第六話 プロイセンへの道行き
ゲルダは今、真夜中の街路を走る一人の少女を追いかけていた。年の頃なら八,九歳で背中まで伸びたウェーブの掛かった茶色い髪をした女の子。その子もまた自分と同じ褐色の肌をしている。彼女の身体能力を持ってすればその子の手を取ることなぞ造作も無い筈なのだが、ちっとも追いつけない。
「そっちへ行ってはダメ!」ゲルダ・ウル・ヴァルデスは薄い生地の寝間着姿で裸足のまま、声の限りに呼びとめようともしたが、それも届かない。
周囲には故郷の懐かしい町並みが続いていた。だがその全てに人の気配は無く、家々は黒々と煤け、窓ガラスは砕け落ち、いたる所で裸火がめらめらと閃き行く先々を照らしている。
少女は背中で紐をクロスさせるタイプの濃いブラウンのスカートと白のブラウス。シャツと同色のストッキングに黒の革靴。その瓦礫と灰燼に帰した町の道路を、ある辻に向かって一目散に駆けていくのだった。
「ダメ、ダメ。そっちへ行かないでぇ……。見ないでぇ」ゲルダは髪を振り乱し、その子を追うものの何故か足がいうことを聞かない。
「ゲルダーッ待て。わたしの傍を離れるな!こっちへ来なさい!」身を竦ませているゲルダの背後から上がった声の主は肩幅の広い、均整の取れた体躯をした黒人男性であった。見た目は四〇代半ば全身黒尽くめで軍警察がよく使う暴徒制圧用の装備をまとっている。防弾チョッキタイプのアーマー、ヘルメットは白っぽい埃に塗れていて、負傷した左足を引きずっていた。左ひざの全体を覆う応急処置された白い布はすでに赤黒く変色しているのが痛々しい。
「先生!あの娘を止めて。早く!」と、声をふりしぼって懇願するものの、彼は寝間着姿の女性が目に入っていないらしく、荒い息づかいのまま追い越していく。
そのまま少女は大通りから、目指したその辻を左へと折れた。刹那にその子は声を震わせて
「とぉさま!かぁさまぁー!」と、叫んでいる。……が声そのものを上げているのはその場で頭を抱えてしゃがみ込んでいるゲルダ自身。娘が垣間見たであろう光景はそのままゲルダ・ウル・ヴァルデスの視界に取って代わっていた。
辻を折れた、その先には中世城郭風の堅牢な白い市庁舎の建物。その前の広い園庭の中央には、樹齢を優に百年を越える立派な桜の大樹があった 己が両親はその立派な枝ぶりの一つに横並びで吊るされていた。もはや息はない。
その足下にはいくつものどす黒い影がうごめいていたのだ。数十に分かれていたそれは、一つとなり、また幾つにも分裂しては、ゆらゆらとひしめきあう。哄笑、あるいは嘲りを含んだ怒号がそこから立ち上っては共鳴して、ゲルダの耳に容赦なく突きいってくる。
さらにその大樹の根元では、別の影の群れが、年の離れた自分の姉にまとわり付いては園庭に押し倒していた。それこそがゲルダが追いかけた少女に、かつての自分自身に決して見せたくなかった光景その物であった。
いくら拒んでも、その情景とそこから沸き上がり渦巻く憤怒の感情が容赦なく彼女を苛み、姉の叫びは反復、増幅されて無情に脳裏に突き刺さる。
「ゲルダァ!見ないでぇー。逃げるの!走ってぇぇー!」
ゲルダはその声が届くと同時にその場で、半狂乱になり獣のような雄叫びと怒号を闇の中で上げ続けていた。
「おはようございます。ヴァルデス様。予定時刻を五分ほど過ぎております」家令向けAIの女性キャスターばりに歯切れのよい声色で悪夢から引き戻されたゲルダ・ウル・ヴァルデスの目に最初に映った物。それは白亜色で全面に小ぶりな百合の花が散りばめられた小粋な天井の模様であった。
ゲルダは掛けてあったタオルケットごと胸のあたりをわしづかみにするや、そのまま虎の如くに吼えた。大きすぎる犬歯をまさに牙の様に覗かせ、その声量は曇天にあって淡い光がわずかに差し込む窓辺をふるわせるほどだった。
「またか……クソッ!」古風な木彫が施されたベッドから上半身を起こしたゲルダは
