愛しているわ、旦那様
───どうやら私は生まれ変わったらしい。
そう気づいたのは視界もぼやけている産まれたばかりのころだった。
私にはたくさん兄弟がいる。5人兄弟だ。それを貧民街に住む私の母は1人で育てていた。
雨風を凌ぐのが精一杯の家で暮らしていたが、それはもうさっきまでの話。幼い私は勝手に家を飛び出したのだ。
心配しているだろうか。きっとしてるでしょう。育ててくれた恩義に何も報わず黙って出ていった娘のことなど、どうか忘れて欲しい。優しい母と兄弟たちも大事だったけれど、どうしても諦めることはできなかったの。
短い足を動かしこそこそと街中を移動する。私には目的の場所があるのだ。
かつて、私には旦那様がいた。前世の私は貴族の令嬢で幼い時分からの婚約の末、結婚したのだった。
政略的な結婚だったが、愛がなかったわけではない。行き着くまでには紆余曲折あったが、それを乗り越え私たちは結ばれた。
あの頃、私はいつもハンカチを手放せないでいた。私の涙ではなく、彼の涙を拭うために。
彼はとっても泣き虫なのだ。成人したというのにそれは一向になおらなかった。それってどうなの?と親友に話すと呆れられたが、私は好きだった。私にだけ見せてくれる彼の姿だったから。その涙は私のものだったから。
だからこそ心配だった。自分で言うのも恥ずかしいが、私は彼に愛されていた。そう自覚するまで辛いことも苦しいこともあったし、彼にはとても迷惑をかけたと思う。それでも、めんどくさかったであろう私を彼は諦めないでいてくれた。だから私は彼を信じることができた。
けれど、もう彼が追いかけてくれることはない。あってもらっても困る。彼は、領地を守る責任がある立場なのだから。
だから、今度は私が追いかけましょう。彼が寂しくないように、そっと隣にいましょう。
そう決意し、1人残してしまった彼の元へ向かうため必死に歩き続けた。
やっとの事で以前生活していた屋敷の前へやってきた。もちろんの事だが入ることはできない。表からならば、という話だが。
石造りの門の近くには門番がいる。きっと入り込もうとしてもつまみ出されてしまうだろう。
だからこっそりはいりこもうと思う。幸い、塀はそんなに高くない。
令嬢の時からそれなりに活動的であったとは思うけど、塀をよじのぼって家に入るなんて初めての経験だわ。厳しかったお母様に知られたらきっと怒られるでしょうね。
そんなことを思いながら私は見事、敷地内に入り込んだのだった。
塀の際から歩いて屋敷の正面へとまわる。庭師に整えられた美しい庭が広がっている。色とりどりの花。みずみずしく茂る草木。そして真ん中にはキラキラと水を弾けさせる噴水。生きていた時から何一つ変わっていない。私は懐かしさに目を細めた。
とりあえず、最初は彼が元気に過ごしているところだけ見られたら良しとしましょうか。屋敷内に潜りこむにはなにか作戦を考えなきゃ……。
そんなことを思いながら私は噴水に近づいた。ここまで歩き続けてきてひどく喉が渇いていたからだ。噴水の水を飲むなんてはしたない、なんて考えは生まれ変わった時に捨てた。無論、誰にも見られないように気を配っている。
……つもりだったのだが。
「おや」
彼だ。彼がいた。
私は驚いて固まってしまった。まさかいるとは思わなかったから。何より私はきちんと辺りを確認したはずだ。
けれど、目の前には彼がいる。どう考えても私の注意力に問題があったに違いない。生まれ変わってもそれはどうやら変わることは無かったようだ。
私は焦ったが、それと同時にひどく安堵した。
あなたが生きててよかった。
彼が自ら死を選ぶなんて阿呆な真似するとは思わなかったが、それでも心配だった。もし私が彼の立場だったら、実行するかはともかく自死という選択が脳裏をよぎるだろうから。
「どこから紛れこんだんだ?」
そう呟きながら彼が私の頭を優しく撫でる。本当はもっと身なりを整えて彼の前に姿を現そうと思っていた。だから少し躊躇してしまったが、懐かしい彼の手に結局頭を擦り付けた。
彼は私の頭をしばらく撫で続けた。それを幸せな気持ちで享受していると、彼は屋敷に来るか?と呟いた。
私は彼の子になった。
それからの日々は穏やかだった。
メイドたちにまるごと洗われおいしいご飯を食べるうちに、ボロボロだった私は見違えるようになった。
とても綺麗だし、かわいい。前世の私とは……比べられないわ。
なんて鏡の前で思うくらいには綺麗になった。
昔と変わらないのは瞳だけだ。彼が空の色だと言ってくれた明るいブルーアイ。君にぴったりな色だね、と優しげに微笑むあの頃の彼がまぶたの裏に映る。もちろん、今の私の瞳も好きだと言ってくれるけれど。
彼は、生きていたとはいえどやはり憔悴していた。
無理もない。私だってきっとそうなっていた。
それでもきっちり仕事はこなしているようだ。……少しやりすぎだが。
私の今の仕事は詰め込みすぎな旦那様の邪魔をすることだ。タイミングは執事のハンスが眉根を寄せたら。
旦那様は私が死んでから忘れるように仕事をし続けているという。私と出会ったあの時は目に余りすぎて、ハンスに執務室から締め出されていたようだ。
ハンスの眉間のシワがさらに増えてしまうからどうにか加減して欲しいと思うが、そんな兆候は見えない。あ、またシワが深まった。
そろそろかと私は彼の膝へと移動する。ぺたぺたと手を彼の胸へ押し付けた。
「……シエル」
旦那様が私の名前を呼ぶ。名前のない私に旦那様がつけてくださったものだ。
不満げな旦那様に詰め込みすぎよ、と頭を押し付ける。すると、ようやく彼はペンをおいて背もたれに寄りかかった。
「シエルにはかなわないな」
ふふ、そうでしょう?
