押入れの記憶
古い着物の匂いがする。これは樟脳の匂いだ。ざらついた薄い木の感触をTシャツ越しに感じる。ひやりとした温度は次第に体温に馴染み温くなるが、ふすまの隙間から流れ込む空気は冷たいまま。息苦しさに喉を押さえる。細く筋になった光が狭い空間を完全な暗闇にはしない。目が慣れると、腕に触れる重たい布の正体が客用の布団とわかり、牡丹や菊の柄も薄らと浮かび上がる。
狭い押し入れの中、身体をなるべく小さくして板と布団の隙間に押し込む。足の先がはみ出しているのに気付き、足首を握って限界まで引き寄せる。不安に荒くなる呼吸が外にまで聞こえるのではないかと恐れ、意識してゆっくりと息を吸う。暗くて狭いところは苦手だ。早く、このかくれんぼが終わればいいのに。
押入れの外の和室を誰かが歩き回る音がする。布がすれ、体重にきしむ畳の気配。どうか見つかりませんように。震える右手に握られた固い感触が今の彼のよすがだった。
どこかで犬が吠えている。隣家で飼っている番犬だろうか。とても人懐こく賢い犬で、夜に吠えることなどほとんどないのに。先日冬用の布団に変えたばかりで寝苦しかったこともあり、私はすっかり目を覚ましてしまった。トイレに行こうと廊下に出るが、何やら階下が騒がしい。両親はまだ起きているようだ。リビングには明かりがついているが、どたんばたんと何かをぶつける音や激しい足音が続いている。常にない様子に息をひそめて階段の上から様子を窺った。怒鳴り声が聞こえる。続いてリビングのドアが勢いよく開け放され、母が飛び出してきた。母は私に気づき、血相を変えて階段を駆け上がる。そのまま私を抱き上げると子供部屋に駆け込んだ。
ドアに鍵をかけると、母は押し入れを開ける。私をそこへ入れると、お気に入りの怪獣のぬいぐるみを抱かせた。
「いい?ここに隠れていて。知っている人の声が聞こえるまででてこないで」
「なぜ?」
「いいから、隠れていなさい。見つからないように」
それ以上は何も言わず、母はふすまをしめてしまう。押入れの中は意外と音が響くのだと気づいた。リビングの音だろう、くぐもった父の声が聞こえた。何を言っているのかまでは聞き取れないが、誰かと言い争っているようだ。この家は両親と自分の3人家族だった。さっき見た時計は真夜中に差し掛かろうとしていた。こんな時間に誰が来たというのだろう。
畳の上を移動する気配。母が窓を開けたらしく、犬の声が大きくなった。
しばらくして階下の騒ぎは途絶える。とん、とん、と聞きなれないリズムで階段を昇ってくる足音がした。子供部屋のドアを何度か叩く音がしたが、鍵はコインを使えば外から簡単に開けられるものだ。相手もすぐに気づいたらしく、ドアはすぐに開いた。母が息を飲む。
ふすまの隙間から差し込んでいた光が弱くなった。母が押入れの前に立っているらしい。動物が喉で低く唸る様な声と、引き攣った呼吸が聞こえる。すぐに壁に背を擦る音がして、暗闇に細い光が戻った。
見つかってはいけない。腕の中のぬいぐるみを抱き締めて悲鳴を押さえつける。しかしそれは何の意味もなかった。
ゆっくりとふすまが滑る。逆光の中に男の影が現れる。顔はよく見えないが、落ちくぼんだ目が不気味に光っているのが恐ろしかった。
「みーつけた」
楽し気な声に背筋が震える。押入れの壁板に背を押し付けるが、そんなことで逃れられようはずもなく、片手で足首を掴まれ引きずり出された。やみくもに暴れ、振り上げた手に握られていたぬいぐるみが偶然、男の顔に当たる。男は唸り声をあげて、私の手からぬいぐるみを奪った。拘束がなくなり、私は這いずって男の下から逃げ出した。男は私が逃げ出したことを気に留めず、人とは思えない奇声をあげながらぬいぐるみを包丁で何度も突き刺す。ボロボロになった怪獣の腹は赤く染まっていた。それが誰の血かなどとは、考えたくもなかった。
子供部屋のドアの方へは赤い痕が点々と散っていた。私はあいている窓の方へ駆け寄る。窓枠に足をかけ、庭に向かって飛び下りた。
犬の声はまだうるさいほどに聞こえていた。
短い夢を見ていたようだ。薄暗い中で何度か瞬きをして、今の状況を思い出す。樟脳の匂いと、背に当たる固い板、腕に当たる重たい布。ここは私が隠れている押入れの中だ。外で声が聞こえる。単調な話し方から夜のニュースだと気づいた。最近続いている連続殺人についての報道だ。犯人は未だ捕まっていない。キャスターが19時半を告げ、次の番組にうつる。私が押入れに隠れてからまだ2時間しかたっていないらしい。じっとしていたせいで身体のあちこちが痛んだ。室内には誰かいるだろうか。少しだけ手を動かしてみる。強く握りすぎていた右手は力が入らない。汗で湿っていた柄は滑り、取り落としたそれは板の上で固い音を立てた。首筋を冷汗が伝う。
「なんだ?」
ああ、鬼に見つかってしまう。私は震えながらそれを拾い上げる。開けないでくれ、という願いは当然裏切られ、ず、ず、と木が擦れ合う音を立てながら押入れに光が差し込んでくる。握っていたそれを胸の前に構え、私は飛び出した。
どん、と衝撃があり、ぶつかった相手が倒れ込む。胴体に深く刺さった刃物がずるりと抜け落ちた。知っている感覚だ。相手は見開かれた目でこちらを見ているが、反撃する様子はなかった。しばらくするとその目もゆっくりと閉じる。視線が消えてから10数えて、私は詰めていた息を吐き出す。酸欠気味になった頭がつきりと痛んだが、気にするほどではない。もう慣れたことだ。
これで鬼はもういない。大丈夫だ。だけど見つかってしまった。見つかってしまったら、どうするのだっけ。これはかくれんぼだ。最初に見つかった人は、次の鬼になる。
うるさかったテレビの電源を切る。静かになった部屋で目を閉じ、百を数える。
「もういいかい」
――もういいよ。
誰かが囁く。
私は濡れた包丁を握り直して、その部屋を出た。