お嬢様と悪魔伯爵
あるところに、悪魔伯爵と呼ばれる、それはそれは恐ろしい方がいらっしゃいました。
伯爵は先の戦争で誰よりも国に尽くし、誰よりも立派な武功を上げました。戦時中、将軍としても働きを見せた伯爵は、戦後多くの領地を賜り、伯爵と名乗るようになりました。
国一番の剣の腕前を持ち、陛下からの覚えもめでたい。一癖も二癖もある王宮騎士団を率いるその実力は、本物です。それだけならば、誰もが彼に憧れ、尊敬し、その武功に感謝した事でしょう。
――――――――――そう、それだけならば。
戦争で武功を上げ、伯爵の地位まで上り詰めた伯爵でしたが、その身に向けられるのは国の有事を救った英雄への尊崇――――ではなく。悪魔と恐れられる男への怯えと畏怖の眼差しでした。
まず、熊のように大きな身体。上背の高さはもちろんの事、隙なく鍛え上げられた鋼の筋肉、野生の獣と同様、隙のないしなやかさ。敵への容赦はなく、執拗な攻撃を躊躇いません。そして何より、その顔がいつでも武骨な兜に隠されている事が、また伯爵への恐怖心を増幅させました。
伯爵はけして、素顔を人に見せようとはしません。噂では、業火に焼かれ、人の形を留めぬほどに爛れているとか。一部、噂好きに貴族の御令嬢は『実は麗しいお顔立ちなのでは』と期待を込めて囁き合っている人もいます。けれど、好奇心に負けて伯爵に近付いた御令嬢は、決まって同じ事を口にするので、そんな楽しい噂話はすぐに終わりを迎えます。伯爵の顔を見た御令嬢は、決まってこう言うのです。
『まるで、悪魔のようなお顔だった』と。
そんな伯爵は、当然これまで浮いた話など一つもありません。陛下や実家や部下からは早く身を固めろとせっつかれるものの、相手がいないのですからどうしようもありません。誰かの計らいでお見合いをしようにも、相手は伯爵の顔を見た途端、怯えて泣き始めてしまうのです。自身の素顔を見て怯える相手と結婚などできようはずもありませんでした。
また、伯爵自身、少々女嫌いの気がありました。美しい物を見れば頬を染めてちやほやと持ち上げ、逆に醜い物を見ればまるで汚物のように敬遠する。自身の容姿がその後者でした。そうして敬遠され続けて、好意的な感情を抱き続ける事はとても困難な事でした。
その為、独身のまま三十歳を迎えても、伯爵自身はまるで気にしておりませんでした。ただし、周囲はそんな伯爵を放っておいてはくれません。伯爵は陛下の命により、またお見合いをする事になりました。
お相手は侯爵家のお嬢様でした。そのお父上であらせられる侯爵様が、それはもう呆れるほどのお人好しで、世の為人の為とお金を使ってしまった結果、侯爵家という身分ある家柄でありながら金策に苦労しているようでした。
対して、伯爵は戦功を上げた事により多額の報償を手に入れ、趣味らしい趣味と言えば剣を振る事のみ。悪魔伯爵と呼ばれる伯爵の下で働きたがる人間も滅多におらず、使用人も必要最低限の人数しかいません。生活も質素なものを好む為、お金は有り余っていました。
要するに、侯爵家の援助をする代わりに高貴な姫君を妻に迎えるという、立派な政略結婚でした。
妻となる侯爵家のお嬢様は、一回り以上年下の十七歳でした。癖のある長い髪は柔らかそうで、長い睫毛に守られた大きな目は愛くるしさ感じさせます。体型はかなり小柄でした。背は伯爵の鳩尾辺りまでしかなく、細く華奢で、伯爵が片手で掴めば簡単に折れてしまいそうでした。
お嬢様は悪魔伯爵と噂される伯爵を見ても、にこにこと笑顔を浮かべ続けています。その笑顔を恐怖に変えてしまう事を忍びなく思いましたが、何も知らぬまま婚姻を交わしてしまう方がこれ以上ない恐怖だろう、と伯爵はお嬢様の前でその兜を脱ぎました。
「なんて事………!」
お嬢様は口元を両手で押さえ、怯えるように目を見開き、カタカタとその身体を恐怖に揺らしました。思った通りの反応に、また破談か、と伯爵は溜息を吐きたくなりました。
