表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

凡人なりに考えてみた(弱者の言葉)

作者: 花谷馨

一、前書き


 歳を重ねてくると、自分のために生きるよりも何か人の役に立ちたいと願うものです。少なくとも私は、その例に漏れないでいます。しかしながら、積年の怠惰から、いざ何かの行動を起こそうとする気配はなく、いたずらに一日一歩ずつ死へのステップを下り続けているだけです。そんな時、自分ができることは何だろうと考えてみると、文章を書くこと以外に思いつきません。で、文才があるのかといえばそんなことはなく、独創性だってありはしません。一つのことを極めたこともなく、仕事ではかばかしい成果をおさめているわけでもありません。実に平凡な、いや、むしろ退屈な日常が掃き捨てられてきたに過ぎないのです。そんな人間の言葉が、果たしてだれに響くでしょうか。歴史的功績やビジネス的成功を残した人物、専門知識を蓄えた学者の言葉にこそ、人々は耳を傾けるのです。そして、私の如く凡庸な者の感覚は、ただ泡の如く消えゆき、せいぜいSNSで発信したものを数人がスワイプして流れいく程度でしょう。

 一方で、そんな凡庸な人間こそが世間の大多数ではないのかという直感があります。いくら成功を夢見て尊敬する人物の書籍を読み漁っても、怠惰な日常にはなんら影響がない。そんな人が大勢いるのではないかと。ごく少数の言葉が尊重され、大衆の言葉が黙殺される。私は、そこになんともやりきれない残念さを感じてしまいます。ゆえに、何ら成果のない凡庸な人間が、何を考え突出したところのない生活を送り続けているのか、それを思いつくまま項目をあげて記していきたいと思ったのです。専門的なところがないので、広く浅い知識と経験の羅列になってしまうかもしれません。浅薄な言葉が際限なく繰り広げられるだけかもしれません。あるいは、誤りや大多数の人から反対意見を述べられるような見解があるかもしれません。そうでありながらも、書き記さざるを得ない衝動に駆られているのです。たった一人でも構わない、人生は死に連なるだけの無意味な時間に過ぎないと感じている人間が、わずか一筋でも生きる光明を見出すきっかけになってくれるのであれば。

 

二、音楽


 え、愛や正義、政治や経済について語るんじゃないの? と、感じたことでしょう。はい、違うのです。いや、いずれそれに関わる事柄に触れていきます。音楽が冒頭にくるのには理由があります。個人的な話ですが、私は音楽の仕事にかれこれ三十年ほど携わっています。ゆえに、このジャンルだけは凡人の中でもある程度の経験と見識をもっているとの自負があるのです。普通であれば、導入部では愛や性といった広く共有された概念に関して語り、読者の関心を惹こうとするものでしょう。しかし、そんな一般論をしたところで、「本質」には近づけません。少なくともおぼろげながら本質を捉えている音楽から話を始めたいのです。

 となると、私の経歴を簡単に書いておくのが常識でしょう。しかしながら、私はその世界の中でも特筆すべき功績がある人物ではありません。そんな人間が好き勝手に現在や過去に関して書いてしまえば、少なからぬアーティストや関係者に迷惑をかけてしまうことになります。みなさんは、CDのブックレット最後の方に記載されているスタッフクレジットを見たことがありますか。ほとんどの場合はないでしょう。もしあったとしても、そこに並んでいる名前を暗記したことはないですよね。そう、私はこれまで傾注してきた仕事で名前を認識されたことがありません。したがって、この文章において自分が無名性高いままの存在であっても、何ら違和感を感じないのです。むしろ、心地よいくらいです。私の人物像に関しては、読み進めていくうちにいずれイメージが築き上げられていくことでしょう。それが正鵠を射ていようが見当外れだろうが一向に問題ではありません。ようは、ある凡人の思考を追うことによって、自らの考え方を整理し、自己肯定への過程を歩んでもらえれば本望なのです。


 さて、音楽に関してです。切り口をどこからはじめたものか。

 まずは、一番好きなアーティストを思い浮かべてください。特にいない場合は、一番好きな曲やカラオケでよく歌う曲を思い浮かべてください。それは、邦楽のバンドでしたか? 歌手でしたか? アイドルでしたか? アニソンでしたか? 演歌でしたか?

 残念ながら、たいていの場合、それらは「音楽」ではありません。あなたが気に入っているのは、「歌」です。

 「こいつは何を言ってるんだ! 音楽だ!」

と、心の中で感じた方、正解です。私が伝えたいのはまさにこの部分です。人は、自分が好きなもの、思い込んできたことを否定されると、反射的にこれを拒絶します。そして、おのれの見解の中に埋没してそこから一歩も踏み出せなくなります。悲しむ必要はありません、みなそんなものです。しかし、これを認めることから始めないと、世界はいつまで経っても同じ風景のままなのです。一聴すると受け入れ難いことも、真実なのです。そして、あなたの見解が間違いなわけではありません。それも真実です。一つの事象には、かならず陰陽二面が存在します。その片方のみに囚われていると、正確に世界を描写することができないということです。つまり、自分の見解と真逆なものに対して心を開いて受け入れること、それが世界の本質へと迫る唯一の道だと思っています。

 音楽に話を戻しましょう。私がたいていの邦楽を音楽ではなく歌だと思うのには、それなりの根拠があります。日本で大ヒットしているアーティストの作品、海外で大ヒットすることは稀ですよね。それは言葉の壁があるからだとよく言われますが、そうでしょうか? 英語を話せない人も、アメリカやイギリスの音楽を聴きませんか? 実際に日本ではたくさんの洋楽がヒットしています。じつは「言葉の壁」に理由を求めるところに、あなたが音楽を聴いていない証明があります。言葉が理解できなくても、良い音楽や面白い作品であれば動画サイトなどで世界中に拡散していきます。実際に、日本発信で先に世界で受け入れられ、逆輸入的に日本で流行した例もあります。では、なぜあなたが好きな日本で大人気のアーティストは、世界で認められないのでしょう。簡単です。音楽として、全く面白味がないからです。あなたは、そのアーティストの歌声や歌詞の内容や容姿を、特筆すべきところのない伴奏で聴いているだけなのです。肝心の音楽的要素が単なる伴奏の域を出ていないようでは、世界の人の心を動かすことはできません。音楽に壁はなくとも、言葉には壁があるのですから。

 もしかして、反感マックスですか? それも落とし穴です。私が「音楽ではない」という否定形を用いたことで、自分の価値観を否定されたと早合点したのです。私は、「歌」がダメだとか劣っているだとか、一言も書いていないですし思ってもいません。私も、大好きな歌があります。つまり、「歌」は素晴らしいもので、また「音楽」も素晴らしいもので、かといって同じものではないという考え方をお伝えしたかったのです。でも、どちらも「音楽」と呼ばれていますよね。

 音楽の項目で一番お伝えしたかったのはここです。一般的な概念、この場合は「音楽」というものにあなたはあなたなりに考えて定義したことがあるでしょうか? たいていの場合、「音楽」として発表されたら、疑いもなく「音楽」として聴くでしょう。その一般通念を一旦疑ってみて、自分で再定義してみること。これが、世の中の本質を正しく把握するための第一歩だと思うのです。


三、哲学


 なんだか話が哲学的になってきたぞ、と警戒されたみなさん、ご安心ください。私は、哲学は苦手です。なぜならば、全ての事象を「言葉」で定義する学問だからです。いうまでもなく、言葉って不完全ですよね。たとえば「林檎」という言葉を使います。何を思い浮かべるかは人それぞれです。ウィリアムテルが矢で射ている姿かもしれないし、ニュートンが万有引力を思いつくシーンかもしれません。あるいは弘前の大地に広がる見渡す限りのリンゴ畑でしょうか? 机の上に置かれたカットされたリンゴでしょうか? 日本のシンガーソングライターでしょうか? なんだって構いません。つまり、言葉がすべての人に共有される概念になりうることはあり得ないということです。

 哲学好きの友人はよく、「それは客観存在を認める発言であり、世界には主観しかないのだよ」ということを言います。何を言ってるのか意味不明ですよね。ところが、彼の中では了解できているのです。それは、彼の中で「主観」「客観」という言葉の定義が出来上がっているからに他なりません。そして、その定義は、全く同一の形で他人と共有することは不可能だという事実がスポっと抜け落ちています。

 ここで気付かれた方もいると思います。音楽の項目で述べた通り、事象にはすべて陰陽二面があります。私が無用で不完全だと思う「哲学」にも、有用で完全な面があるはずなのです。残念ながら、無学な私にはその側面が見えないだけです。すべての哲学者が、「哲学は無用であり不完全である」ことを受け入れたなら、私も哲学を受け入れられるのかもしれません。「自分は正しい」ばかりを主張する西洋哲学、受け入れられるはずがないのです。

 そして、たいていの哲学好きが必ず私に発する言葉があります。「君の好きな科学は、西洋哲学から発展したものなのだよ」と。それでは、次は科学について考えましょう。

 


四、科学


 科学といっても様々なジャンルがあります。私が好きなのは、宇宙論です。特に、ホログラフィック宇宙論には興味があります。しかし、これは本題から逸れるので置いておきましょう。

 さて、現在主流となっている宇宙論は、超弦理論やM理論といわれるものです。まあ、これも理解するのが難しい上に仮説でしかないので、詳細には触れません。ここで伝えたいのは、私が科学的思考を好んでいることと、そしてそれもまた不完全であるということです。

 この理論、宇宙を説明するために素粒子という最小単位を用いています。水は、水素二つと酸素一つの原子が結びついた分子ですよね。その原子は、原子核と電子でできています。その原子核は、ざっくりいうと陽子と中性子でできています。そしてその陽子もまた…となってしまうので、ここでやめておきます。つまり、物質を構成する最小単位が素粒子です。粒子と書くと「つぶ」のようですが、超弦理論では、素粒子は弦の振動であるということになっています。つまり、ギターの弦を弾くと振動して音が鳴るように、何かしらの振動が素粒子を形作っているという理論です。しかも、その弦が十一次元に振動していて、我々が認識できるのはそのうちの三次元部分ということになっています。理解できないですよね。それでいいのです。

 その理論の根幹を成しているのが数学です。すべての理論は、数式を用いて説明されます。言葉と違って、数字は万人に共通の概念を与えられます。「3」と表記して、頭の中で「5」を思い描く人はいません。この万能性を利用して、近代科学は発展し、同様に数学も発展してきました。いずれ、数学で世界を説明することを夢見ている科学者や数学者も大勢いるでしょう。しかし、一見完璧な数学も、私たちの日常生活の中で簡単にボロを出します。

