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私が忘れた殺人

作者: 半社会人

 

 *・*・*


 もしかしたらこのワインに、毒が仕込まれているのかもしれない。


 あるいは彼の時計のリビングに、爆弾でも仕掛けられているのでは??


 そんな悩みに、悩まされたことが、あなたにはおありですか??


 ないでしょうねえ……。


 そもそもどちらを『殺すつもりだった』のか、当の私が全然分からない。


 ……そんな状況なんて。


 お話しましょう。


 これは、時を超えた、殺人の話なのですよ。


 *・*・*



 毎朝の出勤が、楽しみなサラリーマンなどいないでしょう。


 それは何も大学を出たばかりの新入社員にのみ訪れる憂鬱というわけでもなく。


 むしろ私のように、そこそこの地位と責任も身についた人間にも訪れる、どうしようもない圧迫感とでも申せましょうか。


 ……自らの社会的立場について、自分で言うのも変な話ですが。


 とかく、会社というのは奇妙な組織なのです。


 最近の風潮は実力主義なのかもしれませんが、そもそもが土地に根付いた魂なるものを尊重する民族でしょう?


 日本人はアメリカ人にはなれないんだと、私は思います。


 だからまあ、こんな中身のない私ですら、民を大事にするお国柄のおかげで、時の流れに沿って命が先細っていくのと引き換えに、それなりの立場に居られるわけで。


 もちろん人生という折り返し不可能な電車は、どれも終わりに向かって進むことを強いられているにせよ、乗車している機体の質がどうしようもないほど格差にまみれていますから、上に行くといっても限界がありはするのでしょうが。


 車窓から覗く景色と、周囲の人が乗っているそれらを見るにつれ、ため息が漏れる毎日です。  


 風船のように虚ろな、実の無い存在であるにも関わらず、着実に速度の上がっていく電車。


 うなる車体に、きりきりとやかましい車輪の音。


 いつか脱線でもするのではないかと、ひやひや怯えているのです。


 ……話がちょっとそれました。


 とにかく、社会人にとって、毎朝の出勤というのは、憂鬱なものなのです。


 『その日』も、私はいつもと同じように、胃を圧迫するような鬱々とした感情をともなって、自宅の玄関をくぐりました。


 近頃目を悪くしたらしい隣人の老婆が、それでもしわくちゃの顔をさらにゆるませて、私に挨拶をしてくれます。


 私はそれに軽い会釈で答えると、無理やり体を動かすようにして、会社への道を急ぎました。


 健康の為の運動を兼ねているというのもありますし、単純に都会のことなので、住宅地をはずれると、すぐにオフィスビルが立ち並ぶ、とてもゆったり車なんかに乗ってはいられない土地だということも、わざわざ歩いて出勤する理由の一つです。


