【03】最後の藁
「あのおっさん、頭おかしいよなー」
窓際の右側のベッドで、アーシェはあぐらをかきながら、むすっとした表情のまま両腕を組み合わせた。
すると、真ん中のベッドの縁に腰をかけたルミナが勢いよく同意する。
「まったくだよ! そもそも今日なんか闇属性の魔法使えばもっと簡単に終わったのに全部あいつのせいじゃん! それなのに修行が足りないとか、わたし達のせいみたいに言うんだもん!」
そこで左側のベッドでずっと眠っていたサクヤが目を醒ます。
「……いつもの事。私はもう彼にはなにも期待していない」
その深い諦観の滲んだ声を耳にしたルミナとアーシェの二人は、大きく目を見開く。
「サクちゃん!」
「サク!」
サクヤがのろのろと上半身を起こす。その顔色は真っ青だった。
「うっ……あたまが頭痛だ」
そう言って額に手を当てる。
すると、ルミナがベッドから飛び起きてテーブルに置かれた水差しから、カップ一杯の水を汲んだ。
「はい。まだ無理しちゃ駄目だよー」
「ありがとう。ルミナ」
サクヤは礼を述べて、ルミナからカップを両手で受けとると、ちびちび水を飲み始めた。
彼女はクリスタルデーモンとの戦いで魔法を使いすぎた為、魔力欠乏に陥り意識を失っていた。魔力欠乏はショック症状で、稀にではあるが死に至る危険もある。
「……そもそも、あの悪魔の中隊がやって来たのも彼が行く先々で、我々が勇者パーティである事を言いふらして回るからだ。魔王側に我々の動きは筒抜けになっている」
これに関してサクヤは、思い切ってレオナルドに進言した事があった。
もう少し敵にこちらの動きを気取られぬ様に隠密性を重要視するべきであると。
しかし、彼の答えはこうだった。
――魔王軍を恐れてこそこそするなど言語道断。勇者パーティとしてのプライドを持て!
そして何時もどおり、左頬に平手打ちを喰らった。
「……ねえ、あのさ」
そこでルミナが己の肩を抱いて背筋を震わせた。
「……この町、大丈夫かな? 魔王軍がわたし達を狙って攻めて来たりしないのかな?」
サクヤは沈痛な面もちで首を横に振る。
「解らない。一応、外壁には魔除けの結界が張ってあるからモンスターが町に入る事は難しいだろう。屈強な騎士団も駐屯している様だ……でも」
「本気で破ろうと思えば、どうとでもなる感じだよね、これ」
アーシェがサクヤの言葉を引き継いで指摘した。
するとルミナは再びベッドに腰をおろしながら、絶望的な遠い眼差しで天井を仰いだ。
「それで……もしも魔王軍が攻めて来たら、どうせわたし達が戦わなきゃいけないんだよね?」
アーシェが暗い表情で頷く。
「ああ……あのおっさんの事だ。喜び勇んであたし達を戦わせるに違いない」
サクヤは深々と溜め息を吐いた後、二人にむかって尋ねた。
「ところで彼は今どこに? こんな大声で話していて、聞かれでもしたら……」
きょろきょろと脅えた表情で視線をさまよわせる。
幼い頃から何かあるたびに厳しく叱責され懲罰を受け続けて来た彼女達の精神には、レオナルドの存在そのものがトラウマとして深く刷り込まれていた。
そして、一応は身よりのない自分達を引きとって育ててもらったという負い目もあり、三人の頭からは彼に刃向かおうという発想そのものが抜け落ちていた。
「大丈夫。あのおっさん、夕御飯のあと、近くの酒場に呑みにいったから……」
アーシェの答えを聞いてサクヤは、ほっと胸をなでおろす。
「朝まで帰って来なければ良いのに……」
三人娘はどんよりとした表情で深い溜め息を吐いた。
レオナルドへの愚痴大会は、まだまだ続いていた。
「……そもそもさぁ、あのおっさん、絶対にあたしの事、嫌いだよね」
「そっ、そんな事ないよ! アーシェちゃん、とっても良い子だもん!」
ルミナが慌ててフォローを入れるが、ますますアーシェは表情を曇らせる。
「いや。あのおっさんに好かれても、それはそれで嫌だな……」
「そっ、そっか。そうだよね。ごめんね、アーシェちゃん」
心底申し訳なさそうに謝るルミナだった。
すると宿屋の食堂からもらって来たパンをもそもそと頬張りながらサクヤは指摘する。
「……彼は差別主義者だ。人間以外の種族を酷く毛嫌いし、見下している」
「まじかー……薄々とはわかっていたけどなー」
アーシェは尖った耳の先をしおれさせながら肩を落とした。
彼女はその耳の形からもわかる通り異種族と人間の混血であった。
「例えば彼を注意深く観察していればわかるのだが」
「うん……」
ルミナがまるで怪談でも聞いているかの様な表情で、サクヤの言葉に相づちを打った。
「……彼は買い物をする時、人間以外の店員がいる店には絶対にいかない。値段がいくら高かろうが商品が悪かろうが、頑なに人間の店しか使わない」
「ああ……そういえば、この宿も店員さんは人間だけだね」
「そうだ。それから人間以外の種族の者に話しかけられても、一回は絶対に聞こえていなかった振りをするんだ」
そこでルミナが「あっ」と声をあげる。
「……そういえば思いだしたけど、前に獣人族の子供達が『握手して』って、わたし達の泊まっている宿に来た事があったでしょ?」