 真円の誕生日ケーキを正確に三等分にしてと言われたらどうしますか? 簡単です。三百六十度を三で割って、分度器を使って正確に百二十度で切断すれば良いのです。ところが、これを数字で表記すると大変なことになります。0.33333333…、宇宙消滅の瞬間まで3をつなげても、計算が終わることはありません。いわゆる循環小数です。この限界を突破するために、数学では分数を用います。三分の一。実に正確で狂いのない表記ができました。しかし、その分数を構成する「3」という数字自体は、不完全なままです。

 「3」が不完全なら、「1」も不完全です。そして、不完全な数字というもので構築されたデジタル「1」「0」の世界も、やはり不完全にしか世界を表記できないはずです。

 有益に見える現代科学も、実のところ不完全である可能性が高いのです。そんな数字をベースにしたコンピューターとは全く別次元として、量子コンピューターというものが研究されています。これは、「0」の状態でもあり「1」の状態でもある量子のふるまいを用いて計算する全く新しいシステムです。「0」の状態でもあり「1」の状態でもあるというのは、理解し難いですよね。大丈夫です。世界一優秀な頭脳をもってしても、量子のふるまいを数学的に完全に説明できた人はいないのです。人間は、ただ、量子のふるまいを利用しているに過ぎません。

 例えるならば、日本猿に与えたラジカセみたいなものです。猿は、再生ボタンを押せば音楽が鳴るということは学習できて、その音楽を聴き入るかもしれません。しかし、ラジカセがどういう仕組みでできているのかは決して理解できません。猿の脳が、高度な数学や機械を理解できるように作られていないからです。同様に、人間には量子のふるまいを理解する能力を与えられていないのではないか、私はそんなふうに思っています。

 つまり、宇宙、いいかえるならば世界は人間の頭脳では理解できないように作られているのです。逆かな、人間の頭脳では決して世界の真理は理解できないのです。

 私もあなたも、決して理解できないものに囲まれているのに、なんとなく分かったような気がしているに過ぎないのです。では、そんな世界はどうしてできたのでしょうか? ビッグバンによってはじまった偶然の積み重ねの結果でしょうか? 神と呼ばれる意識の創造物なのでしょうか?


五、神の存在


 冒頭で神を議題にするとは、もしかしてこれは新興宗教勧誘のための文章か? そう警戒されてしまうかもしれません。もしくは、作者はオカルトや陰謀論者なのではという疑いが湧き起こるかもしれません。彼らは、浅い科学的知識を駆使したがるという点で確かに私に似ている点があります。しかし、いたずらに死へと時間を浪費する凡人に、信仰心はありません。オカルトや陰謀論を逐一検証している時間も興味もありません。

 それでも、神というテーマは避けて通れないのです。この世界、ビッグバンから偶然の積み重ねによって出来上がったというのが今の科学的アプローチの標準的な考え方です。しかしながら、人間の能力では決して理解できない仕組みを持った世界を、人間の理解の範囲内で定義することは次元が低い試みではないでしょうか? 先程の例えを用いるならば、日本猿が、木の実もラジカセもたまたまそこにあったのだから、自然に出来上がったものだと定義してしまうのと同じです。ラジカセは、日本猿の知恵が及ばない人間という生物によって「意識的に」製造されたものであって、「偶然に」出来上がったものではありません。

 考えてもみてください。なにも存在しない「無」の状態から唐突にインフレーションが起き、ビッグバンに至り、物質と反物質が発生し、それが衝突して対消滅しながら拡大していく。ここで、インフレーションやビッグバンの説明はしません。ようは、無から急に宇宙の元になる物質が生まれたということです。そして、現在の理論と実験結果からすると、同時に同数発生する物質と反物質によって、宇宙に現れた物質はすべてほぼその瞬間に消滅します。

 え? じゃあ宇宙に物質は存在しないということ? いえ、知っての通り存在しています。しかし、存在しないはずの物質がどうして宇宙に溢れているのか、この説明に成功した人がいないだけです。

 存在するはずのない物質が、偶然の結果によって至る所に存在できるようになった。現代科学の根幹は、そんな曖昧な状態なままで進んでいるのです。ところが、ここに神を持ち出すと、一気に解決するのです。

宇宙は神によって創造された。

人間のように複雑な生物が存在する理由も、宇宙が存在する理由も、神の英知によるものだとすれば、説明がつくのです。神とは人間が理解できないことを理解できる全知全能の存在なのですから、彼ならばあらゆる事象を創造できるはずです。

では、神はどこにいるのでしょう? 宇宙の始まりと同様、これを証明できる人はいません。もし証明できると豪語する宗教家がいれば、間違いなくペテン師です。人間の能力で測定できないのが神なのですから。

宗教家をペテン師と言ってしまう私を無神論者だと思われた方もいるかもしれません。実は、逆です。ラジカセよりはるかに高度な仕組みをもった生物が、偶然の積み重ねによって出来上がるということを、直感が否定するのです。百四十六億年の偶然が積み重なって、スマートフォンが組み上がると思えますか? それとは比較にならないより高度な生物が偶然生まれるなど、さらにあり得ないのではないか? この世界は、「絶対的な知性」、言い換えるならば「高度な意識」によってデザインされたと考えた方がしっくりくるのです。この考え方を、インテリジェント・デザイン説と言います。私は、それを受け入れています。その意味では、無神論者ではなく神の存在を信じる者といえるでしょう。では、どうして神は人間を救ってくれないのでしょう? 宗教を考えることで、その理由を考えてみましょう。


六、宗教


 世界中に数多の宗教があり、それぞれにいくつもの宗派があったりします。私たちの生活で身近な宗教行事は、初詣・お盆・クリスマスでしょう。新年には神道信者となり、夏には仏教徒となり、年末はクリスチャンです。でも、それでいいのです。「神」とは人間の知性が及ばない「高度な意識」なのですから、現れ方が神道だろうが仏教だろうがキリスト教だろうがさしたる問題ではないからです。理解できない「高度な意識」を人間に理解できるように説明したものが宗教なのです。神の解釈をしているのが、古代からの伝承か、ゴータマ・シッダルータか、ナザレのイエスだったかの違いでしかありません。

しかしながら、人間に理解できるように解釈されていくうちに、不都合が生じてきます。神道は、神社に詣でると願いが叶うという救いを取り入れます。仏教は、人生は苦であると定義し、寺で修行して精神を鍛えることにより煩悩を消失させ、あらゆる苦から開放されるという救いを取り入れます。キリスト教は、あらゆる人間は罪人であり、教会で懺悔をすれば赦されるという救いを取り入れます。教義は違えど、すべて「〜すれば〜になる」という人間が理解しやすい方式に則っています。

そして、宗教を拡大しようとすると、どうしてもこのわかりやすいよう取り入れられた救いの部分だけが強調されて広まってしまします。ところが、本来神とは「高度な意識」でしかありません。各人がどのような行いをしようが、それに対していちいち報酬や罰を与えるような単純な存在ではないのです。

また、例え話です。スーパーマリオブラザーズをデザインしたのは天才的なゲームプログラマーです。スーパーマリオブラザーズの世界では、彼は神と言って差し支えない存在です。私たちは、その中でプレイするマリオでありルイージでありキノコでありカメです。マリオがジャンプしてあなたであるキノコを踏み潰して殺したとします。あなたはそれまで、何一つ悪いことはしておらず、ただ歩いていただけです。あなたを踏みつけたのはマリオのプレイヤーの意思であり、神であるゲームプログラマーの感知するところではありません。神は、スーパーマリオブラザーズというゲームのルールを決めてそれを創造しただけであり、個々のプレイヤーにはなんの恩恵も罰も与えません。本当の神様も、そんなものなのではないでしょうか? 私はそう思っています。現世利益、これを謳う宗教ほど私は胡散臭く思えてしまいます。神は、個々人の幸福にも不幸にも無関心です。

 神は存在しても、我々の社会生活には無関心だということです。宗教を信じても救われないとしたら、私たちは何を信じたら良いのでしょう? 人間は、やはり理解できるものを好みます。地位と財産が、宗教以上に世界中から信奉されるようになりました。

 

七、地位と財産


 神は人生を救わない。では、何を頼りにしようか。裏切らないのは、地位と財産です。有史以来、人間は富を求めて争ってきました。なにも、現代の資本主義がはじまってからの話ではありません。支配者は被支配者から富を収奪し、自身及び共同体の利益を最大化しようと試み続けてきました。そのためには、他者や他の共同体を犠牲にしなければなりません。人間社会の法則は、弱肉強食。弱者は強者に収奪されるのです。そして、社会を構成する大多数は収奪される側です。少数の支配者を、多数の被支配者が少しずつ簒奪されることによって支えているのです。ともすると、我々は支配者を悪だと決めつけがちです。しかしながら、支配者のいない人間社会は混沌として、ルールがありません。良し悪しの議論は置いておいて、徳川家康が築き上げた江戸幕府は、人間も諸藩もルールでがんじがらめにして支配しました。結果訪れたのは、平和で安定した社会です。支配者が、己の富と地位を安泰とするために、社会に厳しいルールを課したからです。それが、平和をもたらしたのです。そう考えると、支配者が存在することは必ずしもマイナスなことばかりではありません。肝心なのは、支配者が横暴になって必要以上に被支配者から簒奪しないよう社会の仕組みを整えることです。いうなれば、悪代官を許さない社会です。果たして、現在の日本はその社会を構築できているでしょうか? 私はそうは思いません。かつて、日本には世界レベルの億万長者はいませんでした。一方で、世界レベルの納税者は存在していました。つまり、かつての日本という国は支配者層である富裕層や大企業からも所得税や法人税という方法で、富を簒奪していたのです。その分、大多数の被支配者層の負担は軽かったのです。それが、一九九〇年代くらいから様相が変わります。グローバリズムという名のもとにアメリカ式の経済が日本にも適用され、高所得者と法人への課税が軽減され、大多数である被支配者層の負担が増加したのです。ちょうど、日本企業が次々と外資に買収され、外資系企業が日本で幅をきかせはじめた時期と一致します。

 アメリカ批判とお思いでしょうか? 違います。これも、仕方がないことなのです。国家レベルで考えると、アメリカが支配者であり、日本は被支配者だからです。支配者は、被支配者を簒奪する、弱肉強食がこの社会の太古より変わらぬルールなのです。そうならないよう、日本が支配者側になろうと血を流したのが大東亜戦争です。日本はそれに敗北して、被支配者になってしまいました。そして悪代官と化したアメリカを抑止するシステムを持たなかったがために、九〇年代に本格化した極端な搾取を止められなかったのです。現在は、そのアメリカ式社会システムが浸透してきていて、若者はもはやそれに疑念を抱くことさえないタームに達しています。それでは、アメリカ式社会システムとは何か、アメリカの歴史を振り返ることで考えてみましょう。

 

