第37話 ドッグファイト 2/5
「おはよう、翔虎」
翌朝、家を出た翔虎に、玄関前で待っていた直が声を掛けた。
「おはよう、直」
翔虎も挨拶を返し、二人は並んでバス停に向かって歩き出した。
「直、待ってるくらいなら、玄関に顔出せばいいのに。母さんも喜ぶよ」
「すぐだし。それに、翔虎、高校に入ってから遅刻しなくなったよね」
「そうだね。さすがにバス通学だと、一本逃したら致命傷になるからね。いざとなれば走って間に合った中学の頃とは緊張感が違うのかも」
「そうかもね。で、翔虎、あのあと、亮次さんと何か話した?」
「うん。今度、直も交えてゆっくり対策を考えようって言ってた」
「じゃあ、さっそく今日、学校終わったら亮次さんの部屋に集まろうか。部活は欠席して」
「ああ、早いほうがいいしね」
「うん。それと、今日、学校に行ったらさ、調べよう」
「何を?」
「第二生徒会のメンバーについてよ」
「……第二生徒会、か」
「私は、一年の野呂悠乃について聞き込みするから」
「聞き込みって、刑事みたいだな。じゃあ、僕は二年の海老原先輩について調べるよ。野球部だから、ヒロから色々聞けると思う。……というか、誰に何を吹き込まれたのか、直接問い質したほうが早いと思うけど」
「駄目に決まってるでしょ。『あなたたちはディールナイトについて、何か間違った情報を聞かされてますね』とか訊くの? 私たちがそんなこと訊いたら、怪しまれるでしょ」
「そうか……うーん、歯がゆいな」
翔虎は難しい顔をする。直は、
「それと、第二生徒会の人たちが自我を保っていたことについてだけど」
「ああ、亮次さんとも話した。富士崎先輩だろ」
「そう、その富士崎先輩と第二生徒会の円山先輩、接点があるんだよね」
「同じ生徒会なんだっけ。まあ、円山先輩は今は第二生徒会だけど」
「それもあるんだけど。温泉旅行」
「ああ、直たち女子だけで行った」
「そう、そのメンバーに富士崎先輩と円山先輩も入ってた。さらによ、その二人は確か、同部屋だったの」
「えっ? そうなの?」
「うん。だからね。もしかしたら、その旅行のときに何か……」
「泊まった旅館って、円山先輩の実家なんだよね。まさか、その旅行自体が円山先輩の計画だった、とか?」
「もしそうなら、円山先輩は、その頃からチェックメイトと接触してたってことになるね。富士崎先輩にも話を聞いてみるべきね……」
二人はバス停に着いた。バス待ちをしている人も数人いたためか、それからディールナイト関連の事柄について二人が話すことはなかった。
「あ、そうだ、直。僕、今日、放課後に少しだけ部室に顔出さなきゃ駄目なんだ。矢川先輩に原稿の感想を聞かなきゃ」
「完成、というか、修正したの? あの小説」
「うん。矢川先輩に指摘されたところを直してね。電話やメールじゃなく、それだけは直接聞かないと」
「わかった。じゃあ、授業終わったら先に帰ってるよ」
「うん」
翔虎が頷くと、エンジン音を鳴らしながらバスが近づいてきた。
昼休み、直は一年一組の教室前に来ていた。開けたままのドアから教室を覗き、見回していると、
「どうかしましたか?」
直は背後から声を掛けられ、「あっ、はい」と振り向いた。そこに立っていたのは、ひとりの女子生徒だった。制服のリボンと靴紐の色は緑。直と同じ一年生だ。直は声を掛けてきた生徒に、
「あ、あの、私、四組の成岡っていいます。野呂悠乃さんは一組ですよね? 今日は?」
「ああ、野呂ちゃんね。野呂ちゃんは午前中だけで帰っちゃった」
「ああ、そうなんですか」
「野呂ちゃんに何かご用?」
