07 なんてことないさ
なんかタツミの様子がおかしい。クヅキは口をへの字に曲げた。
思えば、昨日客を追っかけて行ったあたりからおかしかった。
けれどもタツミがおかしいのなんていつものことだ。だから別に普通だろう、とうっかり思ってしまっていた。
そんなことよりクヅキは扉を閉められたことにぷりぷり怒っていて、ずいぶん経って戻ってきたタツミに文句をぶちまけた。
タツミはしょげて「すみません」と謝るばっかりで、でもこれもいつも通りだろう。特に変だと思わなかった。
ただあんまりタツミがしょげたもんだから、クヅキは驚いて「まあ別にいいんだけど」とその場は濁して終わりにしてしまったのだった。
「タツミ、タツミ」
呼んでもタツミは気づかない。
ぼーっとしてるのか、集中しているのか。どっちなのかクヅキには分からないが、それもいつも通りと言えばいつも通りでもある。
「おい、タツミっ!」
「え、あ、はい」
強めに名前を呼ばれて、タツミはようやく驚いた顔をクヅキに向けた。
「な、なんですか?」
「……お前、ずっと止まってるぞ、ミシン」
タツミの前にはミシンがある。ご家庭用魔動ミシンだ。
それがさっきからうんともすんとも動いていない。
「あ、あ、すみません」
どうやらタツミはぼーっとしていたらしい。
慌ててミシンに向かい、しかしなにをすればいいか分からなくなったようだ。おろおろとミシンや散らばる布切れを見回す。
「お前、どうしたんだ、タツミ」
「え、俺、あの、すみません」
さすがに変だと思って聞いても、タツミの答えは答えになっていない。
「ともかく落ち着け」
クヅキは優しく言ったつもりだが、その目付きが悪すぎてタツミは怒られているように感じる。
一度目を閉じたクヅキは眉間を揉みこんだ。細かい刺繍をいつも睨んでいるせいで目付きが悪くなってしまうのである。
「まぁ落ち着け。お前、今どこでなにしてる?」
「え、俺」
唐突な問いにタツミの目はきょろきょろと辺りを見た。
「クヅキさんの仕事部屋で」
そして目の前のミシンを見る。
「ミシンの練習、してます」
たくさんの端切れを用意してもらって、タツミはひたすらミシンを使う練習をしている。しかも今日は同じ部屋でクヅキが見てくれている、特別仕様。
正解、とクヅキはほくそ笑……いや、微笑んだ。
「なんだ、ちゃんと分かってんだな」
「え、はい」
改めてタツミが見れば、ミシンに挟んだままの端切れはちょうど縫い終わったところだ。
次の端切れに交換する間にタツミはぼーっとしていたらしい。
「なんだよタツミ、寝不足か?」
「あ、いえ、その」
確かにタツミはちょっと寝不足かもしれない。昨夜はいろいろ考えてしまって、あんまり眠れなかった。
けれど、別に今は眠たくはない。
「大丈夫、です」
クヅキが不可解げに目を細める。
「ふうん? なら、なんかあったのか?」
あったような、なかったような。
ともかくクヅキに言えるようなことはない。少なくともタツミはそう思う。
「いえ。すみません。俺、ぼーっとしてただけ、です」
「そか。危ないから気を付けろ」
「はい、すみません」
タツミは集中するために、じっとミシンをにらんだ。
「よし。俺、やります」
縫い終わっていた布を外して糸を切る。それから次の布を取り上げた。
端がきれいに折り畳まれた、長い布切れだ。いわゆる三つ折りをしっかりアイロンでつけてもらったものである。
それをタツミはミシンに挟む。
「いやタツミ、まち針打てよ」
「え、あ、すみません」
うっかりしていた。タツミは急いでミシンの押さえを上げた。
布の端を三つ折りにして縫うときは、布がずれないようにまち針で留めて縫う。そう教えられたし、さっきから何度もやっているのに、タツミはそれを忘れたのである。
やっぱり全然集中できていない。
タツミは慎重にまち針を刺した。どのぐらい打てばうまく縫えるかいまいち分からない。とりあえずありったけ使う。
針ぶすまみたいにしたそれを恐る恐るクヅキに見せる。それを受け取ってしっかり確認し、クヅキは頷いた。その口元は微かに笑っている。
「え、なんか変ですか?」
「いや、なかなかちゃんとできてる」
「……まち針、多いですか?」
「んー。とりあえずやってみろ、これで」
なぜクヅキが笑ったのか、タツミには分からなかった。が、別に悪い意味の笑いでもなさそう、である。
気を取り直して、布をミシンへセットする。
そっとレバーを下げて押さえを下ろし、布の位置を調整する。できるだけ三つ折りの際を縫いたいから、押さえの目印と折り目の端を揃えるのがコツだ。
二度三度とレバーを上げ下げして、四苦八苦しながらタツミはやっと布をセットした。
「よし」
右についているハンドル、はずみ車を手で回すと、するすると下りてきた針が狙ったところに刺さった。
手前に待機する布を抱え、糸の張りを見て、回りに危ないものはない。
