ある日突然、目の前に推しが現れまして。
私の夢と、希望をパンパンに、これでもかと込めたお話しです。何らかの“推し”がいる方は、一度くらい夢に見たシチュエーションなのではないかと、勝手に同族意識を持っています(笑)
推しのおかげで生活が潤っているのだから、他人からどういわれても関係ないというのが持論です。「私は、私」と強く生きる事がオタクなのかなと。楽しいオタクのススメです。
それでも人と関わる以上、そして偏見が蔓延る場所で、それを通すのも簡単ではないなと思います。現に私自身、こうは言っていますが、そこまで大っぴらにしてないです、実は(笑)
だからもし、自分が夢みたいなこんな事態になったらどうするかなって考えていただければと思いますう!!頭の中では、何しても自由ですからね!
「さすがに、もうお前とは付き合えないわ」
そう振られるのはもうこれで何度目だろうか。三回目を過ぎたあたりから、数える事を辞めた小谷執は、今回の引き金は何だったかと冷静な頭で考える。
録画を忘れて、ホテルのベッドの中でいい雰囲気をぶち壊したことだあろうか。それともお洒落なレストランでイベントにログインしたい衝動を抑えられず、あまつさえガチャで推しが来たことに狂喜乱舞しかけたことだろうか。これは会話とは言い難い声が少しだけ、本当に少しだけ出ただけで、実際に踊り出さなかったのだからノーカンか?
しかしそれだけではない、あげだしたらきりがない執の奇行。本人はいたって真面目なのだ。傍からの視線を気にしてオタクなんてもんが出来るかとも思う。そんなに生易しい世界ではないのだ。まあ、一般人には理解できないようだが。
推しはみんなのモノ。それは執の思想だ。同担拒否も楽しそうだと思うが、好きという感情は共有したいではないか。それに推しは魅力的なのだから、誰でも惚れてしまう気持ちは痛い程分かる。だからこそ、人よりも推しについてを知りたいと思うし、推しを考察したくなってしまう。これはきっと全オタクの性だ。
公式からの供給が無くても大丈夫なのだ。だって彼らはいつでも自分の心の中にいてくれるし、そこから様々な妄想を繰り広げる事が出来る。オタクの脳みそは逞しい。
その代償に、実際の生活がおざなりになることがあるのも認めよう。それでも毎日出社をして、社会の歯車として働いているのだ。その執の頭の中には、いついかなる時も栄がいて、そのおかげで生活が潤いを持っているのだ。こんな社会では、心の支えが無いとやっていけない。歯車は潤いを持たないと回らないだろう?
社会の歯車になってからは、日々の潤いはゲーム、もしくはアニメになってしまった。仕事から帰ってきても、存分に楽しめるし、何より彼らは裏切らない。ここが一番重要だった。私を振ることもなければ、愛想をつかすこともない、いつでも優しい言葉をかけてくれる。これがまた効くのだ。
*
「いやあ、私も栄と出会える世界線で生まれたかったわ~~」
そう言いながら机に突っ伏して嘆く執を見下ろしているのは、幼馴染兼オタク仲間である凪だった。
「あのねえ、アンタそんなことばっかり言ってるから、彼氏に愛想つかされるのよ?これで何回目よ?」
「ええ~?数えてないよ」
「じゃあ、私が教えてあげる。10回目ね。ぴったりおめでとう」
皮肉たっぷりに、目の前で拍手を送られる。くそ、10回か。意識しないようにしていた数々の記憶が、凪のおかげで数値化される。
これまでも彼氏は人並みにいたと思う。少し昔は違ったのだ。オタクということは変わらないが、これでもいっちょ前に一目ぼれだってしたこともあるし、告白を受けたこともある。優しい人も、かっこいい人も、背の高い人もいた。学歴の良い人も。現実を生きていた事もあるのだ。
しかしそれを魅力的だと思うのは初めだけで、オタクの真実の姿を知ると、初めこそ好きにさせてくれるが、積み重なると上記のように振られるのだ。それなら初めからそう言ってくれればいいのにと、男というのは難しい生き物だなあと思ってしまう。
執自身、このままではまずいと言う気持ちもどこかであった。周りはそんな執を尻目に結婚をして、子供が生まれている。そう言った報告を受ける度に、私は推しとはこういった関係にはなれないし、彼のDNAを後世に残す事も出来ないのだという現実に落ち込む。そしてその度にそんな現実を見る時期かと覚悟をするのだ。人並みに人肌が恋しくなることもある。推しが温かく感じるのはあくまで心の中だけで、体温はというとスマホの熱をそう錯覚しているだけだ。
執はこれ以上傷口に塩を塗り込まれる前に、早めに話題を変えるのが得策と、自身のスマホを取りだし、写真フォルダを開いた。幾枚もある推しの画像の中の一枚を、凪の目の前にずいっと差し出せば、先ほどまでとは打って変わり彼女の顔も緩んだ。ほれ見ろ、たかが一枚、されど一枚で人を変えるのだ。
「だってさ?考えてよ?この前の栄の立ち絵見た?やばいよ?王子様かと思った。こんなん職場にいたら、死人でるよ??しんどい、尊い、ありがと、世界だよ。彼と比べちゃったら、現実の男は二の次になっちゃうのも分かるでしょ?」
「見た~~!やばかったね、あれは。あの口元さ、摘まみたい。守りたい、その笑顔。でもその隣を見てくださいよ、奥さん。私の繁。彼はきっと犬の末裔よ。でなきゃこの子犬感は出せませんね。隣のデスクにいられた日には、仕事どころじゃない。写真を撮る衝動に抗えないと思う、盗撮をする未来が見える」
解釈の一致にがっちりと握手を交わし、やっと執の失恋話から離れて安心したのもつかの間。凪のスマホが着信を知らせた。億劫そうにその画面を見ると、途端に先ほどまでのだらしない顔を引き締めて、深呼吸を一つ、そして執に目で詫びながら着信に答えた。
「もしもし、あ、うん…ごめん…今友達と…」
雲行きの怪しげな空気に、執は凪から視線を外した。きっと彼女の彼氏だと大方予想はつく。凪は、この彼氏と電話をするときは決まって深呼吸を一つする。今回もそうだったのだから間違いない。手持ち無沙汰になった執は、スマホでゲームにログインしながら思う。
これだから、現実の男は。確かに、温かいのは認める。不覚にも少しの安心があることも認めよう。しかしそれだけではないか?彼女を見ていると思うのだ。恋愛なんて…と。こんな顔をするのなら、それは生活に必要ないのではないかとも。
好みのタイプを聞かれれば、迷うことなく、ノータイムで栄みたいな人と答えるだろう。年上のロマンチスト。加えて面が良い。声は低めで、首が太い。細身に見えて、筋肉が程よく付いていて…等々。あげだしたらきりがないため、割愛だ。そしてこんなに盛沢山の魅力を集めた人間に未だかつて出会ったことはない。
そんなことを考えながら、ぬるくなったコーヒーに視線を落とすと、先ほどまでの光景と違うものが視界に入ってきた。小人のようで、小人ではない。かと言ってぬいでもなく…。
その姿は
茶色い天然パーマに、全てを見透かすような瞳に、いつでも優し気な微笑みを湛えている唇。真面目で、どこか可愛らしい空気を纏う。間違えようもない、大好きな、栄だった。ただ異なるのは、その縮尺だ。公式プロフィールだと、175センチと書いていた。それが目の前の彼は手のひらサイズ。
まさかという驚きで、ただただこちらを見つめ、何も話さない小さな栄とにらめっこをしていると、通話を終えた凪が大きなため息をつく。これは良くない知らせだと直感し、ひとまず彼女へ視線を送る。
「はああ、彼が帰ってきてだって…帰らなきゃ…」
「え?まだ来たばっかりじゃん。今回はなんだって?」
「私が家にいると思って早く帰ってきたのに、どこにいるんだよって」
「はあ?何様よ」
「まあね、でもいつものことだから」
「そんな人、別れちゃいなよ」といつも通りの執の言葉に、諦めを宿した笑顔を向けて、伝票を手に立ち上がった凪。これもいつもの行動だ。凪はなんだかんだ彼の事を好きだと言う。離れられないのだと。そろそろ結婚も視野に入れているのだそうだ。
執の手元には、まだ手のひらサイズの栄がいる。最後にそれを伝えようと、見てもらおうとしたが、謝罪を残して足早に出口へと向かってしまった彼女を呼び止める気にはなれなかった。
取り残された執は、なんだかすっきりしない気持ちで、目の前の栄に話しかける。返答なんて求めていなく、ただの独り言のつもりだった。
「ねえ、栄?現実の恋愛って難しいね。私は貴方だけで良いかもしれない」
「俺と恋愛してみる?」
執の独り言に応える声。もしかして誰かに聞かれていたかと周囲を見渡すが、こちらを見ている人間はいなかった。それにしてもかっこいいことを言ってくれる。どこから発せられたのかと机上を見ると、そこにいたはずの栄の姿がない。
先ほど見ていたのはやはり幻覚だったかと再びあたりを見渡すと、耳元で声が聞こえた。
「ここだよ、執ちゃん」
「え?本当に栄なの?何で、私の名前…?」
「本当にってなんだよ、俺は栄だよ。名前を知らない訳ないだろう?」
いよいよ私はおかしくなったのだろうか。いくら奇行を繰り返していると言っても、幻覚を見たことは今までにもない。そしてこれからもないと思っていた。そうか、自分は今疲れているのだ。だからゲームで言われたセリフを脳内再生されているのだ。思い返してみれば、このセリフは聞き覚えがある。
そんな執を気にせず、耳元にいた栄は机の上に飛び降りる。
「俺はね、いつも君の隣にいたよ。やっと見つけてくれたんだね」
彼に聞きたいことはたくさんあったが、如何せんここは公の場。ここでマスコットと会話している女と認定されるのは痛い。白い目で見られる事は確実で、最悪「あの人、何とお話してるのお?」「見てはいけません!」なんて会話をされてしまう可能性も否めない。オタクにもそれくらいの分別はあるのだ。執は先ほどの凪の様に慌てて支度をし、帰路を急いだ。
いつもの半分の時間で自宅のアパートに辿り着く。栄はカフェで執が話しかけるのを辞めてから姿をくらましていたが、いつの間にかバッグの中にいたらしい。
「お邪魔します」と言いながら栄は、バッグから飛び降りた。そうだ、彼は仕事でミスをしまくったヒロインである私にいつも優しく接してくれる上司。慰め、時に背中を押してくれる存在。そんな寛容な雰囲気は小さくなっても変わらなかった。
床に降り立った彼と視線を合わせるために膝をつき、改めてまじまじとその姿を見る。栄は執の視線に、恥ずかしそうに、それでいて慣れたように笑う。
「そんなに見るなよ、照れるだろ?」
「ねえ、栄はどうしてここにいるの?」
「どうしてだろう、執ちゃんが呼んでいたからかな。それに落ち込んでいたでしょう?」
落ち込んでなどいるものか。あれはただの反省会だ。現実と向き合いきれない自分との。
「落ち込んでないよ。でも心配してくれてありがとう」
「それならいいけど…いつでも俺に甘えてね?」
この現実…現実かは分からないが、執は何となく受け入れる事が出来た。きっとこれは、私が疲れているからだ。脳みそが現実逃避をしているのだ。それならば、この状況を楽しもうと思った。
*
それから推しと私の生活が幕を開けた。仕事終わりに家へ急げば、推しが待っていてくれる生活を誰が想像しただろうか。少なくとも私はしていなかった。
仕事終わりに酒を買い込み、自宅アパートまでの道を急ぐ。愛おしい彼の待つわが家へ。
「おかえりなさい」
「うん、ただいま」
これが最近のお決まりのやり取りだが、何度やっても幸せは減らないのだから不思議だ。机の上から少しだけ執に歩み寄ってくる栄が、愛おしくて仕方がない。
「今日もお仕事お疲れ様」
「ありがとう。栄は何をしてたの?」
「俺?そうだな…執ちゃんに頑張れって念を送ってたよ」
「あはは!そうだったんだ。どうりで頑張れたと思った」
「じゃ、届いたんだね。良かった」
そんなやり取りに2人して笑いあう。そして執は浮足立つ気持ちで、買ってきた酒を仰いだ。
栄はいつもこういった風に、その日の出来事の詳細を話さない。この生活は頭の中のバグのおかげなのだから、そんな小さなことを考える必要はないと、初めの内は気にも留めなかったが、これが数回続くと話しは変わってくる。その事だけが唯一の不満になった。彼を全て知りたいから、日常をもっと知りたかった。徐々にこの栄は、執の生活の当たり前になっていた。そしてそれは自然なことの様にも思っていた。
そう言えば、あのストーリーは最近更新されたとSNSで見たが、まだ未プレイだ。今になって、栄と私はあの後どうなるのか無償に気になった。私は結婚ルートに辿りつけただろうか。
攻略を見ないが信条なため、自分の選択がどのルートになるのかは直前まで分からない。それが楽しいのだ。それにルートはいくつも分岐しているのだから、何度も繰り返せば、その分幸せも増えるではないか。栄の場合、割と序盤から良い雰囲気になって、両片思いな時間を過ごすことが出来るため、はらはらすることはない安心保障付なのだが。
そこが彼の良いところなのだ。現実でも辛い思いや、しんどい出来事が山の様にあるのに、ゲームの世界まで同じようだったらやってられない。誰かが言っていたのだ。正気でいるには、人生はあまりにも長すぎると。全くその通りだ。
そんなことを考え始めると、ふと無償に栄の存在について考えてしまう。そもそも彼は、栄なのだろうか。自分にしか見えてないのだろうか。あの日、凪に聞きそびれてしまったことが悔やまれた。本当は全て自分の思い込みだったらどうしよう。ここまで来ると栄なしの生活に戻れる気がしない。でも彼は私の頭の中だけの存在なのだとしたら、ここに存在してくれるのも期限があるのではないか。だって、目の前の彼は本物の栄ではきっとないのだから。そんな執を栄は見上げて、心配そうな瞳を寄越している。くそ、可愛いな。なんだか全てがどうでもよくなりそうだ。可愛いは正義だなあと独り言ちる。
「何か、悩み事?」
「うん…悩みって言うか、よく考えたら栄は年上なのに、私呼び捨てだったね。」
「ああ、そんなこと?いいよ、別に。」
安心したように笑ってくれる栄を見て、執は罪悪感が頭をよぎった。本当はそんなとを考えていたわけではないのだが、何となく言いづらかった。違うのだと、全て話してしまいたいが、なんて言えば良いのかも分からなかった。
缶の水滴を指でなぞりながら、考える。先ほどまでの思考は、目の前の彼の存在を自分が否定してしまっている様に感じて、バツが悪かった。だから今、栄がいてくれるこの生活が幸せだけで良いではないかと自分を納得させることにした。
覚悟はできている。きっと栄との生活にはタイムリミットがあると。それが数日後か数か月後か、はたまたもっと先かは分からないが。
*
これまでの休日、執の朝は大変遅かった。昼近くにベッドからやっとの思いで抜け出して、身支度もそこそこに、昼兼夜の食事を済ませ、スマホでゲームをして、SNSをチェックしていると、また体力ゲージがたまるからゲームにログインして一日が終わってしまっていた。あまり大声では言えないが、一日パジャマで過ごすこともある。時々だが。