「シャワーを四〇度に」はき捨てるように家令に告げると、そこから跳ね起き夢の中と同じ薄い寝間着を脱ぎ去り素裸でバスルームへ。
折り畳み式のドアを過ぎると同時に、設定温度ピタリの湯の雨が天井部から降り注ぎ、床面からはうっすらと湯気が立ち昇る。そのまま彼女はバスルーム前面の大鏡に向かって両手を広げ叩き付けるようにして
「いつまで……いつまでも!」と、首をうな垂れた。湯の流れはよく均整の取れた四肢を始め、大きく突き出すバスト、良く張り出た臀部をも包み込んでいく。その中で何度もゲルダはつい先刻の悪夢を振り払わんばかりに上半身ごと大きく頭を振った。
すると、そこへ
「ご主人様、ブライトマン様がエントランスにお越しになりました。お部屋にお招きいたしますか?」との声が。
これにゲルダは一度、湯の雨を止めさせると
「よい!そのまま御車でお待ちいただけ!すぐに参りますと、父上に伝えよ」指示を告げた後、彼女は小声で
「気の利かない家令だ。御足が不自由なのだぞ」と呟き、全身にボディソープを塗りたくり始めた。
「おはよう……少し早かったかな?すっかり本降りになってしまった。全く嫌な雨だ」
「いえ、大丈夫よ。それより待たせてごめんなさい。父上」
ゲルダは左足がままならぬエドガー・ブライトマンの代わりに、彼女が住まうマンション共用のポータードロイドに向けて、エントランス前に乗り付けた無人タクシーのトランクに自分の出征用装備一式を詰め込ませてから、すっかり白髪の養父に朗らかな笑顔で応えた。
エントランスには車二台分がすっぽり納まる庇が付いていて、昨夜から降り始めた雨は一層強く、その外側のアスファルトを激しく叩いていた。そのためか晩夏の朝方にしては少し肌寒い。
ゲルダは長袖のベージュ系サマーセーターに、デニム地ロングスカートの出で立ち。素足に編み上げタイプのサンダルを履いている。エドガーはお決まりのラフなスーツ姿。
「晴れていれば、私が来る前に近所を散策できるのにね」ゲルダは斜視の老人の肩に手を添えながら、AIタクシーの後部座席へと彼を促し、付き添って来たポータードロイドに自室の掃除と洗濯物の始末を伝えた。
「ご免こうむるね。いつも後にスパイドロイドのノラ猫がついてくる。とは言え、使っておかないとコイツは錆びつくばかりだしなぁ」と、エドガーは卑屈な笑みを浮かべ、言う事を聞いてくれない左ひざを杖で支えている反対の手で叩いた。
「そうね。私もあの毛玉の類は好きじゃないわ。閉めて」ゲルダの指示を受けたタクシーAIは万人受けのする若い男性の声で“イエス・サー”の返答後はほぼ無音でドアを閉じ、同時に反対側のドアを開けた。
ゲルダは雨粒で黒の光沢が映える高級車タイプのボディを回り込む間に、その場で未だ立ちすくんでいるポータードロイドの簡素な頭部に向け
「ルーム№四一九。家令名はグスタフ」と自室に入れる必要情報を告げると、ポーターは乳白色でまん丸の頭部で軽く頷き、“いってらっしゃいませ”の常套句を述べた。その後スカート状ボディに装備された球形の脚を駆使してエントランス内へと戻っていった。
これを合図にしたかのように、ゲルダとエドガーを乗せた高級リムジンタイプの黒光りする車体は滑るようにエントランスを後にした。
予め中継地点と最終目的地をエドガーから指示されている車載AIは二人が居並ぶ後部座席から透明シールド隔てられた運転席のハンドルだけを無人のまま回転させ、雨に叩かれるままのアスファルト上を音も無く、だが確実にスピードを上げながら幹線道路への道筋を選択していく。途中、ガードレールに区切られた歩道側を兄弟と思しき子供二人が黄色いおそろいのレインコートに長靴で嬉々として駆けていくのを追い越した。
ゲルダはそれを見つめ
「あらあら、こんな雨の中を。お家にいればいいのに」と呟けば、それを聞いたエドガーが軽く笑い声を上げ
「子供が欲しくなったかね?」と言った。