伯爵の顔は噂の通り、まるで火傷の痕のように爛れていました。しかし、本当に火傷を負った訳ではありません。生まれたときからあった小さな痣のようなものが痒みを持ち、我慢ならずにそれを掻いている内に、無残な様子となってしまいました。痒みが収まらず、掻けば傷になり、傷が膿んでまた痕が酷くなる。悪循環の繰り返しでした。ご実家でさえ、何かの呪いだと敬遠され続けていました。
伯爵に出来る事は、不気味がる母から与えられた兜で常に顔を隠す事だけでした。
悲鳴を上げて泣きながら逃げ出すだろうと思っていたお嬢様は、しかし予想外な事に、迷いなく伯爵へ距離を詰めて来たのです。
「なんて事でしょう!何故そう悪化されるまで放っておかれたのですか!」
「な、か、顔の事か?仕方なかろう、これはきっとそういう呪いで………」
「それは単なる皮膚病です!貴方に必要なのは適切な治療!そのような状態で鉄の兜を被っていらっしゃったのですか?悪化するに決まっております!」
皮膚の病に詳しい者を呼んでまいります、とお嬢様はその小柄な身体のどこから出ているのか、と不思議に思うくらいの力強い言葉を発し、目にも止まらぬ早さで退出しました。
そのとき、秘書の真似ごとのような事までしてくれる側近の騎士が、ご結婚おめでとうございます、と伯爵の耳元で囁きました。まだ決まった訳でもないのに、まるで婚礼が成されたような口ぶりの部下に疑問符を浮かべれば、部下はにんまりと意地悪そうに笑いました。
「将軍の結婚の唯一の条件ってあれでしょう?『私の顔に怯えない者であること』ぴったりじゃないですか」
とりあえず薬草をお持ちしましたと、お嬢様は元気よく部屋に戻って来ました。
侯爵家のお嬢様は、見た目の華奢で儚そうな印象とは裏腹に、快活で明朗な性格をしていました。思った事はすぐに実行に移し、好奇心旺盛で、とても活動的です。何より、身体が大きく怖い顔の伯爵に睨まれても動じない、肝っ玉の強さを有していました。
「さぁさ、今日も薬草を変えましょうね」
伯爵の顔に驚いて治療せねば、とお嬢様が騒いでしまった為にお見合い話は有耶無耶になりましたが、侯爵家のお嬢様は毎日治療にだけは必ず通って欲しい、と懇願しました。侯爵領では医学の知識に長けた者が多く、適切な治療を受けてもらえると言います。ずっと顔の爛れを呪いか何か、どうしようもないものだと諦めていただけに、『治療』という発想に至らず、お嬢様の言葉には目から鱗でした。
「さて、包帯を外しますね」
お嬢様は平然と伯爵の顔に触れました。呪いであると疑っていて為に、触れればお嬢様にも厄災が降りかかるのではないか、と始めは拒絶していましたが『お医者様にも診て頂き、移るものではないとおっしゃられていたではありませんか!』と一蹴されてしまいました。
風通しが悪いと余計に悪化するから、と最近では兜を取り上げられ、より症状の重い右顔面に薬草を布であて、その上から包帯をしていました。お嬢様の手で、その薬草も剥がされます。
「随分よくなられましたね。皮膚に薄い膜が出来てきています」
「自分ではよく分からんな。最近、痒みは落ち着いたように思うが………」
「薬湯が効いているのですね……て、あ!触ってはなりません!」
思わず患部に触れようとすれば、その手をぴしゃりとお嬢様に叩き落とされました。見た目は儚げで完璧な御令嬢であるのに、お嬢様は意外と容赦のない性格をしています。
「治りかけが一番重要なんです。ここを乗り越えられなければ、また傷状態に逆戻りです」
お嬢様は伯爵様が患部に触れる前に、素早く薬草を変え、布をあて、また包帯でくるくると巻いてしまいました。この包帯姿を人々に見られる度、『歴戦の猛者たる悪魔伯爵にあれ程の傷を負わせるなど、相手は一体どんな怪物か』と噂されています。その怪物の正体が、こんなに可憐な女性である事は、一部の人間しか知りません。共にお見合いに来ていた部下は、堪え切れずに噴き出していました。
