2 あきらめるな!
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ルカさんが住んでいるのは、二階建ての賃貸アパートだった。
ぼくはまだ、ルカさんの家を正確には知らなかったので、乙宮さんと出会っていなかったら、見当はずれな場所でさまようことしかできなかったろう。外階段をのぼり、外廊下のいちばん奥の部屋の前に立つと、乙宮さんは祈るような面持ちで呼び出しのインターホンを押した。
これが乱暴な訪問でないのを伝えるように、間隔を置いて何度かボタンを押すと、やがてドアの向こうで人の気配がした。ドアがちいさく開き、アジア顔の女性が顔をのぞかせる。
「ちょっとお、こんな時間に……って、どしたの藍花ちゃん」
乙宮さんは過剰な作り笑いで口をぱくぱくさせるだけで、ぜんぜん役に立たない。
仕方なく、ぼくがなけなしのコミュ力を発動させた。
「こ、こんな朝早く申し訳ありません。ルカさんとクラスメートの神永です……その、じつは学校の件で、ルカさんに伝え忘れていた連絡事項がありまして」
だとしても、こんな朝早くじゃなくたっていいでしょう……なんて切り返してくることもなく、ルカさんのお母さんは「はいはい、わかりましたー、ルカを呼んでくりゃいいんでしょー」と応じ、寝ぼけまなこで部屋の奥へ戻ってゆく。
ぼくは、わずかに開いたまんまのドアを押さえたまま、かたずをのんでいた。
しだいに、ルカさんを起こそうとするお母さんの声が大きくなる。
内部は広くないので、音が筒抜けなのだ。
「ほら、ルカ、起きなさいっ、ねえっ、起きろったらあっ」
と、いきなり乙宮さんが身をひるがえして駆けだした。
ぼくは迷ったのもつかのま、ドアから手を放して乙宮さんを追いかける。
「ふひっ、はひっ、ぐひぃっ」
事情がわからないままうしろから眺めれば、滑稽なうめき声にしか聞こえないだろう。
しかし、乙宮さんが――どんな状況でもユーモラスな振る舞いを捨てなかったあの乙宮さんが涙におぼれかかっている姿なのだと思うと、悲痛さがいや増してしまう。
「んぐっ、いぎっ、ぎひいっ」
ひと気のない道路が手足をばたつかせて走る乙宮さんをなおも追いかけ、ようやくその肩に手が届こうというとき――乙宮さんが脚をもつれさせた。
そのまま倒れこむ乙宮さんの肩を抱くようにして、ぼくはクッションになり、腰からアスファルトに落ちていった。いってえ。
乙宮さんはぼくを下敷きにして仰向けになったまま、泣きに泣き続けた。
こんな早朝でも通勤や通学のために駅へ向かう人というのはいるもので、ぼくらのそばを通るたびにぎょっとしたようすを見せたり、気づかぬふりで足早に通り過ぎたりしていった。
どんな修羅場に勘違いされているのかと冷や冷やしながら、ぼくは思い知らされていた。ぼくがこれまでどれだけ、乙宮さんのおどけた態度に救われてきたのかを。
あの無慈悲な夢バトルワールドでどんなピンチにおちいろうとも、ぼくがかろうじて希望の糸をつむいでいけたのはもちろん、舞坂さんの、ルカさんの強さを頼みにできたおかげだったろう。
けれど、それと同じくらい、乙宮さんがいつも披露してくれた明るさに支えられていたのだ。
涙が小止みになるのを待って、ぼくは乙宮さんを支え起こした。
それからそばに公園があるかどうかをたずね、そこへつれていった。
ベンチに並んで腰を下ろすと、乙宮さんが普段よりも抑揚の少ない声でこぼした。
「ははっ。アタシはもうおしまいだよ……ゲームオーバー。ルカっちがいないんじゃ、ぜったいに生き残れない」
「そ、そんなことない。だって――」