 八、アメリカの歴史


 歴史を振り返ることはこの文章の目的とは異なります。事実を簡単に検証することで、その本質を捉えようとするのが主たる意図です。「本質」になぜこだわるかといえば、言葉や概念は時として都合の良い「虚構」に過ぎないからです。例を挙げましょう。

 自動車の本質は何か? を考えます。単純化すれば、人や荷物を移動させるための手段ということになります。そこに、疑いはありません。ただし、本質は一つではありません。駐車場に軽自動車とフェラーリが並んで停まっているところを想像してください。軽自動車は、第一の本質、つまりは人や荷物を移動する手段として括れるでしょう。しかし、フェラーリは違います。燃費は悪いし、ガソリンスタンドの段差や踏切では立ち往生するし、車幅が広いので住宅街では走行できないケースもあるでしょう。絶対的な運動性能も、公道で試すことは許されません。それでも、富裕層はフェラーリを購入します。それは、「過剰な性能」「実用性よりスタイルと空力重視のデザイン」「価格そのもの」に価値があるからです。自動車本来の第一の本質から考えると、「無駄な部分」ということになるでしょう。しかし、この「無駄」こそが付加価値となり、自動車に新たな本質を与えます。それは、ステイタスシンボルとしての本質です。自動車は単なる移動手段と言うだけではなく、所有する人間の虚栄心を反映するという側面があり、それもまた本質なのです。

 アメリカに話を戻します。先に自動車の話をしたのは、これから話すアメリカの歴史が、ある意味では本質でありながら、唯一無二の本質ではないという可能性を理解していただきたかったからです。

 言うまでもなく、アメリカの先住民はインディアンです。最近ではネイティブ・アメリカンと呼ぶそうですが、イメージしにくいのでインディアンの呼称を使います。彼らが暮らす北米大陸にヨーロッパ人、イギリスやフランスから侵略者が押し寄せてきます。十五世紀終わりのことです。日本では応仁の乱で京の街が荒廃し、戦国時代に突入していく頃になります。十七世紀になると大量の白人が北米大陸を東海岸から西海岸に向けて侵略を開始し、無数のインディアンが虐殺されて命と土地を奪われます。十八世紀も後半になると、彼ら白人は勝手に独立宣言をして、インディアンをさらに迫害します。江戸時代後期のことです。十九世紀になると、西海岸を目指してさらにインディアンを虐殺、現在のアメリカの領土をすべて先住民から略奪します。そして、開拓労働をアフリカから連行した奴隷に強要し、支配者として搾取し、徹底的な人種差別を根付かせていきます。南北戦争が起きたのは、そんな一八六一年、日本ではまもなく明治維新を迎える幕末の話です。内陸部のインディアンを根絶させるほどの勢いを白人が得たのは十九世紀後半、日本が明治時代になってからの話です。

 全土を掌握したアメリカの領土拡大政策が終わることはありません。彼らは、勢力を拡大して被支配者から搾取することでしか成長できない国家だからです。西海岸に達した白人たちは、そのまま歩みを止めずに太平洋に乗り出します。そして、一八九八年にハワイ王国を滅ぼして領有、フィリピンの支配権をスペインから奪い取ってフィリピンを植民地化、グアム島などを占領します。明治三十年年頃の話です。

 さあ、太平洋をそのまま進むとどこに行き着くでしょうか? 中国です。しかしながら、中国にはすでにイギリスやドイツ、あろうことかインディアンやハワイ王国と同じ黄色人種である日本までが日清日露戦争を経て領土を割譲されていました。ドイツは、第一次世界大戦で駆逐できました。しかし、戦勝国であった日本はますます中国での存在感を強めていきます。そこで、アメリカ国内では日系移民への差別や弾圧が悪化していきます。そして満州を中国から奪い取っただけに飽き足らず、その権益をアメリカには譲らないことに怒り心頭に発します。それが、太平洋戦争の原因です。

 アメリカの本質は、現代史が産んだ世界最悪の侵略国家であり、「自由」や「平等」や「平和」という言葉は、その残虐性を覆い隠すために引用されたに過ぎません。人や荷物を移動させることが自動車の第一の本質なら、アメリカの第一の本質は、武力侵略をして相手国の利益を簒奪することだといって問題無いでしょう。「自由」「平等」「平和」といった概念は、自動車における「ステイタス性」同様、二次的な本質に過ぎないのです。その証拠に、現在でも黒人対白人の差別を原因とした抗争が止むことはありません。どこに、「自由」「平等」「平和」が保証されているのでしょう?

 誤解しないでいただきたいのは、全ての白人が侵略者であり差別主義者だと言っているわけではありません。アメリカの国家としての本質が、侵略国家であるという側面を知っていただきたかっただけです。そして、アメリカが侵略国家であり、日本が一方的に国防のための戦争をしたと考えるのはフェアではありません。次に、大東亜戦争を考えてみましょう。

 

九、大東亜戦争


 大東亜戦争という呼称に馴染みはないですか? 学校では太平洋戦争と習った方も多いでしょう。しかし、これはPACIFIC WARというアメリカでの対日戦の呼称を、戦後翻訳して日本で広めたものに過ぎません。太平洋戦争という呼称では、中国・イギリス・オランダ・アメリカと宣戦布告した先の大戦の一部しか表現できていないのです。そして当時日本で使われていた呼称、大東亜戦争こそが、アジア全域に戦禍を広げた大日本帝国の戦争行為をもっとも正確に記述した表現でしょう。

 そして、大東亜戦争は何だったのかと問われると、多くの人が日本による侵略戦争だったと答えます。戦後GHQによって押し付けられた概念を、後生大事にしているのです。この常識は、いとも簡単に破ることができます。

 対米戦争は、どう始まったと思いますか? 日本軍が真珠湾を奇襲して始まったと考えるのではないでしょうか? これは一面では正解ですが、実に正確性に欠ける回答になります。最初に発砲したのは米軍であり、ハワイ真珠湾外で日本軍の特殊潜航艇が撃沈されています。これは、映画「一九四一」でも描かれている有名な史実です。もちろん真珠湾攻撃に向けてアメリカの領海を航行していた特殊潜航艇に非があるわけですが、事実としては、対米戦で最初の被害を受けたのは日本軍であることは揺るぎません。さらに、日本が奇襲をかけたのはハワイ真珠湾が最初ではありません。イギリス領マレーのコタバルに上陸してイギリス軍と戦闘を開始しています。真珠湾に先行することおよそ一時間前の話です。

 いずれも有名な話なので知っている人は知っていますが、知らなかった方も多いのではないでしょうか? ここで伝えたいのは、自分が常識だと思っていることは、誰かによって意図的に作り込まれたものであるという疑念を常に抱いていないと、本質が見失われてしまうという危険性です。

 先述したように、大東亜戦争は単に侵略戦争と括れるような単純なものではありません。大別して、三つの本質があったと私は考えています。まずは、対中国戦争。これは、疑いようの無い大日本帝国による中国侵略です。

侵略とは何でしょう? 他国の領土で、他国の軍隊や人民を殺戮してこれを占領することです。中国は日本の本土には侵攻してきていませんから、日本軍による一方的な侵略です。「暴支膺懲」なんて言葉は、アメリカの「自由」「平等」「平和」と同じで単なる自己正当化のための誤魔化しでしかありません。

そして二つ目が、イギリス・オランダの植民地であった東南アジア侵攻です。ここが、一番複雑です。イギリス領マレーでの戦闘は、現地の人民との間で起きたわけではありません。敵はあくまで宗主国のイギリス軍です。そして、オランダが宗主国のインドネシアも同様です。つまり、日本軍の東南アジア侵攻は、西洋列強による植民地支配からアジア諸国を解放する戦争であったと考えることができます。それが、日本軍の大義名分でもありました。しかしながら、石油をはじめとする資源獲得が最大の目的であったことは隠せません。資源奪取が一次的本質であり、植民地解放は二次的本質だったというのが実際のところでしょう。一方で、実際に派遣された兵士は疑うことなく植民地開放戦争だと信じて戦っていたに違いありません。アメリカ兵が、自由と正義のために戦っていると信じてたのと、本質的には同じです。

そして最後に、対米戦、太平洋戦争です。これは先に述べたようにアメリカによる日本侵略戦争です。思い出してください。侵略とは、他国の領土で、他国の軍隊や人民を殺戮してこれを占領することです。よく、何で日本は敗色が濃厚になっても戦争をやめなかったのか? などという愚問を投げかける人がいます。当たり前のことです。アメリカは、日本を占領するまで戦争をやめるつもりなど毛頭もなかったのです。侵略される側が、戦争を止められるはずがありません。太平洋戦争を日本によるアメリカ侵略だなどという嘘を前提とするから矛盾が生じ、そんな問いかけを生んでしまうだけなのです。

 日本はこの戦争に敗れ、アメリカから搾取される被支配国家になってしまいました。戦後の復興は、アメリカの助力なしにはあり得なかったことです。市場として日本を太らせ、タイミングを見て搾取をするためです。それが始まったのが、八十年代のプラザ合意だったのです。日本円は跳ね上がりました。輸出には不利でしたが、輸入や海外資産購入にはうってつけの状況です。日本は海外資産を買いあさり、バブル景気が訪れます。しかしそれは知っての通り、消える前の蝋燭のような短い期間でした。そして九十年代になり、グローバル化の名の下に、日本はアメリカ式経済を押し付けられて崩壊します。日本企業の強みであった終身雇用・年功序列は徹底的に破壊され、MBAなどという何の意味もない資格を有した経営者が、せっせと自社社員をリストラして、アメリカによる日本破壊に加担したのです。

では、次に経済について考えましょう。


十、経済


 経済は先が読めない難しいものです。しかしながら、本質は単純です。お金の動きと括れるでしょう。ここ日本で有名な古銭と言ったら和同開珎です。奈良時代には貨幣経済が産声をあげていたわけですから、お金の歴史は非常に長いと言えるでしょう。なにせ、古事記が編纂されたのと同時期には存在していたのですから。

それでは、お金とは何でしょう? 物の価値に対する代替品です。具体的には、江戸時代は米本位性で、全ての金銭は米と交換できる価値として運用されていました。世界経済に仲間入りした明治以降はどうでしょう? 世界は金本位制で動いていました。世界中の金銭は、「金」に交換可能な価値を持っていたのです。それが、なし崩し的に消滅します。一九七○年代のことです。

 それでは、今のお金は無価値でしょうか? そんなことはありません。しかしながら、米や金といった物品に紐づかない、実態のハッキリしないものになってしまったのです。現在では、コンピューター上にインプットされた、ただの数字とさえ言える状況です。天才的ハッカーが全世界の銀行を乗っ取って、全員の口座に一億円とインプットするだけで、我々は残らず億万長者です。金銭には実態がないのですから、だれも直接的損害は受けません。経済は混乱するでしょうが……

 私たちが人生の多くの時間を費やして手中にしている金銭は、量の多少に関わらず、全て虚構と言えます。その虚構をいかにも実態であるかのようにみせかけ、富を増やしているのが金融業です。我々はお金を借りると利子がつくのが当たり前だと思い込んで暮らしていますが、実態のないものに利子を払うなんていうのは馬鹿げています。証券会社も同様です。一般に、企業の利益が増えると株価が上昇します。その分だけ、証券取引をしている人は金銭が増えます。物がなにひとつ生み出されていないのに、お金のカウントが増えるのです。株ってなんでしょう? 具体的な物として思い描ける人はいないですよね。証券はあくまで紙の証明書でしかなく、株の実態ではありません。彼らは、何も作らずにお金を生み出しているのです。保険会社だって同じです。もしも死んだときに…などと、カルト宗教顔負けの恐怖を顧客に吹き込んで、金銭を巻き上げます。掛け金は統計をベースに緻密に計算されて配分され、保険会社に莫大な利益が残る仕組みになっています。あなたの人生のためではなく、自社の利益のために保険会社は動いているのに、いかにもあなたの人生のためを考えているかのように語りかけてきます。こんな偽善があるでしょうか? 