しかしここ最近の執は違う。起きるのが早いわけではないが、自堕落な生活を辞めた。ゲームにログインすることも無くなり、食事を三食取るようになった。一日パジャマで過ごすことなんてもってのほかだとすら思っている。現に、今も掃除機をかけたりなんてして、なんだか充実しているOLのようではないか?と内心ニヤニヤしてしまう。机の上にいる栄を見ると、いつでもそんな執を見て微笑んでいてくれている。それがまた嬉しくて、浮かれた気持ちで栄の目の前に膝をつき、「栄はお休み、何がしたい?」と尋ねてみる。
そんな提案をしたのは初めてだった。なんとなく、栄は執の部屋でしか存在してくれないと思っていたのだ。しかし、よくよく考えてみれば出会いはカフェなわけで、もしかしたら、彼とデートを出来るのではないかと思った。
「執ちゃんと過ごせれば何でもいいよ」
その言葉も聞いたことがあった。それは確か二章のセリフだ。休みに出かける約束をした二人が予定を立てるシーン。執はすぐに分かった。だってそのシーンは、執のお気に入りの一つなのだから。
そして、その時をなぞるような言葉に確信した。これは自分が、ゲームの中で体験したことを現実に重ねているのだ。それなら、ゲームの中では選択肢にもなかった言葉をかけるとどうだろうと試したくなってしまう。彼は現実の私をどれだけ知っているのだろうか。
「でもいつも見ているだけは退屈でしょう?」
「そんなことないよ。コロコロ変わる表情を見ているだけで楽しいんだ。でも執ちゃんがやりたい事があるなら、俺も一緒にしたいかな」
「私も一緒にいられるだけで十分だけど、敢えて言うならデートっぽいデートをしたいかな」
「デートっぽいデートって面白い言い方するんだね。じゃ、執ちゃんが好きそうなカフェでデートをしよう」
やっぱりそうだ。決して会話が成り立たないわけではなく、しかしどの返事も聞き覚えのあるものだ。ゲームの中の私は、お洒落な、まさに今時のOLなのだ。しかし実際の私は大衆居酒屋とか、チェーンのカフェの方が安心するのだが、それを栄は知らないらしい。まだ自分の怠惰が知られていない事への安心。それとなんだ、やっぱりそうだったのかと少しの残念。
そしてこの現実では、そのカフェを探すのは私の役目だ。しかしそれは全く苦痛なんてなく、むしろ楽しみにさえなっているのだから、恋は盲目だ。現実では予定を立てられない男は嫌いなのだから。
掃除がひと段落ついてから、栄の傍でパソコンを立ち上げ早速来週のデートの予定を立て始めた。
*
そうして一週間、馬車馬のように働いた執は、いよいよ楽しみにしていたデートだ。二人で決めた先は、ゲームに出てくるような、ゲームの中の私が好きそうなカフェだった。
初めに言っておくが、別にこういった場所が嫌いなわけではない。ただ自分では選ばないと言うだけだ。お洒落な店というのは、どうして注文方法も、メニューの表記も難しいのか。サイズはファストフードと同じで良いだろう。SかMかLで十分伝わるのではないか。そして、コーヒーにあんなに種類があるのだろうか。コーヒーはコーヒーだ。
そう思いながらも、嫌いではないなんて、そんな言い訳を心の中でしてしまうほどには、栄に可愛く見られたいと言う気持ちが働いた自覚がある。
小さな栄をバッグに入れて外へ出ると外は快晴、お出かけ日和。自然と軽くなる足取りを感じながら駅へと向かう。そんな執のバックの中から栄は顔を出し、執と同じように楽しそうな笑みを浮かべてくれる。
駅の券売機まで来ると、そう言えば切符は1人分で良いのかと悩む。小さな栄は1人としてカウントをしてはいけないのだろうか。デート費用が減っていいではないかという自分と、彼を1人としてカウントしてくれない世の中にモヤモヤする。そうは言っても、きっと1人分で事足りる。だって栄はバッグの中にいて、手荷物として扱われる方がしっくりくるのだから。
電車に乗って一息つく。先ほど感じたモヤモヤはなかなか片付いてくれず、それを早く消したくて何か手立てはないのかと周囲の乗客を見る。この人達に栄は見えているのだろうかと気になった。初めから気にはなっていたのだが、今日までそれを知る機会がなかったのだ。もし、マスコットにでも見えてくれれば、少しは胸の突っかかりが解れるかもしれないという気持ちに駆られた。バッグの中の栄をちらりと見ると、健気に執を見上げている。何度も感じている、くそ、可愛いな。
そんな栄に向かってちょいちょいと手招きをすれば、不思議そうな顔をしながらも、それに応えて差し出された執の手のひらに乗る。それを確認して、不自然な挙動にならないように、そっとバッグから出す。そしてなんだかドキドキしながら、周囲をぐるりと見渡すと、当たり前の様に誰も執を気にも留めていない。何か、もう少し不自然でなく、尚且つ栄の存在を確認する術はないだろうか。そう頭を悩ませていると、手のひらの中の栄は少しだけ、寂しそうな顔をしていた。
執が頭を悩ませている間に、電車は目的地へと到着し、頭を悩ませながら執は降車した。
「執ちゃん?どうしたの?」
「…え?ああ、なんでもないよ」
「でも…」
「ちょっと考え事をしていたの、それだけ!カフェ楽しみだね!」
小声でそんな会話を繰り広げる執の側を行きかう人は、怪訝な表情で見送るのだった。
カフェでも当然の様に、1人で席につき、1人分の飲み物を買う。それにもまた、モヤモヤが募る。
「栄はさ、飲み物とかいらないの?」
「執ちゃんが美味しそうに食べたり、飲んだりしているだけで十分だよ」
それは執が欲しい言葉ではなかった。だって全て聞いたことも見たこともあるのだ。モヤモヤがどんどんと積もっていく。私は、今の、栄と一緒に楽しみたいのに。しかしそれが出来ない現実であることを外へ出て確信させらている。現に、たった1人で席を取っているのに、まるで二人いるかのように振舞う執は少しだけ、人からの視線を集めている。もし第三者に、この栄が見えていれば、そんな顔をするはずがない。
「何か、嫌な思いをさせちゃったかな?」
執の表情を見て、栄は不安そうに表情を曇らせた。
「ち、違うよ!嫌な思いなんてしてない。私は栄がいてくれるだけで十分だもん!」
栄にそんな表情をさせてしまった焦りから思わず、立ち上がって大きな声を出してしまった執を、他の客は何事かと怪訝そうに見る。それに気づき我に返った執は、きまり悪くて俯いて席に座りなおした。
「でもね、多分だけど、栄は私以外に見えていないんでしょう?それじゃ、あまりにも寂しいよ…。だって…」
あの日と同じ、上手く言葉に出来ない気持ちが小さな声で、栄にしか聞こえない声で、口をついてしまう。こんなことを言ったら、栄が困ると分かっているのに。眉を下げて、それでも仕方なさそうに笑う事が分かっているのに。
「ごめんね…」
そう呟いた栄は、やっぱり執が思った通りの表情を浮かべていた。それを見て、胸が痛む。そんな表情をさせたいわけではないのに。自分が自分の不安を処理できないせいで、こんな顔をさせてしまっている。その事実にひたすら罪悪感を抱いてしまう。
「もし、俺の存在が執ちゃんの辛いになってしまうなら、もう一緒にいない方が良いかもしれないね」
聞いたことがあるような、ないようなセリフ。しかし、今はそんなことどうでも良かった。突然どの選択をすると、栄との恋愛に進めなくなるのか分からないと言うことが不安になった。こんな表情をさせた上に選択を間違えてしまったら、いよいよ取返しがつかなくなるかもしれないと言う不安。だからすぐに言葉が浮かばなかった。
こんなことなら、ルートを完全攻略しておけばよかったと今まで考えた事もない事を思ってしまう。もしかしたら、嫌われてしまうかもしれない、もしかしたらただの上司と部下の関係に戻ってしまうかもしれないと考えると酷く恐ろしかった。この生活が崩れてしまうかもしれないと。
出来ていたはずだった覚悟なんてものは、すっかり忘れ去られていて、残ったのはこの生活をどうしたら守れるのかということだけだった。
「やだよ…どうしてそんなこと言うの…?」
「だって、朝から執ちゃんの様子がおかしかったから。正確には電車の中からかな」
栄は言葉足らずな執の不安なんて、お見通しだったのだろう。確かに執の行動は怪しかった。それは自分でも分かる。だから栄が気づかないはずがないのだ。だって、栄は私を好きなのだから。
「俺は、執ちゃんの栄だよ。これは本当に。でも気づいていると思うけど、俺は他の人には見えないんだ。それは執ちゃんにとって辛い?」
「…」
「俺は、他の人なんてどうでも良くて、執ちゃんと過ごせるだけで良いんだよ」
大して無い距離を詰めて、優しく執の指に触れる肌。そしてそう言われてしまったら、執の気持ちなんて覚悟と同様に脆かった。大好きな人に、必要とされる。自分がいればそれだけで良いと言ってくれている。まだ関係は崩れないと言葉にしてもらって、安心した。
そんな言葉一つで不安が消えて行ってしまうのだ。私はこんなにも情緒が安定しない女だったかとも思ったが、好きな人を目の前に、情緒もクソもないと思いなおした。
「私だって、他の人なんてどうでもいい。さっき言ったことはちょっと思っちゃっただけだから。もうそんなこと思わないから。困らせちゃってごめんね」
はっきりと栄に宣言した執は、もう他人の事を気にすることは辞めようと思った。現に、何もない場所へ話しかける執は、ただの不審人物に見えているだろう。でも、それも気にならなくなっていた。だって、私も彼も一緒にいられるだけで良いと思っているのだから。
*
朝、目が覚めると、リビングには今日も栄がいて、なんだか身支度に力が入るのもお決まりだ。
「これと、これだったら、どっちが合うと思う?」
そんな事、ましてや仕事に行く服装に、考えたこともない質問を栄に投げかける。
「うーん、どちらも似合うと思うけど、強いて言うなら右かな。」
言われた通り、右手に持っていたブラウスに着替えて、栄の前で一回転して見せる。すると、栄は目を細めて「今日もばっちり、可愛いね」と。執は毎日これを聞くことが好きだった。
そんな毎日を送っていると執は、日に日に綺麗になった。こんな感覚は学生の頃以来だった。今までは、自分を好きか嫌いかなんて考えたこともなかった。ある程度の身支度をすれば良いと思っていたし、浮かない程度の自分でいれば良いとすら思っていた。
今ならはっきりと言える。今の自分が好きだ。好きな人に可愛い、綺麗と言われる自分が好きだった。決して、自分自身のどこかが変化して、可愛くなったなんて烏滸がましい事は考えていないが、それでも栄が良いと言ってくれるのなら、それでよかった。恋をすると、綺麗になると言うのはどうやら本当のことだったようだ。
*
それから、いつも通りに出勤して、退勤して。執は相変わらずそんな日々を繰り返している。その日は、普段より少し空いていた車内で、不意にゲームへログインしてみようと思った。それは理由もなく、ただ、何となく。
見慣れた起動の画面に、ホーム画面には家で待ってくれている栄の姿。なんだか懐かしいような気持ちで、開催中のイベントを確認して、それも済むと、ホーム画面の栄を指で一撫でする。疑わないと、他人の事を気にしないと栄に宣言してからというもの、あの日感じたモヤモヤや、不安に怯える事が無くなった。そんな充実した毎日に執は満足している。
「今日も一日お疲れ様。早く帰って、一緒にご飯を食べようか」
タップすると、何パターンかあるボイスの内の一つがランダムで流れる。この時間は、だいたい仕事への労いか、寝る前の挨拶だ。これは疲れた心に効く。ふっと息をついて、早く家に帰りたいなあと思いながら車窓を流れる景色を眺めた。
「ただいま~」
「今日も一日お疲れ様。早く一緒にご飯を食べようか」
つい先ほど聞いた声がそのまま目の前で発せられる。
「あはは、それ、今日二回目だ」
程よく疲れた脳みそと、家に帰ってきた安心感で、なんの気なしに、ポロっと出た言葉だった。
「二回目??」
「さっきも言われたんだよ」
「誰から?」
「ん?栄からに決まっているでしょう?」
執は部屋着に着替えながら、笑って後ろにいる栄にそう言う。栄は何かが引っかかり言葉に詰まったが、次の瞬間には明るい声で「そっか」と返した。
「今日も楽しく過ごした?」
「執ちゃんはログインしたみたいだから、知っていると思うけど、今さイベントやってるじゃん。」
「え…?」
思わず着替えの手が止まり、違和感を感じて振り返って栄を見た。何か、いつもと違う事だけは分かる。
「さっき言ってたじゃん」
「うん…まあ知ってるけど…栄は知っているの?」
「知っているよ、当たり前だろう?自分のことだよ?」
そうだけど、そうではない。執の中ではいつの間にかゲームの中の栄と、目の前にいる栄は別のモノになっていたのだ。しかし、そうではないらしい。やっぱりゲームと現実はリンクしているようだ。あの日から忘れていた、蓋を閉めたはずの思考が蘇る。
「だから、それかな。今オフィスでイケメン決定戦やってるから」
「え?そうなの…?」
「知ってるんじゃないの?」
「いや、チラッと見ただけだから…詳しくは分からないな…」
「じゃ、ネタバレになっちゃうねえ」と言いながら、執の戸惑いをよそに、栄は職場での出来事を思い出し笑いをしている。
繁が、一位になりたくて毎日頑張っている事や、栄の周りも妙にソワソワしている様子は、話で聞くだけでも想像が出来て面白いはずだが、その声は今の執の耳には右から左へと流れていく。ただ暗い靄が胸に沈殿していく感覚。
ゲームの中と現実は違うのだと勝手に思っていたから考えもしていなかったが、栄のこの顔を知っているのは私だけではないのか。あのゲームをプレイしている人間なんて、山のようにいて、栄推しの人だって何人も見てきた。それが当たり前だった。この幸せな生活の前までは。
今はもう違うのだ。生活の中に栄がいるのは私だけだろう。それなのに、この顔を知っている人が現実の世界にいると言う事実を目の前に突きつけられて、それがなんだか無償に許せない。
「通常業務もあるのにね、みんな浮かれてるよ」
「通常業務…」
「そうそう、今日行った取引先もさ」
栄はいつでも私の部屋にいるのではなかったのか。そうだと信じて疑わなかった自分にも腹が立ってきた。栄はまだ何か話しているが、執はそれを遮り、その憤りをぶつけてしまう。
「じゃあ、なんではじめの日に、そう教えてくれなかったの…?」
「何を?」
「仕事の話」
「だって執ちゃんは知っているだろう?俺が営業をしているって。一緒に仕事をしていたじゃん」
そうだ、そうなのだが、そうではなくて。執の頭は混乱していた。まさかここまでリンクしているなんて想像もしていなかった。では、どこまでがこの現実とリンクしているのだろうか。
今まで栄の口から、ゲームの話が出たことはない。それならば、何がきっかけで栄はこんな事を口にするのだろうか。思い当たる事は、先ほどの電車での行動だ。原理は分からないが、もしかしたらログインしたことで、ゲームと現実が交わってしまったのか…?