 まあ、決して長い道のりではありませんから。


 私は息を吸い込みました。


 朝のみずみずしさが、全身に行き渡ってくような感覚。


 雲一つない空は、まるで青の絵具一色で塗り上げたように澄んでおり。


 太陽の熱が、肌にはりついてくるようでした。


 しかしそんな爽やかさも、それがルーチンと化してしまうと、途端に色あせて見えてくるもので。


 さらに広い車道を征くいくつもの自動車が、そんな天然の天井を冒涜するかのように、排気ガスをまき散らしているのを見れば、気分も重くなろうというものです。


 混然一体となって、うねりながら進みゆく鉄の塊。


 歩道橋からだと、特にその様子がよく伺えます。


 こちらも人の波に呑まれて、窒息しそうになっているから、尚更辛い。


 「……はぁ」


 ため息。


 意味を持たない言葉を発しながら、往来を駆けていく小学生が恨めしい。


 私にもあのような純粋な頃が、あったはずなのですが。


 後悔を踏みしめるようにしながら、歩道橋の階段を降りていきます。


 「失礼」


 肩をぶつけないようにして、進んでいくのにも一苦労です。


 現実から逃走を図ろうとする妄想と、それでも無情に動かされる自分の足。


 視界はノイズに覆われていても、まるで大きな意志に支配されているかのようです。


 同じ使命を持った戦士たちの靴音が、耳に響きます。


 「いったい人間というものは、どうやって自分の使命を自覚して、それに対して動いていくものなのだろうか」


 そんな栓のないことばかり考えて。


 やがて。


 しばらく経った頃、丁度目的のものが見えてきました。


 この空を剥ぐように、不敵な巨体をそびえ立たせている、『それ』。


 精神的にも物質的にも、重たい感じを抱かざるを得ません。


 何人もの同僚達が、吸い込まれるようにして、エントランスに消えていきます。


 いったいどれだけの人間を、このビルは呑み込んできたのでしょうか。


 「どうした?元気がないな?」


 私が身震いを押さえていると、同僚のTに話しかけられました。


 途端に、ただでさえ重かった私の心が、これ以上ないほどの負担を感じます。


 鉛を直接投げ込まれたような。


 そんな感情。


 Tは私の同期でした。


 「いや、ちょっと、憂鬱でさ」


 なんとか口を開きます。


 Tはその人を小馬鹿にしたような口をゆがめました。


 「そんなのいつものことじゃないか。俺だってお前だって、みんなつらいのさ」


 「まあ、確かにそうかもしれないが……」


 ……この男は、分かっていないのです。


 いや、私を除いたこの世界の誰も、その時私が感じていた負担を、理解することは出来なかったでしょう。


 大人しくエレベーターを待つTと私。


 人口密度の濃い箱の中を、ひたすら他愛のない話をしながら揺られていきます。


 「じゃあな」


 Tとは部署が違うので、適当に廊下を進んだところで、彼と別れました。


 大きな背中が去っていくのを、黙って見送ると。


 ふう、と息を吐きました。


 いったい、なんという恐怖でしょうか。


 確かに、どんな社会人でも、朝の出勤というものは、辛いものでしょう。


 それはどんな立場にあろうとも、変わるものではありません。


 しかし。


 その時私が強いられていた負担は。


 そんなありふれた次元の話では、ありませんでした。


 まったく、なんという恐怖だろう。


 「……とりあえず、『殺さなくて良かった』」


 ほっとしたのです。


 それでいて、怯えてもいました。


 かつて、Tに抱いたかもしれない『自分の殺意』に。


 いつその感情が高まりはしないかという、『自分への恐怖に』。


 私は、この男を、私でも分からない方法で、殺すのかもしれない。


 そんな風に、怯えていたのです。


 奇妙な話でしょうか??


 ……鍵となるのは。


 私が30年前に書いた、『手紙』でした。


 *・*・*

『今日から、俺に向けて、手紙を書くことにしたいと思う。


 といっても、簡単な、悩み相談みたいなものでさ。


 なあ、俺。


 よかったら、聞いていってくれないか??』


 *・*・*



 私は、ひどく変わった子どもでした。


 両親のいない環境で育ったことが、一つの原因なのかもしれません。


 彼等は私が幼い頃に、交通事故で亡くなったのでした。


 ですが、愛情に飢えていたというわけでは、ないと思います。


 丁度私が一人取り残されてしまった頃、家族は都心のとあるマンションに暮らしていたのでしたが、父方の祖父にあたる人物が、私を引き取ってくれたのです。


 祖父は東京とは言っても、中心からは随分外れたところに住んでいて、いわゆる地元の名士と呼ばれるような家柄のものでした。


 田舎といってもよかったと思います。


 とにかく、子どもの時分の私は、豊かな緑と、優しい祖父母に囲まれて過ごしていたわけです。


 十分な愛情に包まれて、育ったといって、差支えない。


 ところが、私には友達が出来なかった。


 私が通わせてもらっていたのは、いわゆる私立の、地元でも金持ちの子どもが属しているような学校でしたが、なにしろ子どものことですから、上級階級特有の鼻にかけた雰囲気など、ほのかに匂う程度の人間しかおりませんでした。


