第四話 束の間のバカンス
「しっかし、普通なら縮み上がっちまうお偉方相手に言いたい放題とは。やっちまったな。おめぇ」スポーティなボーイレッグ型ビキニ姿のアメリア・スナールは折りたたみ式のアウトドアベッドから身を乗り出すようにして振り返った。
ルナン・クレールにとって、たった一人親友と呼べるアメリア・スナール中尉のグレーの瞳にはキャンプ用携帯コンロの炭火が生み出す陽炎のためにチビでソバカスの友はゆらゆらとしている。
「作戦発動を許可してくれたはずのアンドレ・アルノー大将、あのオヤジが真っ先に手の平返しやがった!」こう忌々し気に唸る、現在謹慎中のルナン・クレール海軍元大尉は薄煙を発している鉄板に油を引き、粗く刻んだキャベツを放り込んで両手に持ったコテでザクザクと更に細かく刻んでいく。
「それだけ、老獪な政治家ってこと。いいように利用されたもんさ」
親友には目を向けない彼女は次に塩コショウを振りまいては、キャベツの硬い芯に自分の不遇を八つ当たりするようにしてコテを握りしめてその刃先を思いっきり叩きつけている。
「それにしても、あんなどでけぇ借金どうすんべなぁ」まるで他人事のアメリアはサングラスを額の所まで差し上げて微笑んだ。
「まぁしばらぐの間はゆっくりしてれ。他はオラたちに任せれば良いんでねぇの」ルナンはこれを聞くなりコテの柄の部分で鉄板を勢いよく叩き
「悠長なこと言ってられるかってんだ!何とかせにゃ早々にオレは破産だよ。……それにやっぱりおかしい」と、言うとアメリアも眉間に皺をよせ
「昨日、『ゴールデン・ピッグ』で聞いた件だな」探る様な眼でルナンを捉えれば、彼女も大きく頷いた。
「……昨日の連中、来ているのか?」
アメリアは上半身ひねるようにしてアウトドアベッドから海原のほうへ顔を向け
「あれだな。沖合に停泊している高級ヨットだべ。パパラッチ共のボートは海軍の警備艇が追っ払ったけんど、あの船だけは沙汰無しみたいだ」
ルナンはあからさまに沖を見ないよう、上目使いでヨットの位置を確認しながら手早く鉄板の上に二、三袋ぶんのちぢれた麺を手でほぐしてから投入。火と油によく馴染ませてからウスターソースをまんべんなく上から注ぎ込むと、香ばしいソースの匂いと、麺が鉄板に程よく焼かれる心地よい音が二人の耳に届けられてきた。
そこへ、きゃっきゃっと姦しい歓声が沸き起こってきた。
二人が目を転じると、真夏の強すぎる日差しにキラキラと輝く波打ち際で、ビーチバレーを楽しむ二人の女性の姿が飛び込んできた。
一人は、ルナンと寝起きを共にするキサラギ・スズヤ。彼女は花柄でトップ側をフリル状の布で覆ったデザインのフレア・ビキニ。波と戯れつつビーチボールを喜色満面で追っている。
もう一人は、以前ルナン、アメリアと同じフリゲート艦『ルカン』に乗り組み一致協力してアクティヴ・ドローンの三機と共に”見えざる敵”を撃退、脱出を成功させたケイト・シャンブラー博士であった。
海水浴に興じているケイトもビキニ姿であるが、彼女は紐を首の前で交差させた黒一色のクロス・ホルダータイプ。褐色の肌に弾けんばかりの尻と巨乳はその水着のデザインによって余計に強調されていた。
ケイトもキサラギと一緒になって、豊かすぎるバストを揺らしながら嬉々として波を掻き分けてボールを追っている。
ルナン・クレールは降格処分から二日目の八月二十一日の昼下がり。ルナン、アメリア、キサラギ、ケイトの四名からなる言わば“チーム・ルナン”のメンバーをここゼッケル海軍基地とは反対側となるバレアス島の東海岸、海軍関係者女性専用に設営された海水浴スポットに招いたのだった。
本来なら、昨日にキサラギが指定した『ゴールデン・ピッグ』にて、アメリアを交えて協議される負債の件は結局“わや”になってしまったのだ。