そうなってくると、出会ってからこれまでの、栄の発言の説明がつかない。執がログインしていなくても、栄はシナリオと同じセリフを言っていたではないか。
「そう、だよね。じ、じゃあ栄の中で、私ってどういう存在?」
「どうって…大切な部下だよ」
照れた微笑み。これまでだったらそんな表情を見せてくれようものなら、発狂していただろう。しかし、聞きたいことはそうではない。発狂している場合ではない。それでもなんと聞けば、この執の疑問の答えをもらえるのかも分からない。
「うん、そうなんだけど…今は私と仕事をしていないってこと?」
「何を言ってるの?今の執ちゃんは、違う職場じゃないか」
なんだか思考が絡まっていく感覚。質問を重ねるほど、それが固く複雑になっていく。
その後、何とか聞き出した栄からの話をまとめると、私は突然転職をしたそうだ。しかし、その後も栄とのメッセージでの交流は続いていたのだそう。あの日、カフェにいたことは、私が転職をしてからの偶然の出会いらしい。聞くに、関係は以前から変わらず、気心が知れた上司と部下と言ったところか。ゲームの中と異なる事は、ただゲームの生活の中に自分がいないと言う事だけだった。まとめてしまうとこんなにも簡単な話だが、執の頭の中はそうもいかない。
「なるほどね…」
「まさか自分の事なのに、忘れちゃったの?大丈夫?疲れてるんじゃない?」
「いや、自分の事だけど、そうじゃないからさ…」
「…?」
執が何を言っているのか何となく気づいているような表情だが、執自身は理解しきれていない。そんな執に、畳みかけるように栄は新情報を投下してくる。なんとなく、少しだけ申し訳なさそうに。
「あ、でもね、つい最近、新しい子が入ってきたんだよ」
「会社に?」
「そうそう、執ちゃんと同じくらいの歳の女の子。いい子だよ。真面目で」
恋愛ゲームにおいて、同じ職場で、同じ立ち位置の女性キャラはご法度ではなかったか?それに、栄が所属するその職場は、イケメンばかりが揃う、営業課ではなかったか。そこに配属されるなんて、乙女ゲームでもあるまいし…。
そこで、執は自分の明確な思考に気づき戸惑った。‟乙女ゲームでもあるまいし?”これは乙女ゲームの話だろう。何を言っている、正気に戻れ、執。しかし、だ。それを言い始めたら、順調に行けば、その新人の子は誰かと恋愛関係に発展するのではないだろうか。それはなんだ。誤解を恐れずに言えば、解釈違いだ。顔も知らない新人ちゃんに向かってずるいという気持ちが芽生える。私だって、そこで働いていたのに。そこのポジションは私のモノだったのに。栄にお世話になっていたのに。
そして、決定的な不安。その新人ちゃんの相手が栄だったらどうしよう…。取られてしまうと思った。それは、これまでの漠然とした不安や、恐怖とは異なり、はっきりと執の胸の中に沈殿した。
すぐにでも、彼女の事をどういう感情で見ているのか聞きたかった。どこまで話が進んだのか問い詰めたかった。あの日の様に、栄には私だけだと言って欲しかった。しかしそれよりも強く、彼女の詳細を聞くべきではないと脳みそが警報を鳴らしている。きっとそれは自分を傷つけるだろうという、自己防衛だ。
「そっか、それは…栄は優しいから、きっと慕われちゃうだろうね」
「そうかな、そうだったらいいけど」
上司の顔、仕事の顔、それらを孕んだ表情を、執はもう直視できなかった。私がいればそれでいいって言ってくれたじゃん。あの栄の言葉は嘘だったのだろうか。ただのシナリオになぞった言葉だったのだろうか。執には分からなくなっていた。
*
そんな混乱する頭を抱えて、執の毎日は過ぎていった。あの日から栄にどんな態度で接して、どんな言葉を交わしているかすら曖昧だ。不自然だったかもしれないが、そんなことより今は、状況整理と自分を落ち着かせる事が必要だと脳みそが叫んでいる。
少し頭を冷やすと、兎にも角にも、このままでは非常にまずいと言うことだけは分かる。このまま時が過ぎれば、きっと栄は例の職場の彼女といい雰囲気になるルートまっしぐらだろう。それはいけない。でも何度もプレイした執には分かるのだ。栄が、新人に抱く‟真面目で良い子”はまさに、このゲームをプレイして、初めて執が彼から言われた事なのだから。
栄を失いたくないならばどうする。そもそもどこで間違えたのだろう。初めは良い感じではなかったか?これもオトゲーマーの執には分かる。間違いなく、良い感じだったのだ。それこそこのままいけば、ハッピーエンドも夢ではない程。しかし、今の状況は芳しくない。なんだ、どこで間違えた?
何度も何度も頭を巡る、‟どこで間違えた?”
*
その日も悩み事を抱えながら、仕事終わりに風呂に入ったが、そんなたった一時間弱でこの数日間の混乱した頭を整理出来る訳もなく、若干のぼせた身体を何とか自力でリビングへ運んだ。
ふらふらとソファに沈んだ執に、栄は「え!執ちゃん??大丈夫?」と少し大きめな声で、心配そうに駆け寄ってくる。そして膝の上に乗ると、顔を覗き込む。膝の上の重みは、こんなにも温かかっただろうか。
「ん?ハハッ 大丈夫。ちょっと考え事をね…」
「この前から、考え事ばっかりだね」
落ち込んだ声。閉じそうになる瞼を何とかこじ開けると、膝の上の栄は俯いていて、その表情は見えなかった。
「慣れない事をするもんじゃないね」
「執ちゃんは真面目だから、仕方ないよ」
「あのね、」
「私は、別段真面目なわけじゃないんだ。それに、気づいちゃってるかも知れないけど、お洒落なOLでもないの。」ボーっとする頭では、許容を超えた考え事は、ボロボロと零れ落ちていく。
「そんな事無いよ?でもそうだな…」
初めて、栄からゲーム内のシナリオではなさそうな言葉が出た。それに驚いて目を見開いた執は、少しだけ申し訳なさそうに顔をあげた栄と目が合う。
「多分、今、執ちゃんは俺のことを疑っているよね。それも仕方ないと思うんだ。」
「疑うとかじゃないの、それは違うの。ただ不安なんだよね。栄のいない生活がこの先、近い将来訪れると思うと…。」
執は、ここ数日考えていた事を見透かされたのかと思った。決して、他の女に目移りしそうとかで疑っているわけではない。いや、少しは疑ったのだが、少しだ。この気持ちの本質は、あの日宣言した通り迷いはない。栄を疑っているのではなく、ただただ不安なのだ。
自分の気持ちを声に出すと、徐々に気持ちの整理が出来てくる。そのおかげで、執は自分の発言や気持ちを思い返すと既視感があった。
そうだ、一度ヒロインもこんな風に不安になっていた。栄の周りには、たくさんの魅力的な女性がいて、その中には栄に好意を寄せている人もいた。それを目の当たりにして、不安になったことがある。ゲームの中で。
その時、ヒロインはどうしていただろうか。思いだせ。のぼせた頭を、そこに活路があるのではないかという希望だけで無理やりフル回転させる。しかし、万全ではない頭で答えが出るはずもなく、自分自身にため息が漏れた。全く使えないな。
「この話は今度にしようか、今日はもう疲れたから寝るね。」
なんだかこの数時間でどっと疲れを感じた執は、「おやすみ、栄」と言い置いて、ベッドルームへ向かった。そんな執の背中を栄はただただ見送った。
*
夢を見た。何度も見た夢。その度に、起きると頬を涙が伝うほど、楽しくて、夢であったことが悲しくなる夢。
見慣れたオフィス。隣を見れば、繁がいる。
「なんだよ、執。思いつめた顔して。なんかミスったの?」
「え?いや…」
「ミスは早めに申告した方が、傷は浅いぞ~~」
他人事だと思って、けらけらと笑う繁。その繁に聞いてみた。
「ねえ、栄はさ」
「はあ?おまえ!上司を呼び捨てかよ!やるな」
「あ、ああ。そっか、栄さんはさ」
「なんだよ、課長がどうかしたの?」
「恋人っているのかな、恋人じゃなくても、好きな人とか」
「ええ~まあ、あんなにモテるもんな。いてもおかしくないだろ」
「そうだよね」
「でも仕事一筋って感じだからなあ。」
うーんと腕を組みながら、繁は悩んでくれる。それでも答えは出なかったのか、諦めた様子で執に視線を移した。
「まあ、お前の事は気にかけてる感じがする。もともと部下に優しい人だけど、お前には特にな気がするんだよなあ、気のせいか?」
この言葉に深い意味はない。それを執は知っている。繁とはこういう男なのだ。凪に言わせれば、そこが魅力で、人懐っこく、良く笑う感じが堪らないのだそうだが。
「私さ、栄さんの事好きみたいなんだよね」
「ああ、うん。なんとなく気づいてたよ」
「そ、そうなんだ…」
「でも年上より、近い方がオススメだけどなあ~話合うし。俺にしとけば??」
突然食らったジャブ。危ない、うっかり繁に推し変しそうになってしまった。違う。これは栄ルートでも一度通る道だ、迷わないぞ。
「あははっ、またそんな冗談言って」
「冗談じゃないって言ったら?」
「そういうの良いから。それより、栄さんはどんな子がタイプなんだろう?」
攻撃が全く効いていない様子の執に、繁は一瞬ムッと唇を尖らせたが、再び執の質問を考え始めてくれた。彼は単純だが、優しいのが良いところだ。
「ああ~この前の飲み会でチラッと聞いたのは、誠実な子って話してた気がする。なんか、元カノに浮気されてから怖くなっちゃったんだと」
「え…そうだっけ?」
「そうだっけってなんだよ、お前が聞いてきたんだろ?」
「いや、まあそうなんだけど」
「今日のお前、歯切れ悪すぎ。やっぱ調子わるいんじゃね?」
そんな繁の声は右から左へ、執は記憶の引き出しを漁ることで忙しかった。栄の情報だったら忘れようもないし、いつでも無くさないように一番手前の新しい引き出しに入っている。その中をどんなに探しても、先ほど繁が言っていた情報なんてない。いったいどういう事だろうか。
ハッと目が覚めた。いつも見るただただ幸せな夢とは違った。そうか、元カノ…。
元カノ?そんなもの存在するのか?寝ても覚めても悩まなければいけないなんてと、執は余計に疲れを感じた身体でベッドから降りた。
*
頭の中は栄でいっぱいだし、まだまだ考えなければならない事もたくさんあるのだが、日常は待ってなんてくれない。今日も仕事に行かなければならないため、朝の準備に取り掛かる。
毎日交わす栄の言動は、気づけば、ゲーム内のシナリオとは徐々に外れている。それも気にならなくなり、むしろ当然の事の様に感じている執は、特に気にも留めなかった。それよりも考え事に忙しかったのだ。もともとマルチタスクは得意ではない。
朝は、栄に選んでもらった服装でいる事だけで、頑張れそうになるのだが、いざ仕事を始めると、考え事が頭を過る。そんなこんなで、仕事に身が入るわけもなく、普段だったらしないようなミスを繰り返した。それも一日だけではなく、一週間続いた。さすがにまずいという気持ちと、だって仕方ないじゃないという思い。それでも金曜日に言われた上司からの一言は効いた。
「もう、学生じゃないんだぞ?自分の管理は自分で出来るようになった方が良い。」
今まで深く考えたこともない、‟もう学生じゃない”。そりゃそうだ。だから執は嫌々ながらも仕事をしている。しかしその言葉は仕事に対してだけでなく、私生活にも向けられている気がしてならない。その自覚が執にはあるのだ。現実逃避紛いなことを続けていることへの自覚が。図星をつかれ、そして普段よりも脳みそのキャパがいっぱいいっぱいで、うっかりすると、涙が出そうになった。
「やっと今週も終わった~~!」
家に着くなり、服もそのままにソファに深く沈んでしまう。落ち込んだ顔を見られたくなくて、ソファに顔を埋めたまま、努めて元気な声を出す。
「おかえりなさい、お疲れ様」
「栄もお疲れ様。仕事はどうだった?変わりなし?」
「うん、やっと決定戦の結果が出たんだよ。」
「もちろん、栄が一番だったでしょ?」
「ううん。繁だったな。」
ん?繁が一位?栄ルートで発生するそのイベントは、確か栄が一番だったはずだ。