「え、あ、はい。ちょっと……」
「あ、わかった」
女子生徒は笑みを浮かべて、
「サインでしょ?」
「え? そ、そうなんです、実は……」
直は頬を掻いた。
「どこから聞いてきたのか分からないけど、学校では駄目なのよ。野呂ちゃんが……」
女子生徒は辺りをきょろきょろと見回し、少し声を潜めて、
「〈YU-NO〉だってことは、一応秘密なんだから。ま、クラスじゃ公然の秘密と化してるけどね」
「やっぱり、そうなんですか?」
「うん。一学期の途中くらいから、段々とバレてきてね。他のクラスは上級生にも知ってる人、多いんじゃないかな? 今日早退したのも、多分撮影だよ」
「すごいですね……あ、話してても大丈夫ですか?」
「うん、いいわよ」
女子生徒は直を連れてドアのそばから廊下に移動して、
「私、一組の相田。野呂ちゃんとも友達だよ」
「野呂さんって、どんな子ですか?」
「おとなしい子よ。私もYU-NO、ゆーのんは知ってたけど、最初、全然気付かなかった。野呂ちゃん、普段は黒髪ショートで、黒縁のメガネまでしてるからさ。あ、メガネは伊達だよ」
「第二生徒会に入りましたよね」
「うんうん。意外だったなー。野呂ちゃん、モデルのこともあるから、行事とかに積極的に参加するタイプじゃなかったのに」
「どうして第二生徒会に入ることになったんですか?」
「聞いた話だと、仲のいい先輩に誘われたみたい」
「その先輩って、生徒会の円山先輩ですか?」
「ううん。二年生の立花先輩よ。あの二人、二学期が始まってくらいから仲いいのよ。野呂ちゃん、立花先輩と一緒だと、校内でもちょっとはしゃいで地が出るときあるからね」
「そうだったんですか」
「あ、ごめん。私、もう行かないと」
相田は腕時計を見た。
「すみません。ありがとうございました」
「同じ一年じゃない。そんな畏まらないでよ」
相田は笑って、
「ごめんなさい、何組の何さんだっけ? あとで野呂ちゃんからサイン貰っておいてあげようか?」
「あ、いえ、いいんです。知り合いに頼まれただけなんで。それじゃ」
直が教室の前を離れると、
「また来てね」
相田は手を振って見送った。
「なあ、ヒロ。海老原先輩って、どんな人?」
「ん? どうした、いきなり」
校庭でいつものように木陰で昼食を食べ終え、駄弁っていた翔虎、弘樹、寺川の三人。翔虎は会話の途切れ目に弘樹に尋ねた。
「第二生徒会に入ったじゃんか。僕、同じ第二の中村先輩知ってるからさ、第二に入る人って、どんな人なのかなって思って」
「サウスポーの投手、ってのはこの前話したよな。ま、見た目はちょっと野球部っぽくない人だわな」
「……ああ、そうかも」
「何だよショウ、知ってんの?」
「あ、い、いや、ちょっと見た目だけ。ロン毛だから目立つし。エースなんだって?」
「ああ、三年生はもう引退したから、事実上、現エースだな。実際実力でも三年生に引けは取らなかったぜ。あの左腕から繰り出される球の凄いこと。球速は超高校級ってわけでもないけど、コントロールが凄いんだぜ。あまりにコントロールがよすぎて、かえって打者に球筋を読まれやすいほど」
「第二生徒会に入って、部活と両立して行けんの?」
「どうなんだろ。監督が許したからいいんじゃねえの? 三年はもうほとんど引退状態で口を出す先輩もいないし。俺はさ、海老原先輩が第二に入った理由は、一年の野呂って生徒がいるからじゃないかと思ってんだよ」
「ああ」
と寺川が声を出し、
「あの噂、本当か? 野呂さんが、YU-NOだって噂?」
「間違いないっぽい」
弘樹は頷いて、
