Android,ver,Q(第三回創元SF短編賞落選作品)
またもや落選作ですみません
寒さの消えた日曜日の夜、斉藤はかれこれ小一時間ほど、パソコンの画面の前で苦悩していた。
「うーん・・・何か取りやすい授業ないかね・・・」
フィルターに甘噛みの後が残るタバコを消しながら、シラバスを開いては閉じるを繰り返す。
既に四回生の春。単位はいろいろ勘案しても残り二単位は必要で、ここまでに取りやすいと評される講義は軒並み取得してしまっていた分、そのツケがここに回ってきてしまっていた。
月曜日から土曜日の五限まで一通り睥睨するも、「楽をしたい」という琴線に触れるような授業は見当たらない。斉藤は、時間割予定表が表示された画面から一度目を離して首を回した。
「全く・・・どうしたもんか・・・」
当然、散らかった一人暮らしの男の部屋では何を言おうがただの空言扱いである。斉藤は中座しようかと思ったが、その時まだ見ていなかった六限の項目が目に留まり、何気なく月曜日の六限のボタンをクリックした。
基本的に斉藤の通っている大学では、専門科目は遅くとも五限までというのが通例なため、それ以降は完全にノーマークではあった。普段ならお世話になることのない時間帯だが、今の斉藤には一縷の望みが隠匿されているかもしれないと思えた。それほど斉藤は、良く言えばありふれた大学生、悪く言えば勉学の向上心の欠片もない男だった。
展開されたページを見ると、やはり講義数はそれ以前のコマに比べ段違いに少なく、三つしかなかった。やっぱりなと呟いた斉藤だったが、よく見るととある講義の分類が「専門科目」となっていることに気付いた。
「おおっ。マジかよ。こんな時間帯に・・・って何だこの講義?」
無理もない。その授業の名前が「哲学上の恐怖における螺旋状の連関について」という、筆舌尽くしがたいものであったから。
斉藤はここまでしてきたように、反射的にシラバスのページを開いた。もちろん漠然とした違和感を禁じえてはいなかったが、それが逆に単なる一学生のごくごく稚拙な好奇心をくすぐるのにはむしろ好都合であった。またそれには、元々ホラー映画や小説を好む性格も多少なりとも影響していた。
シラバスにはこのような説明が記述されていた。
『本講義では、哲学上から恐怖を螺旋状及び多元的に連関させ、双方を幾何学的並びに論理的に考察することにより、我々の社会や規範について、ひいては個々人に如何様な効果を齎しているかを矮小でも解明していくことを目的とする。体と脳のみを持ってきて頂ければそれで良い。君達学生が、教典と成り得る』
斉藤の語彙では、この文章を解読するのに辞書の助力が不可欠だったが、それでもなお、今一つ想像ができないでいた。
「何だよ螺旋状とか幾何学的とか・・・要はいろいろ考えるってことか?それに何でこんな得体の知れない講義が専門科目なんだ・・・?」
疑問符だらけの斉藤の耳に、聞き慣れたバイブ音が届く。携帯を開くと、画面には「長瀬友義」と表示されていた。
斉藤はメールを読んだ後、何かを思いついたような笑みを浮かべ、返信した。
「やあ」
一足先に校舎の出入口に到着し、タバコをふかしていた斉藤の処に長瀬が来たのは約束の時間より少し遅れていた。
「おう。何か付き合わせたみたいですまんな」
「僕も単位ちょっと足りないし別にいいよ。ただちょっと怖いの苦手なんだよな・・・」
「まあ大学の講義でそんな大それたホラーなんて取り扱わないとは思うがなあ・・・」
備え付けられた灰皿にタバコを投げ入れ、二人は五階の教室へ向かった。
斉藤にとって長瀬は入学以来の友人である。大学と言う囲いは、能動的に行動しなければ人間関係を広げるのは困難を極めるのだが、この二人の場合はたまたま入学式の際長瀬から話しかけたことで関係が成立された。極度な人見知りかつ他人に興味を持たない斉藤からするとそれは誤算であり、一方で僥倖でもあった。人当たりが良く、小柄で童顔な顔付きの長瀬に、懐疑心の権化である斉藤が危険な兆候を認められなかったことも一因であるのかもしれない。
教室に入り腕時計を見ると講義開始の二分前だった。斉藤がざっと見渡す限り、二百人ほど座れそうな教室に、二人以外には三人ほどが各々居心地の良い席に座っているのが視認できた。二人は中央の少し後方辺りに陣取ることにした。
「あっ、その時計買ったの?」
「ああ…バイト代が思ったより多くて奮発しちまった。おかげで逆に金欠になったけどな」
「まさに本末転倒だね」
斉藤にはそれほど大きな声で話していたわけでもないが、人が少ない分余計に反響して聞こえたように思えた。他の受講生は全員単身のようだった。
この後飯でも行こうと誘いをかける前に、チャイムが鳴り、それと同時にこの講義の酔狂な題名を付けた教授が示し合わせたかのように入室してきた。人が多ければそのまま雑談を続けるのが昨今の大学生だが、流石にこの状況だと目立つので自然と二人も会話を止め教授の動向をそれとなく注視した。
教授は紙束らしきものを机に置くと、マイクを取り出し自己紹介から始めた。