「ええ。時が来れば産みますとも。もはやヴァルデスの血統を残せるのは我ただ一人。でも今はまだです。先生」ゲルダはもうすでに艦橋にある時と同じ声色がやや低めのトーンに移り、顔つきも養父を気遣う義理の娘から指揮官へと。そして父上から先生と彼の呼び名を変えていた。さらに彼女は
「それで?ただの昔話をするために、あの方が我ら二人を招聘するとは考えにくいのですが」こう己が老師に問うた。
エドガーは自分にぐっと顔を寄せ、虎のような眼光を向けている弟子から視線をワイパーが忙しなく動くフロントガラスに転じると
「まだ……あの頃の夢を……見るのかね?」目を伏せがちに呟いた。
「“戦”ね。エドガー・ブライトマン。いつもそう……我があのペルガモンの夢を見るときは戦が近いその兆しだ」
「察しがいいな」彼は足元のビジネスバッグから
「では、我が愛娘よ。『マルス・セントラル』に着く前にこれに目を通しておきなさい」と、エドガーがゲルダの膝上によこしたのは、きれいに折りたたまれた新聞紙が一式。
「まぁ紙媒体での新聞ね。贅沢しているわねぇ」彼女はそれを押し戴くようにして眼前に持ってきては物珍しげに眺めはじめた。
紙の素材はパルプ。これは地球も火星も製法は変わらない。だが、この世界では前述の”塩”同様に木質の資源もまた、かなり貴重であり、紙の生産も限られている。故にそれをふんだんに使わなければならない紙媒体の出版物には高額の物が多い。
一般的には書籍、週刊誌、新聞の類は全て配信に頼っているのが実状であり、事実エドガー・ブライトマン程の政界に顔が利く人物でもなければ、紙媒体の新聞を定期的に(週刊)受け取ることは不可能なのだ。そして、自分の書斎に紙媒体の書籍、百科事典、古典文学の全集を書棚に並べるのは、この世界で起業して成功を収めた人物のステータスとされている。
完全自動運転のタクシーは、順調に中央フィラデルフィア市の郊外に存在する最も巨大な陸上の施設に向けて、雨を掻き分け時おり上空から放たれる雷光の中を、片側二車線の道路を順調に進んでいく。
ゲルダ・ウル・ヴァルデス麾下第五〇二独立遊撃艦隊の泊地『マルス・ベクター』において宇宙船、艦艇向けの外宇宙への射出孔は、地上一〇〇メートルを超す、すり鉢を逆さに伏せたような形状を為すメガ・ストラクチャーであった。
二人を乗せるアトランティア・ネイションズの首府にして、火星世界初の軌道要塞『マルス・セントラル』へのチャーター便もそこに待機させていた。
「贅沢?そいつは心外だね。金の有意義な使い方を心得ていると言って欲しいものだな」かく言うエドガーを尻目に、ゲルダは新聞を破らないようにゆっくり開いてみせてから、その真中に顔を近づけては鼻をクンクンさせている。
「腐ってなんかいないぞ。その癖、治らんなぁ」と、窘め白い歯を見せるエドガー。
「昔から紙とインクの匂いは好き。独特なすてきな香りがするから……知っているくせに」
ゲルダは師の配慮で赤く囲まれてあった新聞の政治、社会面に目を通してから
「……神聖ローマ連盟の片割れ自由フランス共和国の現大統領が急死。副大統領は高齢を理由に辞任を表明ですか。これが黒い独裁者からの呼び出しに何の関係が?」
「元第七代大統領アーサー・ケイリー閣下と、言ったほうが良いのだがなぁ」
「自分の意に沿わぬ第八代を武力介入で更迭。自分の娘婿チャールズ・スタインメッツ元中将を現大統領に据えたあの男を世間では “ハイ・プレジデント”って呼んでいるのよ。先生」
エドガー・ブライトマンはわざと大げさに肩眉を上げて見せ、黙って無人の運転席を指さした。“壁に耳あり障子に目あり”のサインを受け取ったゲルダもまた、両肩を大っぴらにすぼめて見せた。
「むこうに着いたら、出立前に何か食べようゲルダ」話題を変え、養父のふるまいに戻ったエドガーに
「私、バターたっぷりのパンケーキがいいわ」ゲルダもタクシーに乗り込む前の養女の顔に立ち戻って明るく答えて見せた。