何せ肝心の本人がタブレット上での各社から寄せられた請求メールに“同意する”の項目に指紋認証タッチする度に虚ろな状態に陥ってしまった。挙句、自棄となり一人で生ビールを次々とあおり、日中なのに店内でたむろしていた港湾関係の労働者らと共に宴会騒ぎを始めてしまったからに他ならない。
やはりキサラギの言う通り店内のルナンには、やれ“天晴な活躍だったぜ。大尉殿”とか“ざまあみろ海賊共!”こうした嬉々とした賛辞があびせられたが、ふいに彼女からの
「誰かオレの借金肩代わりしてくれる奴紹介してくれねぇかなぁ?」との言が発せられるや、皆は波が引くように一斉にその場を去っていったのも事実であった。
結果的に認証が通ったために無事キサラギは生活費を確保。ケイトは夕刻から改造貨客船を受領。本日の昼前には、配下のアクティブ・ドローンであるオスカーを収容することができた。
ただ、アメリアはどんちゃん騒ぎの中でも、店内の隅でこちらを伺う一団の視線を感じ取っていた。どう見ても一般人とは毛並みが違うこの連中は急遽催された“キャプテン・クレールを励ます会”を遠目に冷ややかに眺めているばかり。最後にキサラギが仕切り直しに、海水浴を姉様たちにねだる頃合いには連中の姿は消え失せていたのだ。
ルナンは予に用意してあった、食べ易い大きさに蒸かしておいたジャガイモと小さめの赤ウィンナーも続けて鉄板に放り込む。コテを大きく器用にふるって都合四人分の焼きソバの仕上げに掛かるホスト役のルナン・クレール。
最後にもう一度、全体に塩コショウしてから、青ノリを茶色に染まった麺の上にふんだんにばら撒くと、背後においてある本来自分が座るはずの折りたたみ式チェアに寝そべる、ルーヴェンスにキサラギとケイトを呼んでくるようにと声を掛けるが
人と会話ができるクロネコ型ヒーリング・ドロイドは尻尾を挨拶代わりに上下に振るうのみ。本物の猫さながら一鳴きしてから無防備な腹を見せるような恰好のまま動こうとはしない。
「こらぁ!そこのネコ型AI!ネイチャーモードを解けっつーの」
このルナンの声に反応したクロネコはゆっくりと起き上がると座席の上で座りなおしてから
「気温は三五℃、砂浜は焼けるような暑さです……。ボクの肉球も溶けてしまいそうですよ」椅子からひょいと飛び降り、波打ち際へと四足でとぼとぼ歩みを進めていく。
穏やかな波が到達するギリギリの所まで来ると人と同じように立ち、二人のうら若き女性に前脚を使って”おいでおいで”をしている。
クロネコに反応したケイトの方は、笑顔で返し褐色の豊満なボディから海水を滴らせながら歩いて来た。これを眺めながらアメリアは
「クッソー!神様は不公平だよ。天才的な頭脳をたがいで生まれでさぁ今や大学ん博士様ぁ。それに可愛らすいメガネっ子であのグラマラスなバディ」と、言うなりスレンダーな自分のボディをなでながらこれまたきついお国訛りで溢せば
「その代わり、アメリアは腹筋が見事に割れているじゃないの」
「これは職業柄、鍛えられでるんだがらしょうがねぇべさ。……ケイト、どうだがぁ?我らの故郷の海は」
アメリアが自分の隣に用意されたロングタイプのアウトドアベッドに腰かけてバスタオルで身体と髪を拭っているケイト・シャンブラーに訊ねると彼女は息を弾ませて
「最高じゃ!さすがは人工海洋型オービットフォートレス。冷たすぎない水温に風のそよぎ具合も文句なし!大気の流れと気温を司る炉心屋さんの腕が良かね!羨ましかど」と、笑顔をふりまいて少し興奮した様子でアメリアに答える。
ここでケイトの言う”炉心屋”とは火星世界における人工宇宙都市オービットフォートレスの内径世界に光と熱をもたらしてくれる人工太陽、プラズマエネルギー核を運行管理している技能集団を指す。
円筒型宇宙都市である軌道要塞の二つ存在する巨大な円形の壁、その一方に必ず構築されているのが核融合炉。その周辺に一族単位で住まう普通の人々とは生活の場と慣習を異にしている謎の多い集団であり、世襲制でその複雑多岐にわたる人工太陽と核融合炉の運行ノウハウを代々相伝していると言われている。
