の場所に僕の家はある。
僕の家はマンションで、よく他の住民の方から挨拶をされるのだが、学校から帰って来た時に「おかえり」と言われるとどうにも僕は戸惑ってしまう。
今日も僕は、十分歩いてマンションにたどり着いたわけだが、そこで「おかえり」と他の住民の人から挨拶された。
「ただいま」と言いかけて、しかしまだ家の中には入ってはいないのだから、この言葉の意味合いとして、使い方としてはどうなんだろうと考えてしまい、結果「こんにちは」と絞り出すように言った。
「おかえり」に「こんにちは」と返す、言葉のキャッチボールの失敗にもどかしさを感じながら、僕は自分の家へと足を進める。
家の扉は鍵がかかっていて、僕以外誰も帰っていないことが分かった。
鍵を開けて中に入る。「ただいま」と言うが返事がないので、やはり誰も帰って来ていないようだ。
誰もいない、無音な空間が苦手なので、テレビを反射的につける。機械の様に話す、ニュースキャスターの声が家の中に響くが、無音よりかはましなので番組はそのままにしておく。
ネクタイを外して、首元を楽にしてからソファーに座る。
テレビには目を向けず、ポケットから取り出した小さな電化製品の画面に目を向ける。無意識にゲームを作動させた。
圭介に帰り際、挑発をされたからというわけでは無かったが、それでもやっぱり悔しかったので、今日はゲームでポイント稼ぎをしようと思った。
操作にもだんだん慣れて来て、武器もポイントを無駄遣いしない様にしつつ強そうな銃を手に入れて使用していた。
僕は割とシューティングゲームは苦手だったが、標準を合わせてボタンさえ押せば敵の兵士に攻撃されることなく、先に相手の兵士を殺すことが出来てしまう。
その内に勝手にポイントが得られている。
そうしたゲームの設定が、ゲームでの成果がポイントで得られることが、僕にとってはハマる要点だった。
一時間、夢中になってやって、ポイントは1000まで貯めることが出来た。圭介のポイントまで迫ってきたことに満足感を得たため、自然と僕は笑顔になってしまう。
あと少し、ゲームを続ければもっとポイントが稼げると思い、僕は少し伸びをしてから再びスマホの画面と向き合った。
外はさらに暗がりを増して、僕が帰ってくる時よりも暗闇は深くなっていた。
ゲームの中でも、戦闘中の背景が少し日が欠けてきているような描写になってきた。
明るい状態での戦闘は敵も発見しやすく、シューティングが苦手な僕にも出来るのだが、暗くなった状態では敵を確認しづらく、敵を倒す数も減って来て、また自分がやられてしまうことが多くなってくるので、僕はゲームを止めた。
気付けば夜の八時で、帰って来てから二時間も夢中でやっていたことになる。
母が仕事を終えて帰ってきた。もうそんな時間であることに少し焦る。
「なに、まだ制服着たままなの」と注意をされてしまったので足早に、荷物を持って自分の部屋へと入っていった。
十一月末に試験があるのに、夢中になり過ぎるのも駄目だな、と僕は自分自身を戒めた。
その後は一切ゲームをせず、父が帰って来てから夕飯を食べて風呂に入り、翌日の教科の予習をしてから、僕はベッドに入り寝た。
寝てから二時間後の深夜の二時に圭介から、「卓郎、お前今何ポイント?俺はついに2000ポイントになったぞ!」という連絡が来て目を覚ましたが、それに対して反応するよりも眠りたいという欲が勝ったので、僕はそのまま目を閉じた。
⑧
数日間、僕と圭介の日常はまた、たわいもない日々が続いた。
あれから僕らゲームはしないでいた。
全くしない、という事は無く、期末試験に向けての日々の退屈さを紛らわせる為に少しだけゲームを行ったりはした。