「リンリンがいるから?」
ぼくが言葉に詰まっていると、乙宮さんの顔に投げやりな薄笑いが浮かぶ。
「アタシは、もういいよ。なんか……疲れちゃった」
なおも言葉を失うぼくに、乙宮さんが自暴自棄に続ける。
「このゲーム、最後のひとりが残ったら終わりなんでしょ? だったらリンリンが残ればいい。アタシは……恨まないよ。ほかのみんなはどう思うかわかんないけど」
ちがうちがう。舞坂さんは決して、そんなこと望んじゃいない。あの強さは自分のためだけのもの、なんかじゃないんだ。
そう言い返しそうになるのに歯止めをかけたのは、ぼくの意地だ。舞坂さんに救いを求めずにいられないぼくの弱さを、乙宮さんの前で認めるわけにはいかないという――最低限の矜持だ。
「カムイくんも、なんか、これまでいろいろありがとうね」
ふっきれた口調とは裏腹のうつろな目で、乙宮さんが言葉を継ぐ。
「前のアタシだったら、せめて最後を迎えるときは素敵なカレシと、なんて思っちゃったんだろうけど……もうさ、カムイくんでいいやって感じ。煩悩から解き放たれて……なんか、こういうのも悪くないやって――」
「このバカッ」
ぼくは怒鳴っていた。乙宮さんのナチュラルに失礼な発言に怒ったわけじゃない。
「ルカさんは死んじゃいない、まだ生きてるんだよっ」
乙宮さんの真向かいに立ち、両肩をつかんでまくしたてる。
「これまでさんざんルカさんに助けてもらったじゃないか。だったら今度はこっちの……ぼくの、乙宮さんの番だろ? そうだよ、ぼくらの手で、ルカさんを救い返すんだよっ」
「そんなこと……できるわけないじゃん」
「できるっ、できるったらできるんだっ」
「いくら言い張ったって、無理なものはムリ――」
「黒幕を引きずりだすんだ」
乙宮さんがいっしゅん呆気にとられた顔になり、ははっ、と生気のない笑いをこぼす。
「徳伊が黒幕だなんて、アタシも本気で思ってたわけじゃないのに」
「犯人がぼくらの中にいるって決まったわけじゃないだろ。ぼくらの目に見えないところに隠れていて、もがき苦しむぼくらの姿をあざ笑ってる連中が、きっといるんだよ。そういうふざけた連中を、ぼくらと同じ舞台に引きずりだしてやるんだ」
ご都合主義なのかもしれないけれど、あのゴールドホッパーのアドバイスを、ぼくは信じることにした。ゲームの背景に隠れているという「ヤツら=裁定者」の存在も、信じることにしたんだ。
「そいつらを、ぼくたちのゲームに引っぱりだせば、まだ逆転のチャンスはある。ルカさんたちを救いだせるんだよ」
「……なんで、そんなこと、自信持って言えるの?」
「ぼくは本来、このゲームに参加する予定じゃなかった。だってほら、とつぜん転校してきたわけだし……だから、乙宮さんの知らないことも、少しは知ってるんだ」
わずかながら、乙宮さんの目に力がよみがえる。
「アタシたちに、伏せてたことがあるって?」
ぼくは秘密めかした微笑を返すにとどめた。あのふわふわクリーチャーなゴールドホッパーのことを打ち明けたら、ぼくが自分の願望を夢に投影しただけだと一蹴される気がしたのだ。
「そっか。カムイくんは、謎の転校生だったってわけか」
「そ。乙宮さんたちを救うためにやってきた、ね」
「ははっ。そういうヒーローキャラ、ぜーんぜん似合わないって」
「最弱ヒーローだもので、乙宮さんが助けてくれないと、なんもできないっす」
「しょうがないなあ……じゃあ、もうちょっとだけ、頑張ってみよっかな」
乙宮さんがはにかむようにうつむき、それから挑戦的にぼくを見上げ、手を差しだしてくる。ぼくはその手をつかみ、乙宮さんをベンチから引き起こした。