軌道要塞一基には必ずこのような一族が存在して、内径世界の気温と風の流れなどの光と熱を供給、暴走しないように管理しているが、市井の人々とは中々接触を持とうとせず各軌道要塞の同族との繋りの強い集団でもあった。
”リアクター・ギルド”とも呼ばれて、内径世界では政府関係者からも一目を置かれる有力な存在なのである。
内径世界の統一規格として、北側と決められているのが核融合炉の存在する円形の壁周辺区域を指し、宇宙港等の施設があるもう一方が南側とされている。東と西は便宜上それを分け隔てる、一線が内部世界に引かれている箇所が存在しているものの、事実上は繋がっているのであまり見分けがつかない。
その”炉心屋さん”のことを腕が良いと言われると、ルナンとアメリアは自分が誉められているような気がしていたく満足気に微笑んだのだった。
ルナンは熱々出来立ての料理を二人に取り分けて紙皿に盛って手渡した。アメリアは器用に箸を。ケイトには使い捨てのフォークを渡してから、あと一人がまだいないことに、波打ち際のほうを見れば、クロネコのルーヴェンスが後ろ脚で立ったままで、未だに波と戯れているキサラギに何事かを喚いている。
突然にツインテール少女は血相を変えて、波間から立ち上がると今度はクロネコ目がけ海水を掻き分けて猛ダッシュ。砂浜にヘッドスライディングして、彼の後ろ足を両手でつかむや次に豪快なジャイアントスイングを始めクロネコのボディを波間の向こうへと容赦なく放り投げた。
「やめぇてぇぇー!」絶叫を残してルーヴェンスは波頭が白くさざめく海上に小さな水柱を上げて姿を消してしまった。それを腰に手を当てた格好で確認したキサラギは鼻息を荒く大股で砂浜を闊歩。ルナンの前まで来ると
「あんのポカチンAIはなぁ『おい!貧乳。おまえのビキニ姿見ても誰も萌えねぇから早く上がって飯食え!』って言ったぁ!」と、髪の先から海水を滴らせながら里親に駆け寄ってきた。水は鉄板の上で弾けて水泡を上げて気化していく。
「キサラギィーッ!ルーヴェンスはお前の家庭教師でもあるんだぞ、まだローン残っとるのにぃ」ルナンが自分の同居人に、料理を取り分けていた長めの菜箸を向けて文句を言うと、少女はソバカス女からそれを引っ手繰って反省する様子も見せずに、鉄板からダイレクトに焼きそばをかっ込み始めた。
ルナンはアメリアとケイトに良く冷えた缶ビールを手渡しつつ
「キサラギ!行儀悪い。ちゃんと皿に盛ってから食え!」と、注意してもルナンと同居している少女はこれをまるで無視。育ち盛りらしい旺盛な食欲を満たしていく。
ひとまず空腹を満たすと彼女は朗らかな笑顔に口の周囲を油と青ノリだらけにしながらも
「もうひと泳ぎして来ていい?まぁだ帰らないでしょう?」と、まるで幼子のような口ぶりで甘える少女に、ルナンもつい顔を綻ばせて
「大丈夫!行ってきな。ちゃんとルーヴェンスを拾ってこいよ」
キサラギは頷くとすぐさま体を返したが、振り返ってから自分の親代わりになってくれているルナンに大きく手を振り
「ルナンありがとうね。こんな休暇は久しぶり!ママ大好き」と、波打ち際目指してダッシュしていくキサラギの姿を、腕組みしたままのルナンは愛おし気に見つめてからくすくすと笑った。
「ママっていうなっつーの。せめてお姉さんって呼んでくれよぉ」こうルナンが呟けば
「本当に、この一年で大きくなったもんだよ。アイツは」と、アメリアが感慨深げに口の端を上げた。
「基本的に賢か子よ。今自分に何が必要で何を学ぶべきかしっかり分かっちょっ。そいによう動く気の付く子じゃっで」
ケイトもここ数日の滞在ですっかりキサラギのことが気に入ったらしく、もう何年も付き合っているかのように、海辺で戯れる少女に目を細めていた。
「ケイト……ちょっといいか?例の『タービュランス』号の件だけどな」ここでアメリアが寝そべっていたアウトドア・ベッドから起き上がり、わりと真剣な顔つきで標準語を使って今日ここに来た本来の目的を切り出したのだ。