つまらない、教科書に中の活字やノートにある自分たちで書いた字を眺めていても何も感じることはなく、ただ覚えなければいけないという使命感と、試験で悪い点数をとってしまってはいけないという焦燥感だけが僕らを動かしていた。
選挙カーからの声も、ニュースキャスターの声も、僕ら学生にはより一層届かなくなっていた。
しかし、逆に教師の声はより一層僕らの耳に、脳に入ってきた。やはりそれも、使命感と焦燥感からなのだと思う。
あれだけ授業中に寝ていた圭介も、試験二週間前になってくると起きている様になった。それまでの授業内容が書かれたノートも、僕や部活の友人に頼み込んで何とか全てコピーをして勉強したらしい。
それらを覚えるために夜更かしをしても、授業中は寝ない様に眠気覚ましのタブレットを食べたりして起きているように努めていた。
そんなに頑張れるのなら、普段から起きていればいいのに、と僕は呆れながらその様子を見ている。
それでも、いよいよ僕らの試験が五日後に迫って来たと言う日、日本史の授業で圭介は寝てしまった。
授業前、「俺、どうしても日本史の授業って苦手なんだよな。絶対寝ちまう」と圭介は言っていた。
「生物に現代文、そして今度は日本史って。圭介寝ちゃう教科どれだけあんのさ」
「いや、数学みたいに考える授業は寝ないって。得意だし」圭介は詰め寄る様に僕に言う。「とりあえず先生の話を聞いて、ノートに黒板の文字を写すだけの作業的な授業って言うの?そういうのが苦手なんだよなー」
「でも流石に試験五日前だよ?寝たら大変だと思うよ」
「そこなんだよなー」圭介は心底困っているという表情をした。手を挙げ、まさに「お手上げ!」と言ったポーズをとった。
分かっているのなら、なんとか起きていようとすればいいのにと僕は思うが、多分圭介はこう僕に報告することで、暗に「後でノートを見せてほしい」と言っているのだと僕は解釈している。
「あ、そうだ!」何かを思いついた様子の圭介は、手を思い切り叩く。休み時間で騒がしい教室に、その叩いたパンッという音が響き、何人かがこちらの方を見る。
恥ずかしくて、僕は目線を下にする。
「卓郎!もし俺が授業中寝てたらビンタしてくれよ。この辺を、今みたく平手でさ」圭介は自分の左頬を指で指し示す。
「嫌だよ」強く僕は否定する。
騒がしい今でさえ音があんなにも響いたというのに、授業中の静寂の中で今みたいな音を出したら、僕は羞恥心で身を滅ぼしてしまう。
「だいたい僕も圭介も座ってるのに、どうやってビンタするんだよ」僕は座ったままの姿勢から圭介に向けて腕を振る。手は空を切る。
「ほら、届かないじゃないか」
「そこは卓郎が立ってだな」と圭介が言うので、「そんなことしたら僕が怒られるじゃないか」と文句を言った。
やがて授業開始の鐘が鳴り、「ちぇっ、冷たいな」と圭介はふて腐れた。
そして日本史の授業が始まって二十分後、タブレットを食べつつ頑張ってはいたが、圭介は今僕の横で寝息を立てていた。
勿論、ビンタはしない。
日本史の先生は黒板に年表を書き、そこに書かれている出来事の説明を話した。
生徒はみな、年表とその説明を黒板に書き写していく。
第二次世界大戦。僕らが生まれる昔の話だが、土偶や幕府よりかは身近に感じて頭に入って来やすい。
しかしそれでも、教科書の挿絵や先生の話からそれらの情景をイメージすることは難しく、知識や教養としてそれらを取り入れることは出来ても、事実としてそれを感じていくことは僕には出来なかった。
それ以降の、例えば白黒テレビについての話だって、僕らにとっては無関係で想像は出来ず、「昔の人は大変だったんだな」と何となくで、そして一般的な感想しか出てこなかった。
