16
その日は朝から落ち着かなかった。
いつもならたっぷりと時間をかけるはずの朝のお風呂の時間もほどほどに、お風呂から上がってすぐ、店長に電話をかけようとして、二日前の夜にもうすでに休みをもらっていたことを思い出したり。
そわそわと、注意が散漫になる。
トーストを焼いて、コーヒーをいれて、いつもより遅い朝食の味はよくわからない。
食器を片付けて、冷蔵庫に張ってあるカレンダーに目をやる。
今日の日付には赤い小さなチェックが入っている。そう、今日は高地がいよいよ和人に告白をする日なのだ。
高地と久しぶりに顔をあわせたあの日のうちに高地は和人との約束を取り付けてしまい。今日はもうその当日、というわけだ。
手紙を渡すのに緊張して動けなくなっていた人物と同じ子だなんて到底思えない。
本当に人は変わるものだと思う。
着替えを済ませてメイクも終えて、ふと、普段どおりではまずい事に気づく。本当に抜けている。
「私が緊張してどうするのよ」
ため息とともにあまり着ないような地味目の体系を隠すような服と、帽子。それに野暮ったい伊達めがね。正直にいえばこんな格好らしくなくて好きではないのだけれど、今日一日くらいは我慢しないと。
それに高地の心はそれどころの騒ぎではないだろうし、見ているだけの私ですらこれほど落ち着かないのだから。
長かったような、短かったような。今日で決着がつくのだ。
今度こそ本当に日常が戻ってくる。待ち遠しかった日々が。ただ、少しだけ寂しいようにも思う。それに、それに……まだ、わからないけれど、もしかしたら、違った結果があるかもしれないけれど、報われない恋で終わるなんて、それでいいのだろうか。
和人の気持ちを変える方法なんて私には思いつけない。
恋をする気持ちは強い。
高地を変えたように、私を変えたように、和人も同じようにその力に突き動かされているのだから。
けれども、高地には、高地の恋を叶えて欲しい。
だってだれも報われない恋なんて悲しいだけだ、報われないのは私だけで十分だと思う。
でもそのために必要な手を私は知らない。
世界中のだれもが幸せになる方法なんてこの世界にはないのと同じように。
それは考えるだけ無駄なことだ。
私は頭を振って身だしなみを整える。今の私にできることは、高地に言われたとおりに全ての顛末を見届けることだけだ。高地は、よく眠れただろうか。もう準備は済ませてあるだろうか、ちゃんと髪を梳かして、メイクをすることができただろうか。
「よし」
心配も無駄な考えも吹き飛ばすように、つぶやきながら大きく頷く。
準備を終えて部屋をでる。
まだ家を出るには早い時間なのに、もう鈴がリビングでくつろいでいる。
「はやいのね鈴」
「姉さんも、まだ十分に時間はありますよ」
お互い、言葉を交わさなくともその内心はよくわかる。鈴も同じように高地の事が心配で落ち着かず、いてもたってもいられなくなったのだろう。
「何か飲む?」
「暖かいココアがいいです、姉さん」
「あったかしら」
もう夏も目前だというのに変わったチョイスをする。確かにおいしいけどねココア。戸棚の奥にあったまだ未開封のそれを見つけ、二人分用意してテーブルに並べる。
鈴は黙って口をつけて、ほぅと一つ息を吐く。私も同じように何も喋らず、口の中に広がる甘い味をゆっくりと味わう。
何か言葉を交わそうとは、思わない。
昔からそうだったように、私たちの間で沈黙は苦にはならない。そこにいるだけで言葉を交わさなくても、なんとなく感じていることはわかる。
ゆっくりとマグカップの中身を空にして、二人分のそれを洗い終えてもまだ時間はたっぷりと残っていた。
「どうしようか、まだだいぶ時間あるけど」
「どうしましょうか……」
このまま時間まで待っているのも別にいいのだけれど、すこし気を紛らわしたい気もしていた。
「まだはやいけど軽く散歩がてら向かおうか。あっちで適当に時間つぶそ」
「姉さんがそれでいいなら」
鈴の同意を得て、私たちは身支度を済ませると、待ち合わせにはずいぶん早く家を出た。
雲ひとつない空に浮かぶ太陽は少しだけ夏を先取りしたかのように真っ白に輝き、まばゆい日差しをこれでもかと放っている。
帽子をしっかりとかぶりなおしながら、私たちは駅までの道を歩く。
外を歩く人はまばらなのに加え、今日は目立たない服装にしているから、周囲から注目されるようなことはない。
鈴のゆっくりな歩調に合わせながら駅まで向かっても、待ち合わせまでのたっぷりとあいた時間がつぶれることなんてなく、何事もなく私たちは駅に到着する。