 ですから子どもらしく、ルソーの言うような自然状態でのびのびと過ごせても良かったはずなのですが、どうにも、私にはそれが難しかった。


 生来の気質、だったのでしょうか。


 彼等と遊んでいても、何も楽しくないのです。


 あるいはそれもまた、幼児の時分にありがちな、勘違いした達観の精神だったのかもしれませんが。


 豊かな森林の中にありながら、私は色のない、無機質な環境に住んでいるとしか思えないのでした。


 枯れ木の最後の一葉が散らないことを願うよりも、必死で一つでも多くの葉が落ちることを望むような人間で。


 当時推理小説を愛好していたことも手伝って、人の命に対して、かなり軽はずみな言動をとっていたように思います。


 残酷な子どもでした。


 祖父母は穏やかな心の持ち主でしたから、そんな私を見ても、特に何か言うわけではありませんでしたが、かなり心配はしてくれていたようです。


 私の中の片隅にでも、どこか自然を尊ぶ感受性というものが残っていないか期待したのでしょう、しばしば旅行に連れていってくれました。


 夕日に彩られた、美しい景色の数々が、今でも目に焼き付いています。


 しかし、どうにも、感動というものが、私には出来ない。


 小学生も高学年になると、自分がどうも他人と違うらしいと気付いて、色々と思索をめぐらしたこともあります。


 心理学の本を読みふけってみたり。


 いったい私のこのねじくれた精神はどこから来たのだろうか、という疑問と共に。


 心理学にも色々な潮流があるのでしょうが、行動心理学者達が言うように、環境が人間を作るというのなら、むしろ私は慈愛の精神に満ち溢れた、気の良い人間になっていなければおかしい。


 実際の、残酷なものをことさら好むような、自分自身の価値判断に拠ってしか周りを見れないような私とは、まったく真逆の存在です。


 また哲学書を読みふけって、フランス現代思想とやらに傾注したこともありますが、どうにもこうにも、人間というものが分かるどころか、哲学者というものは、象徴界やら現象界やら、ことさら難しい言葉を振り回して、悦に入っているようにしか、私には思えないのです。


 精神分析など、愚の骨頂でした。


 答えが出ない。


 私は途方に暮れてしまいました。


 ……しかしまあ、現代でこんなことを考えている子どもという時点で、とにかく私は変わった人間だったのでしょう。


 孤独であるのもむべなるかな、というところです。


 それでも表面上は楽しく生きていたつもりでしたが、やがて、転機が訪れました。


 それも例によって、祖父母がとある地方の田舎に連れていってくれた時のことだったと思います。


 当時の私は中学生で、肥大した自尊心と、それでも、どうにもならない私という身体の中でしか生きられてないという自己矛盾に、ひどく悩んでいた頃でありました。


 その地方は私が普段住んでいた所とはまた違い、風がよく吹く、水に恵まれた田舎でした。


 あまり緑は多くなく、所謂多くの人が「田舎」と聞いて思い浮かべるような心象風景とは、どこかずれていたような気がします。


 祖父母は絶えずニコニコしていましたが、そんな景色にも、やはり感動というものが出来なかった私は、泊まっていた民宿の部屋をこっそりと抜け出して、一種の探検に出かけました。


 こう言うと子どもっぽい言葉ですが、その頃の私はそれを自分探しと名付けて行っていましたから、よくそうやって、思考をめぐらしながら、近所をぐるぐるすることがあったのです。


 その時も丁度、私は自分という存在が在ることについて現象学的な考察を行っている最中でしたが、ふと道端に佇んでいる人影に気付いて、びくっとしました。


 そこは民宿から続く、わびしい通りで、ほとんど街灯もない、灯りと言えば天井に輝く星々だけ、といったようなところでした。


 なにしろ自分でもこっぱずかしいことを考えているという自覚があったものですから、私は自分の思考がもれていやしないかと、ひやひやしたものです。


 といって今更引換すわけにもいかず、仕方なしに、その人影を横目で見ながら、出来るだけ慎重に、歩みを進めておりました。


 「ちょっと、そこのひと」


 ヒヤリ。


 冷や汗というのはこういうものかと、背中をしたたり落ちる冷たいものを意識します。


 夜の闇を裂いて、その声は私の耳朶を打ちました。


 やっとその人物の傍を通り過ぎたところだったので、急な問いかけに、心臓の鼓動が余計早まりました。


 無視してしまおうか……。


 そんな言葉が頭をよぎります。


 大きなローブのようなものを目深に被ったその人物は、何かの映画から飛び出してきたような、怪しげな占い師そのものでした。


 別に水晶玉も何も持ち合わせてはいませんでしたが。


 見えないがらも、鋭い視線を感じます。


 嫌な予感しかしません。


 これは逃げた方が良いなと判断したところに、しかし、その占い師めいた人物は、こんな言葉を口にして、私の足を、その場に釘付けにしたのです。


 「あなたの存在の根源を、教えて差し上げよう」


 気がつけば、私は吸い込まれるように、その人物の元へ歩いていました。


 ……それが、私がいわゆる変わった子どもから、『改心』を果したきっかけだったのです。


 それでいてまた。


 危険な『殺意』が何十年も経て噴出する、きっかけとなったのでした。


 *・*・*


 それなりの立場にあるものというものは、やはりそれなりに苦労をせねばならぬものです。


 私の場合勤めているのがことに離職率の高い、厳しい業界だったものですから、それだけに、社員の入れ代わりも激しく、不本意ながら、指導というものも、度々行わざるをえないというわけでした。


