5 モンスターあらわる
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黒板側のドアのほうへ目をやる。ドア枠の上部にある室名札には「3‐C」の表示。そういえば、あのピエロもこのクラスをC組って呼んでたっけ。と、乙宮さんが首を伸ばして廊下の左右を見渡した。
「誰もこないね」
ほかの教室から生徒があらわれる気配もない。ぼくらの教室以外は無人なのだろう。モンスターが出るかもしれないんで確認したくはないですけど。
それはさておき、前の学校でぼくは、うだつの上がらない中学校生活を送ってきた。おかげで、こんなとびっきりの美少女とふたりっきりなんていうシチュエーションを体験したことは一度だってありませんでした。というかそもそも、前の学校にこの乙宮藍花さんや舞坂鈴さんみたいなアイドル顔負けな美少女なんて、いやしなかったんだけどね。
そう。舞坂さんの「リン」という名に「鈴」という字をあてはめることが、あらたに判明したのだ。
リン、という清冽な響きに、「鈴」というかわいらしい文字。そのギャップがなんだか、もうね、舞坂さんという至高の存在にさらなる魅力を加えている――って、ぼくはいったい何を言ってるんだろう。
ちなみに、ルカさんは「小鹿ルカ」で、チンネンさんは「珍念 真水」だ。
そのほか、ラケットマンこと安達くんが舞坂さんと交際しているわけでないのをさりげなく聞きだしたあと、ほかの生徒たちの名前なんかも教えてもらった。
「でも、こういうのって久しぶり」場違いにうきうきした顔つきで、乙宮さんが足踏みする。
「なんかさ、アタシらまるで、授業中にいたずらをして廊下に立たされた小学生みたいじゃん」
「ははっ、そだね」
「なーんて無難に同調してるけど、カムイくん、いままで廊下に立たされたことなんか一度もなかったっしょ?」
「えっと……まあ、その」
図星だった。ぼくはこれまでとことん、まじめで地味な少年時代を送ってきたんだ。先生から悪い意味でロックオンされることさえなかった。
ぼくは気力を振り絞り、ずっと気にかかってきた疑問をぶつけた。
「そういえばさ、舞坂さんのことでちょっと話に出てたけど、『事件』とか、『入院』とか、『記憶喪失』とか……あれって、いったいどういう……」
ぼくの言葉がしりすぼみになったのは、乙宮さんのいたずらっぽい目つきに耐えられなくなったせいだ。
「それにしても、わかりやすい子だねえ、カムイくんは」歌うように、乙宮さんが言った。
「あんなにバレまくりな一目ぼれの瞬間に立ち会うのって、アタシ、生まれて初めてだよっ」
んこっ、とぼくののどが鳴った。
「委員長、テレビにでちゃうくらいな高嶺の花だもんねー。男子なんてビビりまくり。たいていは玉砕覚悟でコクる前に、ひとりで勝手に納得してあきらめるっつうのがお決まりのパターンだったわけ」
あははっ、と笑って乙宮さんがぼくの背中をぱしぱしはたいた。
「ちなみにアタシは、中学にあがってからだけで十二人と五匹に突撃された。その辺の高校生とか、いつも学校の近くで犬の散歩させてたお爺さんが近づいてくっから、オイ、歳の差アタックかよってドンびいてたらさあ……うぷぷっ、ワンコのほうがっ、いひひっ……学外の相手ばっかりなのは、アタシの性格知ったら野郎ども、みーんな賢者モードはいっちゃうせいだけどねっ。でも委員長の場合は違うんだってば。ほら、あの顔面偏差値は反則っしょ。ウチみたいなしけた学校で、自分と委員長が釣り合うなんて本気で信じてる野郎がいたら、親の顔を見てみたいっつうか、犯罪心理学の発展のためにも、そいつの脳みそをいっぺん解剖してみる必要あり、なんてねっ」
あはははははっ、と盛大に笑ってみせたあと、乙宮さんがいきなりしかつめらしい顔になる。
「ま、カムイくんにわからない悩みかもしれないけど、要するにだねえっ、超絶美人に生まれついたからって、いいことばっかりじゃないってことだよっ」
何が言いたいのかと首をひねるぼくをよそに。乙宮さんの弁舌はなおもやまない。
「問題は、相手が行儀よく失恋してくれなかった場合。委員長、それで大変な目に逢っちゃった」
「えっ?」
「だからさっきの質問の答え。委員長が入院してた理由。グンゼくんっていって。うちのクラスの元同級生なんだけどね」
グンゼって、パンツのことじゃなかったのか。それはさておき……「元」ってことは、いまは同級生じゃないのか?
