老いてなお
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
おやおや、どうした、こー坊。もうおしまいか?
じいちゃんに勝てないようじゃあ、これからの日本、先行きが不安だぞ。まずは体力づくりじゃなあ。
こう見えても、じいちゃんは昔に比べて、だいぶ衰えたと思っとるぞ。少し前だったら、米俵の二つや三つ、ひょいと背負って山をいくつも越えたものじゃがなあ。今となっては、俵ひとつで数キロ歩くのがやっとじゃ。
――おお? 信じられんという顔をしているな?
じいちゃんどころか、ばあちゃんだって、若い時には同じ芸当ができたぞい。当時のじいちゃんたちの地元じゃ、子供でも俵ひとつは背負えないと、話にならんと言われていたからの。
その分、周りができることができなくなるというのは、いっそう大きい問題で、老人たちは、おのずと引き際をわきまえることができた。それが今では、周りが頼りなく映って、生涯現役の姿勢を崩す気になれない……などということも、あり得るんじゃ。
年寄りの冷や水、とは違うかも知れんが、歳を重ねたものは思わぬ力を秘めていることもあり得るのよ。
人間の身近にありながら、人の一生よりもずっと長く生き続け得るもの。その代表的なものは樹木じゃろうな。
「死に花を咲かせる」という言葉があるように、死ぬ間際になるときれいな花をつけるのだ、という説も根強く唱えられているが、実際のところ、あてにならない場合も多い。
樹木に寿命というものはない、とも言われておる。かなり傷んでいるように見えても、花や実をつけ続ける樹もある。その行動を持って現役と認めるんだったら、人間ごときに引退どきって奴を判断される代物じゃあ、ないかもしれんなあ。
とある村のはずれに立って居る大樹は、すでに何十世代にも渡って、村とそこに住まう人々を見守ってきた。
その高さは人が三十人分とも、四十人分ともうわさがされ、それを取り囲むように、背が低い小杉が取り巻いているという、見た目にも樹木の頭であったらしいのう。
ある時。嵐が近づき、今にも雨が降らせるかという、黒雲が空を覆い出した時。
荒天のさきがけとして、稲光が大樹の頂をとらえた。時同じくして、地面を揺らす大音量と共に、葉が叫び、幹には根に至るまで貫くほどの、大きな亀裂。誰もが、のちに続く大惨事を予感した。
じゃが樹は、あれほどの電熱を身に浴びたにも関わらず、わずかな火の粉を飛ばしただけで、まったく燃え上がることはなかったとのことじゃ。後日、件の樹を調べてみると、見事に唐竹割りされて二又に分かれた幹があったが、その裂け目には焦げ跡ひとつ、ついていなかったという。
それだけでも十分に異常なことじゃったが、以降、雷を伴う豪雨がかの地に降り注ぐ時、いの一番に大樹へと落雷があったという。そのたびに、耳をつんざくような音がとどろき、人々は大いに肝を冷やすのだが、変わらず、大樹に火の手が上がることはなかったのじゃ。
そうやって何度も雷をその身に受けて無事となると、村の者たちも放っておかない。
樹の高さと、それを縦断して走る幹の割れ目は、あたかも落ちたいかずちの姿をそのままとどめているかのように思えた。度重なる落雷で、さすがに葉は散ってしまったが、歳を重ねた太い胴体とその割れ目だけでも、人の目を惹きつけるには十分な代物だったのじゃ。
観光。村人たちは、例の大樹の奇跡を、周囲の人々に喧伝しようとしたんじゃな。
それに伴い、大樹の周りの整備も進んだ。これまで村の人々しか通ることのなかった道は、数倍の幅にまで広げられて、地面も平らにならされた。
大樹の四方は一定の距離を置いて、柵を渡されることが決定し、寄り添うように生えていた小杉たちは軒並み、切り払われる羽目になったのじゃ。