「結果なんてどうでもよかったけど、この前話した新人ちゃんがいるだろ?彼女は俺に入れてくれたって話してて、なんか嬉しかったな~」
栄はニコニコと思いだし笑い。いよいよまずい事になっているという思いで思わずソファから顔をあげた。そんなルートがあったのか。執はここでも突然の右ストレートに返す言葉が見当たらない。そしてその言葉は、弱った脳にはあまりにも刺激的で、再び目頭が熱くなる。そんな執に栄は、この日も心配の眼差しを向けた。
心配してくれることが嬉しいのに、脳裏に浮かぶ上司からの一言。こういうところが、現実逃避なのか。現実とゲームの境目が曖昧になっている自覚はある。それに気づいても尚、日に日にそれは増すばかりだ。
「なんか、元気ないね」
「…うん、仕事でちょっとね」
「何か、失敗しちゃったの?」
「うん、それで上司に怒られちゃった。まあ、自分が悪いんだけどね…全部、私がさ…中途半端なんだよ。私生活も仕事も。もう学生じゃないって当たり前の事を言われて。分かってるよって思うんだけど、図星を突かれたとも思ったの。それが悔しくて…」
その執の言葉に、栄は少し考えた後「俺が執ちゃんの上司のままでいられたら、良かったな」と呟いた。
「そうしたら、きっと叱る事もあるだろうけど、それでも執ちゃんが頑張れるように応援出来る。君の隣で」
胸がキュンとするなんてものじゃ足りなかった。傷口にこれは沁みる。これまでなんとか抑えていたダムが決壊した。頬を生暖かい雫が伝う。
「私も栄が上司のままでいてくれればよかったよ。そうしたら、今よりもずっと頑張れたと思う。こんなに悩む事も無ければ、仕事に身が入らないこともなくて、ずっと栄について行けば良いと思えてたら…」
「そっか、それじゃ俺達両想いだね。いつでも俺が隣にいるって事を忘れないで」
そして「泣かないで」と困ったように笑いながら、テーブルの上のティッシュケースを側に寄せてくれる。そこから一枚抜き取り、小さな体で執の膝の上に飛び移り差し出してくれた。
この‟両想い”という単語に深い意味がない事は学習済みだ。しかし、今、これを言われると、効く。
そうだ。最近は難しく考えすぎていたのだ。初めは栄のいるこの生活だけで十分だと思っていたじゃないか。それがどんどん欲張りになって、今では栄の存在も、気持ちも疑うような事ばかりを考えていた事に気づいた。現実逃避上等。私はオタクなのだから、現実逃避は得意分野だ。
何度も繰り返す、もしかしたらという恐怖と、それに対する、この生活に満足しなければと言う言い聞かせ。
この日を境に、執は栄のことを本人に聞くことも、その新人の彼女のことを探るのも辞めた。そうすると不思議なことに、栄の口からもその話題が出る事は無く、久しぶりに平穏な、それでいて幸せな日々を送っていた。この生活に執は満足していた。
しかしそう思っているのは、執だけだった。
*
今まで一番傍にいてくれた親友と、久しぶりにお互いの休日が合い、現状報告会と称するオタク会を開催する事になった。
「なんか、久しぶりな感じするねえ!」
「最近どうなのよ?良い人出来た?」
「良い人って言うか、今までで一番幸せかもしれない」
「え?何々?ついに、執も落ち着く時?」
「別に今までも、はしゃいでたわけではないけどね?」
「それで?それで?どんな人なのよ?」
待ってましたと言わんばかりの凪からの質問。執はふっふっふっと不敵に笑ってしまう。きっと凪は驚くだろう。なんせ、思い焦がれた人と一緒に生活をしているのだ。羨ましがるに違いない。
「茶色い天然パーマで、綺麗な目なんだよね。それに加えて、いつでも優しく笑いかけてくれて、真面目で、少し可愛いの。」
しかし執のその言葉に、凪は心配そうな顔をした。まさかそんな顔をされると思っていなかった執は、首を傾げてしまう。
「そんな人、現実に存在するの?まるで栄じゃない。もしかしたら、へんな性癖とか持ってるんじゃない?騙されてるとか…大丈夫?お金とか貸してない?」
「そんなことないよ。それに例えそうだとしても彼になら許せる」
「それはやばいよ…今、国際ロマンス詐欺とか流行ってるんだよ…?仮装通貨とか勧められても、手を出しちゃ駄目よ…?」
「あはは!それは絶対にないよ。彼は営業で、仕事がすごい出来るんだから」
「何それ、いよいよ栄みたいね」
「そう言えば、繁も元気そうだね」
「…?繁はいつでも元気よ…?」
「まあ、そうなんだけど。この前、うっかり繁の沼に落ちそうになったよ」
「アンタもついに繁の魅力に気づいたか。でも、なんで、今更…?」
「まあね、私は栄一筋だけど。でもあれを近くで見ちゃったらねえ?」
そんな言葉を止めるように、凪の手が執を制す。先ほど浮かんだ心配とはまた違った心配をしている顔だ。
「ちょっと待って。アンタ、今、何の話をしてるの?」
執は本当に彼氏の話をしているのか、凪は分からなくなっていた。まるでゲームの中の話をしているようだ。その証拠に、彼女はオタクの顔をしている。とても幸せそうで、楽しそうな顔。それがなんだかそれが妙に気持ち悪かった。
初めは、現実でそんな人に出会えたと言うことだろうかと思ったが、話しが進むにつれて、そうではない気がしてきている。そしてその考えを否定して欲しいとも。
「何って…私は幸せって話でしょ?」
「まあ、そうなんだけど…じゃあ、その人の写真を見せてよ」
「写真かあ…映るのかな…?」
「写真嫌いな人?」
「うーん、そういうわけではないと思うけど…」
途端に歯切れが悪くなった執。栄を疑わないと決めたから、現実で出来る事も実際はそうではないと割り切っている。だって、現実では味わえない事を彼は与えてくれるから、執の中では帳尻が合っているのだ。
それと同時に、凪に話した言葉に嘘はないが、なんだか騙しているような心地もしている。だから執は、今、実際に起きているありのままを彼女に伝える事にした。凪の心配をよそに、ただ単に自慢をしたいという気持ちを添えて。
「実はね、信じてもらえないかもしれないし、私自身も夢かもしれないと思ってるんだけど。今、家に栄がいるの。」
たったの一言で、凪の否定して欲しいという願いを打ち砕き、それにだけに留まらず突拍子もない絵空事を吐く。他人から見たら絵空事に他ならない。
「はああ?スマホの中の間違いじゃなくて?」
「違うよ。縮尺は違うけど、本物の栄。」
「…ついに、頭おかしくなったの?」
「そうじゃないって!本当に!」
執は自分で前置きをしたものの、いざ、ここまで疑われ、あまつさえおかしいと言われるのは面白くない。自分の口調が徐々にきつくなっている自覚はあるが、譲れなかった。そんな執の口調と同じスピードで、凪の心配も加速していく。
「そんなに言うなら、会いに来る?」
売り言葉に買い言葉。そう言うが否や、早速半ば強引に凪を連れて、家路についた。その時執は、栄が他の人間にも見えるのかという疑問を完全に失念していた。
「ただいま~」
「お邪魔します…」
そうして、栄の待つ執の家へ2人して帰ってきた。
「おかえりなさい!楽しかった?」
「うん、でも凪がね、栄に会いたいっていうから連れてきちゃった。突然ごめんね」
栄は目に見えて、ギョッとした。そんな会話の後ろでは、凪が執を伺っている。
「ねえ、誰と話してるの…?」
「え?栄に決まってるじゃん」
「いや、決まって無いし。栄なんてどこにもいないじゃない」
「何言ってんの…?ここにいるじゃん。」
少し抵抗を見せた栄を、強引に凪の前に掲げる。しかし凪の瞳は執の手のひらしか映していない。執の手のひらの上には、間違いなく自分以外の体温があるのに。
そんな執の傍らで、この状況をどうしたものかと凪は頭を悩ませる。そしてため息を一つつき、躊躇いつつ、執へ言葉をかけた。
「分かった。私の言い方が悪かったわね。アンタが剥きになることなんて想像できたのに、あんな風に言ってごめん」
「じゃあ、信じてくれたの?」
「信じるって言うか、とりあえず、一旦ね、病院に行こうよ」
「…何の?」
「私の友達の知り合いでね、腕の立つ精神科医がいるのよ」
「精神科…?」
「って言っても、ただの病院よ。健康診断だと思って、ね?なんなら、私も一緒に行くわ」
凪はついに執の奇行に、まるで子供に言い聞かせるかのような口調になる。
親友に疑われ、栄の存在を初めてはっきりと否定され、あまつさえ精神科へ行くことを勧められた執は、ショックで言葉を失った。凪にまで信じてもらえなかったら、この先どうすれば良いのだろうか。
それがしっかり表情に出た執にも、凪は言葉を止めなかった。今、ここで止めたら執は現実に戻ってこれなくなるのではないか、それは執にとって幸せじゃないのではないかという心配だけだった。もしかしたら執が執で無くなってしまうのではないかと。
「頭おかしいとかじゃなくてね、心配なの。本当に。」
「心配してくれるのは嬉しいけど…本当にいるんだよ…?凪には信じて欲しかった…」
「でも現に、私はその栄が見えてないの。だから信じようがないのよ」
「やっぱり見えてないんだ…」
「うん。多分だけど…幻覚を見てるんじゃない?」
「私も最初はそう思ってたの。でも普通に話せるんだよ?この前も一緒に出掛けて、それで…私と一緒にいられれば、それでいいって…」
執は自分の言葉なのに、自分にとっては事実なのに、言葉にすると、頭のおかしいやつと思われても仕方のない事の様に思えてきた。だから口を突く言葉はどんどん尻すぼみになっていく。もしも、私じゃない誰かが同じ事を言っていて、それを信じられないと。ならば、凪への説得は諦めるしかない。
もしこれが凪の言うように幻覚だったとしたら、随分と手の込んだ幻覚だなと、自分の事ながら呆れると共に、感心してしまう。でももう、これで良いのだ。幻覚だろうが、妄想だろうが目の前には大好きで思い焦がれた人がいるではないか。それ以上になにが必要だと言うのか。
勝手に、凪はきっと分かってくれると思っていた。いつも悪態をつきながら、私の傍にいてくれたのだから。そう思っていたから、なんだか裏切られたように思うことを止められなかった。
「うん、なんか自分で言ってて、信じてもらえないのも当たり前だなって思ってきた。でもね、私は今、幸せだからさ。このままで良いんだ。」
執の諦めたような、悲しそうな笑顔に、凪は何も言えなかった。信じがたい執の言動を、ただ心配することしか出来なかった。
凪のおかげで執は確信した。やっぱり私は栄さえいてくれればいいのだと。
*
そんな出来事から、何となく凪と顔を合わせづらくなり、初めて彼女と疎遠になった。今でも時々あの時の凪の顔を思い出すが、それは見てみぬふりだ。そうしないと、傷つくのだ。それが怖かった。もう栄の事で悩んで、日常生活が疎かになる要因を作りたくなかった。
栄との生活を送る中で、今までより一層外見に気を使うようになった執は、出会いの場が増えた。しかしそれもこれも栄のためなのだから、有象無象にどう思われようと興味はない。私は栄のために綺麗になるのだから。
*
そんなある日、職場に新しい人がやってくるのだそう。前職は敏腕営業マンだったそうで、この会社にヘッドハンティングされたそうだ。さぞ、仕事が出来る男なのだろう。
これまでだったら、もしかしてゲームの中のような出会いになるのではないかという期待を抱いていたところだが、今の執はそんなこと思い浮かびもしなかった。ただ、この職場に新しい人間が来ると言う認識だけだった。
「初めまして、今日からこちらの部所でお世話になります。大野悟です。これから、よろしくお願いします」
そんな自己紹介に、課の女性社員は色めき立つ。大野悟と名乗ったこの男は、確かに見た目もさることながら、話し方や、立ち居振る舞いまで完璧だった。たった自己紹介一つでここまで好印象な男もそうそういないだろう。
部長に案内され、席は執の隣になった。隣と言っても彼は課長席だから、正確には隣ではないのだが。席に着くと、さっそく自己紹介の流れになる。