「いいかお前たち。ここに書いてあることは全部試験に出すぞ」
先生がそう言うので、とりあえず蛍光ペンでノートの文字をなぞる。ここ大切、と横に文字を書き足すが、それは試験に向けて“大切”と言う意味で、それ以上は無い。
見た目での判断だけど、おそらく三十代くらいであるあの日本史の先生も、受験に向けてそれが“大切”と言っているのだろう。
誰も生きていく上で、とは思っていないのではないんだろうか。
やがて時間はゆったりと流れて行き、授業は終わった。
またも修了の鐘と共に、伸びをしながら圭介は起きた。
「あー!寝ちまったよ!」と後悔の表情を露わにし、「何で起こしてくんねーだよ!」と僕に泣きついて来た。
僕は「起こしたよ。言われた通り一回ビンタしたけど、圭介起きないんだもん」と、しれっと嘘をついた。
圭介は「まじかー!」と自分の頬を何度か自分で叩き、「感覚変になったのかな?」と自分の事を疑った。
大丈夫、どこもおかしくないよ、とは言わず「そうなんじゃない?」と適当なことを言った。
日本史の教科書とノートを机にしまう。
試験前の退屈な日々は、いやむしろいつもと同じ退屈な毎日が崩れることはなく、窓から見える昼の太陽の真っ白な光でさえ、陳腐でまぶしさを感じられなくなっていた。
目先の試験の為だけに何となく勉強する、退屈な日々はずっと続いている。
ゲームでもするか、とポケットからスマホを取り出す。ゲームをしている時の少しのワクワク感だけが、今の僕にとっての、退屈さを埋めるものだった。
圭介に「ポイントどれくらい溜まった?」と聞こうとして圭介の方を見るが、寝ていたことに悔やんで、まだ自分の頬を叩いていたので止めた。
ゲームを作動させて、敵兵を撃つ。
⑨
試験一日目。一番初めが英語の試験だったため、気分は最悪だった。
少しでも得意な教科から行っていれば、気持ちに余裕が生まれたのだが、英語を初めに行ってしまったため、それ以降の試験を行っても英語での後悔ちらついて集中出来ないでいた。
それでも何とか一日目の教科は乗り越え、午前で学校が終わったため、翌日の試験科目を勉強するために僕は早目に家に帰ろうとした。
他のみんなも、足早に教室を出ていく。
圭介も「卓郎、一緒に帰ろうぜ」と言ってくるが、流石に寄り道をしようとは言ってこなかった。
僕らはどちらも、誰かと一緒に勉強できるタイプでは無かったので、何処かで勉強していくという選択肢は無かった。
談笑しながら、僕らは駅へと歩いていく。
「そういや最近選挙カー見ないな」
駅が近くなってきてから、圭介が言った。
「確かにそうだね」僕もあの騒がしい声が聞こえてこないことでそれに気付く。
最近は試験のことで頭がいっぱいだったため、選挙カーが駅から姿を消していた事さえも、僕は分からなかった。
「じゃあ選挙が終わったってことなのかな?」静かになった、昼間で人通りの少ない駅前を遠目に、僕は聞く。「アメリカがどうのこうのって言ってた気がするけど」
「さあ、終わったんじゃね?」ぶっきらぼうに圭介は答える。「まず選挙だったのかも知らないけど」
「適当だなあ」僕は笑う。
「まあとりあえず、ようやく俺らの街に平和が戻ってきたってことでいいじゃん?」満足そうに、圭介も笑うので、「そうだね」と返す。
静まり返っているおかげで、鳥の鳴き声とバスや車の音だけが聞こえる駅前を歩いて、駅構内へと入っていく。
改札を抜けて、圭介と僕は別々のホームへと上がって行った。
帰り道の電車の中ではノートを開いて、覚えるべき個所を赤シートで隠して確認していた。
自由律俳句を書いた人は?
「尾崎放哉」
その人の代表作は?