「海老原先輩、YU-NOのファンなんだよ。ロッカーの中に柄でもなく女子向けのファッション雑誌が入っているの見たことあるぜ。YU-NOが表紙のやつばっか」
「YU-NO……」
翔虎は空を見上げて、
「ゆーのん、かー」
「お、何だよ翔虎。YU-NOの愛称知ってんじゃん。もしかして、お前もファン?」
「違うって……」
翔虎は言ったが、寺川と弘樹はその声を聞いていなかったように、
「俺はゆーのんより、やっぱり葵ちゃんだな」
「俺はディールナイトだな」
と二人で話し出した。
「あ、あのさ……」
翔虎は、寺川の肩を叩いて、
「テラ……」
「ん? 何だ?」
寺川は翔虎を向いた。
「お前さ、その、誰か好きな人とか、いるの?」
「何だよお前。いきなりだな! どうした?」
「い、いや、ちょっと……」
「ショウ……」
寺川は真面目な顔になって、
「お前のほうは、どうなんだよ?」
「質問に質問で返すなよ……」
「ショウ。前にも言ったけど、お前、成岡さんとはどうなんだよ」
「直? ど、どうって……て、テラは、直のことが、す、好きなのか?」
「お前こそ、質問に質問で返してるじゃねーか。……ああ、好きだよ」
「えっ?」
「だけど、俺も今の関係を変にしたくないからな。お前が正式に成岡さんと付き合ってるっていうなら、話は別だぜ」
「ぼ、僕が、直と……」
「でも、お前も成岡さんのことが好きなだけで、まだ片思いっていうなら、話は元に戻るぜ。同じスタートラインに立ってるってことだからな。どうなんだ?」
「そ、それは……」
言葉を言いあぐねるように無言の翔虎に、寺川は、
「ま、同じスタートラインじゃないよな。ショウは幼なじみで、俺は入学してしばらくしてからの付き合いだからな」
寺川は立ち上がって、
「ちょっと、トイレ行ってくる」
校舎に向かって歩いて行った。
「……ショウ」
弘樹は声を掛け、翔虎が向くと、
「お前。そういう態度じゃ駄目だぞ。そんなんじゃ、テラにあっという間に幼なじみっていうアドバンテージを埋められるぞ」
「ヒロ……」
「俺はお前のこと、応援してるぜ」
弘樹が言うと、昼休み終了を告げる予鈴が鳴った。
「戻ろうぜ、多分、テラもトイレからそのまま教室だろ」
弘樹は立ち上がった。翔虎もワンテンポ遅れて立ち上がり、弘樹のあとから校舎に向かって歩いて行った。
その日最後の授業が終わり、一年四組の教室は帰り支度や部活の支度を始める生徒らで賑わっていた。弘樹は野球部、寺川はサッカー部へと、いつものようにいち早く教室を出る。
「翔虎」
鞄を提げた翔虎に直が声を掛け、
「じゃ、私、先に亮次さんのとこに行ってるからね」
「あ、ああ……」
「ね。どうだった? 何か情報得られた?」
「あ、う、うん。海老原先輩、野呂さん、というか、YU-NOのファンみたい」
「そうなんだ。あ、昨日もそんな感じだったもんね。こっちもね、野呂ちゃん……って、みんなそう呼んでるみたいなんだけど、野呂ちゃんの情報をね……翔虎?」
「え、な、何?」
「何かあったの?」
「な、何で?」
「元気ないよ」
「そ、そうかな……」
「うん、元気ない」
「そんなことないって。あれだよ、矢川先輩に原稿の感想聞くから、緊張してるんだよ……」
「そんなことでナーバスにならないの。矢川先輩が翔虎を傷つけるようなこと言うわけないでしょ。それに、もしさ、翔虎が作家になって作品を出すことになったらさ、不特定多数の読者から、それはもうボロクソにけなされるんだよ。今からそんなことでどうする」
「何でボロクソにけなされること前提なんだよ!」
「ふふ。元気出た? じゃあね、またあとで」