「グンゼくん、委員長に報われない片思いをつのらせまくったあげく、逆恨みしちゃったみたいなんだよね」乙宮さんがいったん言葉を切り、天井を指差した。
「それで、屋上に委員長を呼びだして――」
「んげえっ」
乙宮さんがいきなりぼくの後頭部をチョップしたんだ。しれっとした顔で語りを再開する。
「うしろから忍び寄って、鈍器で頭をガッツンやっちゃったんだよね。もちろん一命は取り留めた。でも、グンゼくんは勘違いしちゃったみたい。委員長を殺しちゃったって」
「そ、それから、グンゼくんは?」
「うちの屋上、いまは金網フェンスをつけてるけど、当時はひっくい塀しかなかったからね。それを乗り越えて、そのまま――」
校舎の下へとダイビングしたのだという。
「助からなかったの?」
ぼくの問いに、乙宮さんがキャラにそぐわない重々しさでうなずいた。
「記憶喪失っていうのは?」
「委員長、ずっと意識が戻んなかったの。事件があったのは去年の終わり、十二月に入ってすぐのことだった。そのあと三カ月ちょっとくらい、昏睡状態だったんだってさ」
これが夢でないと仮定すればの話だけれど、ぼくも舞坂さんたちも中学三年生に進級したばかり。つまり、舞坂さんが意識を回復したのはわりと最近ということになる。
だから、リハビリがどうのっていう話題も出ていたのか。
「じゃあ、舞坂さんには事件の記憶もないってこと?」
「だね。アタシらのことも、ぜんぜん覚えてなくって、クラスに復帰するために、集合写真で顔と名前を覚え直してるって、ヒルマも言ってた」
ちなみにヒルマというのは、このクラスの担任である男性教師のことだという。
ともあれ、そんな過酷な経験を、舞坂さんはくぐり抜けてきたのか……っていうか、すべてがぼくの夢でしかないはずなのに、設定があまりにも細かすぎやしませんか?
「委員長、いまごろモンスターに襲われてないか心配?」
そう真顔で問われ、ぼくは素直にうなずいてしまった。
「ははっ、ルカっちやアダッチーのことはどうでもいいんかいっ」
乙宮さんがぼくの肩をはたいて突っ込みを入れる、まさにその瞬間――。
ドンッ、という縦揺れがきた。
「こ、ここって何階なの?」
四階、と端的に答えた乙宮さんの顔つきにも、これまでにない緊張が走っている。階下で、舞坂さんたちとモンスターの交戦が開始されたってことなのか。
「あ、あのさ」ぼくは小声で乙宮さんに耳打ちする。「ちょっと、下にようすを見に行きたいから、教室のみんなにはそのこと黙っててもらえないかな」
舞坂さんが大ピンチを迎えようとするまさにそのとき、ぼくが助けにあらわれたらいったいどうなる? いえいえいえ、ぼくに惚れてほしいなんて、そこまで大それた魂胆があるわけじゃありませんよ。ただ、舞坂さんが心配で心配でたまらない。それだけのことなんだ。
「いや、ムリだってば。そんな余裕、こっちだって、とっくにないってば」
そう応じる乙宮さんが指差す方向へ目を向けると――。
廊下のはしで鬼火のようなものが揺らめいていた。
それが急速に人のかたちを成してゆく……ミッチーよりもはるかに迫力のある、トサカのようなリーゼント頭に顔の半分を隠すティアドロップタイプのサングラス。「卍」のマークの描かれた白いマスクに……腹が見えるほど短い学ラン、土管のようにぶっとい制服ズボン……その片手には古びた鉄パイプ。
あらわれたのは、昭和のヤンキーをほうふつさせるモンスターだ。
手や首や、お腹の一部など、ヤンキー学生服で隠れていない個所は汚れた包帯で覆われており、ゾンビテイストにあふれている。
ぼくにはもう、あのモンスターが冥界からの使者にしか見えなかった。