「咳をしても一人」
日本が敗戦した大戦
「第二次世界大戦」
心の中で唱え、またそれらの詳しい説明も頭の中でした。
気付けば駅に着いていたのでノートを鞄にしまい、それを持って電車を降りる。
家に帰ると、僕以外の誰もまだ帰っていなかった。無音な空間がそこにあったので、やはりテレビをつけて音をそこに作り出す。
単調なニュースキャスターの口調は、様々なニュースをいつも通り無機質に伝えている。
それらの内容など全く聞かず、僕はまたノートを開いて確認作業を行う。
残念ながら、僕の興味はこの目の届く先しかない。
やがて母と父が帰って来て、夕飯を食べ、風呂に入り、最後の確認を終えて僕はベッドへと向かって行く。
少しだけ、スマホを開くと、圭介から「お前今何ポイント?」とゲームの進行状況を訊いてくるメッセージが届いていたので、ゲームを作動させてポイントを確認してから、「1980ポイントだったよ」とだけ書いて送った。
すぐに圭介から返信が返ってくるが、それが自分の方が上だという自慢であることが直感的に分かったので、見ないで寝る事にした。
試験中に呑気なもんだ、と呆れる。
⑩
翌日、起きてからすぐに昨日確認した内容を頭の中で反芻した。
そうやって何度も確認を行ったからか、試験二日目の出来は上々だった。
それ以降の試験も順調で、初日の英語の失敗も忘れて、僕の気分はなかなか良い感じになっていた。
そして試験最終日。
前日に確認作業を何回もやっていたので、その日の試験にも自信があった。
洗面所で顔を洗い、目を覚ましてから用意されている朝食を食べる。やはり、味はあんまり感じることが出来ない。
「ねえ、卓郎?」いつもは朝あまり話しかけてこない母が、その日は話しかけて来た。
「なに?」白米を口に詰め込みながら答える。
「なんかニュースで見たんだけどね、何とかってゲームが怪しいらしいのよ」
「なんとかって何さ?」お茶で口の中の白米を流し込む。「怪しいって、ハマっちゃってお金を沢山かけちゃうとか?」
「うーん、そんな感じゃなかったんだけど」母の知識はどうやら曖昧でおぼろげなようだった。
「大丈夫だって。僕は無料のやつしかやらないし、試験前にそういうのばかりして勉強をおろそかにしたりしないから」
おそらく母が気にしているであろうことを察知して、安心を与えようとした。
大人が気にするのは、勉強しているかの事だけだろうと僕は思っている。
「そう?ならいいんだけど」と、母もそれ以上は追及してこなかった。
「うん、平気」と答え、「ごちそう様」と言って食器を台所に戻す。
歯磨きをして、制服を着て、僕は学校へと向かった。
「いってきます」と言う声に、「いってらっしゃい」と母が返すのが聞こえた。
行きの電車の中でもノートを広げ確認を行った。
駅から学校へと向かい、教室の中に入ると、既に圭介が来ていた。
「おはよう。圭介にしては朝早いね」と言いながら圭介の顔を見ると、明らかに慌てている表情をしていた。
もしかしてと思いながらも、「どうしたの?」と圭介に訊くと案の定「ゲームをやり過ぎて今日の教科全然勉強してない」と、教科書にかじりついてこちらも見ないでそう言った。
「何で今日の試験終るまで我慢できなかったの」と呆れながら言うと、「ちょっとのつもりだったんだよ。そしたら二時間もやっちゃって」と半ベソをかきながらそう言った。
「もう運に頼るしかないね」と僕は言い、席について自分自身の確認を行った。
やがて試験官の先生がやって来て、筆記用具以外はしまうように指示する。
圭介はこの世の終わりの様な顔をしていて、僕はそれを横目に少し笑ってしまう。
テスト用紙が前から流れるように回ってくる。
何となく窓の方を見ると、朝らしい綺麗で穏やかな日が教室に差し込んできていた。
目の前の試験とこの綺麗な朝日を見ていたら、その他の事なんか頭に入ってこないし浮かんでもこないなと僕は思った。
前から来たテスト用紙を受け取り、さらに後ろの人へと渡す。
そこから少し待って試験開始の合図が出され、皆が一斉に試験に取り掛かる。
カサッという、紙をひっくり返す音があちこちから聞こえてくる。
試験最終日、最終科目の現代文が終り、僕らは安堵の息を吐く。
この先僕らを待っているのは長期休みなので、クラス皆の口元が自然と緩む。
圭介も、先程まで絶望した顔をしていたが、今は笑顔で女子と話している。
僕も肩の荷が下りて、安心していた。大きく、その場で伸びをする。