少し表情を硬くさせたルナンも水着姿のケイトの前まで来てからわざとしゃがみ込み、沖合いの怪しいヨットから、同志たちの口の動きを読まれないようにしてガードを固めた。
「おめ、あの宣材写真は必ず消去してくれよぉ!」アメリアがケイトに取りすがるようにして訴え始めたのは、今後の対策を協議するルナンの意図に反して、海賊おびき出しに使った例のSM女王様画像の件であった。
眉間に皺をよせたルナンをよそにケイト自身もバスタオルで口を拭うようにして
「判っちょっわ。あてもあげん写真いつまでも残しちょくわけにはいかんもん。大学関係者にはこげん画像はフェイクじゃ!こいで通しちょっじゃっで」何度も同意して頷き返した。
アメリアはもはや泣きださんばかりの態で、アウトドア・ベッドに顔を埋めては
「お、おらはぁあげな恰好するような女子ではねぇだどぉー!」と、手足をジタバタ。
「あ、あてだって……撮影班のスタッフがおなごんしばっかりなもんで、『素敵ですよ。もっと大胆に行っちゃいましょう』なんて言われたでぇ……やってもうてねぇ」ケイトにもアメリアの羞恥心が伝播したのか、バスタオルに顔を埋めて足をバタバタさせている。
ルナンはキサラギが傍を離れている間、あまり拘わらせたくない自分たちに探りを入れて来た連中に関する密談を交わすつもりが、あのセクシー画像の件になっているので少し落胆の色を浮かべていると、アメリアから
「ケイトとキサラギは宣材写真だけの協力だったがぁ、おらとこいつ、他に何人かのレディソルジャー諸君はこっぱずかしいコスプレしてぇ、『モフモフうさちゃん倶楽部』ちゅうふざけた店舗名でよぉクソ野郎共を実際に迎え入れたんだっぺさぁ!のぉ?ルナン」親友から割と激しく詰め寄られると思わず、ルナンも勢いで頷いてしまった。
「おらはSM女王様だべ。こいつはネコミミとシッポつけたミニスカメイドのコスプレだったべぇよ」
「あ、思い出した。ちくしょう!査問委員会でアメリアとケイトそれにキサラギの画像に関しちゃ、細かいことを詮索してきたくせにぃオレの時はなスルーだよ。スルーッ!あのじじい共め。何か言えってんだー!」今度はルナンまでが騒ぎ出した。
「それだけじゃねえべさぁ!美人局作戦の初めの頃にチンケな地方海賊ばしょっ引いた時だぁ」
「少し落ち着きやんせな。大声出したやいけんどぉ」ここで一人冷静になったケイトが二人を諭すものの、火のついたアメリアは止まらずにその場で立ち上がり晴天に向かって声を張り上げる始末。
「あんのぉバッカ共はぁおらの成り見てぇー、パンツ一丁になって犬コロみてえに四つん這いで寄ってきやがってよぉ!」
「ど、どげんしやったとぉ?」
「決まっとるべぇ!おらの鞭でしこたま引っ叩いてやって、それからピンヒールの踵で踏んづけてやったっぺさぁ!」と言うなり、今まで自分の枕代わりにしていたタオルをビュンビュン振るった。
「そんたはぁ、逆効果じゃらせんかねぇ?」
「ほんだらよぉーあのクソ共は『ああ、女王様もっともっとぉ』だどぉ!……ああ!さぶ疣立ってきたぁ!あんの野郎共は全員パクってムショ送りにしてやったっぺさぁ!」
ここまで手が付けられなくなって肩で息をしていたアメリアであったが、今までの鬱憤を一気にまくし立てたせいか、急に落ち着きはらって
「パクったと言えば、ルナンおめよぉあの南宋紅龍会の武装商船からちょろまかした天然岩塩は捌けたんだっぺ?」さらりと言ってのけた。
「だから、さっきからその話をしたかったのに、脱線させたのは誰だよぉー。先ずは座れアメリア」ルナンは辺りをキョロキョロさせるが、平日の昼日中では女性専用ビーチには彼女たちだけ。
親友がアウトドア・ベッドに座りなおすと、今一度ルナンは沖合からは見えないように配慮してから