「それも変わらないな。……確かにお前の姉さんの作るパンケーキは絶品だったな」と、呟いたエドガーは義理の娘に過日の事を思い起こさせる因を口にしてしまった事に微かに口元を歪ませた。
「ええ、我の母親代わりだった姉が用意してくれたものは何でもおいしかった。時に父上、あれは大丈夫?」ゲルダは進行方向にある陸上型ヘキサゴンエリアを指さした。タクシーの目的地は目前に迫り、雨風に煙るすり鉢状の山から、人が造りし鈍色の巨大な蟻塚の様相を呈していた。
「あ、ああ。大丈夫だよ。しかしあと何回自由落下にコイツがもってくれるかだ」彼は自分の胸を指で二、三度叩いて見せた。
「私は好きよ。自由落下で宇宙へ出てから舷窓の外に拡がる空間、その中で自分の手足が久遠の彼方にまで広がっていく感覚が。遥かに輝く太陽と眼下に広がる紅い惑星を目に捉える時……我はあの時の誓いを思い出す」
エドガーは黙したまま鋼鉄の山塊にそびえ立つ壁へと視線を注ぐのみ。
「騒乱で燃え盛る故郷ペルガモンシティと軌道要塞『J・F・K』を脱出した船内であなたに『私を将軍にして!』と言ったのを覚えておいでか?」と、養父であり老師に問うた。彼は表情一つ変えないままだったが、やがて口ごもりながら
「あれはな、私の見込みの甘さが招いた事故であり失策だった……」と言うや、彼の愛弟子は
「事故?我がこれまでに長じてから、あの件を民族紛争を調べなかったとでもお思いか」
「……ゲルダ」
「あの紛争を、マスコミは馬鹿げた“お家騒動”としか報道しなかった。そうさせたのは、陰であの騒乱を画策したのが父上の親友、あのアーサー・ケイリーでないとは言い切れないでしょう?」
「もう過ぎた事だ……」
「私の両親、そして優しかった姉はあの男の策謀の贄となった!父上の膝もその後の合併症で左目すら失ったのもその所為ではありませんか」
エドガーはぐいっとゲルダの腕をとると、そのまま枯れ木のように薄くなってしまった胸に大柄な娘を抱き留め、幼かった頃と同様にきつくウェーブのかかった頭部を撫で始めた。
「我はあの時と何も変わらぬ。人の世の薄汚さと冷酷さ、それだけが我の教訓!怨みのみが天下を統べる!」ゲルダは養父の胸の中で唸るようにして、背中を震わせている。
血の繋がらない親子は、しばしの間そうしていたがエドガーはゲルダの背中を平手であやすように叩くのを止め
「落ち着いたかな?ゲルダよ。お前は自分の立場を判っていような?」彼女の耳元で囁けば
「はい。連邦の禄を食む者であり、艦隊を預かる軍属であります」ゲルダはゆっくりと体を養父から離すと自分の席についた。
「……言うまでもないが、大丈夫だな……」エドガーはゆっくりと、利き腕の右手を伸ばしてそっとゲルダの膝に置いた。
「涙も、後悔も、人らしい悲しみも全て、あの日において来たまま。私の子供時代はあの日に終わりました。エドガー・ブライトマン……。知っているでしょう」慈愛に満ちた眼差しを向けている養父の表情から逃げるようにしてゲルダは反対側の窓の方向を向いたままで
「先生は……姉を、アリシア・トワ・ヴァルデスを愛していたの?」ゲルダは返答の代わりに彼の手がピクッと膝上で動いたのを感じると
「そう……」こう声を洩らした後はヘキサゴンエリアに到着するまで、二人の間で言葉が交わされたことは無かった。
ルナン・クレールとキサラギ・スズヤを乗せた『オーストリッチ』号は、『ディジョン・ド・マルス』を夜半に進発した九時間後、もっとも近在で火星の地表から同じ高々度で衛星軌道を廻るオービットフォートレス『アルザス』へと入港した。
貨客宇宙船はかの地において積荷の搬送と、乗客の乗り降りで数時間を要し、再度ヘキサゴンエリアから射出。次の寄港地自由フランスとドイツ選帝侯領との宙境ラインに接するハブ港たる軌道要塞『ローヌ・アルプ』へと向かう道行きの途上にあった。