 お金の価値は、現在ではなんの実態もないのですから、国が中央銀行を運営してしまえば、無尽蔵にお金は湧いてきます。国の借金が国民一人頭でいくらに膨らんだなどというのがニュースになりますが、国が貨幣を自在に発行すれば、借金など一円も生じません。日銀という認可法人が貨幣発行券を握っているから、国家も借金をしないと成り立たないだけです。

 そう、誰かが利益を得るために、世界中全ての国民が犠牲になっているのです。私は、近い将来、貨幣は消滅するだろうと思っています。なにせ実態がないのですから、消滅したところで不思議ではありません。利益を独占しようという欲深い人間を消し去れば、貨幣経済という虚構は一気に崩れ去るでしょう。富裕層を殺せ、という話ではありません。人間から欲望を消し去ることは出来ませんから、誰かを滅ぼしても他の誰かが貪るだけです。しかしながら、欲望のない知性が生まれつつあります。そう、AIです。コンピューターは人間と違って、欲望がありません。富を適正に配分して自分に稼ぎが全くなかったところで、何の痛みさえ感じないでしょう。こと経済に関しては、人間を関与させずコンピューターに采配させたほうが良さそうです。もちろん、そうできるだけの人工知能が完成するまでには、あと何十年、何百年を要するのかは分かりませんが。少なくとも二百年以内には、無欲な経済統治者が現れるのではないか、そんな気がしています。

 それでは、金銭が消滅した世界で、人は何を基準に行動すればいいのでしょう? それを夢想する前に、いったん小休止です。


十一、小休止


 物事を多面的に考えないと本質に迫れないと言っておきながら、私が非常に偏った話ばかりすることに憤りを覚えているかもしれません。アメリカの歴史や大東亜戦争を読めば私に右翼のレッテルを貼り、経済を読んでは左翼のレッテルを貼ったかもしれません。両極端で節操がないからでしょうか? 違います。アメリカが自由の国であること、経済が人生を最も左右する一大事であることは、何も私が語る必要がない常識として認知できることだからです。しかしながら、その事実に別の角度から光を当てて観察しないと、本質が浮かび上がってこないのです。私は敢えて、片面からの視野を描写したのです。陰陽で言えば、陰の側面です。日々死に向かっていたずらに時間を消費している私にとって、どうして多くの人が権力者サイドから宣伝される一面だけを無条件に信じて疑わないのか、それが最大の謎です。あらゆる事象が陰陽の側面を持っているのに片面だけで判断してしまうのか、そこが残念でなりません。なぜ残念なのかと言えば、常識や信念と呼ばれる考え方に固執したせいで、自殺をしたり鬱状態に陥ったりする人があまりに多いからです。

 過去に成功を収めたり、あるいは人気絶頂期に自ら命を絶ってしまったりするタレントさんがいます。人から見たら羨ましい限りの人生なのに、何故でしょうか? それは、自分はこうあらねばならないという思いが強いからではないでしょうか? 他人の模範でなければならない、裕福な暮らしをして夢を与えなければならない、みなを楽しませたり喜ばせたりしなければならない、そんな自己規定がきつく首を締めていくのです。そして最後の段階には、自らが理想とする生活を送れないのであれば、死んだほうがマシだという結論に達してしまったのではないでしょうか? 

 物事を一面でしか考えられなくなるというのは、極端な破滅を招きかねない危険な状態なのです。であれば、常日頃から、多面的にものを考える癖をつけておけばよろしい。私がこの文章で表現したいことはこれです。そのために、どのような考え方ができるのか、自分の脳内を晒しているだけです。私の考え方が正しいと立証したいとか、同意してほしいなどとはこれっぽっちも考えていません。ただ、多面的に事象を捉えるよう考える癖、これを身につけるきっかけになってもらえればと思っているだけです。

 

十二、夢想の未来

 

 高機能なAIによって管理された、お金のない世界が実現しました。人間は、どう行動すべきでしょう? 宇宙開発や理論物理学といった先端科学や医療の研究開発資金が必要なくなるので、急速に発展していくでしょうか?

 自分に当てはめて考えてみると、必ずしもそうなるとは思えません。働かなくても、衣食住に困ることはありません。となると、毎日好きなことをして過ごすでしょう。漫画ばかり読む人、ゲームばかりする人、旅行にばかり出かける人、さまざまな人が出現するはずです。しかしながら、何かを生み出すために必死に努力をするでしょうか? しないはずです。いずれは、新しい漫画もゲームも生まれなくなるでしょう。旅行をしようにも、交通機関で働く人も、宿泊施設を経営する人もいなくなっているでしょう。その仕事をすべて、アンドロイドに任せざるを得なくなっているはずです。言い換えるならば、人間はロボットに飼われる存在になるということです。

 動物園のライオンを思い出してみてください。彼らは、住環境も食料も生きていくには十分なだけ人間に与えられています。一方で、檻からは出られないし、自分で獲物を定めて食すこともできません。したがって野生は失われ、自然界にいるライオンとは似ても似つかぬ存在になってしまっています。ただ、死ぬまで生かされてるだけに過ぎません。

 ロボットに管理された人間も、動物園のライオンと同じです。果たして、それで人間は幸福でしょうか? そう考えていくと、人間社会というのは、競争とその勝敗による格差があるからこそ生き生きしている社会なのだと思えてきます。完全に満たされた世界とは、人間にとってはディストピアでしかないということになります。

 そこで思い出すのが、天国と地獄の概念です。天国は、実に美しい景色と適度な気候に恵まれ、不自由なことがなく、心が穏やかな世界です。地獄は、火に炙られたり釜茹でにされたり針の山を登らされたり血の池に沈められたり、苦しい環境の中でなにひとつ自由なことがない、心すさむ世界です。

 さて、天国に暮らしてみたらどうでしょう? 最初のうちは安らかな心でいられるでしょうが、あまりに退屈で落ち着かなくなってくるのではないでしょうか。一方、地獄に暮らしてみたらどうでしょう? 終わりない苦しみに襲われますが、言葉を変えれば常に刺激的です。長い時間を過ごすうち、針の山を苦しまずに登りきる方法や、血の池泳法を習得しているかもしれません。意外と、退屈とは無縁かもしれません。

 終わりない安楽に飽いた魂と、終わりない苦しみから逃れたい魂が、再びそれが両立した現世に戻ってくるのかもしれません。それが、輪廻転生です。

 私は、天国や地獄、いわゆるあの世の存在を前提として話をしているわけではありません。ただ、洋の東西を問わず、あの世の概念は存在しています。果たして、本当に人間には魂があり、あの世が存在しているのでしょうか?


十三、あの世

 

 前世を語る人がいて、実際にその人の言う通りの人物が過去に存在していた例がいくつもあるそうです。私自身が直接聞いたわけではないのでその話自体が嘘かもしれないという疑念が晴れることはないのですが、名だたる学者さんが発表しているのだから、おそらくそういう事例は存在するのでしょう。私が輪廻転生やあの世を語ることで、オカルトになってきたと感じる人もいるでしょう。ここで、私の立場を明かしておきます。私は、死後の世界など存在しないと思っています。人は死んだら無になるのです。無は思考することもなければ、行動することもありません。

 ところが、一筋縄ではいかない問題が発生します。宇宙が無から始まっているという現在の有力な科学的思考です。無から無限とも思える宇宙が生まれるのであれば、無から人間の思考が再生してくることもあり得るような気がしてきます。答えは明快で、「あの世が存在するかどうかはわからない」ということです。同様に、「宇宙が存在するかどうかはわからない」というのも真実です。そう、実存を証明できない宇宙を現実存在として認めるのであれば、おなじ原理で魂やあの世は現実存在であると認めなければならなくなります。死んだら無になるが、無から意識が再生すると考えるのはある意味現代だからこそより合理的に思えるのです。これを、オカルトと片付けるのは無責任だと思っています。数多くの人間が輪廻転生やデジャブ、臨死体験を真実だと認識している以上、それを証明するアプローチが必要だと思うのです。それは、精神科学とでも名付けるべき研究として成立しておかしくありません。あの世以外でオカルトや非科学的と敬遠される話題にUFOがあります。次に、これについて考えてみます。


十三、UFO

 

 UFOというと、どんぐり目玉のグレイタイプ宇宙人が搭乗している円盤を反射的に思い描いてしまいます。そこで、最近では未確認飛行物体をUAPと言ったりします。UNIDENTIFIED AREAL PHENOMENA の頭文字です。こちらのほうがニュートラルな表現になので、ここではこの表現を未確認飛行物体を表す語として使用します。UAPは存在するか? しないか? これは愚問です。実際に世界中で、数えきれない人が目撃しているのですから……。問題は、それが何かという正体につきます。やっぱり宇宙人でしょうか? そのほかにも、未来からタイムトラベルしてきた進化した人間だという説もあれば、異次元からの訪問者だという説、突飛なものだと地球の内側からやってきている地底人だという説まであります。これも、宇宙やあの世と同じで、正体が何か現在の人間では理解できないものです。実は、アメリカ政府は宇宙人とコンタクトしていてテクノロジーの提供を受けているなんて陰謀論もありますが、根拠のない話を証明するのは非常に困難なので無視しておいたほうが無難でしょう。問題は、UAPの正体は何か? に尽きます。あの世と違うのは、UAPは光や円盤といった目に見える形で出現している点です。この意味では宇宙と同じで、存在を証明する有力な仮説を立てることができるでしょう。それが、先ほど提示したような諸説です。おそらく、いずれかの説に真実の糸口はあるでしょう。ところが、UAPにはあの世と同じ点もあります。私たちの人生に、何ら影響を与えていないという点です。その意味ではUAP研究は哲学に似ているかもしれません。それぞれの説を取る人が、自分こそは正しいと主張する点も似ていますね。つまり、UAPが人間生活に干渉してこない限りにおいて、それは無視しても問題ない何らかの現象なのです。

 その正体が何かに関しては尽きぬ興味がありますが、夢想の未来にもそれらは影響を与えなさそうです。天国のようにすべてが満たされたディストピアで、人間は何を求めて暮らすでしょうか? 現在と同じです。幸福感です。それでは人間の永遠の夢、幸福感とはなんでしょう?