 今日もまた、部下の一人が間違いだらけの書類を提出してきたところでした。


 彼を指導する立場にある以上、怒らないというわけにはいきません。


 たとえそれがポーズであったにしても、です。


 気の弱そうな若い男の社員を前にして。


 私は心を鬼にしました。


 「これは、どういうつもりだ」


 「どういうつもりと申されましても……」


 おどおどとした、暗い表情。


 私はドンっと机を叩きます。


 「全て言わなければ分からないのか?」


 そしてジロリと彼をにらみつける。


 これだけで、大抵の社員は参ってしまいます。


 若い社員は泣き出さんばかりに顔をゆがめながら、口を開きました。


 「は、も、申し訳ありません。す、すぐに訂正してまいります」


 まるで鬼から逃げる子どもさながらに、ちらりとこちらを振り返ることもせず、一目散に自分の席まで戻っていきました。


 それほどまでに怯えなくても……


 自然と心が痛みましたが、しかしだからといって、こちらも休むわけにはいきません。


 なにしろ、次から次へと、出来の悪い書類が、机の上には山と積まれてゆき。


 そして毎回同じ顔が私の机の前に、途絶えることなく並んでいくのですから。


 いつしか自分でも演戯なのか本当の感情なのか分からぬままに、怒鳴らざるをえなくなっていき。


 そうして、はあっと息を吐く。


 その繰り返しです。


 高まっていく、周囲の、貼りつくような恨みの視線。


 空気は悪くなる一方でした。


 「……はぁ」


 ちょっと休憩と断ってから、私はいたたまれなくなって、自分の部署を飛び出しました。


 靴音が異様に響く廊下を急ぎながら、喫煙室にたどり着きます。


 まだ封を切ったばかりだった新品のタバコを取り出すと、ライターで火をつけ、そのまま口にもっていく。


 それなりに落ち着きはしますが、しかし、所詮ニコチンが癒す働きにも、限界があります。


 ガラス越しの窓からは、環境汚染のためにすっかり薄汚れてしまった空が見えていました。


 私の吐く息もそれに混じって、汚いままに溶けていくのでしょう。


 滑走していく自動車の爆音が気になって、余計に視界が歪みます。


 昔はここからの景色も、最高に良いものでしたが。


 いつの間にこれほど変わってしまったのか。


 『改心』してから何十年。


 こんなはずではなかったと、思わず、不満がもれていきます。


 「お、どうした?今日はいつになくイライラしているな」


 「……無能な部下が多くてね」


 ……おまけに悠久の時まで、満足にすごさせてもらえないとあっては、何を楽しみに生きていけばよいのでしょう。


 軽薄な笑顔を浮かべながら、喫煙室に入ってきたのはTでした。


 これほどなれなれしい男も珍しい。


 確かにTとは幼なじみということもあり、私には珍しい、腹を割って話せる仲ではあったのですが。


 彼の方が立場が一つ下だけなこともあって、余計にイライラが募ります。


 それ以上に、今はあの『手紙』のせいで、この男に会うだけで、尋常でない負担になるというのに…………。


 恐怖と怒りがないまぜになった奇妙な感情をいだきながら、私は彼を見やりました。


 低い鼻と、薄くなった額。


 私の方が彼より学歴が低いのに、先に彼より出世してしまったために、彼も裏では私のことを憎んでいるのかもしれません。


 なにしろ彼は性格が歪んでいることで、有名でしたから。