旦那様も休んだ方がいいとわかっている。けれど仕事を続けていた方が楽なんだと言っていた。そして、きっとそれは私のせいなのだろう。あなたを1人にしてしまったから。
あなたをおいていってしまった罪深い私だけれど、そばにいることでどうかあなたの心が休まりますように。
そう願いながら私は大人しく撫でられるのであった。
「シ〜エ〜ル〜?」
彼が怖い笑みを浮かべて私の前に立っていた。傍には割れた花瓶。私は項垂れていた。
前世の記憶があるといえど、私はまだ子供。やんちゃ盛りだ。それに、元々大人しい気質でもない。
その結果が屋敷内を走り回って花瓶を倒して割ってしまうという所業だった。
それをちょうど旦那様に見つかり今に至る。いや、ほんと申し訳ないです。
「こんなことして、彼女たちに迷惑だろう。そんなに遊びたいなら外で駆け回ってくれ」
ええ、はい、おっしゃる通りです……と情けなく思いながら項垂れているとメイド長のハリエットが声をかけてきた。
「旦那様、反省しているようですし、私たちは気にしませんから。これも仕事のうちです」
「だが……」
「それに、元気でいてもらった方が私たちの元気にも繋がります」
そう言ってハリエットが私を見て微笑む。ああ、メイド長が天使に見える。生前から厳しくも優しい人だと思ってはいたが、これほどとは。
「全く……。とにかく!屋敷内では走り回らないように!以上!」
はい、肝に銘じます!と返事をすると旦那様は仕事に戻っていった。
そして私はハリエットに撫で回されるのであった。
「レイシア……」
庭のベンチでくつろいでいると、隣から呟く旦那様の声が聞こえた。レイシアとはかつての私の名前だ。
ああ、彼はまだ縛られているのね。あなたを置いていく薄情な女、忘れた方がいいわよ。
なんて冗談交じりに思いながら彼に擦り寄る。彼はそんな私を優しく撫でながら、とつとつと語った。
「私にはね、妻がいたんだ。彼女はシエルみたいにとってもお転婆でね。シエルみたいな綺麗な空の瞳をしていた。君はなんだか彼女に似てるような気がするんだ」
……それは、なんというか、複雑だわ。
ちょっと不満げに言うと彼はくすくすと笑った。
「レイシアとは幼い頃からずっと一緒だったんだ。婚約者だと言われて育ってきた。引っ込み思案な私とは違って快活で笑顔の多い人だった。捕まえた!なんて嬉しそうに言ってカエルを鷲掴みにして見せびらかされた時は泣いたっけなぁ」
なんてことを覚えてるのよ旦那様。そんな昔のことどうか忘れてくださいな。ほんとうに。
「年齢を重ねたらさすがにそんなことしなくなったけど。淑女としてやっていたのは彼女の母による功績かな。成長したんだな、と思いつつもなんだか私の知ってる彼女がいなくなってしまったような気がして寂しく思ったこともあった」
そんなこと思ってたのね。確かに母のおかげだわ。デビュタントにはどうにか貴族令嬢らしく振る舞えるようになったもの。
「けど、彼女が私に対して浮かべる笑顔は何一つ変わらなくて。その度にああ、彼女は彼女のままなんだな、なんて嬉しく思ったものだった」
うんうん、と頷く。私もあなたの微笑みが好きだったわ。あなたは大人っぽくて頭が良いからなんだか置いてかれるような気がして、実は私も必死になって淑女になろうとしてたのよ?