十四、幸福感

 

 たいていの人間は幸福感を何か知っています。私には幸福感なんてなくて、いまは不幸の真っ只中にいると感じている人も幸福感を体験しています。なぜならば、幸福感を知らなければ、自分を不幸だと定義できないからです。不幸とは相対的なものであり、絶対的なものではありません。恐ろしいのは、不幸感をかけらも抱いていない人です。なぜなら、彼らは幸福感を知らないからこそ、自分の状況を不幸だと感じないのです。もちろん、そういった人間は他人の幸福にも無感覚なため、平気で他者の幸福感を破壊します。だから、恐ろしいのです。そういったいわゆるサイコパスは社会に一定数存在しているそうです。ひょっとしたら、あなたや私もサイコパスなのかもしれません。だから、ここでサイコパスの陰陽側面を分析するのはやめておきます。話を続けたいのは、幸福感を抱き続けるにはどうすれば良いかという点です。

 エヴァンゲリヲンでは、人類全てを一つの液体に溶かして、精神を融合させてしまいました。しかし、それでも満たされないことを描き、最終的に主人公は一人ぼっちであることを選択します。すべて満たされた世界は、必ずしも幸福ではないということが描きたかったのだろうと、私は勝手に解釈して納得しています。

 幸福感、これは具体例をあげつらっていった方が分かりやすそうです。希望校への合格、子供の成長、好きな人と手を繋いでいる瞬間、おいしい食事を摂っている瞬間、歩道に咲くタンポポがやわらかな陽光に照らされながら蝶々と戯れている姿……、枚挙にいとまがありません。しかしながら、共通項があります。それは、欲望が満たされたことの認識です。路傍のタンポポに心満たされて幸福感を抱くのも、今日も生きて美しい情景に巡り合えることができたという生命を継続したいという欲望が満たされているのを感じるからでしょう。

 つまり、幸福を続けるということは、欲望を満たすための行動を継続することでしか成立しないことなのです。あなたがもし自分の人生に対し幸福感を抱いていないならば、それは欲望を満たすための行動を継続的に起こしていないからです。

 それでは、欲望とは幸福を生み出す絶対的に素晴らしいものでしょうか? そんなことないのはみなさんもうご存知ですよね? 私がここで欲望が幸福の根源であると言ったのは、欲望にも陽の側面があることを伝えたかったがためです。


十五、欲望

 

 欲望の力が強い人と弱い人、二通りに人間に分類してみましょう。もちろん中間的な人が多いのですが、ここでは欲望の本質に迫るため、極端な例をあげます。金銭欲が強い人は、事業を起こし、他人の仕事を侵食してもお構いなしに拡大していきます。しかも、その儲けを社会福祉や社員還元することには極端に無関心で、ロケット作りたいとか、宇宙に行きたいとか、あくまで自分の欲望を叶えるために行動します。

 一方で、欲望が弱い人は、そういった人たちを少しも尊敬していません。人のために尽くすことが人間の道だと考え、そういった行動をする人を心からリスペクトするからです。あるいは、行動すること自体が億劫で、何もしないでおきたいという欲求をひたすらに追求する人もいます。しかし、その誰もが責められるべきものではありません。社会は多様性があるからこそ、管理されていないからこそ、地獄の様相を呈してはいても、ディストピアにはならずに済んでいるのです。

 ところが、無欲で欲望が弱い人、ある意味で人間として崇高な理念で生きている人たちが、精神を病んだり自死を選んだりするのです。必ずしも、成功に固執して失敗した人ばかりが絶望しているわけではないのです。それは、有名タレントの死に関する場所で言及しました。

 どうして、素晴らしい精神的素養をもった人間は、社会に適合できないのでしょう? 簡単です。今の社会が、欲望の強い醜い人間によって運営され、自己正当化するために諸制度がデザインされているからです。

 ですから、社会で生き残ろうとすれば選択肢は二つです。現状の社会に向かって己の欲望を剥き出しにして他人を出し抜いてでも勝ち上がろうとするか、いまの社会を完全に破壊して新しい秩序を作り出すために尽力するかです。もうお分かりですね。欲望の弱い人間に、現代社会に適合する力はありません。社会を破壊することに、欲望を向ける方が適しています。

 あら、私を反政府主義者、革命派だとお考えですか? 違います。私は、いたずらに死への階段を下っているだけのつまらない人間です。そんな大それた欲望はありません。しかし、無欲な人間にこそ社会正義のための欲求は強く内在しているはずで、他人のために自己を犠牲にすることに対してためらいがないだろうと思うのです。そうした大志を抱く力をもった善良な人間が、心を病んだままでいることは非常にもったいないことです。あなたが苦しんでいることに、欲深き富裕層たちは実のところ無関心です。自分たちに害を及ぼさなければ、あなたがどんなに苦しもうがどうでもよいのです。

 そんな社会の支配者層がもっとも恐れていること、それは彼らにとって都合の良い現在の社会システムを破壊されることです。だからこそ、学校でも社会でも、暴力を極端に否定する洗脳教育を強固に推し進めているのです。

 あらゆる社会変革は、暴力によって達成されてきました。明治維新を例にとってみましょう。


十六、明治維新

 

 大河ドラマを見ていると、まるで薩摩が明治維新を起こしたように描かれることがあります。しかしながら、その実質的な始まりは長州です。その長州に影響を与えたのは水戸藩なのですが、ここでは置いておきます。薩摩は、蛤御門の変で会津藩と一緒になって長州藩を逆賊として成敗したゴリゴリの佐幕派だったのです。脱藩浪士、坂本龍馬の土佐藩もさらに幕府べったりな佐幕藩でした。龍馬に関しては後世に過大評価されているだけで、その実、維新三傑には選ばれていないですし、十傑を挙げても選から漏れています。維新で誰が好きかと訊かれて坂本龍馬と回答する人は、間違いなく明治維新を何も知らない人です。話がそれました。

 その長州の藩主は毛利敬親公です。彼は、「そうせい候」と揶揄されていたそうです。なんでも家臣の言うことを「そうせい」で返していたからだそうです。しかし、無能という言葉とは無縁だと思うのです。時勢をつかんだ優秀な家臣を見抜いて、その才能と献身に委ねていた非常に優秀な、本当の意味での殿様と言えるのではないでしょうか? 

 そんな長州で藩校教師として活躍していたのが吉田松陰です。説明をすべて吹っ飛ばします。維新の原動力、精神的支柱となったのが彼です。有名な言葉には、「飛耳長目」や「草莽崛起」などがあります。情報を広く集めて正確に分析・判断すること、必ず現場にいるようにしてそこで最大限の尽力をせよといったところでしょうか。後方で安穏として作戦指示だけしていた旧帝国陸海軍の諸将が聞いたら、恥ずかしくて逃げ出したくなる言葉でしょう。

 その松蔭さんに代表される考え方で動いた桂小五郎、久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、それに実働部隊としては西洋戦術に長けた医者の大村益次郎などがいて、明治維新は薩摩や土佐藩を翻意させるところまで動いていったのです。

 ところが、一般的な革命のイメージと違って、長州藩は最初から武力倒幕しようとしていたわけではありません。侵略してくるアメリカに対抗するため、有力藩合議制による挙国一致体制を目指す改革を、西洋諸国にまねて進めようとしていただけです。しかしながら、これまでの因習と絶対唯一の権力を維持しようとした幕府は、第一次長州征伐を行います。これで、毛利公は大切な家臣を自刃させざるを得なくなります。そして、第二次長州征伐では、幕府側が長州に敗れ、幕府の権威は失墜します。結果、手を結んだ長州と薩摩は、西洋と比肩する新しい国家を建設する上での邪魔にしかならなくなった幕府を倒さざるを得なくなったのです。先に仕掛けてきたのは幕府であり、ある意味で幕府は自滅したとも言えます。そんな古い権力システムの中で、世界情勢を把握することなく自らの立身出世を図って有望な人材を殺害してまわったのが新撰組です。権力を最大限に振りかざして国家を憂う優秀な人材を殺戮したのが、井伊直弼です。優れた武士とは文武両道ですが、かれらは所詮多摩のなりあがり農民や旧態依然の組織の官僚。武には優れていましたが、文に欠けていた、つまりは知識と思考力に欠如していたのです。

 結局、幕府は官軍によって武力で倒されました。今の拝金主義的ベンチャー企業は、旧体制の中で己の立身出世を図る新撰組のようなものです。農民が武士になったように、庶民がなりあがって富裕層になっただけの話です。歴史の流れで考えると、次の段階は、古い体制自体を破壊する順番です。それは、いつの時代も若者の行動力で実現してきました。いずれ貨幣経済、つまりは資本主義が消えて無くなるのは、歴史の必然だろうと思うのです。そして、その変革には常に武力を必要としてきました。しかしながら、現代の資本主義、いや資本家主義を破壊するのに、ミサイルや戦闘機は必要ありません。二十世紀末から登場した進歩を止めない新しい武器、コンピューターシステムを使えば良いのです。


十七、コンピューターと不倫

 

 私を革命扇動家、暴力肯定主義者だと思い始めたところでしょうか? お待ちください。ここでも、極端な考え方を披露することに専念しています。真逆な意見があることも、その方が主流であることも、分かっています。真意が伝わるまで、最後までお付き合いいただければ幸いです。

 さて、コンピューターに関してです。アラン・チューリングというドイツのエニグマ暗号を解読する機械システムを開発したイギリスを戦勝に導いた功労者がいます。彼は勲章級の働きをしたのに、同性愛者として不遇な最期を遂げます。調べると面白い人ですよ。そんな第二次世界大戦期からその萌芽をみせはじめたコンピューターが、いまや私たちの生活のいたるところで利用されています。ほんの三十年くらい前までは、コンピューターは仕事に活用されていたものの、家庭内で一般的に利用されたり、ポケットに入れて持ち歩けるようなものではありませんでした。せいぜい、家庭にはゲーム機があったくらいです。それが、いまでは職場ではひとり一台のパソコンが支給されるのは当たり前で、個人としてもスマートフォンやノートパソコンやタブレットを持ち歩いています。

 主に何に使うかと言えば、ショッピングやルート検索やお店の検索といったところでしょうか。まあ、他にもいろいろ活用できる優れものです。そのコンピューター、とりわけインターネットが普及してなにが変わったでしょうか? 人は、自分で検索をしなくなりました。つまり、調べなくなりました。電話番号を覚えなくても、地図で目的地までのルートを確認しなくても、コンピューター内あるいはサーバー上に溢れる情報をコンピューターが適切に処理して提示してくれます。つまり、人は覚えなくなったし、圧倒的に考えなくなったのです。この文章も、キーボードを叩いていると勝手に漢字に変換されて記入しています。漢字を覚える必要も、辞書を検索する必要もありません。

 私がスマートフォンを手にしてから、早くも十五年近く経ちます。いまの二十代前半の人たちは、中学生くらいの頃からスマートフォンを使っていた人も多いでしょう。つまり、自分で調べ、憶え、考える癖が完全になくなってしまっています。なにも若者批判したいわけではありません。中年も老年も、すっかり考えなくなりました。これが、いまの社会を住みづらいものにしている根本原因だと私は感じています。

 なぜか?