「今日からよろしくお願いします」
「はい、よろしくお願いします。私は」
「小谷さんだよね?」
「え?ああ、はい」
どうしてこの男は私の名前を知っているのかと驚いたが、その後他の社員と話している姿を見て、この部署の人間の名前を全て覚えているようだ。執は一か月まるまるかかったほど、人数がいるのだが。やはり仕事が出来る人間というのは、物覚えも顔覚えも良いのだろう。これは勝手な執のイメージだが。
執にとってはただ課長が変わったと言うだけのイベント。しかし、この男が現れたことで、執は今まで以上に頭を悩ませる事になった。
*
「今日のランチはどうするの?」
いつも通りに仕事をしていると、いつの間にか昼になっていたと、悟の言葉で気づいた。執はパソコンの画面から顔をあげて、たった今話しかけてきた悟の顔を見る。
「普通に外に食べに行きますよ」
「良かったら、一緒にどうかな?」
「私とですか?」
「うん、ここら辺にまだ詳しくないから、オススメのお店を教えて欲しいんだ。」
「良いですけど、2人で…?」
「もし嫌だったら、他も誘おうか?」
決して押しが強いわけではないが、絶妙に誘導されている様に感じるのは執の気のせいだろうか。ここで断るのも、なんだか違う気がして、そのお誘いを受けることにした。それを羨ましそうに見る女性社員の視線は大変痛かったが、一度受け入れてしまったのだから仕方ないと執は努めてそれを見ないようにしながら、オフィスを後にした。
執のおすすめということで、チェーン店ではいけない気がして、少し前に同僚と来た少しお洒落なカフェを提案した。執自身も、その日以来来ていないのだから、少し見栄を張ったことを認めよう。
「やっぱり、女の子はお洒落な場所を知ってるんだね」
注文を済ませると、悟は店内をきょろきょろと見渡して一言。
「部長たちとランチに出ると、だいたい蕎麦とか和食だから新鮮で良いよ」
「確かにそう言うイメージありますね」
「だろ?俺はまだがっつり食べたい歳なんだよな」
「課長はおいくつでしたっけ?」
「28だよ」
「おお、もっと若く見えました」
「ははっ よく言われるけど、俺としてはコンプレックスなんだよな」
初めは警戒していた執も、悟の話術の前にはそれを解かざるを得ない。だんだんと弾んでいく会話は、テンポが良く心地よかった。
「小谷さんは、時々面白い表現の仕方をするよね」
パスタを口に運ぶ執に向かって、突然目の前の悟はそう話す。咀嚼しながら、言われた事について考えてみるが、思い当たる節はない。思わず、口いっぱいにパスタを頬張りながら、答えた。
「ほぉうでふかね?」
「あはは、ハムスターみたいで可愛いね」
楽しそうな悟の笑い声に、執はゴクリと口の中のモノを飲み下し、恥ずかしさに顔を俯けた。今のは行儀が悪かったと、後から気づいたのだ。しかしそれを指摘するのではなく、こっぱずかしい事を言っても絵になるこの男は本物だなと思った。なんの本物かはさておいて、だ。
あの日別れた彼氏と以来、執は男性と話す機会がなかった。もちろんオフィスに男性社員はいるが、執の課は女性社員の割合が高いため、話す機会はほとんどない。話すと言っても、物の貸し借りや、資料の確認程度だ。こんな風雑談をしたのはいつぶりだろうかと考えた。
*
「ただいま」
「執ちゃん!おかえりなさい!」
「うん、おりがとう」
帰宅してからも何となく、浮足立ってしまっている事は認めよう。そこに恋愛感情が無いとしても、やっぱりイケメンを近距離で見るとテンションは上がるものだ。これは女の性。仕方がない。
「なんだか、ご機嫌だね?いい事あった?」
「うん、今日さ、新しい課長が来たんだよね」
「へえ?どんな人?」
「少女漫画から抜け出してきたんか?って感じの人」
「出た、執ちゃんの面白い表現」
「いや、本当なんだって」
そう言えば、悟も栄と同じことを言ったなと、あの場面が浮かんだ。私は実は、面白い人間なのか?もしかして。
「ふーん?じゃ、かっこいいんだ?」
「だいぶね」
「俺とどっちがかっこいい?」
「そりゃ、栄に決まってるでしょ?」
「なら、良かった。」
何を当たり前の事をと言いたげな執に、栄は少し安心した表情を見せた。もしかして、少しヤキモチを妬いてくれたのかもしれないと思うと、執は胸のあたりがくすぐったくなる。
「今日ね、その課長とランチに行ったんだ」
「2人で?」
「うん、なんか男の人と話すの久しぶりで緊張しちゃったよ」
「今日の執ちゃん、課長の話ばっかりだ」
安心の表情を浮かべたのもつかの間、拗ねた声を隠さない栄に、執は栄を覗き込んだ。むすっとしている顔まで相変わらず可愛い。
「もしかして、ヤキモチ妬いちゃった?」
「うん、そうかもしれない。俺だって、男なのに」
ほんの冗談のつもりで言っただけなのに、目の前の栄が執の行動に寄って態度を変える事も、感情の話をするのも初めてだった。
「栄って、私の事でヤキモチとか妬くんだ?」
「俺をなんだと思ってるの?そりゃ妬くことだってあるよ。でも執ちゃんが楽しかったり、嬉しかったりするなら、俺も嬉しいんだけどね」
先ほどまでの表情と打って変わって、笑顔を見せてくる。どこまでも優しい栄を感じるだけで、悟とのランチなんかより、こちらの方が余程幸せだと確信した。
*
それから執の日常には、イケメン課長が増えただけで、それ以外は特に変わり映えのない日々を過ごした。毎日栄に見送られて家を出て、電車揺られて出勤して、仕事をこなして、満員電車に揺られて栄の待つ家に帰る。
ただ、そんな中で変わったことと言えば、栄が感情を露にするようになったことだろうか。今までは、そんな風に思ったことはなかったはずだが。
「ねえ、執ちゃん」
「なあに?」
キッチンで洗い物をしていると、不意に栄に名前を呼ばれた。振り返らずにその声に答えると、少し間をおいて言いにくそうな声が聞こえる。
「執ちゃんは、俺に嘘をつかないよね?」
「突然どうしたの?」
「ううん、ちょっと気になっただけ」
ちょっと気になっただけではなさそうな言いぐさに、栄は今どんな顔をしているのかと振り返る。しかしキッチンからはその表情を伺えない。
「嘘なんてつかないよ?」
「でも初めの頃は嘘をついてたじゃん」
「…そうだっけ?」
「そうだよ、忘れちゃったの?俺がどうしたの?って聞いても、何でもないって言うし。何でもなくなんいくせに。あの時、執ちゃんは俺の事疑ってたんでしょ?」
「いや、違くて…」
「違くないよ。実は俺、最近気づいたんだけど、執ちゃんが俺を疑う度に、ここにいられなくなりそうになるんだよ」
「…どういうこと?」
いよいよ不穏な空気に、執は洗い物の手を止めて、栄のいるテーブルへ急ぐ。この話はちゃんと聞かなければならないと本能で分かった。
「あの頃、急に俺の世界が変わったんだ。執ちゃんがゲームの話をする少し前からさ。初めは気づけなかったけど…。」
「…もしかして、新人ちゃんの話?」
「うん、執ちゃんも気づいてると思うけどおかしいと思わない?今まで、会社の事なんて思いだしもしなかったのに」
「それは私がゲームにログインしちゃったからじゃないの?」
執は気になっていた。あの日、何となくで開いたゲームのせいで、栄はゲームの世界に戻ってしまう原因になったのではないかと。執は家にいる栄の存在を、ゲームの中でも確認したのだ。それがトリガーになったと言う話なら、納得が出来る。世界に同じ人間は二人もいないのだから、なんだか当たり前の様にも感じる。そのため執は、あの日からゲームは開いていない。しかし、栄はそうではないと言う。
「それもあるのかもしれないけど、それだけじゃないと思うんだよね。俺さ、これまでの記憶とかほとんどなくて。もちろん会社の奴らの事は覚えてるよ。どんな事があったとかは。でもそれだけだったんだよね。
なのに、段々、色々思いだしてきたんだよ。子供の時の事とか、学生時代の事とか。当時の彼女のこととか。」
その単語を聞いた瞬間。執の脳裏にあの夢が過った。繁の言った“元カノ”。執はそんな存在を知らなかったが、今の栄の話を聞いていると、本当にいたのだなと思う。繁の言っていた事は、このことだったのだと。
「その元カノと何かあったんでしょう?」
「どうして知っているの?」
「繁に聞いたんだ、ちょっとだけ」
「ああ、繁か。そう言えば、いつかの飲み会でそんな話になったっけな」
栄は何かを思いだす様に視線を上に向けながら、思い出話を続ける。
「そうそう、繁の言う通り浮気をされてさ。それも独りじゃなくて、何股もされてたみたいで。俺の事を一番って言ってたのに、彼女の一番はたくさんあったみたい」
「そんな…酷いよ…」
「酷いか…」そう呟いて、栄は言葉を止めてしまった。その表情は執の見たことない物で、何か言葉をかけなければという焦りに襲われる。
「ねえ、栄。急にどうしたの?」
「急じゃないんだよ、執ちゃんは本当に俺だけ?言ってたじゃん、私には俺がいれば十分って。あの言葉は嘘だったの?」
まるで念を押すような栄の言葉に、執はいよいよ意味が分からない。栄の頭の中では、今、どんなことを考えているのかさっぱりわからず、急に栄の存在が酷く遠くにあるような気がした。すぐそこに、手の届く場所にいるはずなのに。何が栄をここまで不安そうな顔をさせているのだろうか。それは執の問題なのだろうか。
しかしその後、栄はいつもの様に「もう遅いから寝ようか」と笑うから、その言葉に従わざるを得なかった。これ以上何かを言って、栄が不安になる方が執は嫌だった。この日常が終わるのが怖かった。
*
この日から、栄はたびたび、確認をするように、執へ「俺だけだよね?」「嘘をついていないよね?」と口癖のように聞いてきた。その度に、執は、「私には栄だけだよ」と答える事しか出来ない。その言葉で少しでも安心してくれるのであれば、何度でも伝えようと思った。
そんな栄の様子を心配しながらも、今日も出社し、仕事に励んでいると、悟に再びランチに誘われた。間違いなく、前回の昼食は楽しかった。だからその誘いに頷こうとしたが、栄が不安になるようなことをしたくないと言う気持ちが勝った。
「すみません…今日は…」
「誰かに先越されちゃったかな?」
「いや、そう言うわけではないんですけど」
「そう?小谷さんは面白いから、もっと君の事を知りたいんだけど。それに仕事の話もしたいしね」
ここで仕事の話もと言われてしまうと、今後の事を考えて渋々了承する他の道が無いように思えた。それにしても、悟は緩やかに逃げ道を塞ぐのが上手いなと思う。そして、執はそれに気づいても、嫌な気持ちは一切しないのだ。
誘われた店は、初めて食事に行った店よりもお洒落で、女性受けのよさそうな店だった。執はオフィスの近くにそんな店があることを知らなかった。悟はまだオフィスに来てから、数か月だ。やはり出来る男は違うなと思ってしまう。
「こんなお店があるの知らなかったです。お洒落ですね」
「この前、営業帰りにたまたま見つけたんだよ」
爽やかな笑みを浮かべて、席に着く悟。栄に言った“少女漫画から出てきた”という自らの表現は当たっていたなと思ってしまう。何をやっても絵になる男なんて、早々お目にかかれないだろう。
食事が運ばれてくるまでの間も、あの日と変わらずに話が弾んでいく。それは食事、食後も続き、気づけば休憩の終わる時間が迫っていた。
悟は腕時計を確認して、当たり前の様にさっと伝票を手にする。執はレジに向かうその背中を慌てて呼び止めた。
「自分の分は払いますよ」
「俺が誘ったんだから、ここは払わせてよ」
「でも…前回も」
「俺がやりたくてやってるんだから良いんだよ、かっこつけさせてよ」
そこまで言われてしまったら、もうそれ以上言葉を重ねるのは無粋な気がした。その言葉に甘えて会計を終えて、店を後にする。
「すみません…ご馳走様でした」
「どういたしまして、俺こそ、なんか強引な感じになっちゃってごめんね」
「そんな…全然です。次は、私がご馳走するので」