「卓郎、冬休みは何する?」笑顔で圭介は喋る。「スノボとか行きたいよな」
「冬休みって、一週間採点休みがあるだけでまだ授業はあるよ?」
僕らの学校には採点休みなるものがあり、先生たちが生徒のテストを採点するために、授業は休みにするという、生徒である僕らからすればこの上なく喜ばしいことだった。
「試験が終わったんだぜ?もう授業なんてあってないようなものだろ」伸びをして欠伸をしながら、圭介はそう言った。大口を開けて言うため、所々言葉が明確に聞き取れるものではなくなっていた。
「そうやって気を抜くから、試験前になって慌てるんだよ」
「そういうこと言うなよ。てか、試験なんて乗り切ったもん勝ちじゃん」
ついさっきまで教科書にしがみついていた圭介の姿を思い浮かべ、果たしてあれが乗り切れた人間の姿だろうか、と疑問に思う。
しかし、試験の結果がどうであれ、一つ山場を越えたという安心感がやはり僕にもあり、圭介が言う様にこの先の授業に対して集中出来る気はあまりしない。
それはクラス全体の雰囲気からも。
そんな安心しきった、穏やかな教室に、この正に“平和”を体現しているこの部屋に、突如雷が落ちたような声が鳴った。
その声は僕の苗字をはっきりと唱えていた。声の主は僕らの担任教師で、その声は教室の前の扉から発せられていた。
「ちょっと来い」と、今度は静かな声で言われる。先程の雷で静まり返った教室には、それで充分僕の元に届いた。
困惑しながらも、「はい」と返事をして、後ろの扉から廊下に出て担任の元へと向かう。
おそらく困惑と不安から、返事は震えていたと思う。
しかし、怒られるようなことは何も身に覚えがないため、これが別に大したことではないだろうという期待も、心の何処かにはあった。
いや、むしろそう願っていた。これは大したことじゃないんだ、と。自己暗示していた。
「ついて来い」と担任は言い歩き出す。僕は無言でその背中を追いかけた。
窓からは温かな光が入ってきているのに、僕は何故だかとても寒い。気付けば身体全体が震えていた。
足元がおぼつかない。歩いているが、浮いているような気分。
そもそも僕の足はちゃんと地面を触っているのか、と足元に目線をやると、何とか僕は地面に足をつけていた。
しかし、足元を見るその動作で前につんのめって転んでしまいそうになってしまうくらい、その足取りは不安定だった。
担任の足取りは飄々としていて、僕の心配はお構いなしといった感じだった。
やがて担任は部屋の前で足を止める。
てっきり職員室に行くとばかり考えていた僕だったが、その部屋は職員室の隣にある、校長室だった。
不安はいよいよ、目に見えて分かるほど大きくなっていた。
汗が額から垂れ、心臓も耳から聞こえることが出来るくらい大きく脈を打っていた。
「大丈夫か。入るぞ」とろくすっぽ僕の方を見ないで、担任は中に入ろうとする。
大丈夫なわけがない。何も身に覚えがないのに、唐突に何か罪を押し付けられているような恐怖と不安。
勿論、カンニングなんてことは身に覚えがない。
僕が何故、普段関わりを決して持つことのない校長室に、しかも担任に叫ばれて呼び出されている。
言いようのない気持ちを抱えたまま、担任が「失礼します」と言って開けた扉の中へと足を踏み入れる。
駄目だ。瞬時にそう感じる。
駄目、とは僕の人生に対しての諦めか否定か。何故そう感じたのか。
理由は簡単だった。そこには制服姿の警察官が二人いたからだ。
背筋をピンッとした、正義の象徴ともいえる姿をした男性が二人、担任と校長先生の前に立っていた。
何もしていない。その確信は大きく揺らいだ。
自転車に乗っていて、特に何もしていなくても、警察官の横を通り過ぎる時には何故だか緊張してしまう様な、そんな気持ち。
それに合わせて、今は突然担任に校長室へ連れてこられたという状況が加わっている。
不安が大きくなっていくのは当然だ。
二人の内、年配の警察官の方が僕のフルネームを呼ぶ。
「間違いないかな?」と確認されるので、「はい」と答える。
この後、僕は何を聞かれるのだろう。
拳には自然と力が入り、その実今こうして立っていることが不思議なくらいに、足には力が入らない。
「君に訊きたいことが一点だけあってね」と年配の警察官は帽子を被り直し、「ええと、」とメモらしき物を確認している。
担任と校長先生は僕の方を、少し心配した表情で見ている。僕は目線をどこに向ければいいのか分からない。