「さ、これで大丈夫です。また明日も薬草を替えますので、必ずお立ち寄りくださいね」
包帯を巻き終わり、伯爵の顔を満足げに眺めて一つ頷いたお嬢様に、伯爵は以前から溜めこんでいた疑問を、素直に口に出してみる事にしました。
「どうして君は、そうも私の世話を焼くのだ」
「あら。だって私はあなたの未来の妻ですもの。このくらいの事はさせて下さいな」
伯爵は、お嬢様のその言葉に驚いてしまいました。
「君は、この見合いを続けるつもりなのか?」
「そのつもりでしたが………申し訳ございません。何か私、粗相を致しましたでしょうか?出しゃばり過ぎているのは分かっているのですが、そのお顔を見ると放っておく事など出来ませんし………」
「いや、問題は君では無いだろう。私だ。顔に呪いを受け、君の倍ほどの体格の三十を過ぎた男だ。陛下により伯爵領こそ賜ったが、所詮は成り上がりに近い。君ならば、今からでも年も身分も近く、美しい夫を得る事も難しいことではないだろう」
すると、お嬢様は少しだけ不満そうに、けれど上品さを損なわない程度に唇を尖らせ、一点、伯爵の言葉を否定しました。
「あなたのお顔は、呪いではありません。ですから、それはけして結婚を躊躇う理由にはならないでしょう」
お嬢様の白魚のような手が、伯爵の手を取りました。剣の重さも固さも知らない少女の指は細く、少し力を込めれば折れてしまいそうでした。
「侯爵家の娘として生まれました。いずれ政略結婚をする事は、覚悟の上でございました。だから私は決めていたのです。どうせ、決められた結婚をするのならば、その決められた相手を、精一杯愛そうと。例えお相手がどんな御方であろうとも」
だからこんな、武骨で恐ろしい顔の自分でも構わないと言うのかと、伯爵はそう納得してお嬢様に目を向けました。侯爵家のお嬢様は、元々鋭い伯爵の目線にも臆することなく、愛らしい微笑みを浮かべます。
「だから、そんな政略結婚のお相手が、私の事を心から案じて下さるあなたであった事、とても幸福だと感じております」
絡められた指先に力を込められ、伯爵はどうやって顔を上げれば良いのか分からなくなってしまいました。
伯爵は侯爵家のお嬢様とお見合いをする際、『私の顔に怯え無い者である事』という条件を出しておりました。ふと、それならば相手の方、つまりはお嬢様にも何かしら条件があったはずでしょう。
この結婚は、伯爵家が侯爵家の金銭的な援助を申し出ているものの、貴族階級としては侯爵家の方が格上です。より多くの条件を突き付けられても文句は言えません。
側近の部下から『条件にも当てはまっているので安心してどうぞ』と言われてそのまま流してしまっていましたが、今更その条件とやらが気になってしまいました。
その為、また治療に赴いたそのとき、伯爵はその疑問をお嬢様にぶつけてみる事にしました。すると、お嬢様の返答は、何ともあっさりしたものだったのです。
「お兄様よりも背の高い方。私の条件はそれだけでした」
伯爵は思いきり首を傾げました。理解が及ばず、眉間に皺が寄るのを自覚します。何故、よりによってそんな微妙な所にこだわりを持っているのか。
「私のお兄様はそれはそれは背の高いお方で、私はよく小さいと馬鹿にされたものですわ」
残念そうに自身の頭頂部に手を乗せるお嬢様を眺めながら、伯爵は彼女の兄を思い出していました。確かに背の高い人物でした。伯爵ほどではありませんが、小柄なお嬢様の兄とは思えない程に。同時に、伯爵に対して怯えきった様子を見せていた事も思い出し、少し暗い気持ちになりました。
「もうお兄様に馬鹿にされない為に、背の高い旦那様に抱っこして頂いて見下ろしてみよう、と考えたのです。ねえ、私を抱っこして下さいます?」
伯爵は返答に窮して黙り込みます。そんな伯爵に不満を呈す事も無く、お嬢様はくすくすと上品に笑い声を上げました。