「また一緒に食事をしてくれるの?嬉しいな」
これではまるで誘導尋問のようだと口を噤んだ執に、してやったりの笑顔を浮かべた悟は、店先で立ち止まり、執と視線を合わせる。
「もし良かったら、こうやって時々ランチに付き合ってよ。良い店探しておくし」
それはなんだか、特別な響きだった。ただの仕事仲間には向けない瞳と、言葉な気がしてしまうのは、執の気のせいだろうか。
「それって…」
「うん、本当はディナーに誘いたいんだけど、それはまだ断られちゃいそうだからさ」
冗談めかしてそう言った後、「まあ、考えておいて」と、会社への道を歩きだしてしまうから、執は再びその背中を追いかける事しか出来なかった。
*
そんなことが合って、悟は隙あらば執をランチへ誘った。そして、初めこそ断る口実を探して、それでも見つからず、何度かランチを共に過ごした。それが何度も続くと、いつの間にか、断る口実を探さなくなった。そんなことより、いつしかその時間が楽しみになっていた。
「そろそろ、一緒にディナーでもどう?」
「でも私、あんまり遅くなると…」
「もしかして、彼氏がいるのかな?」
その問いに、真っ先に栄の顔と、凪の顔が同時に浮かぶ。疑わないと誓った栄と、それを心配してくれた凪。この彼は、凪の様に、頭がおかしいのではないかと、凪の様に病院へ行くことを勧めるだろうか。
しかし、栄と自分は、果たして、恋人なのかも分からない。お互いがお互いを大切していると言うことは分かる。しかし、これが恋人なのかと聞かれると、分からなかった。
「彼氏というか、大切な人がいるんです」
「じゃ、彼氏ではないんだよね?だったら、問題はないと思うけど」
そう言われると、そうな気もしてしまう。悟という現実の、三次元の男と共にいると、こちらが正解な気がしてならなくなる。
そして、あれよあれよとディナーの予定が決まった二人は、オフィスへ戻る道に着く。これもいつものことだ。執は自分自身に何度目かの言い訳をする。だって仕方ないじゃん。悟は上司で、それでいて一緒にいると楽しいんだから。これは、栄への裏切りではないと、自分を納得させるのだ。
*
仕事が終わり、家路に着くと、今日の出来事を振り返る。いつもの帰宅時間より遅くなることは栄に伝えた方が良いだろう。しかし、その詳細を聞かれたらどう答えようか。もう、栄にあんな不安そうな顔をさせたくないと言うのが本音だ。しかし、嘘をつかないと言う約束もある。
こんな日に限って、電車の乗り換えが上手く行き、普段の帰宅よりも少し早くなった。まだ、執の中では、栄への上手い言葉はまとまっていない。
「ただいま」
「執ちゃん!おかえりなさい!」
「うん、あのさ…」
言いにくい話は、早々に片づけてしまうのが得策だ。時間が経てば、経つほど、言い出しにくくなる自分の姿が目に見えている執は、さっそく、栄に食事の話をしようと、切り出した。しかし、それを遮る声に執は思わず言葉を飲む。
「待って、嫌な話だね?」
「嫌な話…?」
「だって、そんな顔をしてる」
執を疑うような、見放された事を嘆くような口ぶりだ。どうしてそんな顔をするのだろうか。これではまるで、私が悪い事をしているみたいじゃないか。そう思いながらも、栄には強く出る事なんて出来ない。だから、その質問には答えずに、昼間に浮かんだ質問を投げかけた。
「あのさ、私と栄は恋人なのかな?なんか、今日、彼氏はいるのかって聞かれて、急に分からなくなっちゃったんだよね。」
「もしかして、課長?」
栄にはお見通しらしい。恋人か否かの質問には答えずに、ただ一言執に投げかけられた言葉。しかし、それは小さな棘を携えて執を刺す。
「最近、楽しそうな顔をして帰ってくるけど、詳しい事は話してくれなかったから、きっとその課長と何かあったのかなとは思ってたんだ。でもそっか。そんなことを聞かれるくらい、仲良くなったんだ…。」
栄は執を攻めるような言い方を辞めない。
「やっぱり、執ちゃんは俺だけじゃないんじゃん。本当に、その課長は、俺よりも執ちゃんの事大切に思ってる?」
「そんなこと…分からないよ…」
「嘘。本当は、分かってるんじゃない?その課長が、執ちゃんの事どう思ってるか」
少なくとも、ただの部下だとは思われていないだろう。そしてその感情は、好意というだけでは、治まらない気もしていた。
「執ちゃんは、また俺に嘘をつくんだね」
その言葉に、執はもうなにも言えなくなっていた。栄のことが大切で、大好きな気持ちは変わらない。しかし、今の自分の中には、それだけではないのだろう。自分自身で言葉にすることは難しいが、栄にはそれを見破られているようだ。
*
再び、仕事に手がつかなった。これの原因は毎回、栄なのだ。でも頑張ることが出来るのも、間違いなく栄のおかげなのだ。だから、ここは上手く頭を切り替える事が必要不可欠なのだが、執にはそんな技術は無い。小さなミスを繰り返した後、取り返しのつかないような大きなミスをしでかした。
“学生じゃないんだから”仕事に責任持たなければならない。それなのに、小さなミスが積み重なり、それでもそれに気づくことが遅れ、大きなミスに成長してしまった。せめて繁に言われた、‟ミスは早めの申告”が必要だったようだ。
「本当に、申し訳ございませんでした」
それでも、まだまだひよっこの執に、自分のミスを自らでカバーする力なんてあるはずもなく、その全ては課長である悟の肩にかかってしまう。執はそのことを知っているから、謝り倒すことしか出来ないのだ。それがただただ、申し訳なく、悔しい。
「ミスは誰にでもあるから、同じことが無いように気を付けてくれればいいよ」
「でも…」
「うん、それでも謝らずにはいられないんだよね。分かってるけど、本当に大丈夫だよ。課長ってそういう仕事だから」
責められた方がいっその事楽だと思ってしまうほど、優しい言葉に、張りつめていた糸が切れた。涙があふれる事を止められず、執はそれを隠すために俯くが、堪え切れない鼻水と、嗚咽はバレてしまう。その姿に、悟は何も言わずに、ハンカチを差し出す。それがまた痛くて仕方ない。ありがたくお借りして、涙が過ぎるのを待つ。
泣いて済む話でない事なんて分かっているし、迷惑をかけた自分が泣くのは筋違いだということも分かっている。それでも、自分の使えなさを痛感してしまい、痛くて、悔しくて、どうしようもなかった。
立ったままだった執をイスに座らせながら、悟は昔を懐かしむように、話しだした。執に聞かせるように、そして昔の自分を励ます様に。
「俺もさ、新人の頃、結構大きめのミスをしたんだよな。その時は落ち込んだなあ。それこそ、色んな人に謝り倒したよ。家に帰ると、悔し涙が止まらなくてさ。大変だったなあ。」
ふっと懐かしむように笑い、すぐに真面目な声で続けた。
「そんな俺が言うのもなんだけど、きっとそう言うもんなんだよな。誰にも迷惑をかけない人間なんていないんだよ。俺は、人生でその迷惑をかける量って決まってると思ってるんだよな。それが少しずつか、一気にかはそれぞれなだけで。
きっと小谷さんは、今回が少し大きめに出ちゃったんだろうね。だから、今後は大丈夫なんじゃないかな」
執の頭に優しく手を乗せて、髪をかき混ぜながら「まあ、俺は迷惑だなんて思ってないけど」と話す。そして、
「俺も、応援してるし、見守っているし、手を貸すからさ。俺が背中にいるってことだけは忘れないで」
優しい笑顔で話されるそんな悟の持論を聞き終わることには、執も落ち着きを取りもだどしていた。数か月前に、部長に言われた言葉はただただ、不甲斐なさを増長させたが、悟の言葉は、次への活力に変わっていく心地がした。
「ありがとうございます、でもやっぱり最後に謝らせてください。私にはまだ、謝ることしか出来ませんので。本当に、すみませんでした。」
「うん、じゃ、俺からも。本当に大丈夫だよ」
*
この日をきっかけに、執の悟への見る目が変わった。それまでは、会話は楽しいが、どこかで身構えていた部分もあったが、それがただ尊敬する上司へと、また、優しくて、特別な存在になっていった。
しかし、そう感じてしまう度に、毎度罪悪感に苛まれるのだ。栄は嘘をつかないでと執に言う。悟の話をするときは、嘘をつかないように、それでも悟に芽生えている感情には触れないように、細心の注意をしなければならない。そんなことを考え始めると、もともと不器用な人間なのだ。そんなことを考え始めると、おのずと会話はぎこちないものへと変わって行ってしまう。それに栄は気づいているかは分からない。
*
そこは見慣れた居酒屋で、しかし、そこにいるはずもない繁の姿があった。その瞬間、執にはこれが夢だと分かった。しかし夢だと思っても、誰にも相談できなかった栄と悟の話をしたいと思った。
現実では誰にも話せるわけがないのだ。あの親友すらも信じてくれなかった言葉は、きっと誰の目から見ても頭がおかしいと言われると分かっていた。
目の前で繁は、伺うような目を執に向けている。
「なんかあった?」
「え?」
「え?じゃないだろ?お前が話したい事があるって言ったんじゃん」
「あ、ああ、そうそう。あのさ、栄さんの事なんだけど…」
「え?ついに付き合った?」
「いや、どうなんだろ…」
「なんだよ、歯切れ悪いな」
手に持っていたジョッキを煽って、繁はこの世界の栄について唐突に話しだす。
「まあ、様子がおかしいのは課長も一緒だけどな」
「栄さんが?」
「うん、なんか上の空じゃない?まあ、お前もお前で上の空だから、気づかないと思うけど」
夢の中だと分かっているはずなのに、そうでない気がしてしまう。最近は栄の顔を見れていないことに気づく。栄がどんな顔をしているのかを考える余裕なんてなかった。
「なんか、最近分からないんだよね、自分の気持ちが。栄さんの事好きなのは変わりないよ。これは本当に。でも、このままで良いのかなとか、栄さんの気持ちがよく分からなくて。この前も…」
一言話出すと、今まで一人で抱えていた気持ちがあふれ出してしまう。繁はそれを黙って聞いていてくれるから、なおさらだ。
私は確かに、疑いようもなく栄の事が好きなのだ。それでも悟にも好意を抱いているのも間違いない。この気持ちが恋愛感情なのかはまだ分からないが、少なくとも、もっと話してみたい、もっと知りたいと思っている。そして、これが栄への裏切りなのではないかとも。
あの日栄に言われた、「その人は俺より執ちゃんを大切に思ってる?」という言葉が耳から離れない。そして、「執ちゃんは、俺に嘘をつかないよね」という言葉と共に、何度も頭の中を過るのだ。
「課長の気持ちは俺には分からないけど、この前話したようにに、間違いなく執の事を大切に思ってるのは間違いないよ。お前より、俺の方が付き合い長いからね。分かるんだよ。」
そんな風に言われてしまえば、執の事を大切にしてくれている栄に対して、執がその気持ちを無碍にしている風になっているような気がしてしまう。罪悪感がまた一つ上乗せされた気分だ。しかし、そんな執の胸の内に気づかない繁は、「でも…」と最近の栄を思い出しているのか、首を傾げる。
「最近は、大切すぎて過保護って感じだよな。なんかお前が変に思うのも無理ない気がするわ」
「過保護か…うん、そんな感じするね」
栄の事を話せるのは、同じ世界の人間だけだろう。繁なら、栄の存在を当たり前の様に信じてくれる。だから、ここ数か月の栄について、相談するのなら、ここしかないと思った。夢だと言うことは分かっているが、執には、ここしかもう頼る場所がなかった。
「それに、なんかね、すごい嘘に拘るの。嘘をつくことをすごい嫌がるみたいな。」
「そりゃ嘘はつかれたくないだろ」
「うん、まあそうなんだけど、普通じゃないって言うか…」
繁は分からないなりに、真剣に考えてくれている。うーんと首を傾げながら、やはり思い当たる節は一つしかないのだろう。
「やっぱり元カノの影響かね?」
「たくさん好きな人がいたんだって」
「ん?その元カノが?」