「おい、お前ちょっと説明してあげてくれないか?」と年配の警察官は、もう一人の若い警察官にメモを渡す。「どうにもこういう新しい物は苦手だ」とぶつぶつ言っている。
任された若い警察官は僕に「そんなに緊張しなくていいよ。訊きたいことがあるだけだから」と優しい口調で言った。
その声に少し緊張は緩んだが、それでも何を訊かれるのかと、不安はまだ大きなままだった。
「卓郎君、君はスマートフォンを持っているよね?」
「はい、持ってます」僕はポケットからスマホを出して、若い警察官に見せる。
「最近、何か新しいアプリをインストールしなかった?」それを指さしながら、若い警察官は僕に訊く。
少し考えて、圭介に勧められて入れたゲームが思い浮かんだので「はい」と答えた。
「入れました」
「それって、何かのゲームだったりする?」若い警察官の顔が険しくなる。「例えば、シューティングゲームみたいな。兵士になって敵兵士を倒すゲームみたいな」
「はい。そんなゲームですけど」
僕はゲーム画面を見せる。
黒い背景に、白い文字でBWと書かれている画面だ。
その画面を見るや否や、若い警察官は「ちょっと貸してね」と僕のスマホを僕の手から取り、それを年配の警察官に見せる。
年配の警察官はそれを見て大きく息を吐く。「やっぱりか」と小さく言った。
僕のスマホを持ったまま、若い警察官は僕の方を向き直し、小さく息を吐いてから僕に説明をしてくれた。
「君、これが違法のゲームアプリだってことは知ってた?」
「いいえ、知らなかったです」
「最近発覚したことなんだけどね、これはある団体が違法で作ったゲームなんだ」
「違法、」不意に聞かされた言葉を、僕はただ無機質に反芻するしかなかった。
言いながら、奥歯を噛む。
「あ、違法って言うのは、別にこれをインストールすること自体は違法ではなくて、罪に問われることではないんだけどね」
違法、という言葉に顔を歪めた僕に、若い警察官はそう訂正してくれた。
「ただね、このゲーム作った団体っていうのが厄介なものでね」
僕の安心した顔を見ながら、申し訳なさそうに警察官は続ける。
「厄介?」意味が分からず、僕は尋ねる。
とりあえず、先程までの大きな不安は少しだけ小さくなったようで、疑問をぶつけることが出来る程の余裕は生まれていた。
「テレビでニュースとかって見るかな?」そう聞かれ、僕は首を横に振った。
「ここ一ヶ月くらいかな。アメリカのある小さな団体が暴動を起こしていたんだよ。他国の、特にロシアに対してなんだけど、思想がどうのって随分と攻撃的な態度を示していたんだ」
「そうなんですか」最近は試験のことばかり考えていたし、そうでなくてもニュースの、そういった他の国の事になんて興味は無いので、その話を初めて聞いた。
「勿論暴動はすぐに対処されたんだけどね。一部の人たちがその団体の考えに賛同したんだ」
「一部の人たち?」
「アメリカの人たちもだけど、日本でも賛同する人が数人。それこそ政治家も肯定的な意見を言う人たちがいて、選挙中だって言うのにそんな無責任な発言をするのはどうなんだって非難される人たちも何人かいたんだよ」
非難。選挙。
とっさに、駅前の選挙カーのことを思い出す。あの人も確か、拡声器を使ってそんなことを言っていた気がする。あれは、そういう賛成派の意見を述べた人への非難だったのか。
「政治家だけじゃなくてね、次第に一般企業の社員の間でもそのアメリカの団体を擁護するような人たちが現れ始めて来たんだ」若い警察官はいくつか、僕でも知っているような企業の名前を挙げてくれた。
「なんでそんなにその団体の意見は賛同されていったんですか?」
「うーん、」と若い警察官は首を捻り、年配の警察官の方を見る。
それに気付いた年配の警察官は、「団体の主張がな、近年増加しているテロと結び付けたものだったんだよ。確証も無いのに、怪しいというだけの主張だったが、それでも完璧に否定の出来ないそれらの意見は、瞬く間に広がっていったんだ」と説明してくれた。
「そうなんですか」と僕は言い、軽く会釈をする。
ニュースを見てないのか、と言う担任の言葉に対し、責められている気がしたので、申し訳なくなって、軽く頭を下げて「はい」と小さく言う。
「それでね、ここからが君にも関わってくる大事なことなんだけど」
若い警察官は帽子を被り直す。
少しやわらんだ部屋の空気が、再び凍り付く。
僕に関わるとはどういうことだろう。足がまた震え出す。
「今言った団体擁護派の社員がいる企業の中に、ある自動車会社も入っているんだけど知っているかな?」