「…………君は、結婚する相手を愛すると決めていたと言っていた。そんな事で、愛が生まれるとでも思っていたのか」
悔し紛れのように、伯爵はそう言いました。奔放なところのあるお嬢様は掴み所がなく、どうにもいつも丸めこまれてしまうのです。思えば、顔の治療をお嬢様にまかせるようになったのも、熱心なお嬢様に根負けしたからでした。
「あらあら」
お嬢様は何度か目をまたたかせました。
「あなたは私より随分年上でいらっしゃいますのに、可愛らしい事をおっしゃいますのね」
伯爵は、その言葉に馬鹿にされたように感じました。同時に、こんな悪魔のような見た目をしていながら『愛』について語った自身の滑稽さを恥じました。
「愛は生まれるものではなく、共に育むものですよ。自ら歩み寄り、貴方がそれを受け入れてくれたなら、そこで始めて幸福が生まれるのです」
しかし、お嬢様はそんな伯爵をけして笑う事無く、そんな事を口にしました。そしてその爪先まで美しい手を伯爵へ向けます。伯爵は、お嬢様から向けられる言葉に大いに動揺し、何も考えられないままその手を掴みました。
「幸せですわね」
お嬢様は、その言葉の通り、心から幸福そうに微笑んだのでした。
伯爵には分かりません。可憐な少女が笑ってくれる理由も何もかも。悪魔と噂される伯爵には『愛』も『幸福』も遠い世界のものでした。それが、お嬢様といるとまるですぐそばにあるかのように錯覚してしまいそうになるのです。
伯爵には、何とも答えようがありませんでした。
伯爵は、それはもう、恐ろしい見た目の伯爵でした。熊のように屈強で高い背、鍛え上げられた筋肉、包帯の隙間から覗く鋭い眼光は、見る者全てを射殺さんとするようでした。その恐ろしさと言えば、童話に出て来る怪物そのものでした。
対して、お嬢様は花の妖精のように可憐な姫君。容易く折れてしまいそうな華奢な四肢に、それに見合う小さな顔。長い髪は絹のようで、ぱっちりと大きな目が庇護欲をそそります。その愛くるしさと言えば、童話に出て来るお姫様そのものでした。
そんな二人が婚約したのです。あからさまな政略結婚に眉を顰める者も少なくはなく、獰猛な獣に囚われた憐れな姫君としてお嬢様に同情を寄せました。
しかし、実際はどうした事でしょう。
常に睨んでいるようだ、と言われる目で見つめてもお嬢様はにこにことするばかり。大きな身体で隣に立っても怯える事は無く、顔の手当の痛みで唸り声を上げれば、当然のようにそれを心配しました。
「君は私が恐ろしくはないのか?」
戸惑う伯爵の問い掛けに、お嬢様は花のように笑いました。
「あなた、かぶれ以外にも、お顔に傷がありますわ。全て、戦場でついた傷ですね。顔にも、腕にも、足にも、胴にも」
「これでも悪魔伯爵と呼ばれているが、怪我くらいはする」
戦の傷は誇りであるが、傷を付けられた油断や弱さは少し恥ずかしく思いました。何故か、目の前のお嬢様に対すると余計に。強がってそう言えば、お嬢様はくすくすと笑い声を上げました。
「あなた、転び掛けた子どもが事無きを得るのを見掛けると、安堵の表情を見せますわね。だから分かるのです。あなたのその傷は悪魔伯爵の栄光ではなく、人を想う心が形になったものと」
お嬢様は躊躇う事無く伯爵へ身を寄せました。たじろぐ伯爵の腕に手を添えて、その動きを制し、剥き出しの腕の傷に唇を寄せます。
「私はそれを、とても愛しく思うのです」
まだ治り切っていないその傷に、彼女の唇がピリリ、と沁みました。
それはそれは恐ろしい顔をした悪魔伯爵でしたが、その根っこの性格は憶病そのものでした。いいえ、いざ戦場となれば誰よりも勇敢なのですが、私生活、それも女性関係に関しては奥手過ぎて側近の青年が腹を抱えて笑う程でした。
これまでは、その憶病な性格でも受け入れられるだけの武勇伝がありました。恐れ距離を置かれる事も、彼の勇猛の証とさえ言えました。