樵り手を替えて、朝から夜まで、長々と響く斧の音。それに時折、身を支えられなくなった杉たちが横たわる音が混じる。
まるでまとった衣服を一枚一枚脱いでいくかのように、小杉たちの覆いは強引に取り払われていき、大樹はその傷跡を、大いにさらけ出す羽目になったのじゃ。
村人たちの精力的な活動により、ついに用意が整った、大樹見物の道のり。
じゃが近くで作業をしていた者たちの一部は、かの大樹の色が、じょじょに濃いものに変化しているのに気がついたのじゃ。
それまでは茶色が大いにまぶされた、土に近い色だったのだが、それが炭のような黒へと染まり始めていた。あたかも、過去に負った落雷の傷が、今になってうずき出したかのようにも思えたのじゃ。
もしかすると、すでに大樹は期待した通りの姿を見せてくれないかもしれない。そのような不安を抱く者もいたが、観光に関する勢いに対しては、些末な心配事に過ぎなかったらしいのじゃ。
そして、本格的な公開が間近に迫った日。空にはまたも、いつぞやと同じように、噴煙のごとき黒い雲たちが、もうもうと湧き出してきたのじゃ。
また奇跡が見られるのかと、居合わせた村人の大半は、作られた柵沿いにずらりと並んだ。試運転のような心地であったのじゃろう。だが、一抹の不安を抱いていた者たちは、柵から離れたところで様子を見続けていたのじゃ。
果たして、雷は大樹に落ちたのじゃが、様子が違った。
大樹は瞬く間に炎に包まれる。これまでの泰然とした態度を知り、また期待していた者たちは、一瞬何が起きているのか分からなかったらしい。しかし、それで終わりではなかったのじゃ。
やがて炎が消えた時、大樹は全身を白い灰にしながらも、先ほどまでの威容を保ったまま、仁王立ちしていた。そこへ強い風が、柵の周りの村人目掛けて、吹き寄せたのじゃ。
たちまち大樹は、その山のような灰と化した身体を、惜しげもなく村人たちに浴びせかけた。風に乗って無理やりにでも張り付かんとする勢いは、自然のままに身をゆだね散りゆく桜吹雪などには、程遠い。
嵐。これより訪れるであろう、風雨に劣らぬ暴れぶりで、皆の顔を、腕を、脚を、身体中を白く染めんとしてきたのじゃ。
各々は灰を拭いながら、無我夢中で村へと逃げ帰る。それを見計らうかのように、ぽつぽつと雨が屋根を打ち始め、雷鳴もまた、幾度も幾度も空を光らせ、地を揺るがせた。
村人たちは、自分たちの準備が、あの一瞬を持って骨折り損となったことに、多かれ少なかれ衝撃を隠すことはできなかった。
閉め切った家の中に、戸を叩き続ける雨粒の音が、絶え間なくこだまする。それはまるで彼らの愚かさをあざ笑うかのように、ずっとずっと続いていたそうじゃ。
その日は動くことができず、夜が迫ってきて、彼らはしぶしぶ寝床に入った。
目を覚ませば、またあそこに何事もなく大樹が立っている。そう信じたい心もあったのじゃろう。
じゃが、願いは聞き届けられないばかりか、事態は更に悪くなった。
昨日、灰を浴びた村人は、灰のついていた身体の部分が、床に張り付いて動かなくなってしまったのじゃ。動かせない理由は単純で、灰のついていた部分から根が伸びて、家の床下に入り込み、容易には抜けない状態になっていたからだという。
各々が掘り出した根は、完全に身体と一体になってしまい、切ったり抜き取ろうとすると、くっついている腕や足、そのほかの身体の部分に、強い痛みが走るのじゃ。
彼らは残りの生涯を根っこを背負ったまま過ごさねばならず、人前から姿を消してしまう者も珍しくなかったと聞く。
わしは、その大樹。自分を取り巻く小杉たちをこそ、守りたかったのではないかと思っておる。
それが無理やり守るものを奪われ、急速に衰えたのではないか、と。
きっと皆の上に根を張ってでも、かつての願いを果たそうとしたのでは、とな。