 権力者や資本家が、恣意的に都合の良い情報だけを流すことができる社会が成立するからです。受け手は、コンピューター(スマホやタブレットも含む意味で)が表示する情報を無批判に受け入れ、それを自分の考えだと思い込んでしまいます。かつて、大衆をこんなにコントロールしやすい時代があったでしょうか? いや、ありません。現在は、多数決、数の論理がまかりとおる世の中です。多くの人間が常識を無批判で受け入れ、それを正義として振りかざすことになんの違和感も感じていない時代です。

 自分の生活とはなんらかかわりのない芸能人が不倫すれば、みなこぞって「信じられない」「がっかりした」「許せない」「奥さんがかわいそう」「女は人間性がなってない」などなど、口々に紋切り型の正義を振りかざして恥じるところがありません。実のところは完全な思考停止であり、情報にコントロールされているだけにもかかわらずです。

 あなたもそうでしたか? すいません。しかし、もしそうならば、自分の正義感は事象の一面しか見ていない非常に短絡的な正義かもしれないと、考えてみて欲しいのです。人類の歴史の中で大量破壊兵器である原爆を唯一実戦使用して無辜の市民を虐殺したアメリカが、広島長崎を正当化するためにかざす正義と同質なものかもしれないと疑ってほしいのです。

 不倫となじられる関係性の本質にあったのは、互いを大切に思う非常に純粋な心であったかもしれません。もちろん、欲望や計算も入り混じっていたかもしれません。しかし私は寡聞にして、男女ともに欲望と計算と無縁で結婚した例を知りません。結婚だろうが不倫だろうが、相手を思う心だけでなく、自分が愛されたいという欲望がその根元にある点でまったく同じです。それではなぜ、他の異性と交わりをもった配偶者を許せないと感じるのでしょう? それは、自分だけが愛されていたいという「欲望」が満たされなかったからです。「愛情」とは何でしょう? 自分が愛されたいという思いのことでしょうか? 違いますよね。自分を犠牲にしてでも相手の幸福を願う気持ちではないでしょうか? だとしたら、配偶者が他者と過ごすことで幸福感を得ているのであれば、それを受け入れるのが真の愛情ではありませんか? 不倫を許せないと感じるのは、自分だけが愛されていたいと言う「欲望」が愛情に勝っているからではありませんか?

 誤解されたくないのは、私が不倫を正当化したいわけではないということです。伝えたいのは、当然と感じている正義も、よくよく考えるとその正体は非常に醜い欲望であるかもしれないという点です。もっと核心に迫って表現するなら、「無批判に常識を振りかざす習慣を捨てる努力をしてほしい」ということです。そんな、考えない人間を量産したコンピューターに、私は経済運営を任せた方が良いのではと前の方で書いています。矛盾していますよね。

 ここがポイントです。すべての存在には陰陽両側面があると言うことです。では、考えないで生きることのプラスの側面を次に考えてみましょう。


十八、考えないで生きてみた


 さあ、考えないで社会常識をそのまま受け入れた人の人生をシミュレートしてみましょう。

 生まれました。幼稚園に通い、そのまま近所の公立小中学に進みます。それなりに勉強してそれなりの高校に入学します。そして、やはりそれなりに努力して、それなりの有名大学に進学しました。就職先は、それなりの大手企業です。入社したら上司の言うことには従い、経験を重ねることでそれなりに出世しました。それなりの相手と結婚し、ついに赤ん坊に恵まれました。

 どうでしょう? 幸せですね。そうなのです。疑問を抱かず社会システムに適合して生きていくことは幸せなのです。ちゃんちゃん。

 で、終わりではありません。これは、安定した、支配者の悪意が少ない世界で生きていた場合の話です。戦前の社会に生まれてみましょう。

 生まれました。尋常小学校に通い、それなりに勉強してそれなりの中学に入学しました。そしてそれなりに勉強して、それなりの大学に行くことができました。高学歴なので、徴兵で学徒動員されても、尉官を与えられそれなりの地位で入隊することが出来ました。そして、前線のサイパンに派遣され小隊を指揮、先頭に立ってアメリカ軍にバンザイ突撃して負傷、からくも生き延びてしまいました。しかし、生きて虜囚の辱めを受けずという戦陣訓に従い、手榴弾で自決しました。

 どうでしょう? 幸せですか? そうなのです。疑問を抱かず社会システムに適合して生きていくことは不幸なのです。ちゃんちゃん。

 どうでしょう。考えないで生きることの危険性に気付いていただけたでしょうか? この場合、戦陣訓が正しいのかどうか考えなかったところに、彼の思慮の足りなさがあるのです。いや、それを常識として徹底させた軍令部や参謀本部の思考停止があるのです。彼は自決していなかったらどうなったでしょう? 最後の力を振り絞って敵兵を一名倒していたかもしれません。そう、敵に損害を与えるチャンスがあったのです。捕虜になっていたらどうでしょう。アメリカ軍は、サイパン島に陸揚げされた有限な食料のうちから、捕虜に分配しなければなりません。さらに、負傷兵には手当てもするでしょう。そしていざ前線基地を移動しようとなれば、捕虜は足手まといです。監視要員も配さなければなりません。つまり、彼が自決しなければ、物的にも人的にも、アメリカ軍に負担をかけつづけることができたのです。自決は、非常に残酷ながら、敵を利するだけの行為です。では、なぜ敵軍に協力するような作戦が遂行されつづけていたのでしょう? それは、前線の将兵が逃亡しないように、死ぬまで戦うように、戦争指導者たちに都合の良い戦陣訓を常識として叩き込んでいたからです。

 それでは、現代の社会で我々が思考停止状態で受け入れている戦陣訓はなんでしょう? それは、「平等」です。いま流布されている「平等」の概念ほど危険なものはありません。

 お金は等しく、稼いだ人の所有物です。男女は同じ基準で雇用し、同じ基準で評価します。裕福な人にも貧しい人にも、均しく一〇%の消費税を課します。国民にはひとしく一票の投票権を認めます。ブラー、ブラー、ブラー。

 あれ? 疑問の余地がないですか?

 百億円稼いだ人から九十九億円徴税して、収入のない九千九百人に百万円を配布することは不平等ですか? それでもその富豪には、一億円が残るのに。男性には生理はありません。骨格は頑丈で筋肉質です。子育てをしなければならない女性に男性と同じ評価基準を与えることが本当に女性を幸せにしますか? 手取り三千万円ある人がスーパーで消費税千円を払うのと、手取り百五十万の人が消費税千円を払うのが同じ重みですか? 世界の政治や経済をしっかりと学んでいる納税者と、年金生活をして世界の動向にすっかり関心がない老人や納税さえしていない学生とが同じ一票の重みで、果たして平等ですか?

 いまの「平等」という概念が、非常なる危険性を孕んでいることには気づかなければなりません。平等がいけないと言っているわけではありません。現在闊歩している「平等」の概念が危険だと言うことです。戦陣訓もその内容が間違えていると言うよりも、運用の仕方が間違えていたのです。

 考えないで生きることは、一面では幸せです。しかし、考えないで生きられる社会を継続させるためには、一人一人がしっかりと考え続けることが必要なのです。


十九、小休止


 これまで、いろいろな考え方を例示して、自分で考えることの必要性を書いてきました。そして、自分が信じていることを、拒絶反応を乗り越えて一度疑ってみる必要性を。

 ところがその過程で、あらゆる説明を省いてきました。M理論も吉田松陰もなにもかも、放置プレイです。それは、分からないことは自分で調べて欲しいからです。調べるのは、最初はスマホの検索でも良いかもしれません。ウィキで概要は把握できるでしょう。しかし、興味があったことがあれば、ぜひ本を読んで欲しいのです。専門家の書籍です。豊富な知識と経験が、文字列に反映されています。その知識のほんのひとかけらかもしれませんが、自分のものにできるのです。

 考えるためには、どうしても知識と経験が必要です。赤ん坊に考える力がないのは、それがないからです。より良い考えを発展させるには、どうしても知識と経験を身につける必要があるのです。テレビで馬鹿騒ぎをしているだけのバラエティ番組、ドラマ、グルメ番組を見ていても何の経験にも知識にもなりません。ある意味、知識と経験の獲得を放棄して、考える力を弱めることにしかなっていないのです。

 本を読むより、テレビを見る方が遥かに楽に時間を過ごせるでしょう。しかし、知識と経験を放棄し続けていると、考える力が失われます。考えることができないと、社会常識をそのまま正義としてしまい、なんらその正義に寄与できていない自分を自己否定する結果につながりかねません。一人一人が自己否定してしまうと、ひいては社会全体が息苦しいものになってしまいます。いまは、そんな息苦しさを感じている人が多いのではないでしょうか? 考えなければいけない理由は明白です。それは、自己肯定にはっきりとした確証を持たせるためです。自分がダメなのではなく、自分が勝手に常識だと決めつけ、それに当てはまらない自分を卑下しているだけの状況を打破するためです。

 よくよく考えると、おかしいのは「常識」を勝手に決めつけている自分自身だと気づくことができるのです。事象の陰陽両面を、自然に考える姿勢が身につくのです。そのためには、考えるための肥し、経験と知識には貪欲であってほしいものです。

 いよいよ、終盤です。

 ここまでの文章、多くの方は、当たり前のことを書いているだけだと感じたことでしょう。当然です、冒頭で記載したように、私はただ死を待つばかりの凡庸な人間にすぎないのですから。もし、あなたが私の書いていることから得るものがないと感じたならば、それは私が凡庸であると言うことの証明になります。

 では、誰に向けて私がこの文章を書いているかってことになるでしょう。ここまで読ませておいてそれはないだろうということになるでしょうが、それはたった一人、中学一年生の二学期から不登校になり、もう何年もひきこもり生活を続けている息子のためを思って書いています。ここでも、詳細は記載しません。つぎに、子供について考えます。