けれど、お嬢様の熱心な治療の甲斐あって、少しずつ晒されていく伯爵のお顔は、どうした事でしょう。けして、けして悪魔なのでは無く、象牙の肌に鳶色の目をした、普通の人間でした。
そうなれば、伯爵も活躍の場を戦場だけに止める訳にはいきません。人々の伯爵へ向ける感情が畏敬から尊敬へと変わると、途端に社交の場にも呼ばれるようになったのです。
それが、面白くないのはお嬢様でした。
「どこか、変な所はないだろうか?」
人らしい肌を取り戻しつつある伯爵の困った表情は、お嬢様以外から見てもただの人でした。その目付きは変わらず鋭く、背はずんぐりと高いのですが、恐れるにはあまりにその表情が情けないのです。
生まれ持った顔つきの凶悪さはともかくとして、その凶悪さが『人間』の範囲であったならば、彼に近付きたいと望む人間は数多くいました。
何せ、伯爵は陛下の信頼も篤く、歴戦の英雄であり、一代で伯爵領を手にしたつわもの。最早、その怖いお顔に怯える者の方が少ないくらいでした。
「いいえ、とても素敵ですわ」
金策に追われる侯爵令嬢を押しのけようとする御令嬢方が出て来るくらいには、お嬢様がそんな言葉を呑み込んだ事も露知らず、伯爵は珍しく目元を和らげました。
「君のお陰だ」
「何がでしょう?」
「君のお陰で、私のこれが呪いではなく、薬で治る病であると知る事が出来た。あの兜を君が脱がせてくれた」
お嬢様はあっさりと首を横に振りました。
「珍しい病です。我が侯爵領では将来有望な医者に投資を行っています。その関係で、偶然聞き知っただけですわ」
天真爛漫で、強引で明朗なお嬢様。そんな彼女が、こういうときだけ少しだけ素直ではないと言う事を、すでに伯爵は知っていました。厳しく伯爵を諌めながらも、治療する手はいつだって優しかったのですから。
「君のお陰だ」
お嬢様は、少しだけ困ったように眉尻を下げました。
伯爵にとって、お嬢様は大恩人でした。
お嬢様のおかげで長年悩まされてきた顔のただれの原因を知る事が出来ました。お嬢様のお陰で人前に晒せるほどそのただれも改善されました。お嬢様のお陰で、温かな風が頬を撫でる感触を知る事が出来たのです。
伯爵は、お嬢様に感謝しています。だからこそ、考えました。お嬢様は、本当に好きな人と愛し合って結婚するべきだと。
その為に借金が邪魔だと言うのなら、いくらでもお金を出しましょう。伯爵はお金に執着がなく、この顔を治してくれた礼を思えば、いくら積んでも惜しくないと思えました。
だからこそ、伯爵はお嬢様のお父様、つまりは侯爵にこの縁談の破談を申し入れました。しかし、何故か渋る侯爵と辛抱強く話し合っていると、そこへお嬢様が飛び込んで来たのです。
「婚約破棄とは、一体どういう事ですの!?」
血相を変えて現われたお嬢様は、伯爵に掴みかからん勢いで問いただしました。淑女としての振る舞いなど、構っている余裕もありません。
伯爵はてっきり喜んでくれると思っていたばかりに、お嬢様のその様子に驚きを隠せません。
「君は、とても魅力的な女性だ。借金さえなくなれば、いくらでも君の事を愛してくれる男性が現われるだろう」
「他の方の話はしておりません!私は、あなたの意見を聞きたいのです」
伯爵の意見。伯爵はそう言われて困ってしまいました。伯爵は、お嬢様をとても魅力的な女性だと感じています。明朗で聡明な性格、美しい容貌、心根の純粋さ。だからこそ、お嬢様は誰よりも幸せになるべきだと考えていますし、その為には自身よりも余程相応しい相手がいると思うのです。
「私の心に耳を傾けて下さるのならば、」
伯爵は、今胸の中に湧きあがる感情を正直にお嬢様へ告げました。
「どうぞ、幸せになって下さい」
お嬢様は目を見開いて驚きを示すと、その身を震わせました。唇を開き掛け、しかし何かを発する前に頑なに閉じると、強く伯爵を睨んで突き飛ばしました。