すべてが整ったのを確認して、タツミはフットコントローラーに足を乗せた。
よいしょっとばかりに足のひらからコントローラーへ魔力を流す。うまく調節できないタツミはひたすら全力だ。これでミシンは動く。はずだった。
うううぃぃん……ごおおお……うう、うぃぃぃぃんご……。
今にも止まってしまいそうな超低速でミシンはかろうじてやっとこさ動いた。
この遅さは、明らかにこの間の練習のときよりも遅い。あまりにひどい。
「……」
結局は魔力も体の魔力因子が生む身体能力のひとつだ。その日のコンディションの影響を大きく受ける。
とくにタツミの因子は質があまりよろしくない。ちょっとした寝不足や不調、精神的な動揺でその働きは大きく鈍る。
今日のタツミはとてつもなく調子が悪かった。
タツミは、低い唸りをあげて鈍く動く針を呆と見つめるしかない。
消えろ。
そうしていると唐突に耳に吹き込まれた声がよみがえる。
どういう、意味だったのだろう。たぶん、目の前から失せろ、近づくな。そういう意味だったと思う。
だから、どうということもない。ないのに。
「タツミ!」
強い声に名前を呼ばれ、タツミは驚いて顔を上げた。
「は、はい。え、すみません、なんですか?」
強い口調だったわりに、常と変わらぬクヅキの顔がある。
「お前、またミシンが止まってるぞ」
「え、あ、すみません」
慌てて見れば、ミシンはすっかり止まってしまっている。布は1センチも縫えていない。
タツミはもう一度、めいいっぱい魔力をこめた。
ううぃぃんごぉぉぉううぃぃんごぉぉぉ。
それでもやっぱりミシンは重くて、思うように動いてくれなかった。
「…………」
なにより恐いのが、この超低速なミシンに対してクヅキがまったくなにも突っ込んでこないことだ。
さっきからタツミがミシンを止めたりまち針を打ち忘れたりすると、ちゃんと口を挟むのだ。しっかり見ているだろう。
けれど、なにも言わない。
タツミは、そっとクヅキを窺った。気づいたクヅキが目を細める。
「……ん? どした? やっぱどっか具合悪いのか?」
「あ、いえ、別に。悪いとか」
具合が悪いわけではない。そう言いかけて、タツミは思い直した。
「ええと、今日はちょっと俺、調子が悪くて」
クヅキから目をそらし、タツミは恐る恐る言ってみた。
「うまく魔力が入らない、っていうか。この間は、俺、ちゃんと早くミシン動かせた、んですけど」
調子さえよければ普通にミシンを動かせるのだと、ちょっとだけ嘘をつく。
席を立ったクヅキがタツミの横へ来た。
「そうか。そういうこともあるのか」
そう言うクヅキの顔は困惑しているように見える。タツミはいたたまれなくなってうつむいた。
「俺、すみません」
「いや、俺も魔力のことはよく分からんから。言われないと分からんかった」
クヅキはまっすぐにタツミを見ている。
「ていうか魔力入れるって、どういう感じなん?」
「え。どういうって……なんかこう、ぐーって」
タツミが拳をぎゅうっと握る。
「ぐーって感じです」
「……?」
「え、ええと。こう、力入れるだけっていうか」
説明しようにもできない。タツミとしては「歩くのってどうやってるの?」と聞かれるようなものだ。
「ふうん」
つまらなさそうにクヅキはうなずく。
別にタツミの説明が悪いわけではない。ライドウやブロッサに聞いても「ぐーっ」程度の説明しかしてくれない。
それほど当たり前のそれが、魔力のないクヅキには理解しようがない。
「俺にはよく分からんけど。でも調子が悪いとミシン動かせないなら、考えないといけないな」
むーんとクヅキが考え込む。
手っ取り早くタツミにミシンを覚えさせて稼げるようにする作戦だったのだが。今日のタツミは少し魔力を使っただけで荒く息をついている。
この様子ではそう簡単にいきそうもない。
刺繍なら魔力は要らない。でもまだタツミができるのは初歩の初歩だけで、とても魔導紋を生成できるレベルではない。稼げるまでには時間がかかる。
タツミはお金を稼ぎたくて働きに来ているのだ。クヅキはそれを知っている。
早く稼がせてやらないと、嫌になって辞めてしまうかもしれない。なんだか様子がおかしいのも、それが原因かもしれない。
「あ、そうだ」
クヅキはひらめいて、ぽんと手を打った。
いたたまれなさに小さくなっていたタツミは驚き、肩が跳ねた。
「タツミ、お前でもできそうな仕事、あるぞ」
「え、俺? がですか?」
不安げに聞き返すタツミにクヅキは笑顔でうなずく。
「うん。タツミ、まど――」
「タっツミー、いるー?」
張り切ったクヅキの台詞は飛び込んできたブロッサに遮られた。
仏頂面になったクヅキが戸口のブロッサを不機嫌に振り返る。
「あ、タツミいたー」
満面の笑みを浮かべたブロッサはまったく頓着していない。
この間の悪い状況にタツミは一人で顔色を白くした。