「確かに、あのアステロイド産の貴重な天然資源は押収した三〇トンの内、一五トン分はオレとアメリアで『タービュランス』へ秘密裡に移して、オレが故意にしている業者の査定を受けた。結果は一キロ当たり五万ジルにまで跳ね上がったよ」
彼女たちが住まう火星世界において最も価値が有ると目され高値で取引される物の代表格として上げられるのは、”塩”であった。それも火星本土と小惑星の一部に僅かに含有されている貴重な岩塩層から採取される、いわゆる天然物は、たった一トンで新品の中型貨物宇宙船と同等の価値を持つと云われていた。
その背景には、人類の発祥した惑星である地球には数十億年もの間ほぼ無尽蔵に水素と塩を供給してくれる膨大な海洋が存在しているが、火星にそれは無い。
地球において恐竜が地上に君臨していた時代の頃までには、火星にも海が存在していたらしいが今は完全に枯れ果てている。
今や人類にとって最大にして最強の敵性ウィルス『ブロー・ド・マルス』が蔓延り、もはや生死に関わるほどの危険地帯と化してしまった火星の地上に降り立ち、その微かな名残を命がけで天然物の岩塩を確保するのは至難の技であったのだ。特に、あの悲劇的なリューリック事件が元で、祖先の星”地球との国交”が完全に絶たれてしまったここ二十年の間に天然物の価値は天井知らずの状態であるとされていた。
これとは別の安価なルナンたちのような庶民の食卓に上がる塩は、ほとんどが人工の海洋を有する軌道要塞『ディジョン・ド・マルス』のような内径世界の工場から精製される合成ミネラル塩なのである。
「それは結構な金額になるべぇ!ルナン、奴らはまだこっちを見張っているようすか?」自分の生涯賃金を割り出しても未だに追いつかない破格の金額に気付いたアメリア。
ただ、ルナンは視線の彼方、水平線の代わりに僅かに湾曲して壁のように見えている海面に向けたままだ。
「待ってアメリア。あても昨日から気付いちょったでね、ここん沖に予めマークスを配置しちょいたんじゃ」ケイトは片耳に付けた補聴器のような小型通信機に向って囁いてからアメリアとルナンにこう告げた。
「やっぱり、望遠レンズ付きカメラと、この上空には鳥型監視ドローンを遊弋させちょる。どうすっ?ルナン」
指示を待つケイトを尻目にルナンは、波間からずぶ濡れの黒い毛玉を拾い上げているキサラギを見るふりをしながら、確実に高級ヨットをも捉えていた。そして、ケイトに耳打ちした後は真っすぐ彼女の黒い瞳を見据えた。
「わ、わかりもしたぁ」こう答えたケイトの声はわずかに上ずり、怯えたように視線をルナンと合わせられなくなった。
「これまでの事は、おらたちが吊し上げた海賊団の息がかかった連中だっぺかや?」
「それは無いな!銀行口座凍結のような芸当は、奴らにしてみればリスクが高い。社会インフラに対する直接的な妨害はあいつらのスポンサーを怒らせる事になる」そしてアメリアに視線を移すと
「今度の相手は少々厄介だぜ。グリフォン・ディファンス隊長」と、言うや拳を握ったまま凛として立った。
アメリアも即座にその場で背筋を伸ばして立ち上がった。
「やっと、指揮官の顔に戻ったな。ルナン」海賊掃討戦にあって彼らの武装商船、仮装巡洋艦に果敢に挑む時の獲物を容赦なく狙い粉砕する鷹のような鋭い眼差しに捉えられたアメリアはさらに
「何かあった時は、必ず私を呼べ!いかな相手と言えど討ち獲らん!」と言った。
これにルナンは大きく頷き
「最初はひどく落ち込んだがな。やはりここで後には引けない。必ず失った名誉も、金も取り返す!そしてオレ達の夢もなぁ!」海原に浮かぶ監視者たちに向かって喧嘩を売るみたいに吼えたのだった。
「ルナンの『天下獲ったるぅ!』が再開したわねぇ!安心した。ここまで来た甲斐があったわ」ケイトがルナンの背後からそっと両肩に手を置くと
「私もそろそろ行くわ。急がなきゃ何があるかわからないもの。いざという時は必ず連絡して。驚くわよぉ!数を増やしたアクティブ・ドローンの兄弟たちが加勢に行くからね」と、言うとルナンのソバカスだらけの頬にキスをした。