二十、子供


 誰かに愛情を示すとき、たいていの場合その見返りを求めていたりします。しかしながら、自分の子供だけは別です。もちろん、子供を平気で虐待するような親も存在します。ネグレクトする親もいます。しかしながら、まっとうな親は、自分よりも子供の命や安全の方が優先事項です。そこに、打算はありません。なぜでしょうか? 非常に根元的ですが、哺乳類としての、あるいは動物としての本能に関わっている気がします。よく言われることに、「生物」の定義は難しいといいます。しかしながら、おおよそにおいて、「自己の複製を作れる個体」ということになっています。中には、RNAが自己複製するための乗り物が生物であり、主体は生物ではなくRNAだなんて極論もあります。複製を作成することが生命の目的であるならば、我々人間にとって自分の子供というのは、生まれてきた目的を達成した証そのものということになります。ゆえに、自分以上に大切な存在であり、無償の愛情を注ぐことができるのです。これは、自分の子供以外には無償の愛情を注ぐことができないという意味にもなります。つまり、この人間世界に存在する愛情は親子愛だけであり、そのほかの愛情だと定義されているものは、打算や自己愛が変形したものだということです。また極論を書いています。

 では、子供を残せなかった人間は、生命の目的を達成できなかった無用な人間ということでしょうか? これは、一部は正しく、一部は間違えています。正しい部分は、「生命の目的を達成できなかった」という現実です。これは、受け入れなくてはなりません。間違えている部分は、「無用な人間」という部分です。なぜでしょうか? 人間社会では、子孫を残すことだけが唯一の目的ではないからです。次世代のために自然を守ることも、困窮する人に援助の手を差し伸べることも、人間として立派な目的です。多種多様な生きる意味のたった一つが「子供」だというに過ぎないのです。この事実も、受け入れなくてはなりません。子孫を残せなかった人間の唯一の不幸は、無償の愛情を注ぐという経験を生涯知ることなく、愛情の本質を自らの体験として把握することができないということだけでしょう。しかし、これさえも克服は可能です。なぜならば、全ての人間は誰かの子供だからです。多くの人間が、親の愛情で成長できました。もし親がいなかったとしても、無力な幼児に愛情を注いでくれた人がいたから成長できたのです。その恩人たちから受けた愛情をしっかりと想い出せば、愛情の意味は想像できると思うのです。人間には、想像する力があります。それをしっかりと駆使すれば、親が子供に注ぐ愛情の純粋さを体験することはできなくても、理解して身につけることはできるのです。

 自己犠牲を払って他人に愛情を注ぐ人間を、あなたは醜いと感じますか? そうではないですよね。他人の愛情を見て、美しいと感じる人が大半だと思います。それは、あなたが愛情というものに価値を見出すことができているからです。しかし、美しいという感覚はどこからやってきたのでしょう? 


二十一、美意識


 私には「美」という概念を定義する力がありません。これを定義しようとすると苦手な哲学の領域に踏み込んでしまいます。なので、定義する努力を放棄します。ここでは、あなたが「美しい」という判断をしたあなたの感覚こそが「美」を生み出しているのだということにしておきます。うーん、やはり哲学的になってきてしまいました。完全に放棄します。

 なので、私が美しいと感じる事柄を羅列します。

・雪山: スノーボードで刺すような冷気を切って滑走するのは天国気分

・森林: 霧が立ち込める山深い森林で過ごすキャンプは天国気分

・音楽: 好きなレコードをスピーカから鳴らしていると天国気分

 だいたいが、自然と音楽を美しいと感じるようです。残念ながら、私には絵画を美しいと捉える感性が著しく欠如しているようです。ゴッホを見ても、ピカソを見ても、ダリを見ても、バンクシーを見ても、美しいと感動したことがありません。しかしながら、ほんの少しは絵画に対する感性も備わっているようで、北斎や広重を見るとなんとも心が落ち着きます。日本で生まれ育ったという環境が、感性を磨いてくれたのでしょう。文化的共通背景のない絵画は、私には理解できないのです。

 こうして考えると、美的感覚とは育った環境によって大きく異なってくるものだということが浮かび上がってきます。つまり、絶対的な美というものは成立しないということになります。私はさきほど、無償の愛は美しいと書きましたが、それさえも絶対的なものではないということです。私が生まれ育った環境が、それを美しいと感じさせているだけなのです。

 それでも人は、美しく生きることを選択しようとします。醜く生きたいという人は稀でしょう。もし先述の夢想の未来で、それぞれの人間が、自分が美しいと思う生き方を選択したらどうなるでしょう? そのベクトルは個々人で違っていたとしても、やはり美しい社会になるのではないでしょうか? もちろん、世界が地獄的苦しみを伴った時空であることになんら変化はありません。しかしながら、そんなヘル・ワールドでも、醜い個人の集合体であるよりは、美しい個人の集合体である方が快適そうです。

 見えてきました。事象には陰陽さまざまな局面が同時に存在しているものですが、個人が「美しい」と感じる側面をピックアップして生きていけば、自然と社会は美しくなりそうではありませんか? 「美しい」と感じる対象は、千差万別で構わないのです。一つの事象に内在する陰陽両側面を考え、美しいと感じる方を信じて選択すれば良いのです。考えずに条件反射で信じている常識は、もしかしたらあなたにとっては「醜い」と感じる側面である可能性があるのです。自分にとってその常識は美しいものであるのか、そうでないのか? それを再検証すれば良いのです。あなたのその一歩が、社会全体を変えるのです。

 なにをばかなことを! この理想主義者めと感じた方は、次に描くアリとアリクイの戦いを観戦してください。あなた個人が、社会という大きな存在を倒すもっとも大切な存在であることに気づくかもしれません。


二十二、アリとアリクイの戦い


 アリたちは、巣を作って集団で生活しています。彼は働きアリ。蟻塚での生活を送っていました。そこに、一匹のアリクイがやってきました。ヤツは無粋にも蟻塚を破壊して口をねじ込み、仲間たちを吸い上げて食い漁っていきます。ヤツの尖端は、ついに彼の目の前にまで迫ってきました。そして、一番大切な友人のアリを吸い込んでしまいました。紙一重の差で、彼は飲み込まれずに済みました。

 彼が怒るより前に、隣にいた友人の働きアリが激怒しました。

「ヤツめ、思い知らせてやる!」

 意気込んでアリクイに向かっていきます。しかし、前足で踏みにじられ、何らダメージを与えずに死んでしまいました。

 彼は考えます。そして、大声で叫びました。

「いま、アリクイに家族や友人を殺された仲間はいるか?」

 周囲からは、嗚咽とともに手が上がります。彼は、言いました。

「大切な命を奪ったヤツを、俺は許せない! みんな、一斉にアリクイに立ち向かおう!」

 彼を先頭に、蟻塚から続々とアリたちが這い出してきました。アリクイは、余裕です。

「ははは、自分から出てくるとは愚かな!」

 前足で振り払っては殺し、後ろ足で踏みつぶしては笑い、出てこようとするアリは数百匹単位で喰らいました。

「ばかめ!」

 しかしながら、いくら殺戮しても蟻塚からアリが這い出してきます。それもそのはず、暮らしていた一億二千万匹のアリのうち一億匹が、一斉に彼に呼応していたからです。彼は、やがてアリクイの足元に取りつき、頭を目指して前進します。仲間のアリも、続々とよじ登ってきます。彼は、アゴを使って渾身の一噛みを浴びせます。ヤツの細胞が一つ、壊れました。アリクイは、痛くも痒くもありません。

 しかし、アリクイの身体は、いつの間にか一億匹のアリで覆い尽くされてしまいました。

「やめろ、やめろ! アリの分際で!」

 アリクイは怒り狂いますが、もはや手遅れです。一億匹のアリの一噛みが、一瞬で一億個の細胞を破壊しました。次の一撃で二億個、さらに三億個、数分も経過しないうちに、アリクイは怒りながら絶命しました。

 

 これはもちろん、ただの例え話です。しかし、お伝えしたいことは分かるでしょう。どんなに圧倒的な力を持った存在でも、微力な個体が集団になって襲撃すれば、簡単に倒せるのです。少数の権力者、社会的支配者にとって、最大の恐怖は民衆が団結して立ち向かってくることです。ほんのわずかな力しか持たない個人が集団を形成したとき、支配者は無力に倒されるしかないのです。

 それぞれのアリが己の無力に絶望してアリクイへの抵抗を諦めていたらどうなっていたでしょう? 彼らは、アリクイの望むままに食い尽くされていただけです。一匹ごとの無力な個体が生命と活力を保って絶対的支配者に立ち向かったからこそ、打ち倒せたのです。己があまりに無力だからといって絶望し続けることは、支配者を喜ばせるだけです。微力な個体こそが何よりも不可欠な要素であるということを知り、来るべき日のために淡々と生き続けることが重要なのです。


二十三、働かないアリ


 アリの集団には、働かないアリが一定数必ずいるそうです。そして、働かないアリをその集団から全て取り除くと、やはり一定割合のアリが働かなくなるそうです。この話自体、自身で検証したわけではないので眉唾ものの可能性はあります。しかし、都合の良いエピソードではあるので、例え話の一つとして引用させてもらいます。つまり、人間社会にも一定割合で働かず何にもしない人間が存在していても良いのです。もしあなたが働かず学校にも行っていないとしても、何の問題もないのです。生活保護費や保護者があなたの生命を守ってくれている限りにおいて。

 ところが、人はそんな人間を非難します。やれ、働かないのにオレの税金で楽に生きやがって!、このゴツつぶしが!、罵詈雑言のバリエーションに事欠きません。彼らの正義は、一見すると正統です。しかしながら、これは罠でもあります。

 社会に適合できない人間を疎外することで、力ない被支配者が団結することを阻害しているのです。誰が望んでそうしているのでしょう? 支配者です、権力者です。「働かざる者食うべからず」なんてのは、支配者層にとってもっとも都合の良い言葉です。