次の要衝『ローヌ・アルプ』へは同日の二一:三〇着の予定。そして、終点にあたるドイツ選帝候領『プロイセン』への到着は更に一〇時間後の八月二七日、〇六:〇〇以降の到着となっていた。
現在は『アルザス』―『ローヌ・アルプ』への航程で標準時刻の日付が変わり、八月二六日、〇七:〇〇を廻った頃合いである。
船内食堂では、乗客に朝食サービスが提供される時間でもあった。
「うん!悪くない。格安運賃の貨客船にしてはメニューもある程度揃っている。キサラギよぉ、この船は”当たり”だな」ルナンはテーブルを挟んで座っているキサラギに微笑みながら、自分の料理用プレートに盛り付けた、ベーコンの炒め物とスクランブルエッグ、そして焼きたてのロールパンをそのまま口に運んでいた。
二人は、船底部倉庫より一つ上の船室デッキの二段ベッドで一泊。その後、シートと舷窓が居並ぶ客室デッキのすぐ下に用意されている食堂での朝食を摂っていた。
食堂には、五、六人かけの長テーブルが二列で十基ほど。その真中が通路になっていて、今は人が各々のセルフ式で用意されている食器プレートを持ってひしめいていた。親子連れ、老夫婦や会社の研修なのかスーツの一団もあった。始発港を出発した時より乗客の数は当然ながら増えている。
「ねぇルナン。アメリア師匠はさぁ一足先に任地へ向かったけど、ケイトさんも参加する予定になっているの?」キサラギは、オニオンスープ入りのカップとフルーツとロールパンをプレートに用意して、イチゴジャムをちぎったパンに塗りつけている。ルナンは少しの間、思慮にくれるような表情を浮かべ
「うん、まぁ……ケイトは今回不参加だな。あのマティアスにしてみれば関係者の幅を広げたくないのさ。もう今頃は、オレに割り当てられた岩塩五トン分の現金化がされている……。『タービュランス』号の改装工事の監督に手が離せないはずだよ」と、言うとキサラギの方が一度周りをぐるりと見廻し、ぐっとルナンに顔を寄せ内緒話するようにして
「あのさ、『プロイセン』でのあたし達のアジト、って言うか仮のカフェの名前『金の熊さん亭』だったっけ?」小声で問う。
「そうだよ。元は潰れた寿司バー。それを情報局第四課は二日で小粋な喫茶店風に改装させたらしいな。もう、アメリアは現地でのバイト面接に入るって連絡があった」
「はぁ~本当に頼りになる姉様だなぁ。ところでさ、ルナン。あの制服本当に着るの?」
「着ますとも!スプライト柄ワンピにフリフリスカート、頭巾みたいなレースの被り物も。白い二―ソックスまで付けてばっちり絶対領域は確保するのです」こう自信たっぷりに豪語する目付き悪すぎ女史をキサラギは残念そうに見つめ
「止めた方がいいと思うなぁ。あたしや師匠なら似合うけど……イタい!イタすぎるぅ」キサラギはさらに首をうな垂れ思いっきり嘆息をつく。
これに当人だけは大きく胸を反らせては
「何を言うかぁー!オレはあの『モフモフうさちゃん倶楽部』でネコミミメイドに扮した経験があるぅ!ヨシッ証拠見せたる。ルーヴェンスのメモリーからアップロードさせればいい」こうルナンが口から泡ならぬスクランブルエッグのカスを飛ばしながら喋るのを、キサラギはこれまた眉間に皺をよせて
「無理ですぅ。今、あいつは軌道要塞内のクラウドサーヴァ“ゾディアック”から切り離されているの。人語はおろか機能も半分以下のネコちゃんロボになっちゃてますぅ!」と、言った。
「そ、そうだっけなぁ。で、あいつは?」
「ここは食堂。あんな毛玉を連れて来られる訳ないじゃないの。今はねあたしの隣席。ペットケーシングの中で喉を鳴らしているわ」
ルナンはここでウェイトレスの件なぞどこかにふっ飛んだように、急に神妙な面持ちで腕を組みながら思案を始めた。キサラギが相棒の顔を覗き込むと
「そう……普通はそうなるのだよ。ネットを統合管理する電算集合体ゾディアックとのアクセスがなければこれまでのAIは自律機能を果たせないはず」
「今度はどうしたの?」