 新入社員の頃、ただ私がPCに向かって作業をしているだけで、さぼっているとでも思ったのか、よくぺちゃくちゃと学歴に対して自論を展開したものです。


 そのたびに私は無視していましたが。


 今も差別的な発言はしはしませんでしたが、それでも独特の論理にしたがって、社会というものをくさしていきます。


 中身のない人間の言うことで、入ってきた途端に、耳から言葉が通り抜けていく。


 イライラが余計に募ります。


 ……私はTのことが嫌いでした。


 それだけに。


 『手紙』にあんなことが書かれていただけに、余計に『まずい』のです。


 私は、この男を殺してしまうのではないか……。


 胃がきりきりと痛んできました。


 この男が『嫌い』だから、私はこの男を『全然意図していないにも関わらず』、強い『殺意』から、殺してしまうのではないか。


 ポケットに手をつっこみます。


 カシャ。


 今もまだ、『手紙』はそこにありました。


 それは、『過去からの手紙』だったのです。


 自分でも、奇妙な話だと思います。


 *・*・*


 「自分への手紙を書きなさい。あなたの未来の姿を教えてあげるから」


 その占い師然とした人物はそういって、『未来の自分へ』と、手紙を書くことを要求してきました。


 何とも言えない雰囲気をまとった、異様な人物でした。


 まったくなんという体験だったのでしょう!!


 次から次へと、私を驚かすようなことを、口にして見せるのですから。


 その異邦人が言うには。


 曰く。


 自らを矯正する為の一つの手段として、一番信頼できるのは自分自身である。


 そして自分なりの悩みを解消するには、信頼できる人物がいることが不可欠だ。


 だから、『未来を覗く』ことが出来る力を持つその占い師が、私の未来の姿を教えて、『信頼できる』相手として、未来の私に手紙を書くことを奨めてきたのでした。


 なんとも奇妙な理論だとは思いませんか??


 ……ええ、分かっています。


 それは、まるで、何かの自己啓発本に書かれているような内容でした。


 どうも今にして思うと、雑多な宗教と哲学の知識を組み合わせて、その占い師は、自分なりの体系を作り上げていた感があります。


 被っていたコートにしても、怪しげな雰囲気を演出するための道具として用いていたのではないでしょうか。


 ぼそぼそとした喋り方に、大袈裟な身振り。


 不可思議な体験。


 ……要するに、『インチキ』だということです。


 別に金銭を要求されたわけではありませんから、誰かを騙そうとしていたわけではないのでしょうが。


 しかし、まあ、その人物がインチキであろうがそうでなかろうが、本物であろうがそうでなかろうが、そもそも現代は、偽物と本物の線引きすら、難しくなっている世の中のこと。


 ある意味自分自身を占い師であると信じきっていたそのおかしな人間の方が、そこいらの占い師よりも、よっぽど本物らしくないでしょうか。


 そもそも占い師に本物がいるのかどうかという、一般人が抱きがちな疑問は別にして。


 …………とにかく、私は未来の自分に宛てて手紙を書くことによって、悩みや恨みを解消することが出来たのでした。



 *・*・*

『聞いてくれよ!!俺!!


 今日はじめて、近くに住んでる同年代のやつと、話が出来たんだ。


 やっぱ、分けわかんないこと言わなくなったのが良かったのかなあ??