「そしてあの人とのことがあって。いつの間にか彼女は私にあの笑顔を向けることはなくなっていた。気づいた時には、彼女は完璧な淑女の仮面をつけていた」
あの時の事ね。ええ、よく覚えてるわ。私、あなたに一生償ってもらうつもりでいたのよ?私の一生終わっちゃったけど。
「そんな彼女に無性にイライラしてね、それでようやく私は気づいたんだ。遅すぎる恋の自覚だったよ」
安心して旦那様。私もよ。私もあなたと笑いながら話す彼女に嫉妬してやっと気づいたの。
「彼女は特別な人だった。大切な人だった」
ええ、ええ、私も。
「忘れられない人だ。愛した人だったんだ」
……。
「レイシア、どうして、君が……」
旦那様、もういいわ。一生償ってもらうなんて冗談よ。ちょっと悲しいけど後妻をとってもいいわ。子供もいないしあなたもまだ若いしかっこいいし。相手はきっといるわ。少し意地悪しちゃうかもしれないけど、それは許して欲しい。あなたがその子を守るのよ、旦那様。
そう思いながら項垂れる旦那様のかんばせをぺしぺしと触る。するとどこか遠くを見るようだった彼と目が合った。
「……シエル、慰めてくれるの?」
もちろん、旦那様の涙をふくのが私の役目ですもの。もうあなたは泣かないからできないけれど。泣き虫ロディはどこに行っちゃったのかしら。
「ありがとう、シエル」
そう言って、彼は私を優しく抱きしめた。
「シエル、ちょっといいかな」
旦那様が手招きをする。あら、どうしたの?と言いながら私は彼に近づいた。すると彼は片手で私を抱き上げ、もう片方で私の好きな大きな白いユリの花束を持って屋敷の裏の小さな林へと赴いた。
ずんずんと流れてゆく景色に私はああ、と理解した。この道は生前何回も通った道だ。同じように彼に抱きかかえられて。いつ見れなくなるか分からないからってわがままを言って連れてきてもらっていた。
幼い頃から大好きな場所だ。彼の家を訪れる度に私はここに来ていた。レイシアの瞳みたいだ、と彼が言ってからはもっともっと好きになった。
そこには青が広がっていた。開けた場所で、少し高い崖の上。潮騒の音が聞こえる。そこは空を写した海だった。
「レイシア、この前話した新しい家族を連れてきたよ」
そう言って彼は文字の刻まれた石の前に膝をついて花束を置いた。
『レイシア・バウワー ここに安らかに眠る』
ああ、なるほど、ここは私のお墓なのね。
「見てくれ、君の瞳に似ている。僕と君の子供みたいじゃないか?」
私に私を紹介するなんて、なんだか面白いわね。それにしても子供って……確かに色彩は似ているけれどねぇ。
「ねえ、この子に家督を譲ろうかと思うんだけどだめかな?」
旦那様がいたずらっぽく笑ってそう言った。何言ってるのよ、無理に決まってるじゃない。
「みんな元気でやってるよ。ハンスはちょっとシワが増えたような気はするけど」
知ってるわ。けど、ハンスのシワは主にあなたのせいだと思う。
そして旦那様はおもむろに立ち上がって私の墓石の向こう側に腰を下ろした。
一面、空と海だ。相も変わらず、ここから見える景色は格別だった。
「レイシア、綺麗だね」
ええ、とっても。
「レイシア、愛してる」
ええ、私も。
「レイシア、私もそっちいっていいかい?」
ええ、って、それはだめよ!
慌てて振り返ろうとすると頭の上に雨が降ってきた。
でも、今日は晴天だ。雨がふるとは思えない。
ああ、泣き虫ロディはここにいたのね。
私は首を伸ばして頬をつたう涙を拭う。拭っても拭っても溢れる涙に私が溺れそうだ。
「きっと君は怒るだろうね。君が本気で怒るととっても怖いんだ」
もちろん怒るわ!怒って怒ってこっちの世界に押し戻してやるんだから。
旦那様が右側の地面を優しく撫でる。そこは私の特等席だ。あなたの右側が私の居場所だった。
「あれから5年が経った。もう5年かとも思うし、やっと5年かとも思う。君が隣にいない時間がこれからずっと続いていくんだと思うと苦しくてたまらなくなる」
大丈夫よ。あなたは分からないかもしれなけど、私、あなたの腕の中にいるもの。
「レイシア」
旦那様、旦那様。ここにいるわ。だから───そんな辛そうにあなたの右側を見つめないで。
静かに流れる彼の涙はまだ止まらない。私の顔はもうびしょびしょだ。
どうして私の手はこんなに短いのかしら。
どうしてあなたを抱きしめられないのかしら。
どうして私はあなたに思いを伝えられないのかしら。
涙を拭うだけじゃダメなの。ちゃんと言葉で伝えたいのに。
「……ごめんね、シエル。ありがとう」
彼の頬の雫を舐め続けているとようやく彼が気づいたかのように私を抱きしめた。
そのままただじっとしていた。そうしてどれくらいの時間が経っただろうか。太陽が落ち始めた頃、旦那様は立ち上がった。
「そろそろ戻ろう。日が落ちる」
白い毛並みと青い瞳の猫はただ、にゃん、と返した。
初投稿です。
タグとかあってるでしょうか…