「そう言ってた。大切な人は俺だけじゃなかったって」
「ほーう、でもさ、それって俺らの中では普通じゃない?」
「え…?」
「ただ、課長はちょっと潔癖なんだよな。」
執の疑問には答えずに、繁は少し諦めたように笑った。
その笑顔が意味が分からず、それでもなんて聞けばいいのかも思いつかない執は、そのまま現実に引き戻された。
*
目が覚めると、目の前は見慣れた天井で、いつもと変わらない日常が始まろうとしている。夢の中で見た繁の笑顔が脳裏こびりついて離れない。
彼だけじゃない事が当たり前というのはどういう意味か、いくら考えても分からない。好きな人が幾人もいるということが当たり前なのか。執には、それがどうしても理解できそうにない。
確かに浮気も不倫も存在自体は知っている。そして、それが無くなることのない人間の心理も知識としては知っているつもりだ。しかし、この世界で、いつ、それが当たり前になったのか。それは酷く歪み、自分本位に思えてならない執は、もしかしたら繁が栄に言った潔癖なのだろうか。
「ねえ、栄?」
「なあに?」
「栄の好きな人は1人なの?」
「当たり前じゃん、俺には執ちゃんだけだよ?」
「…」
「もしかして、執ちゃんは違うの?」
何気なく聞いたつもりだったが、栄にとっては地雷だったようだ。見る見る険を宿していく声。
「いや、そうじゃなくてさ」
「俺は執ちゃんが幸せなのが一番だよ」
「…ありがとう」
「でもそれは、俺にしか出来ないと思ってるんだよね」
「そうかな…?」
「そうだよ、俺以上に執ちゃんを大切にできる人がいるとは思えないね」
迷いなく紡がれていく言葉達に、執は初めて栄を怖いと思った。ここまで来ると、様子がおかしいどころの話ではない。いくら、過去に浮気をされていたからと行って、ここまで一人の人間に執着してしまうものなのだろうか。そこまでの思いを抱いたことのない執には、理解できない境地だ。
*
「小谷さん?」
「…はい、何ですか?」
「いや、今日の夜、予定通りで大丈夫?」
そう悟に声をかけられて、今日の日付を思い出した。今日は、悟と夕飯の約束をしている日だ。
「あ、今日か…」
そう言えば、栄にはこの話を出来ずじまいだった。忘れていたわけではない。何度も言おうとはしていたのだ。しかし、ついにはそのタイミングを逃してしまっていた。
「もしかして、厳しそうかな?最近、なんだか浮かない顔をしている事が多いから、心配だよ」
もう自分一人で抱えるには大きすぎる悩み事に成長してしまった栄の存在。分からないのだ。どうして栄はあんなにも私に執着をするのか。そして、いつからこうなってしまったのか。
初めは、栄がいるだけで十分だった。それ以外いらないとすら思っていた。だから必死で栄がどこかへ行ってしまわないように考えた。それに比べたら、今の状況は願ったり叶ったりのはずだ。
しかし、今は、栄以外にも、私の糧になってくれる存在が傍にいる。そしてその人は、私に好意を持っていてくれているだろう。その安心に傾く気持ちは狡いだろうか。他に気になる人が出来たからと言って、栄を選ぶことを辞めてしまうのは、不誠実なのではないだろうか。
栄を蔑ろにすることなんて執にはできなかった。ずっと好きだったのだ。恋焦がれていたのだ。そして今もその気持ちは色あせていない。ただ、一つ言うのなら、栄の存在が曖昧なことだけだ。
彼は、私以外には見えない。そして、見えてしまう私は、世間一般から見れば、頭のおかしい人間なのだ。それでも良いと言っていたあの頃と、今の私はなにが違うのだろうか。新しい存在だろうか。だとしたら、浮気をしているのと何が違うのだろうか。
「もし、厳しそうならリスケしようと思ってたけど、やっぱり小谷さん悩み事があるみたいだから、その話、聞かせてよ。聞くくらいしか出来ないかもしれないけど、吐き出すと見えるものもあると思うから」
それは執にとっては、甘いお誘いだった。もしかしたら彼は私の事をおかしいと言わないのではないかという希望まで抱いてしまっている。
もし、そうだったら、私はどうすれば良いのだろうか。この気持ちを抱きながら、栄を選ぶことが出来るのか、執には自信がなかった。
*
連れて行ってもらった場所はこれまでのランチとは異なり、大衆居酒屋の少しお洒落版と言ったところか。ディナーと言われていたから、身構えていた執は肩の力が抜ける気がした。
連れられるままに店に入ると、個室に案内される。
「本当はさ、ホテルのレストランとかの方が女の子は好きかなって思ったんだけど、小谷さんはこういう所の方が好きかなって思って」
「違ったら、ごめんね」と言いながら、ドリンクの注文をするために店員を呼んだ悟を凝視してしまう。どうして彼は分かったのか。普段、連れて行ってもらうカフェは確かに可愛くて、お洒落だ。その空間にテンションがあがることは確かだが、それと同時に少し肩に力が入ってしまう。お洒落な女子でいなければと強要されている気分になってしまうのだ。
「どうしてですか?」
「ん?何が?」
ドリンクが運ばれてきて、乾杯を終えると、思わず口をついてしまった疑問。
「だって、私、こういうところが好きって話たことありません」
「やっぱりこういう所の方が好きだった?良かった」
そして酒を一口運ぶと、なんてことない簡単な問題を聞かれた先生のような声で話す。
「さっきのどうしてって言うのは、何となくかな。確信があった訳じゃないけど」
「可愛くないですよね」
「どうして?好きなものに、可愛いも可愛くないもなくない?」
どうして彼は、こうも執の欲しい回答をくれるのだろうか。それを嬉しいと思うと同時に、辞めて欲しいとも思ってしまう。これ以上、彼に惹かれたくなかった。解釈違いを起こした方が、ましだと思ってしまっている。私はいつからこんなにも我儘になったのだろうか。
「あの…私の悩み事聞いてくれますか…?」
気づいたら、そう切り出していた。きっと悟の発する空気に当てられたのだ。悟は執のその言葉に、笑顔
で頷いてくれた。
「この前、私には大切な人がいるっていう話をしましたよね。その人が、最近、すごく私に執着しているなって感じる事があるんです。だからと言って、嫌というわけでもないし、私も執着していた部分があったので…。
その人は、昔恋人に浮気?をされていたらしいんです。だから、嘘をつかれることが嫌いだって、私は離れていかないよね?って何度も確認するんです。
男性の心理的に、これってどういう意味なんでしょうか?」
執の言葉を最後まで聞き終えると、悟は「そうだな…」と言った後、少し口を閉ざした。
「もしかしたらだけど、その人は、執ちゃんの事が好きで好きで仕方ないんじゃないかな。嘘をつかないでって言うのは、その過去の事もあるだろうけど、それ以上に嘘をつかれたら、どんどん関係が不確かなものになっていくと思わない?それってお互いにとって、不幸なことだと思うんだ。
よく、ラブソングでも聞くじゃん。あの言葉は嘘だったんだね、あのやり取りはもうここには無いんだねって。恋愛で、同じ気持ちを1人の人間に抱き続けるのって、すごく難しい事なんじゃないかな。でも、それって決して嘘をつこうと思ってついてるわけじゃないけど、受け取る側からしたら、嘘に感じてしまう。そんなつもりは無いんだけどね。」
「でも、浮気をするって本当の事は言えないですよね?」
「そりゃそうだよ。でもそれっていきなり始まるわけではないんじゃないかな?その前に不満とか不安があった可能性もないわけではない。まあ、そう言う質の人もいるのかもしれないけどね」
そこまで言うと悟は、チラッと執の顔を伺うようにした。
「これも勘違いだったら、あれなんだけど…。なんだか、難しい相手みたいだね」
「難しい…?」
「うん、だって、その人についての悩みなのに、あまりにもぼかす部分が多いからさ。もしかして俺には言いにくいのかもしれないんだけどね」
そう言って、悟は困ったように笑った。ぼかしているわけではない。執には、栄の事をあまりにも知らないから、言いようがないのだ。あんなに好きでどうしようもなく、理解をしているつもりだったが、口に出すと、知らないことばかりだ。
「そんな…課長だからとかではないんです…本当に。でも、課長に限らず、誰にも言えないと言うか…」
「そっか、まあ兎にも角にも、今日は飲んでよ!お酒強かったよね?」
その言葉を合図に、それまでの会話が連れてきた重い空気を払うように、職場の話、自分達の思い出話、様々なことを話した。話せば、話すほど、彼の事が分かった。幼い頃はどんな少年だったのかも、学生時代の話も、彼を形成させる物が見えてくる。
あまりにも楽しくて、安心して、執は久しぶりにこんなに笑ったなと、足取りも軽く家へ帰った。ここで早い時間に帰ろうと言いだしてくれる悟に、好感は募るばかりだ。
*
「ただいま~」
「…おかえりなさい」
「遅くなってごめんね、今日職場の人に飲みに誘われちゃってっさ。断れなかったの」
嘘ではない。紛れもない真実だ。しかし、執の中の罪悪感がまぎれるわけでもなく、変なテンションになってしまっているのが自分でも分かる。こういう所をもっと器用に振舞える人間になりたいと切に思ってしまう。
「そっか、じゃ、ご飯食べてきたんだね。楽しかった?」
「うん、普通かな。ちょっと疲れちゃったから、お風呂入ってくるね」
「うん、お疲れ様、行ってらっしゃい」
何となく栄の顔を見る事が出来ずに、逃げるように脱衣所に駆け込んだ。楽しかったが、咄嗟に口を着いたのは、少しの嘘だった。
風呂から上がると、栄は執が帰ってきた時と同じ場所で執を待っていた。何かを決意した眼差しに、執は勝手にビクッと身体を強張らせる。
「なんか最近さ、俺のせいで執ちゃんは幸せじゃないのかな?」
「どういう意味?」
「俺は、何度も言うけど、執ちゃんを幸せにできるのは、俺だけって思ってるんだよ。でもそれを想えば思うほど、伝えれば伝えるほど、執ちゃんが苦しいのかもしれないって」
「でもね、俺も怖いんだよ。執ちゃんの中で俺だけが一番じゃなくなることが。」
苦しそうに栄は話す。初めの頃だったらこんな表情を見てしまったら、何もかもがどうでもよくなっていたところだが、その顔を見て今執が思うことは、異なっていた。
栄を優先しない未来、栄に本当の自分を理解して欲しいと思う未来が来るなんて思わなかった。栄には、ずっとゲームの中の私みたいに、お洒落で、栄の事がただただ大好きな私だけを知って欲しいと思っていたはずのに。
「私は栄の事、本当に大切に思ってるよ。それに栄も大切に思ってくれてるって分かってる。それがすごい幸せなことだなって。でもさ、なんで、そこまで何を怖がってるのかは分からないの。いくら元カノの事があったとしても、少し…変だなって」
「変…かな…?」
「変って言うか…とにかく分からないんだよ、栄のことが。その元カノと何があったの?」
初めて栄を否定した気がした。そして、今まで怖くて、この生活が変わってしまうことが怖くて聞けなかった話を、今は、聞きたいと思った。今なら聞くことが出来ると。例え、この生活が変わってしまっても、聞かなければならないという使命感すら抱いている。
栄は言いにくそうに、それまで執を捉えていた瞳を俯けた。言葉を探すような素振りに、言いたくない言葉が返ってくるのだと分かった。それは執にとっても、栄にとってもだ。
「心あたりはない?」
「心あたり?」
「執ちゃんは、いつでも俺だけだった?」
元カノの話を聞いているのに、どうして執の話になるのだろうか。
「何をしてても俺だけだった?」
“何をしてても”栄だけだった。彼が自分の生活の一部だけだった。そりゃ他のゲームもプレイもした。好きなアニメも、そのキャラクターも好きになった。
そこまで思うと、“俺だけだった”のか。ゲームはゲームだ。そうだ、栄はゲームのキャラクターなんだ。だから…だから私は…。
執は言い淀む。本当に、栄だけを推していたのか?推しは1人でなければいけないのか?