 最近変わったなって。周りの人にも、良く言われるんだぜ??』


 *・*・*


 その『占い師』の熱量に、私はあてられたのかもしれません。   


 その日以来、私は『改心』したのです。


 祖父母は私の変わりように驚きました。


 逆に何か頭の病気にかかってしまったのではないかと、怯えたくらいです。


 学校の同級生達も、最初は戸惑っているようでした。


 しかし、邪魔な自尊心を捨て、人間社会に馴染むようにした私に、最早障害などありはしません。


 いつしか彼等も私という新しい自己になれて、社会の一員として、認めてくれるようになりました。


 そして、それからもう、何十年もの月日が経ったでしょうか。


 思えば長い間、列車に揺られ続けてきたものです。


 座席も大分錆びついてきました。


 過去の思い出というものも、日々の景色に紛れて、視えなくなっていきます。


 今の私が在るのもそのおかげであったにも関わらず、例の『手紙』のことも、あの占い師のことも、すっかり記憶の片隅に、追いやられていたのです。


 それが、ふとしたきっかで。


 埃にまみれたその思い出が、再び顔をのぞかせました。


 ……考えられうる限り最悪の形で。


 「おい、聞いているのか?」


 Tの声でした。


 私はうつらうつらしていたところを、はっと顔を起こします。


 重力に逆らってたなびく煙。


 考え事をしながら、いつの間にか、眠っていたようです。


 Tは不服そうに、唇を曲げていました。


 「だからだな。俺が思うに、日本社会の一番ダメなところは、さ」


 もちろんTの言うことなど、はなから聞いていないので、答えようがありません。


 私は手近にあった灰皿に、タバコを一本放り込むと、そのまま喫煙室の扉をあけました。


 「お。おい!!」


 「……悪い。気分が悪くなった。また今度、話をしよう」


 過去のことを思い出していたからでしょうか。


 余計にTに対する嫌悪感と、怒りが強くなっていたのです。


 それと、恐怖。


 半ば逃げるようにしながら、オフィスの席に戻ると、機械的に仕事を再開します。


 こうなっては、もう部下達のうろんな視線も気になりません。


 目の前を過ぎていく仰々しい字面も、ただ視覚情報としてしか認識できない。


 頭の中は、例の『手紙』のことで一杯でした。


 ……馬鹿げた話です。


 たかだか子どものころ書いた自分宛ての手紙に、こんな恐れをいだくなど。


 ただ、その手紙の内容が、自尊心を最大限こじらせていた時期であっただけに。


 ひと言で言えば、最低だったのです。


 *・*・*


 『未来の自分へ


  この手紙を書き始めてから、もう随分になる。


  あのうさんくさい占い師の言うことなんて、最初は信じられなかったけど、もし本当に、あの人がいうような姿が、未来の俺であるなら。


  ……決して悪くはないと思う。


  そんな地位につくためには、やっぱり、相応の苦労を、体験しているんだろうしね。


  素直に尊敬するよ。


  さて、例によって、お悩み相談なんだけどさ。


  今回はちょっと、今まで誰にも言ったことがない。


  そして厳密な意味で言えば、やっぱりこれからも、『俺以外の誰にも』言うことがない、悩みについて言いたいと思う。


  あんたの姿を聞いていると、完全に普通のサラリーマンだろうからさ、もう忘れているかもしれないけれど。


  あんたからして何十年前の俺は、なんていうか、その、独特の価値観を持って、動いている人間だったんだ。


  無駄に哲学書とかを読んだことが、災いしたのかな?


  人間関係とかについても、無駄にこじらせてしまってて。


  ジル・ドゥルーズのことなんか、今のあんたは、とったくに忘れてしまっているだろう?


  まあ、難しい悩みなんだ。


  それでも、そういう精神的なところはとっぱらって、超越論的な観念なんかも無視して言ってしまうとさ。


  ……俺は今、物すごく気に入らない人間が居て、そいつを殺したくて、仕方がないんだよ。


  そいつは、ものすごく横暴で。


  人の悩みなんかわかりゃしない。


  自分中心で、世界を回している人間なんだ。


  ……俺のことを棚上げにするなって、そういう意見が聞こえてきそうだけどさ。


  それでも、やっぱりムカつくんだよ。


  殺してしまいたい。


  こんなこと、だれにも言えないだろう?


  あんな気に食わない奴は、初めて聞いたよ。


  俺は俺の哲学に照らし合わせると、あんな奴の存在を、認めるわけにはいかないんだ。


  たとえ、どんな犠牲を払っても……


  どんなに時間が掛かっても


  あいつを、俺はこの手で……』


  *・*・*

  