「いや、ケイトが育成している、アクティブ・ドローンさ。彼らの第七世代型が有する自律系乱数進化って奴は本物だなって、あらためて感心しているのよ」と、今度はルナンからキサラギに顔を寄せ上目遣いのまま
「ケイトと既知を持って正解だった。大枚な借金した甲斐もあるってもんさ。キサラギいいか?彼らは自力で考え行動を選択する。最適かつ最大の効果を味方にもたらす決戦兵器となる!これからは彼らの保有数が物を言う時代になる。たとえ宇宙空間であろうと、要塞内の海底であってもお構いなし」と、言った。
キサラギは唐突に次期決戦兵器の話を振られてしまい、キョトンとしていたが海底にのみ反応して
「あ、そういえばさぁ……あの時驚いたわよぉ。白ラインのアクティブ・ドローンがさぁ」こう返した。
「あの海水浴の時か?あれはジャンっていう名前を持つタイプだよ。それが?」
「あたしらが焦げた焼きそばを海に放り投げた時にジャンがいきなり海中から現れてさぁ、ハサミにでっかい魚捕まえてきて『おっかん、見てぇ!こげんと捕めたんじゃ』って。あたしはカニの化け物が現れたのかと思ったわよ!」
「あれはサメだ。体長六メートルくらいはあったか」
「サメかぁ。でもそいつは波打ち際で尾ひれ振るってしこたま暴れてさぁ。ルーヴェンスなんか『怪獣映画みたいだぜ』ってはしゃぐし、着替え途中だったケイトさんはバストまる出しで走って来て『ないやっちょっと!放しやんせ。殺したらやっせんのじゃ。マークス止めんないけんじゃなか!』って大騒ぎ」
「まぁねぇ、野生の海洋生物を無許可で捕まえたら、法外な罰金が科せられるからねぇ」ニヤニヤしながらルナンはベーコンを口に放り込んでもちゃもちゃし始め、キサラギは最後に残った真っ赤なイチゴを見つめて
「ジャンの隣に上がって来たのがマークスだっけ?あいつ、一番兄貴分のくせにおどおどしていたっけなぁ」と言うなり、彼女もペロリ。
「あいつはなぁ、ケイトに怒られたからじゃないの。ケイトのオッパイ見て、ドギマギしていやがったのさ」と、ルナンは肩を揺らし始めて「あいつはケイトに惚れているのよぉ」とキサラギにそっと告げた。
「ほぉーっ!それは凄いね。恋愛感情までとは。さすが第七世代進化系AI!」
「そこに感心するんかぃ。君はぁ?」
「だって決戦兵器の話なんてピンとこないもん。……えっ罰金?」
キサラギはゴクリとイチゴを飲み込んだ途端に、「や、やばい!」と声を上げるやその場で大きな音を立てて立ち上がった。ルナンは座ったままで妹分を見上げていると
「ゴメン!これお願い」彼女に自分の料理プレートを渡してその場を立ち去ろうとした。
「今度は何だい?」
「ルーヴェンスのケーシングバックに鍵掛けて来なかったかもしれない。マズいよ。小さい子供でもあいつに触ろうとしたら、引っかかれるかもしれないからさ」
キサラギはそそくさと食堂と上の客室デッキをつなぐ昇り階段に向かって駆け出した。これに対してルナンのほうは、頭をふりながらJKスタイルの少女を見送るのみだった。
階段を駆け上がってきたキサラギが客室デッキに続く頑丈な気密ドアをくぐろうとした時、案の定自分たちの占める客席の方から、明らかに女の子の姦しい叫びが聞こえて来たのだった。
「マズいかもぉ……⁈」その場でキサラギの目に映ったのは、自分と同じ年頃の少女が二人。艶の映える銀髪をショートにした碧い目を持つヨーロッパ系の娘と、キサラギと同じアジア系の面持ちに明るいブラウンの髪をポニーテールにしているペアであった。
銀髪の娘はターコイズブルーデニム地のショートパンツとブルゾン。ポニテの方はエンジのキュロットパンツに花柄があしらわれたオフショルダーブラウス。それぞれ好みに応じたカジュアルな出で立ちで決めていた。
「○×▽、□……??」銀髪のほうが座席に飛び出て、唸り声をあげるルーヴェンスを指さして何ごとかをキサラギに話しかけてきたが、ちっともキサラギには聞き取れなかったのだった。