「でも、それは、ゲームの話でしょう?」
「俺は、ゲームのキャラクターだよ?」
真剣な瞳にそこまで言われて、やっと執は栄の言いたい事が見えてきた気がした。
あのゲームは、何万というユーザーがいる。そしてその中の何人もが栄を推しているだろう。しかし彼女らの中で、何人が栄以外推しを持っていなかったか。
オタクという生き物は、特に二次元の世界となると、複数のジャンルに推しが出来る事が多い。それを栄は許せないのだろうか。傷ついたのだろうか。だとしたら、栄は何度人に傷つけられたのだろうか。
そう思った所で、“俺らの世界では当たり前じゃない?”という言葉が浮かんだ。
「でもそれは…みんなそうじゃない…?」
「うん、そうなんだよ。でも俺は…それが寂しかった。みんな俺だけって言ってくれるのに、それじゃ、俺だけじゃないじゃん。みんながそうだからって、執ちゃんもそうだと思わなかった。思いたくなかったんだろうな。」
栄が執の前に現れてから、数か月。もうすぐ一年になるだろうか。初めは本当に栄しか見えていなかった。そのせいで、栄は執に希望を抱いたのではないか。
そう思うと、なんだか自分が栄を振り回していたんのかもしれないと思ってしまう。栄に振り回されている気がしていたが、それは勘違いなのではないかと。
「でもね、最近の執ちゃんを見ていると、楽しそうで、なんだか少しだけ安心もしてるんだよ。俺以外に執ちゃんを幸せに出来る人が傍にいるなら、その人と幸せになった方が、良いと思うんだ。だって、俺はこの先もずっと執ちゃんと手を繋いで歩けないし、抱きしめてあげることも、まして結婚することも出来ないんだから」
安心したと言いながらも、栄はまるで自分自身に言い聞かせているようだ。
「そろそろ元の生活に戻らなきゃなって思うんだ。ここにいたら、執ちゃんの邪魔になっちゃう気がするし。」
「ここからいなくなっちゃうの…?」
「例えここにいなくても、俺と執ちゃんはいつでも会えるでしょう?」
「でも、こうやって話せなくなっちゃうじゃん」
「そんなことないよ、今までもずっとお話してたじゃん」
まだ、納得をしない顔の執に、栄は優しく説き伏せる。
「俺が生まれたきっかけを知ってる?」
「分からないよ…それよりも…いなくなるなんて、言わないでよ…私どうしたらいいのか分からないよ…栄がいれば十分なんだよ…?その気持ちは変わらないのに…」
この生活が終わる心の準備はまだ出来ていない。この生活が幸せだったことに変わりはないのだ。それを今、突然手放さなければならないと言われたら、執はどうすれば良いのか分からなくなってしまう。もっと悩む時間が欲しかった、選択の余地を与えて欲しかった。
こんなにも独りよがりで、我儘で、優柔不断な自分、知らなかった。まだ待って、そう言ってしまうのは、それこそ狡い気がした。待ってもらったとして、自分はどうするつもりなのかも分からない。それに栄を付き合わせるのは、お互いにとって、良くない事だと分かる。それでも…。
今のも泣き出しそうな執のその言葉に栄は静かに微笑み、それでもそれには答えずに、“俺が生まれた理由”を話す。
「俺は、幸せな日常を少しでも届けたいっていう願いから生まれたんだ」
「執ちゃんは、俺といて幸せだった?」
「そんなの…当たり前じゃん…」
「なら、俺がここに来たのも間違ってないね。それに願いも叶ってる。さっきはああ言っちゃったけど、執ちゃんの幸せが俺の幸せだよ。これだけは忘れないで」
さっぱりとした顔で、そう締めくくった栄は机の上に置かれた執のスマホへ歩み寄る。
「それじゃあ、行こうかな。ここにいたら、決意が鈍っちゃいそうだからさ。最後に…」
クルリと執に向き直った栄は、今まで見たどの笑顔よりも素敵に、嬉しそうに笑った。
「たまには会いに来てね、いつまでも、執ちゃんが俺を思ってくれてる間は、俺も変わらずずっと大好きだよ」
そう言い残して、執の言葉も聞かずに、栄はスマホに飛び乗ると、そのまま画面の中へ消えていった。
その光景を見て初めて、執は栄にありがとうを伝えられていないことに気づいた。それでもあまりにも突然の事過ぎて、何も言えずにお別れをしてしまった。間違いなく、この一年の生活は幸せだった。栄の事を忘れる事なんて、きっとずっとないだろう。胸にぽっかりと穴が空いた心地だ。
この家に独りぼっちになるのは、久しぶりな気がした。あのぬいぐるみ一つ分にも満たない栄の存在は、その大きさとは異なり、執の中で大きすぎるものだったのだ。
私の幸せって何だろう。今の執には分からなかった。栄を失うことは、本当に私の幸せだったのだろうか。もしかしたら、一時の気の迷いで栄を失ってしまったのではないか。私は、本当に、現実で、現実だけを見て、生きていけるんだろうか。
*
あの日から、執はそんなことをグルグルと考え続けている。寝ても覚めても栄ばかりだ。その点において、今までの生活とはなんら変わりはないのだが、大きな変化があったように感じ続けている。だって、もう栄は側にいてくれない。
仕事は普段通りのつもりだ。何度も同じ轍は踏めないと、確認だけはいつも以上にするようにしたおかげで、失敗こそないが、仕事しかやることが無くなってしまったように感じている。仕事をしていれば、栄の事を考えずに済むのだ。
「小谷さん…?大丈夫…?」
会社の休憩スペースで、ぼーっとコーヒーを飲んでいると、後ろから声をかけられた。こんな風に、執の名を呼ぶのは悟しかいない。
「ああ、はい…」
「もしかして、この前、俺が言ったこと…間違えてたかな…?」
きっと悟は何も間違えていない。間違えていたのだとしたら…それは執だ。
「大切だった人を傷つけたんです…それで…私の前からいなくなっちゃいました…」
そこまで言うと、執の頬を一筋の涙が伝った。胸に空いた穴から涙が零れだした。痛い…栄のいない生活が痛くて仕方ない。
だから執はそれが痛まないように、ゲームを開けないでいた。これ以上、栄に私を傷つけて欲しくなかった。それは栄を傷つけた一人に自分もなってしまったことへの罪悪感もだ。
「その人は私に幸せになってって言ってました。でも…私はその人がいない幸せを思いつけないんです。それで、あの日私が言った言葉は、正解だったのか…分からなくて…」
涙が溢れている事も気にせず話し続ける執の隣の椅子に腰を掛けた悟は、体重を後ろに預けながら天井を見て話しだす。執の泣き顔を見ないようにしてくれているのだと分かり、涙は留まることを知らない。
「何種類かあるから大丈夫だよ」
「え…?」
「幸せって一種類じゃないでしょ?ご飯を食べて幸せとか、趣味を楽しんで幸せとか、綺麗な景色を見て幸せとかさ。今は、大切な人を失ったってことが大きいと思うけど、そう言う小さな幸せをたくさん摂取して行けば、ゆくゆくはちゃんと、自分は幸せって言えるようになるんじゃないかな?」
「これもまた持論なんだけどね」と悟は、恥ずかしそうに笑った。
「でもさ、その大切な人は小谷さんに幸せになってねって言ったんでしょ?それじゃ、幸せにならなきゃいけないね。幸せになる義務があると思うよ」
悟の言う、幸せになる責任、それはあまりにも優しすぎる義務だ。
「なんかいつも、俺ばっかり語っちゃってるね。」
「そんなことないです。いつも課長には助けてもらってばっかりなんで…」
執の頬に残る涙を指先で拭い、「ねえ、小谷さんの事も、もっと教えてよ」そう言って悟は執の手を優しく取った。
*
あの日、一緒に来た居酒屋。つい最近な事のはずなのに、随分前の事の様に思えてしまう。あの日、感じたはずの、楽しいと言う気持ちを抱けずに、案内された席に着き、乾杯を。
「小谷さんは何が好きなの?」
その問いかけに、執は何をしている時が幸せ何かを考えた。趣味と呼べる趣味を持ち合わせていないが、強いて言うなら、ゲームだ。栄のいるゲームをしている時が一番幸せだ。栄に会えることが幸せだったのだ。
「ゲーム…です」
「ゲームが好きなんだ。なんていうやつ?」
「トキメキ…」
「トキメキ…?」
続きを促す顔だったが、執は言っても分からないだろうなと思いとどまり、言いなおす。
「いや、恋愛シュミレーションゲームです。私それをしてる時が一番幸せなんです。でも、今は、やるのが怖くなっちゃって…」
こんなことを言っても、悟には意味が分からないだろう。その辛くなる意味も、そのゲームの何たるかも。そして、男性からすれば、そのゲームの面白さも分からければ、現実をみれていないことだと笑われてしまうだろう。それを執は経験から知っていた。諦めていた。
「好きなものがあるって良いよね。今の俺は仕事しか趣味が無いからさ。休日は何をしたらいいか分からなくなっちゃうんだよ」
さも楽しそうに、悟は笑った。‟好きなことがあるっていい事”とだけ悟は言った。執からしてみれば、拍子抜けだ。言って欲しくない言葉だが、いざそれを言われないと、驚いてしまう。
「なんか、今までされた反応と違います…」
「そうなの?」
「みんな、変だって言うんです。現実見ろよって。」
「俺もさ、学生の時だけど、ゲームにはまったことがあったんだよ。良いよね、違う世界に行けて、その中ではなりたい自分になれる。別に、何を好きでもいいじゃんね。だって必ずしも、現実で起こることが幸せだなんて限らないんだから。それに、何をもって幸せかなんて、個人の自由だ」
「初めて課長にあった時、ゲームの中の人みたいだなって思ったんです」
「ええ、照れるな」
きっと悟は、ゲームの中の世界は楽しいと、幸せだと知っているから、褒められたのだと思ったのだろう。今まで言われた言葉達はついには返ってこない。それに酷く安心した。
「そのゲームの話聞かせてよ」
そう言われて、執は三回目のディナーの約束をした。
*
そこから、何度も食事を重ねた。呼び方が小谷さんから、執ちゃんに変わり、課長から悟さんに変わった。悟は執からの話を毎度楽しそうに聞いてくれる。歴代の彼氏から言われた言葉達も伝えても、それは変わらなかった。
「価値観が合わなかったんだね。俺は好きなものに熱中できるのはいい事だと思うけど。きっとその人達は執ちゃんが自分以外に夢中なのが許せなかったんじゃない?」
「そんな…こと…」
「だってそうじゃなきゃ、執ちゃんの行動にそんなとやかく言わないと思うけどな」
「そうだったんですかね…?」
そんな執の言葉に、悟は当たり前の様に答える。
「だって執ちゃんは、こんなに可愛いからさ。気づいてると思うけど、俺…一目惚れなんだ」
「一目惚れ…」
「だってなにか好きなものがあるんだろうな、って顔してるんだよ。それがすごく幸せそうで、楽しそうで。素敵な女の子だなって思ってんだ」
恥ずかしそうに悟は言う。今まで腑に落ちなかった部分を教えてもらった気分だった。
初めから不思議だったのだ。悟がなぜ自分なんかに構うのか。彼だったら引く手あまただろうに、どうして自分なのかと。
言われて尚、自分がどういう人間なのかは分からないが、少なくとも、悟は私が良いらしい。
「もう、告白みたいになっちゃったけど、改めて言わせて。俺、執ちゃんが好きだよ。それに執ちゃんにも俺を好きになって欲しいなって思うんだ。」
真剣な顔で、緊張を孕んだ声で言われて、いつかこうなる予感すらあった自分に執は驚いた。そしてその言葉に自分が返す言葉もこれが当たり前な気がしているのだ。
数年後―-―
帰宅の電車に揺られる執は、今日まで出続けていたアドレナリンが落ち着き、ゆらゆらと心地いい倦怠感を抱いていた。
今日、執の抱えていた大きなプロジェクトが終わった。終わったと言うより、これからが本番なのだが、本番にこじつける事が出来たのだ。初めての大役に眠れない夜も、帰れない夜もあった。しかし今となっては、それらも遠い昔の出来事のようだ。
こんなに頑張れたのも、走り切ることが出来たのも、課長、基、悟さんのおかげだなと心から思う。仕事のアドバイスだけでなく、プライベートでも支えてもらった。
それにしても、今回は自分史上、一番頑張った出来事なのではないかと、自画自賛してしまう。自分がここまで頑張れたのか、分からない。それくらい完全燃焼だ。
こんな時は大好きなゲームをと身体が覚えてしまった動作をする。なんとなしにスマホを開いたつもりだったが、タップした先は栄と出会える場所だ。ログインしてすぐ表示されるホーム画面。そこにはいつまでも大好きな栄の姿。そして思い出す、少し前の日常。
「俺が、頑張れって応援してたおかげかな」
なるほど、道理で頑張れたわけだと少し笑ってしまう。「貴方のおかげだ」と本人に伝えたかったが、今の執の前にはあれから栄は現れていない。時々、あの日々を思い出す。このゲームを開くことに痛みを伴わなくなったのはいつだっただろうか。
家の鍵を開けると、そこはもう執一人の家ではなかった。
「ただいま~疲れた~」
「おかえりなさい、今日の夕飯…」
そこまで言いかけた悟は、執の顔を見て、嬉しそうに笑う。何事かと、悟を見れば「なんか、楽しそうな顔をしてるね」と言う。
「うん、なんか無性にゲームしたくなっちゃった」
「そっか、仕事頑張ってたもんね。ご飯が終わったら、思う存分楽しんで。でもまずは夕飯だ」
執が再びリビングに戻ると、ダイニングテーブルには二人分の食事が並べられていた。目の前の彼―いや、恋人は出会った頃と変わらず完璧人間だ。執が食事の下にランチョンマットを敷く文化が日本にもあることに驚いたのも、随分昔の話になってしまった。
執は悟が好きだ。そして栄も好きだ。それでいいらしい。彼らはそう言ってくれた。
“好き”を教えてくれたのは、画面の中の彼。“大切”を教えてくれたのは、目の前の彼。
あの日、栄の言ってくれた言葉を一度も忘れたことはない。今なら意味が分かるのだ。栄は私を幸せにするために、目の前に現れてくれた。そして、その義務を執は果たすことが出来た。そして現在進行形で果たしている最中だ。
今、執の生活は幸せだと胸を張って言える。
読んでくださり、ありがとうございました!!
今までとは違う色合いで、とっても楽しかったです。それにこんなに長文書くの初めてで、ドキドキしちゃいました!
登場人物の名前は、最後まで悩みましたが、実在する人物とは何の関連もありません。書き終えてから、あれ…似てる名前知ってるぞ…?ってなりましたが、それで突き通します。
私、まだ前書きもあとがきも、何を書けばいいか分からないけど、楽しかったってことだけでもお伝えしたいと思います!!読んでくださった方々にも、少しでも楽しんでいただけたらと思います!!
私史上、一番のご機嫌な作品になったのではないかと思います。メモが既にご機嫌でした。ふふ、楽しかった!