「ケイト、沖にいるマークスとジャンに礼を言ってくれ。牽制が効いたらしい」ルナンが顎を海原に向けると、今まで微動だにしなかったヨットが大慌てで帆を上げて、遠のいていくのが見えた。
「また……行っちゃうんだね。ルナン……」
ルナンと二人は少し離れた所で未だに海水を滴らせているクロネコを胸に抱いたまま佇んでいるキサラギ・スズヤが俯いているのに気が付いた。ルナンは今にも泣きだしそうな十六歳の少女を、口を真一文字にさせたまま見つめている。二人の様子を察したケイトがキサラギに駆け寄ろうとした時
「スナール中尉!キサラギ・スズヤの訓練課程は如何ほどか?」と、聞く者が後退りしそうな朗々とした声を上げた。
「ハッ!最終課程を修了しております。後は実戦段階になるかと思われます。大尉殿」アメリアは勤務時と同じ足を肩幅に開き、両手を後ろに組んだ姿勢で上官に対する正規の態勢を取った。
「キサラギ・スズヤ、これから我々は何者かの手による策謀に対峙せねばならなくなる。これには全員の協力が不可欠。故に君には義勇兵扱いで私の側仕えを命ずる!良いか、初陣なるぞ」との、自分の養女に初めての命令を与えたのだった。
キサラギはその場で直立不動の姿勢を執り、ただ一言「ハッ!」と答え、体躯をわずかに前へ傾けるのみ。後は口を固く閉じ、己が里親でありこれからは指揮官となる女性に、自分に向けられている鷹のような眼に負けじと若い虎のような鋭い眼力で応えた。
この様子を捉えたルナンは、ここで初めて笑顔を見せ
「良き面構えだ。キサラギ」と、言った。
そこへ強い一陣の海風が砂浜を渡って辺りを包んだ。キサラギの前に立つルナンの艶やかでミディアムに切り揃えられた黄金色の髪が激しくたなびき、彼女にはそれが獅子のたてがみが舞っているかのように映った。
「あんのぉーボクから少しいいですかぁ?クレール様」ここでこの雰囲気には不釣り合いな間延びした声を上げたのは、キサラギの胸元から飛び降りて彼女の傍らに立つルーヴェンスであった。
「あのですね、先刻よりボクの赤外線センサーが異常をしめしておりまして……」
「ああっ!ルナン。焼きそばが煙だしてるよぉ!」クロネコが言わんとしている事を、キサラギがルナンの背後を指さして頓狂な声をあげた。
これを合図にキサラギの他、三人の姉様らは振り返っては目を丸くさせた。携帯コンロで極限まで熱せられた鉄板上のルナン渾身の逸品はすでに炭の塊と変わり果てて、これを収拾せんとしたキサラギが駆け出すと同時に発火を始めた。
「や、ヤバい!ノオォォォーン!」と、ルナンもキサラギと並んでコンロへと駆けだし、あとはいつも通り。二五歳の里親と十六歳の養女は鉄板を挟んでは
「消火器だ!キサラギ!」とか「違う!鍋つかみだよ。そっち持ってぇ!」などと右往左往しているのを、ケイトはクスクス笑いながら眺めていたが、アメリアの下へゆっくり歩を進めると
「お互い長い付き合いになりそうね」と、彼女の肩を軽く叩くと着替えのためにバッグを携えて砂浜が途切れた茂みの中へと姿を消した。
「ホント、長い付き合いになるなぁ」こう呟くアメリアの目の前を、マヌケな二人がまるで運動会の親子競技みたいに鉄板の端を互いに鍋つかみでつかんでは騒がしく波打ち際へと疾走していく。
アメリアは少し口の端を上げつつ
「今回はどうなるもんかねぇ……」肩から力が抜け落ちるやゆっくりと、少し夕方へとシフトされた人工の青空へ目を移した。
軌道要塞内では、朝日も昇らなければ水平線に沈む夕陽もない。あるのは天空の定位置に鎮座する人工の太陽のみ。今、それはケイトが言っていた“炉心屋”リアクター・ギルドたちの微妙な差配によって偏光量が少し落ちていた。あと数時間でそれは輝きを変え、夜の顔である月の代役をも果たすのだ。
ただ、今のアメリアの目には、その光が黒煙のヴェールを通して、少し赤黒く濁って見えていた。