名前を聞くと、それを僕は知っていた。
「あの、最近ロボットを作ったって有名な会社ですよね?他の国からでも遠隔操作できるっていう」
「そう、その会社だ」若い警察官は相槌を打つ。
「その会社の団体擁護派の社員の一人が、実は無断で開発途中のそのロボットと設計データを持ち出して行方を暗ましていたことが最近分かったんだ」
「え、」僕は驚きが隠せない。
「会社はそれを隠して、無事開発が終ったことだけを公表したんだけど、あることが発覚してそれを隠し通すわけにはいかなくなり、つい数日前にそれを発表したんだよ」
「あること?」何となく、しかし少しずつ僕は、嫌なことを想像してしまう。
「その社員は、アメリカの団体にそれを渡したんだ。君がやっている、そのゲームを作った団体にね」
嫌な予感がする。でも、まだ確定ではない。いや、でもそれでも。
足の震えは大きくなっていく。
「団体は標的としていたロシアにそのロボットを大量に送り込んだんだ。大量の武器と共にね。現地を調査した人たちの話では、様々な種類の銃が用意されていたらしい」
まさか、そんな訳がない。
まだ僕は、自分の思い浮かべている最悪の事実を認めようとしないでいる。
「そしてその団体は、ロボットの操作をあるものに託したんだ」
若い警察官は僕の肩に手を置く。
僕の顔は、おそらく窓から覗ける空よりも青いに違いない。
「団体はこのゲームの中に、ロボットからの映像と、そのロボットを操作するコントロールシステムを組み込んだんだ。そうすることで、世界各国のこのゲームを遊ぶ人たちに、殺人を行わせていたんだよ」
僕が?僕が殺人を?
無意識による殺害を、急に僕は自覚させられている。
「君がやっているこのBWというゲームだ。君らプレイヤーは、全く気付かない内に、団体の勝手な思想に基づいた殺害を行わされていたんだ」
吐き気がした。目眩がした。僕が今、僕は何をしているのか。僕は。
周りの風景が激しく動いている。僕の近くにあるものが、罪の意識に追いかけられ、逃げるようにして動いている。
事実を既に知っていた担任と校長先生は、僕を憐れんだ目で見ている。
その目が僕には妬ましい。こっちを見るな、と振り払いたくなる。
若い警察官は手に持っている僕のスマホの画面に触れ、ゲームを作動させている。
見慣れた、いつも見て来た画面がそこにあった。
「右上にポイントが書かれているだろう」若い警察官は指を指して、画面を僕に見せてくる。
力なく、僕は頷く。
「これはね、」そこまで言い、若い警察官は言いづらそうにしたが、年配の警察官が「おい」と小さく言ったのを聞き、自分の本来の使命を思い出したかのようにまた口を開いた。
「これはね、君が殺した人数を表しているんだ。人数掛ける10がポイントとしてプレイヤーに与えられる。君の場合、1980ポイントだから、」
198人。
言われる前にすぐに出て来た。
これが僕の殺した人の数だ。
立っていられない。目を開けていられない。耳をふさぎたい。もう何も聞きたくない。
罪の重圧が、急に僕にのしかかってくる。この背中はこんなにも重かったのか。
膝が折れて、僕はその場で崩れ落ちるような気がした。
そんな僕を置き去りにして、遠くにある木々と日の光だけが、ゆらゆらといつも通り、ゆとりをもって揺らいでいた。
「先程も申し上げましたが、ゲームをインストールしたことは罪ではありません。また、このゲームをプレイしたからといって殺人罪に問われるといったこともありません」
年配の警察官が、僕の担任と校長先生に説明をしているのが聞こえる。
「むしろゲームのプレイヤーは被害者です。特にこの子の様に、子どもである立場の者には精神的にも大変辛いところがあるでしょう。その為、ゲームのサーバーから個々の携帯情報を調べ、我々警察が直接事実を伝えにきているのです」
大きなお世話だ、と怒りを覚える。
そんな業務の一環の作業で、僕の辛さなんて分かる訳がない。
僕が今抱いている、抱かされているこの気持ちは他の誰だって理解は出来ない。
ついさっきまで羽根の様に軽かったこの身体は重たく僕にのしかかってきている。
ああ、言いようのないこの気持ちは苦しみでしかない。無遠慮に、無関心に共感してくる言葉だけの台詞なんて僕の中には入ってこない。
「さて先生、それでは次はこの生徒を連れて来てください」
そう言って年配の警察官は圭介の名前を口にした。
はっとする。落ち込んで、闇の中にいた僕に、光が差し込んでくる。
圭介!そうだ!あいつがいる!