高地が和人と待ち合わせしているのは先日の一件のあった隣町の駅前だ。付近に他に遊べる場所がないとはいえ待ち合わせくらい他の場所にすればいいのに。
それとも、わかっていてあえて指定したのか。
とりあえず駅構内へと足を踏み入れ、時刻表を確認しようと歩を進めようとして、意外な顔とばったり出くわしてしまった。
「高地」
「長月、に反田さん……」
家の時計も携帯の時計も狂っていたのだろうかと驚いて駅の時計を確認するが……やはり私の手の中の携帯と同じ時間を刻んでおり、時計が狂っているなんてことはない。
では、なぜ高地がこんな時間に駅にいるのか。
「なんでこんな時間から駅にいるのよ高地」
「それはこっちの台詞よなにかあったの? まだ時間まで大分あるでしょう?」
「お互い、自分の胸に手を置けばわかるのでは?」
困惑する私たちをよそに鈴は切符を三人分購入して、それぞれに手渡す。
「ちょうど電車くるみたいですよ。ホームに行きましょう」
先を歩く鈴に続いて私たちは改札を抜けて、ちょうど入ってきた電車へ迷いなく乗り込む。まだ早い時間なせいか乗客はまばらで私たちは車両奥のボックス席に三人で固まって腰掛けた。
しばらく高地は黙ったまま窓の外を眺めていたが、やがて脱力するようにため息を吐く。
「なに、つまりあんた達自分の事でもないのに緊張して、家でじっとしてられなかったってこと?」
鈴の言葉からそう推察したのか、高地はあきれた様に言う。
それに関してはお互いさまだとろう、高地も落ち着かずに家を出てきてしまったというわけだ。
その割りに、私が心配したようなべたな失敗などはしていないようで、メイクも、髪のセットも、身だしなみもこれといって問題はないように見える。まるで母親の心境のようだが、ついつい細かいところまで確認の為に目をやってしまう。
「お互い様でしょう」
私の心を代弁するように鈴が呟いて視線を下げる。
「なんにしろ、ま、こっちのほうが落ち着くでしょう」
「それもそうね」
高地の相づちとともに、緩やかに電車が走り出す。
後ろに過ぎ去っていく景色に少しだけ目を向けて、視線を車内へと戻す。
「私たちは適当に店でも回って時間つぶすつもりだったけど、高地はどうする?」
「遠慮しとく、万が一吉池君にいっしょにいるところ見られたらと思うとぞっとしないわ」
それは確かに、いろいろと台無しになってしまうことが容易に想像できる。
「そのためにあんたもそんな服装で着てくれたんでしょ?」
高地の言うとおり、確かに今日はかなり地味で抑え目なコーデに帽子、サングラスといった出で立ちで、ぱっと見では女性か男性かすら判別は難しいかもしれない。
ただそういった事に高地が気づけた事に驚きを隠せないでいる。ファッションとかまったく興味がないと思っていたのに。
「よくわかったわね」
「だって似合ってないし、かわいくないでしょ。あんたがわざわざ自分の好みでそんな格好するとは思えないもの」
「姉さんの普段の気合の入り方からしたら明らかに不自然ですからねその格好」
確かにそれはそうなんだけど、そこまで言われる程ひどい服装を選んだ覚えはない。ただ無個性に徹しようとしただけで。
そんなにひどいだろうか。不安になって手鏡をのぞく。
「普段のあんた見てたら誰だって何があったんだって思うわよ」
「もし今日の一件の事をしらなかったらあたしでも何か悪い病気にかかったんじゃないかと疑うレベルです」
ちょっと普段と違う服を着ただけでひどい言われようだ。逆に考えると普段の服装そんなに派手なのだろうか……? でも最近は制服とかも多かったしそんなことはないはずなんだけれど。
「そこまでいわれるくらいならばれる心配はなさそうだし、いいんだけどなんか腑に落ちないわ……。高地は時間までどうするの?」
「適当に一人で時間くらいつぶせるわよ。子供じゃないんだから」
「ほんとに? 緊張とかしない? 大丈夫?」
「あんたはうちの母親かっての……大丈夫よ、どうって事ないわ」
私の過保護なくらいの心配をよそに高地はそうしっかりと答えて見せた。落ち着いたその声と態度から、本当に心配の必要などないのだとわからされる。
「ならいいけど」
電車は音を立てて線路の上を走っている。ガタガタとその車体を揺らしながら、目的地へと私たちを運んでいく。話すことはもう特になかった。確認すべき事はこの二日間で全てやっていたし、必要な準備も済ませている。