それを覚えていたらしいサクヤとアーシェは頷いた。
世界の希望である勇者パーティを支持する者は多く、子供達の人気も高い。したがって、こういった事は頻繁にあった。
「その時、突然あいつが『疲れてるから帰れ』って怒鳴って、子供達を追い返したの、あれって、もしかして……」
「ああ。そのとおりだ」
サクヤは淡々と言い切る。
するとアーシェが、何時も快活な彼女らしくない表情で悲しげに微笑む。
「やっぱへこむなー。そういう差別は……」
「でも、アーシェちゃん、あんな奴に好かれたって良い事ないんだからラッキーだよ! むしろ嫌われた方がお得だよ!」
何とかアーシェを励まそうと、無理やりフォローするルミナだった。
そこでサクヤが虚ろな眼差しで苦笑する。
「……逆にルミナは滅茶苦茶好かれている」
「え?」
「恐らく彼はルミナに特別な感情を抱いている」
「またまたー」
ルミナは何かの冗談だと思った様だが、サクヤの表情は真剣だった。
「いやマジ」
「そんな事ないって。わたしも嫌われてるよ。わたしの事だって凄く怒るもん、あいつ」
「ああ……その、なんだ。実は先日、見てしまったんだが」
「なっ、なにを……」
アーシェがごくりと唾を飲み込んだ。
そのあと、サクヤはたっぷりと逡巡したあとで、重そうに口を開けた。
「その、少し前に川沿いで野営しただろ? それで私は早朝、川べりを散歩していた」
「うんうん。サクちゃん、いっつも早起きだもんね。それで?」
「ああ。その、そうしたら、彼が洗濯をしていた」
レオナルドが洗濯をしている事自体は珍しくはない。
彼は洗濯の他にも野営時の炊事からパーティの資金管理、物質の調達など多くの雑務を担当していたからだ。
「それで、どうしたの?」
きょとんとした表情で話の続きを促すルミナに対して、サクヤはいたたまれない気持ちになりながら語る。
「……その時、彼は私が近くにいるのに気が付いていなかった。……それで汚れ物を入れる袋があるだろ?」
「うん。あるけど……」
「その中からルミナの下着をとりだして、それに自分の鼻先をうずめると思い切り深呼吸をし始めた。恍惚とした表情で」
「え」
ルミナの表情が凍りつく。
アーシェは「あちゃー」と額に手を当てて嘆いた。
「そこで彼はようやく私が見ている事に気が付いて慌て始めた。流石に素通りできなくて訊いたよ。今、いったい、なにをやっていたんだと」
「そっ、それで、答えは?」
アーシェが血の気の失せた表情で問うた。
それに対してサクヤは心底申し訳なさそうな顔で言う。
「下着に残った体臭でルミナのコンディションを確認していたのだ……と」
沈黙。
室内の空気が凍りつく。
それを打ち砕いたのはルミナの絶叫だった。
「無理無理無理無理無理無理無理……もう、絶対に無理ー!! 無理だよぉ……」
ルミナは狂った様に頭を振り乱す。
それは普段おっとりとした彼女にあるまじき狂乱振りであった。
あまりの豹変にアーシェとサクヤも大きく動揺する。
「ちょっ、落ち着け、落ち着けって……落ち着けルミナ」
アーシェはルミナの体を抱きしめて背中を優しくさする。
サクヤは、まるで自分が罪を犯したかの様にうなだれる。
「すまない、ルミナ。やはり、この話は聞かせるべきではなかった」
少しだけ落ち着いたらしいルミナが瞳に涙を浮かべながら唇を尖らせる。
「……いいよ。サクちゃんが謝る事ないよ。ていうか、もっと早く言ってよ、それ……」
「すまない。本当にすまない。あまりにも衝撃的な光景すぎて、今まで私の中でも整理がついていなかったのだ」
「確かにそんな光景を見たら、まずは自分の頭がおかしくなったって思うかも……」
「ああ。本当に我が目を疑った」
「うん。教えてくれてありがとう。サクちゃん」
ルミナのその言葉を受けて、サクヤはようやく胸をなでおろす。
「ねえ、アーシェちゃん、サクちゃん……」
ルミナはどこか儚げに微笑む。
「わたし『勇者』なんかになりたくないよ……」
そのあまりにも悲痛な訴えを聞いてアーシェとサクヤは息を飲む。
「わたし、本当はお菓子屋さんになりたかったの。可愛いケーキとか、綺麗なタルトとか、美味しいクッキーとか、いっぱい作りたいの……」
この事はアーシェとサクヤの二人も初耳だった。
「それが、ルミナの夢だったのか……」
アーシェの言葉にルミナはすすり泣きながら頷く。
「だから、わたし『勇者』なんかやりたくない! ……うわああああああああああああっ!!」
泣き声が響き渡る。
アーシェとサクヤはいたたまれなくなり、虚空へと目線をそらした。
そのまま、しばらく経って、ルミナがようやく泣き止んだ頃だった。
そこで、アーシェが唐突にぽんと両手を打ち合わせる。
「……よし。じゃあ、わかった」
「藪から棒になんだ?」
サクヤが少し呆れた様子で聞き返す。
アーシェは、なんて事のない気軽な調子で言った。
「みんなで勇者パーティ辞めちゃおうぜ」
辛抱強い駱駝の背骨を折るのは一本の藁なのだという。
一本また一本と背に積まれた軽い藁は、気づかぬうちに耐えきれないほどの重さとなって駱駝を押し潰す。
この日が、勇者パーティという辛抱強い駱駝を押しつぶした最後の藁となった。