直は笑って手を振り、教室を出て行った。
「尾野辺くん、格段によくなったよ」
「本当ですか?」
パソコンのディスプレイから顔を上げた矢川の声を聞いて、翔虎の顔が輝いた。矢川は笑顔で頷いて、
「本当さ。でも、ちょっと極端に振りすぎたかな? 前のはフェアじゃなかったけど、これはフェアすぎるというか、もう、誰にでもトリックと犯人がわかっちゃうけど」
「ああ……でも、それでよくなったんですか?」
「もちろんだよ。本格ミステリにおいて、後出しジャンケンは最大の御法度だからね。アンフェアで驚かすより、フェアに勝負して撃沈したほうがミステリ書きの本願ってものだよ」
「そ、そうですか……?」
「よかったな、尾野辺」
「すごいわよ、翔虎ちゃん」
二人のやりとりを聞いていたこころと美波が翔虎にそう声を掛けた。
「ありがとうございます」
翔虎は二人に頭を下げる。
「ところで……」
と美波はこころに向いて、
「こころちゃんは、修正原稿、いつ提出してくれるの?」
「うっ! そっ、それは……」
こころはたじろいで、
「何にも思いつかないなんて、言えるわけないじゃないですかーっ!」
机に突っ伏した。
「思いっきり言っちゃってますけど……」
両腕を広げて机に貼り付いたこころを見て翔虎が言った。矢川は笑みを浮かべて、
「こころちゃんはさ……一度、ミステリから離れたほうがいいと思うんだ。もっと、書きたいことを書いてみた方がいいと思うよ。自分を枠に押し込めすぎだよ」
「で、でもでも」
こころは顔を上げて、
「私も御手洗さんみたいなかっこいい探偵が活躍するミステリを書きたいです!」
「いきなりは無理だよ、こころちゃん。いつだったかの朝礼で理事長も言ってたじゃないか。最初からゴールを決めつけるのは必ずしも正解とは言えない。どうして学校で、理系、文系、体育まで、ひと通りのことを学ぶのか。一般生活でまず使わない数式や化学を学ぶのか。誰にどんな才能が眠ってるかわからないからだって。漫画家になりたいって思ってる人が、サッカーをやり始めたら、とんでもない才能を発揮するかもしれない。野球が好きっていう人も、もしかしたら、作家として凄い才能を秘めているかもしれない。この体育館の中に、メッシや村上春樹が眠ってるかもしれないって、理事長言ってたじゃないか。若いうちは、自分を枠にはめないで、ありとあらゆることを試してみるべきだよ」
「や、矢川先輩……」
こころは矢川を見つめて、
「理事長の説教、よく憶えているですね。私なんて、聞いたそばから忘れていっちゃってるです」
「ははは、何が小説のネタになるかわからないからね。なるべく人の話は憶えておくようにしてるだけだよ」
矢川は笑みを浮かべた。美波はこころに向かって、
「こころちゃん、私もそう思うわよ。こころちゃんの書く文章からは、何か窮屈さを感じるもの。もっと、もっとこころちゃんの書きたいもの。こころちゃんにしか書けないものがあるはずよ」
「わ、私にしか書けないもの? ……みなみな先輩!」
「こころちゃん、自分を解放するのよ!」
「みなみな先輩! わかったです! 私、自分をさらけ出すです! エロい意味じゃなくて。いや、エロい意味でも」
「その意気よ、こころちゃん!」
「みなみな先輩! 私の創作意欲を刺激するために、胸を貸して下さい!」
こころは言いながら美波の胸に飛び込んだ。
「こころちゃん、うまいこと言ったつもりなの?」
美波は飛び込んできたこころの頭を撫でながら言った。
「こころ先輩がどんなの書くか、だいたい想像つきました……」
翔虎はため息を吐いた。