隣に座る鈴は片手で携帯をいじり、向かいの高地はいつの間にか取り出した文庫本に目を落としている。
一人手もち無沙汰な私はとくにする事もなく外を眺める。
次々と流れていく景色を眺めているうちに、電車は目的の駅につく。
電車を降りてホームから構内へ、そのまま駅を出て、そこで立ち止まる。
「それじゃ、しっかりね」
「がんばって」
「うん、見ててね二人とも、ちゃんと終わらせてくるから」
高地の言葉に私たちは頷いて返す。最後まで見届けて欲しい、それが高地の願いなのだから。
「またあとでね」
「えぇ、またあとで」
軽く挨拶を交わして別々の方向へと私たちは歩き出す。まだ予定の時間までは二時間ほどの間があった。
「何かかるくつまんどこうか、長丁場になるだろうし」
「そうですね」
まだお昼には少し早い時間だけれど、休日の昼時に込んでいる店なんかに入ろうものならいつ出られるかわかったものじゃない。
「鈴はなに食べたい?」
「安っぽいチェーン店とかラーメンでなければなんでも」
「それはなんでもとはいわないわよ」
相変わらず好き嫌いの激しい子である。とはいえわざわざ外で食べるのに鈴の舌に合わないものを食べさせるというのも酷な話だし、歩きながら適当に入れそうなお店を探すことにして並んでぶらぶらと当てもなく歩き始める。
私たちの住んでいる町と違って都市部のこのあたりはこの時間帯でもそれなりに人が歩いている。誰からも視線を向けられないことに少しだけ違和感を感じながら、それもたまには悪くないと、鈴の歩調に合わせて街並みを眺めながら歩いていく。
「こうして姉さんと出かけるのも久しぶりですね」
「私が私に慣れて来たってのもあるけど、受験も挟んでるしね」
もともと鈴はあまり外に出たがるタイプではなかったというのもある。実際中学生の頃、この子が自主的に休日に出かけているところを私は見た覚えがない。そのぶんというわけでもないのだけれど、当時まだ私でいることに慣れていなかった私は一人で買い物に行くのが怖くて、ことあるごとに鈴を誘っては一緒に出かけていたのだ。
「たまには外も悪くないですね」
珍しくまんざらでもなさそうに薄く笑みを浮かべて鈴が言う。これと言って特別なところに連れて言ってあげられるわけでもないのに、普段外に出ないから、こんな散歩みたいなことでも楽しく思ってくれているのだろうか?
「もうちょっと鈴も外に出るようにしたら? 女子高生なんだからあんまり引き篭もっててももったいないわよ」
以前までの高地の様に鈴は自分を磨いていないわけではないのだが、それを誰かに披露するということはせず、ただただ毎日を静かに過ごしている。私からしたらそれはとてつもなくもったいないことなのだと思うのだけれど。私が鈴の立場であれば毎日でも街に繰り出して周囲の視線に酔いしれるのに。
「あたしは姉さんとは違いますから。それに、あたしは今の生活が一番気に入っているんです」
「今の生活っていっても特に何もしてないじゃない」
「そうでもないですよ。姉さんの家で寛いで、姉さんの作ってくれたご飯を食べて、他愛のない話をする。それだけであたしは十分です」
「変わってるわねほんと。普通今時の女子高生ってもっとかわいい服がほしいとか、綺麗になりたいとか、読モになりたいとか、そういうのじゃないの?」
私の周りのまともに話したことのある女子高生なんて高地と鈴くらいだから、今口に出したのは八割方私の妄想である。けど多分そんなに的外れではない、と思う。しらないけど。
「いいんです、このままで」
悪戯っぽい笑みを浮かべて鈴ははっきりと言う。まるで私をあざ笑うかのように。
「鈴がいいならいいけどね」
少し腑に落ちない所もあるけれど当人がいいといっているのなら、それでいいのだろうきっと。人の幸せというのは他人が計れるものではない。私のこの理想の姿を受け入れられない人たちがいるように。
「せっかくだし、お昼食べたら鈴の行きたいところ周ろうか」
久しぶりの鈴との外出だし、私が行きたいところなんていつでもいける。だったら鈴の希望に沿うのがいいだろう。
「特にないんですけど、考えておきますよ。お昼食べ終えるまでには」
少し頬を赤くして、それでも嬉しそうに鈴が答えを返す。
高地の事も当然心配ではあったけれど、彼女のこと考えているだけで事態がよい方向に転がるなんてことはない。だったら今は楽しんだほうがいいというものだ。どうせ今日の長丁場、これから先嫌と言うほど胃が痛む思いをすることだろうし。