伯爵は、なびくお嬢様の髪に手を伸ばしてしまいそうになる自身を何とか制し、その背を見送ったのでした。
結局、二人の婚約については一時保留という事になりました。その直後に行われた夜会でも、一応まだ婚約者同士、という事でパートナーとして参加しましたが、一曲だけ踊ると二人は自然と距離を取ってしまいました。
見目麗しいお嬢様はすぐに同じ年頃の男性に囲まれ、伯爵も歴戦の武功を称える者や顔の変化に驚きを隠せない者など、多くの者に囲まれました。その中には女性の姿も幾人か見えましたが、どちらかと言うと物珍しそうな目を向ける者ばかりでした。
伯爵は多くの者と会話を交わしながらも、自然とお嬢様の方へ意識を向けていました。一体お嬢様が選ぶのは、どんな男性だろうか?小柄なお嬢様が男性ばかりにあんな風に囲まれて恐ろしくはないだろうか?自身の顔を恐れず治療に取りかかったお嬢様ならば、平然としているかもしれない。気付けば、そんな風にお嬢様の事ばかりを考えてしまうのです。
そんな中で、一際美貌の青年が、お嬢様の手を取りました。お嬢様は戸惑いがちの様子で一度は躊躇ったものの、失礼ではない程度に強引にダンスの輪の中へ導かれていこうとしています。
伯爵は思わずそちらへ駆け出してしまいそうになりました。しかし、すぐにその理由を見付けられず、足踏みします。伯爵が願った通り、美しいお嬢様に相応しい青年がそのほっそりとした手を引いているのに。きっと彼との間にならば、素晴らしい愛が、生まれるのに。
そう考えて、伯爵はようやく自身の間違いに気付きました。きちんと、お嬢様は言っていたのに。伯爵はそれを、今頃思い出したのです。
『愛は生まれるものではなく、共に育むものと』
そして、伯爵の腕に触れたお嬢様は幸せだと言ってくれました。それこそがお嬢様の言う、『育む』という事だったのでしょう。
伯爵はなりふり構わず、自身に話しかける人達の輪を強引に抜け出して、青年に手を引かれるお嬢様の前を目指しました。
突然割り込んで来た伯爵に、青年はもちろんの事、お嬢様も目を丸くして伯爵を見上げました。伯爵はその場に膝をつくと、ようやくお嬢様と目線の位置が近付きます。
伯爵は、膝を付いたまま、恭しく右手をお嬢様へ向けました。
「私と結婚して下さいませんか?」
お嬢様が、その大きな目を更に大きくさせてきょとんとしたのは、一瞬の事でした。徐々に頬を赤く染め、お嬢様は満面の笑みを浮かべました。
「もちろんですわ、私の旦那様」
お嬢様のほっそりとした手が、伯爵の大きな手にそっと重ねられました。こうして、二人はようやく想いを通じ合わせる事が出来たのでした。
顔の爛れがなくなったとは言っても、元々の顔つきの凶悪さと熊のような体格が変わるはずもなく、周囲からは『美女と悪魔』などと揶揄されました。その度に伯爵はほんのちょっぴり落ち込んでしまうのですが、お嬢様に『ええ、愛しの悪魔さんですの』と堂々と言い返されてしまえば、何とも温かいものが胸の内に広がるのです。
その後も伯爵の戦場での活躍は衰えるどころか、ますますの戦果を上げ、その名は更に有名になっていきました。やはりあの方は悪魔なのだと、囁く者も未だにいます。
けれど、多くの方が伯爵の本来の姿を知っていました。ご夫人やご家族を見つめるその目は、何よりも慈愛に満ちていたのですから。
やがて、そんな悪魔伯爵をモチーフにこんな唄が歌われるようになりました。
勇猛果敢な悪魔伯爵。誰より残忍な悪魔伯爵。
悪魔伯爵はあるとき地上の天使に恋をして
自ら黒い翼を切り落とした。
武勇はそのままに、かつての悪魔伯爵は
地上の天使と末長く幸せに暮らしましたとさ。
めでたし、めでたし。
読んで頂き、ありがとうございました。
コメディの予定だった当初からは随分、単調なお話になりましたが、これはこれでよかったかと思います。
悪魔伯爵は今後も尻に敷かれる事でしょう。