 『手紙』はここで途切れていました。


  これ以上手紙が書かれた様子がないことと、恐らくかつての私の中に眠っていた中でも最大限の悪意を暴露したことから考えると、それで落ち着きを得られたのかもしれません。


  誰かのことが気に入らないなんて、中学生の時分には、まあ、ありがちな、嫌な考えですから。


  それだけで済ませておけばよいのです。


  ……しかし。


  これを書いたのは、他の誰でもない、『私』なのでした。


  私は自分がどんな人間であるのか、よく承知しています。


  あるいは、どんな人間であったのか。


  現実に殺人など犯していない以上、しょせんそんな殺意は一過性のもので、すぐに心の中から消え去ったのだろうと、断定することは可能でしょう。


  そんな澱のような汚い感情を心に沈めたままでは、ろくに暮らしていくことも出来ないでしょうから。


  少なくとも、今の社会的地位を得た自分には、そんな感情など微塵もない。


  しかし、相手は、この『私』なのです。


  そして『手紙』に書かれている以上、確かにこの『私』は、かつて『殺意』を抱いていたのです。


  気になるのは、文中の、『たとえどんなに時間が掛かっても』というところでしょうか。


  『時間』。


  もしその当時の私が、すぐに相手を殺すわけではなく、綿密な計画を練った上で、それこそ何十年単位の、凶器を仕掛けていたのだとしたら……


  例え私の中から殺意が消え去った後になっても、未だにそれは、毒をまき散らすことがなく、深くどこかで、眠りについているのです。


  平穏に列車に乗っていたつもりの私だったのに。


  人生の執着点に向けて、知らず知らずのうちに、地雷を撒いてきたのでしょう。


  誰かを『殺す』ことを目的として。


  そして、その爆弾は、未だに爆発していないのです。


  私は震えました。


  一番恐ろしかったのは。


  ……誰を『殺したかった』のか、私がてんで、覚えていないということでした。


  *・*・*


  「おはよう。今日も陰気な顔をしてやがるな」


  「……おはよう」


  憮然とした返事。


  その当時、私が気に入らない人間は、幼なじみのTを除いても、実にたくさんいたのでした。


  その中でも、手紙の表現にあうような、取り立てて気に入らない人間ともなると、さすがに数名に絞りこめはしましたが。


  それでも、数の上では、3人にものぼりました。


  T。


  そしてKという従妹に。


  Oという、近所に住んでいた大学生の男でした。


  そのうち年が極端に離れたOは既に故人となっていました。


  それだけに、すわ私が知らぬうちに殺していたのではないかとびくびくしていたのですが、どうも勤務先の海外で遭った、不慮の事故らしい。


  いくら手の込んだ面倒くさい子どもであった私とはいえ、まさか海外にまで手を伸ばしているわけにもいかなかったでしょうから、自然と、では残りのターゲットは、二人に絞られてきます。


  TかKか。


  私が殺したい人物は、どちらなのだろうか?


  もしかしたら何かのメモ書きの類でも残っていないかと、必死で生家を探ってみたのですが、意味のあるものは一つもありません。


  そもそもこの『手紙』にしても、祖父母がつい最近亡くなって、郷里に帰ったついでに家の整理をしていたところ、たまたま見つけたものでした。


  もしそんなきっかけでもなかったら、そもそも、そんな『手紙』が、私に届くこともなかったのです。


  ともかく。


  そんなわけで私は、Tに会うたびに。また、親戚の集まり等でKと顔を合わせる度に、私は心臓が早鐘のように打ち、身体中の血管が逆流するような感覚に襲われました。


  とてもではないが、平静ではいられない。


  だからといって、取り立てて解決手段も見つからないのです。


  まさか、最近私に殺されるような体験はなかったかと、私本人が尋ねるわけにもいきません。


  特にTは嫌味ったらしい人間でしたから、もしそんなことを尋ねでもしようものなら、忽ち周囲に吹聴して、現在の私の地位を、脅かしかねませんでした。


  ……この何十年の間に、私もまた、保守的な人間になっていたのです。


  そういう観点から言えば、従妹のKは昔からそこそこウマが合う人間でしたから、事情を話せばそれなりにわかってくれもしそうなものでしたが。


  しかし、やはり、自分の汚点を、公にすることには、ためらいがありました。


  ひそかに解決できるものなら、そのままひっそりと終わってほしい。


  それが私の、本音なのです。


  というわけで、私は毎朝サラリーマンが抱える憂鬱に加えて、極めて特殊な痛みを抱えながら、出勤に勤しまざるをえまんでした。


  頭の中は、どうやって人を殺すつもりだったのか、ということで一杯にして。


  一度Kと話をする機会があって、顔色の悪さを指摘されたことがあります。


 「まあ、君も随分偉くなったから、気苦労が絶えないんだろうな」


 そう言われて、私も苦笑いを浮かべながら、酒を酌み交わしたものでしたが。


 「どうしたここ最近。調子が悪そうじゃないか」


 相変わらず嫌味なのが、Tの本質です。


 そんなTに気にかけられるほど、私は、精神的に参ってしまったのでしょうか。


 私の乗った電車は、どうやら終点を極端な方向に定めてしまっているように、思われました。  


 *・*・*


 *・*・*


 「……そういう悩みを抱いてから、もう20年にもなるのですよ」


 語り手の老人は、そういって、目じりをさげた。


 「我ながら、バカげた話だとは思いますが」


 儀礼的に首を振って、インタビューアーは答える。


 「いえいえ、そんなことはありませんよ。……それで、その後、どうされたのですか」


 「その後も、しばらくその悩みと、私は格闘を続けました。昔推理小説を愛好していたことを思い出して、古い本をひっぱりだしてきたりもして。……何かヒントはないかと思いましてね」