僕は圭介に言われてあのゲームを始めたんだ。圭介があんなに進めるから僕はこのゲームをインストールしたんだ。圭介が競おうって言うから僕はゲームを頑張ったんだ。
何より、僕より圭介の方が先にゲームをしてたじゃないか!
それに昨晩も圭介はゲームをしていたと言っていたし、圭介のポイントはずっと前から僕を越していたじゃないか。
何故だか少し気分が良くなってきたが、それでもまだ僕はふらついて吐き気がしたので、僕は手を挙げて警察官に言う。
「すいません、トイレに行って来てもいいですか?」
僕の心境と、顔色から判断したのか、二人の警察官も担任も快く承諾してくれた。
校長室から、廊下の一番奥にあるトイレへと向かって行く。
途中、僕のクラスを通り過ぎるので、教室の中を確認すると、僕の席の近くに座っている圭介がいなかった。
もしかしたら圭介もトイレに行ったんじゃないか?
そんな期待を持って、廊下の端にある男子トイレの扉を開けて中に入っていく。
いた。圭介は、洗面台の鏡の前で髪の毛をセットしていた。
「お、卓郎。戻って来てたのか」
僕の存在に気付いた圭介は、呑気にそう言った。
「ああ、さっきね」と僕は言う。
思いがけず口元が緩んでしまう。
「随分長い事いなかったけど、なんかあったのか?」圭介が鏡を見ながら言う。
「いいや、大したことじゃなかったよ」僕は平然と嘘をつく。
「ふーん、そっか」と、気の抜けた返事をする圭介。
鏡で僕の顔を見ると、青くは無く、むしろ陰があるように見えつつも、笑顔が作れていた。
良かった、僕は思い、良かった?と疑問に思う。
何が「良かった」なのだろう。
「あ、そういえばさ!」と突然大きな声を圭介が出すので、鏡から慌てて圭介の方に目線を戻す。
「何?」
「卓郎待ってる間にゲームしてたんだけどさ、なんか俺凄い武器見つけちゃって。またこれが使い心地が良くてやばいんだよ」
圭介は子どもの様に無邪気にはしゃいでいる。
無垢で、何にも気付いていない。平気で蟻を踏みつぶしてしまうような、そんな幼少期の、無責任で楽な心でいる。
罪の意識なんて、そこにはない。
笑ってしまう。
僕はそんな圭介の仕草を見ていると何故だか笑えてきてしまって、そんなまっさらな心をどうにかしてやりたいという衝動にかられてしまう。
真っ黒にしてやりたいと思う。
そんな僕をよそに、なおもはしゃぎ続ける圭介は僕に詰め寄る様にして話しかけてくる。
「なあ卓郎、」と、得意げな顔でいるので、僕はそれがどういった意図のものか理解し、「圭介」と言い、その先の言葉を言おうとする圭介の前に手を出して、発せられそうになっていた言葉を遮った。
突然の行動に言葉を飲み込んで、驚いた表情の圭介に、僕は笑顔で言った。
トイレの窓からは、明るい光が注ぎ込んでいる。
「お前、何人殺した?」
高校生の頃に書いて、友達にだけ見せていた小説を、この機会にと載せました。
ロシアとウクライナ。近い内に、本当に同じ様なことが起こるのでは?と、ビビっています。
何よりも怖いのは、知らず知らずのうちに、悪意も無く、誰かの悪意に賛同してしまう事なのではないか、と。