 話は飛びますが、ヒトラーはクーデターで政権を奪った軍事政権の独裁者でしょうか? 違います。当時のドイツ国民が民主的な選挙で当選させたのです。つまり、国民の熱狂的な支持を背景にして力をつけたのです。そして、ユダヤ人から財産を剥奪し、軍事費をはじめとする国家資金にすべく資産運用しました。少数の持てる者から奪い取って、再分配したのです。支配者層にとって、こんな恐ろしいリーダーはいません。誤解して欲しくないのは、私はヒトラーを称賛する気持ちはないということです。彼はユダヤ人迫害を指示した中心人物であり、その事実を歪めることはできません。非人道的行為を冷徹に実行した、非難こそすれ擁護すべきところなどない人物です。ところがもう少し考えてみましょう。ヒトラーが直接手を下して殺傷したユダヤ人はいたでしょうか? いたのかもしれませんが、立場上それは考えづらいですよね。数百万人のユダヤ人全てを彼とナチス党員が殺戮することは不可能でした。実際は、ナチスドイツ占領地域の軍隊や警察や自警団が、ユダヤ人を捕らえ殺戮していたのです。アインザッツグルッペンは、直接手を下さずに監督しかしていないことも多かったそうです。アインザッツグルッペンをご存じなければ、ググってみてください。とどのつまり、ユダヤ人を直接殺戮したのは、ナチス党員だけでなく、ヨーロッパ各国の国民だったのです。ヒトラーは、ヨーロッパに渦巻く反ユダヤ的機運を利用し、まとめあげたのです。

 実際の手法自体は褒められたことではありませんが、力ない民衆を結束させたということは言えるでしょう。

 日本の場合は、天皇陛下を中心に据えて国家がまとまっていました。ユダヤ人のような共通の敵を作り出して結束を促す必要のない国家体制だったのです。ナチスにせよ大日本帝国にせよ、民衆の集団が同一の価値観で動く国家は、欧米の資本主義国家の支配者層にとっては最もおそるべき存在でした。なので、これを徹底的に叩き潰し、ナチスや日本のような「全体主義」を悪の極みとして宣伝し、戦後から今に至るまでこれを非難し続けているのです。

 彼らが口々に唱える呪文は、「自由主義」「民主主義」といった言葉です。もちろん、個人は自由でありたいものです。しかし、それが全体の利益を考慮しない単なる「個人主義」になってしまうと、民衆は力を失います。アリクイが襲ってきても、自分さえ食われなければいいというアリばかりになってしまうのです。そして、食われてしまったアリを、無能者だから仕方がないのだと、哀れみもせずむしろ嘲笑うかもしれません。それが、理想の社会でしょうか? 美しい社会でしょうか? アリクイが襲ってきたら、集団で立ち向かう社会の方が美しいと思いませんか? 少なくとも私は、そう感じます。

 「自由主義」「民主主義」という言葉の陰に潜む危険な意図をしっかりと考えておかないと、その使い方をあやまりかねません。やはり、あらゆる常識にはいちど疑いをかける必要があるのです。


二十四、逆も真なり


 さて、ここまで書いてきたことをすべてひっくり返します。自分が、大日本帝国の臣民であったと仮定してみてください。先に書いたように、最後には自決を迫られる悲惨な最後が待っていましたよね。つまり、自由主義を否定したように私は全体主義も否定します。ともに、行きすぎてしまったからこそ、受け入れられないものになってしまうのです。

 肝要なのは、自由主義と全体主義の功罪をともに把握し、その中間地点に立つこと、つまりは中庸を知ることです。中庸を実現するためには、その両極端をともに理解しておかなければなりません。資本主義と共産主義でも同じことです。そのためには、学ぶことが必要です。それをもとにしっかりと考え、中庸のエリアがどのあたりなのかを常に検証し続けなければなりません。

 しかし、その結果に現れる中庸な態度というのは、一見すると何も考えていない人と同じになります。極端な個人主義や全体主義、資本主義や共産主義に走ることがないからです。ところが、考え抜いた挙句の中庸と、何も考えないで生きることには天地の開きがあります。何も考えないということは、その時の社会が求める姿勢、つまりはその時の支配者が求める常識をそのまま受け入れることになるからです。大日本帝国の時代に遡るなら、「一億総玉砕」「鬼畜米英」「非国民」といった言葉を平気で使っていたような庶民がなにも自分で考えなかった人間です。しっかり考えていた人は、そんなことは思わなかったはずです。当時も今も、自分で考えて判断する人はごく少数です。現代であれば、「個人の自由」「自分で儲けた金は当然自分のもの」と言って憚らないような人間が、思考放棄した人間にあたります。

 大事なのは、白黒両面をしっかりと考え、灰色の道を選んで生きることです。灰色とは、くすんだ色という意味ではなく、中庸を表すために使っています。灰色の人間が増えた社会は健全です。一方、何も考えずに社会常識をそのまま受け入れる人間は透明です。すべての光をそのまま通します。なんの存在価値もありません。支配者にとっては非常に都合の良い存在です。灰色な人間がなるべく減って、透明な人間の割合が増える方が支配者にとって都合が良いのです。

 わかりにくいのでアリクイの例え話にまた戻ります。透明のアリは、彼の呼びかけに呼応しなかった二千万匹のアリたちです。何も考えていないのですから、アリクイに報復をしようなんてカケラも思わないのです。自分が生き残っているのですから、それで十分なのです。ですから、支配者は、透明なアリの割合が増えれば増えるほど、安泰なのです。もし今の日本の社会にアリクイが襲ってきているとしても、おそらく八割方が無色透明なアリになっているのではないでしょうか? アリクイは、蟻塚をほしいままに貪り尽くせるでしょう。

 いまの日本では、圧倒的大多数の人間たちが、「常識」を疑いもせず信奉しています。ですから、灰色の人間、中庸の人間は「常識」から逸脱した発言をする変わり者だと思われるのです。時には、社会から排斥されるのです。しかしながら、アリクイに立ち向かう「彼」のようなリーダーは、灰色な存在からしか生まれません。何も考えない透明な人間からは生まれないのです。もしもあなたが今の社会に適合できないと感じているなら、それはあなたが無能だからではありません。社会に対して何かしらの違和感を強く感じる能力に恵まれているだけです。そしてそんなあなたには、社会を変革する一匹のアリになるべく、しっかりと事象の陰陽両側面を考える力を身につけておいて欲しいのです。


二十四、考える


 人間は、考える葦である。

フランスの哲学者、パスカルの言葉です。哲学は苦手と豪語しておきながら、最後は哲学者の言葉かよ!と呆れたみなさん、そのとおりです。哲学は言葉で事象を定義しようとする学問なので、そこで編み出された言葉は非常に普遍的で便利なのです。

で、「考えなければ、ただの葦」ということです。つまり植物ですね。人間ではないのです。これは、さきほどの内容に照らすなら、透明な存在だということです。

我思うゆえに我あり

フランスの哲学者、デカルトの言葉です。哲学、便利っす。何も思わない人間は、存在しないも同然だということでしょうか。つまり、自己の複製を作ることが生物の根本だとしたら、考えることが人間としての根本だということです。

先述したように、考えるためにはその元となる知識と経験が不可欠です。もし人生で避けることがあるとするならば、それは知識と経験を得る機会から逃避することです。考えを深める要素を自分に取り込まない行為です。バラエティ番組ばかり見ていても、なんの知識も得られません。スポーツをすることは経験になるし、自分がやっているスポーツを観戦することは勉強にもなるでしょう。しかし、自分がプレイするつもりのないスポーツを観戦することは、あまり役に立つとは思えません。

しかし、ひとそれぞれ、千差万別、なにが自分の知識や経験に役立つのかは、本人にしか分かりません。私の評価はもちろん、誰の評価も気にする必要などないのです。ただし、自分で評価することは必要でしょう。自分自身についても、しっかりと考えるのです。何がしたいのか、何をしたくないのか、何に向いているのか、何に向いていないのか。その中から、自分だけの答えを出し続けることです。他人からの評価など、全くもって無意味です。そんなものを気にするから、自分らしく生きることができないのです。

たまたま読んだうつ病対策の本に、逃げることが大切だということが書いてありました。一面では正しいでしょう。しかし、考えることから逃げ続けてはいけないと思うのです。薬の力で現実に対して無感覚でいられることは、一時的には心を楽にするのかもしれません。しかし、それは、「我思わず、ゆえに我なし」な状態とも言えます。つまり、生きながらえる手段にはなっていますが、人間として存在していることにはならないのです。それよりも、もしも鬱になって引きこもってしまったら、たくさん書物を読んで考えた方が、真の意味で生きる力を取り戻せると思うのです。そして、読む本はなるべく自分の考え方と反対なものが良いでしょう。真逆の感性や考え方を真剣に吟味することで、それに対する反発心だけでなく、自分が凝り固まって信じていたことへの疑義も発生すると思うからです。なにより肝心なのは、自分が興味を感じる事柄の本だけ読むことです。他人からのおすすめとか、全く無意味です。


二十五、おわりに


積年の怠惰から、いざ何かの行動を起こそうとする気配はなく、いたずらに一日一歩ずつ死へのステップを下り続けているだけ。それが、私です。考えているだけで、何の行動もできない、見るべきところのない凡庸な人間です。しかし、いまはまだ生きています。それは、何かを成し遂げるためではありません。片側に振れすぎた社会が反対サイドに揺り戻す時、思い切り反対サイドに向かって出陣していく力ない一人の人間であるために生き続けています。私は凡庸なので、反対側に走り出すことを促すリーダーなどにはとてもなれません。しかし、バランスを失った社会が均衡を取り戻すためなら、リーダーについていく一匹のアリにはなりたいと思っています。透明なアリにはなりたくありません。そういう灰色のアリ、中庸を知る人間が増えれば増えるほど、社会はバランスを取りやすくなります。私は、ただそれだけのために、いたずらに生きているのです。

 そしてあなたも、ただ生きているだけだとしても、考えてさえいれば、実は有用な人間なのです。なにも考えずに生きる透明人間とは全く違うのです。

 私は文中で、いろいろなことに否定的な見解を示しました。また逆に、否定的に捉えられていることに肯定的な意見を述べました。何度も言うように、これは事象の多面性を描写するためです。決して、誰かの見解を否定したり、肯定したりするつもりはありません。中庸を知るための、一つの方法論だということです。

 しかしながら、不快な思いをした人がいたとするならば、素直に謝ります。最近のウェブ・ニュースにありがちな、人の発言の一部だけにスポットライトを当てる記事を書かれたら、この文章は失言に溢れています。ただし、そういう他人の揚げ足をとることだけに熱中している記者の視線など気にしていたら、本質に近づくことはできません。両極端な考え方を体得してはじめて、中庸を知ってバランスをとれるようになるからです。

 私にとって凡庸に生きるということは、中庸に生きるということと同じ意味です。決して、流されて生きるという意味ではありません。たとえ、見た目でその区別ができないとしても、全く違うのです。

 したがって、私は凡庸な人生は誇るべきものであり、恥じるべきものだとは思っていません。凡庸な生活をこの現世でなるべく多くの人が送ることができるよう、しっかりと考えて生き続けること、それが一番大切だと思っています。













 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 似たような、それでいて自分より優れた見識を持った人を知ることができて感謝です。 [気になる点] 死は肉体が滅ぶだけであって、「無」にはならないと思っています。 だって、今まさに此処にあな…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