 結局カーやエラリー・クイーンは、現在でも楽しめる代物なのだと、分かっただけでしたが。


 老人はそう苦笑した。


 「でも、結局、何も起きなかった。もしかしたら、時の流れで、そのかつて私が仕掛けた爆弾とやらが、消えてしまったのかもしれませんし。元々『手紙』に書いただけで、そんなことを、実行しなかったのかもしれない」


 「TさんとKさんは?」


 「去年相次いで無くなりました。……もちろん、私が殺したわけではありませんよ。老衰でした。二人とも、大往生を遂げたわけです」


 随分馬鹿なことに、悩み続けたものですよ、と老人は再び笑う。


 「ちょっと自分の胸に手をあててみれば、私が『人殺し』など、例え冗談でもするよしがないことは、分かりそうなものなのに」


 インタビューアーは、老人の言葉に強く頷いた。


 「それでも、今は、大企業の社長にまで出世されたわけですね。もちろん、並大抵の苦労ではなかったのでしょうが」


 「そりゃあそうです。殺人とまではいかないまでも、随分あくどいこともやったかもしれない。何しろこの地位を手に入れるのに、あらゆる犠牲を払ってきたのですから」


 これはオフレコで頼みますよ、と老人は茶目っ気を見せて言った。


 もちろんです、とインタビューアーは、再び力強く頷いた。


 これで仕事も終わりだ。中々興味深い記事になるだろう。


 二人はにこやかな握手を交わす。


 インタビューアーが重厚な扉を開いて消えていく音を耳にした後、老人は自室を見回した。


 社長室にしては、実に簡素な造りである。


 とりたてて珍しい装飾に彩られているわけではない。


 唯一それらしいところは、床にしかれた赤いカーペットだろう。


 それだって、社長としての体裁を保つため、言わば仕方なく、設けているに過ぎない。


 一つの机と、小さな椅子。


 いくつかの参考書。


 それだけで、自分を作っていくのには、十分なのだ。


 自らが築いてきた城に、老人は満足気に頷いた。


 いくつもの難関を乗り越えてきた。


 何人かの人生を、潰してしまったこともあるかもしれない。


 しかし、それが社長というものだ。


 結局、人間は一人なのだから。


 「……はぁ」


 満足から来るため息もある。


 それでも疲労がたまっているのは仕方がない。


 老人は机の引き出しを開けた。


 小さな袋を一つ取り出す。


 白い粉。


 『麻薬』だった。


 子どもの時分、例の怪しい占い師から、受け取ったものだ。


 結局、あの人物は、ペテン師に過ぎなかったのだろう。


 封を開けると、それをひそかにじっと見つめる。


 念の為にドアは閉めておいた。


 何回か吸ったことがあったが、その幻惑性を恐れて、子どもの時から、今まで封印してきたものだった。


 しかし、私の人生も、もう長くはない。


 TもKも、それなりに幸せに死んでいったことだろう。


 ならば私も。


 人生の余暇に、めくるめく幻惑に身をしたとしても、罰は当たらないだろう。


 ゆっくりとソファーに体を沈める。


 そして老人は、『それ』を、半ば期待の籠った表情で、ためすことにした。


 途端に襲う快感。


 世界が異化されて。


 光に囲まれていく。


 軽くなる体。


 目まぐるしく変わっていく風景。


 人生という列車が、急激に速度を上げていくーー。


 そして。


 「…………!?」


 老人は。


 かつて自分が『誰』を『殺したかったのか』、気がついたのだった。


 *・*・*

 

 『私が忘れた殺人』 了。










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― 新着の感想 ―
[良い点] 江戸川乱歩の怪奇小説を彷彿とさせる語りをベースに、過去の手紙から『誰』を殺したかったのか、読ませる展開でなかなか楽しめました。 [気になる点] ラストの結末に関する、強い動機が作品全体に…
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