「えー、私は轟と言う者だ。専攻はまた相違されるものなのでこの学部の人間ではないが、今回多少無理を言って講義の時間を取らせて頂いた。私的な計画だとこの講義は全学部にてやる予定であり、今期はここでやることになった。半期ながらお付き合いよろしく賜る」
殊更に固い口調かつ低い声を聞きながら、斉藤は轟と名乗った教授は、白髪が目立ち眼鏡が多少神経質そうな風貌を助長しているようであり、年齢は四十か五十か。身長はそこまででもないという印象を持った。
「さてこの講義だが、概要はシラバスに記述した通りだ。恐怖を哲学的に解釈していくことに注力していく。今日は初回だから、映像を用いた簡単なアンケートのみで終了したい」
そう言うと轟はプロジェクターの電源を入れ、アンケート用紙のようなものを配布し始めた。若干後ろに座っていた二人は、長瀬が貰いにいくことで轟の手間を省いた。
用紙は白紙だった。
「なあ…なんだこれ」
「わからないよ。とりあえず何か書くんだろうね」
裏表を確認しながら、斉藤の問いに長瀬は答えた。
配布を終えた轟は、教卓に戻り説明を始めた。
「今配布した白紙の紙に、どこでもいいので学籍番号と氏名を記入して頂きたい。そして今から行うアンケートだが……」
そこまで説明した轟は、おもむろに背を向け黒板に何かを書き始めた。
『ナンバリングされた映像の中で恐怖を感じたものを記述し、その理由を述べよ』
長瀬は眉間に皺を寄せながら囁いた。「ねえ、これってどういうこと?」
「わかんねえ。何かでも変な画像とか出てきそうだな」
「うわあ……怖いの嫌なのに……」
両手で顔を覆い隠しながら長瀬は愚痴を口にした。一方の斉藤も、長瀬に比べれば耐性があるとは言え、何が再生されるか分からない映像に一抹の不安を覚えていた。
「質問はこのひとつだけだ。では今から上映する。番号は右端に書かれている」
轟が照明を落とし、リモコンを操作すると上映が始まった。
まず映し出されたものはイボが目立つ茶色の「蛙」だった。斉藤は腑抜けし緊張の糸が緩む。これの何が怖いのかと思いふと長瀬の顔を見ると、ひどく顔を顰めていたのでむしろそちらに驚いた。そう言えば以前、帰宅しようと二人で駅まで向かう途中に、道端に蛙の屍骸を見てこいつはひどく気味悪がっていたかと斉藤は述懐した。
数秒間の内、次の画像に切り替わる。「②」と付されたその画像は、どこにでも売っていそうな「鉛筆」だった。またしても斉藤には特段の感情を与える画像ではなく、ある種の消沈をせざるを得なかった。
その後もテンポ良く画像が映し出される。「茶封筒」「電源の切れたテレビ」「貨物列車」「誰も乗っていないエレベーター」「魚の切り身」などの一見して何も感じられないものから、「壁に付いた血痕」「水死体」「ナイフを持った髪の長い女」「こちらを睨む青白い顔」と言った一般的に「怖い」と思われるものまで多種多様な画像が、薄暗い教室に瞬いては消えていった。
最後に「紫の林檎」が映し出されて、上映は終了した。
「これで終わりだ。書き終わった人から提出して帰って良い」
斉藤は別段どれもそこまで怖いとは思わなかったが、白紙のままで提出するのは憚れたので、とりあえず適当に二つほど書いておいた。理由も「不気味だったから」というようなありふれたものしか思い浮かばなかったため、暇になった斉藤は長瀬に話しかけようとしたところ、何やら熱心に机に向かう姿を目撃し、何故だかげんなりとした気分になった。
携帯を弄りながら長瀬が書き終わるのを待って、二人は鞄を持って提出しに行った。
受け取った轟は、斉藤が記述した用紙にはさしたる興味を見せなかったが、長瀬のほうには若干の笑みを浮かべた。斉藤はその表情に所謂「狂気の科学者」を連想し、先ほどの映像よりもこちらのほうに恐怖を感じた。
退室した後、口火を切ったのは長瀬だった。
「ねえ、何個書いた?」
「二つ」
「それだけ?僕十三個も書いちゃったよ……」
「はぁ?そんなにあったか?」
「うん……。『茶封筒』とか……」
斉藤はその例示に、一瞬言葉を失った。
「ええっ?『茶封筒』のどこが怖いんだよ?」
「いやなんかさ…中から何か出てきそうな感じがしてつい…」
「なんじゃそりゃ。出てくるとして金とか手紙とかそんなもんだろうに」
「確かにそうなんだけどさ…斉藤くんは何を怖いって書いたの?」
「俺か?確か……」その時斉藤は携帯が左ポケットで僅かに振動しているのを感じ、すまんと一言侘びを入れ電話に出た。
「あーわかった今から行くわ」
「友達?」
「そう。悪い今日はこの辺で。さっきの講義取るよな?」
「えっ……うんまあ他に取るのないし取るよ……」
「分かった。また来週な!」
じゃあねと言う別れの挨拶を背中で受けて、斉藤は大学から程近いサークルの友人が待つ居酒屋へと向かった。
斉藤が帰宅したのは午前二時過ぎであった。
適度に酒を愉しみ、気分の良かった斉藤はいつもの習慣でパソコンの電源を付ける。スリープモードにしていたので、ものの数秒で息を吹き返した。
帰り道自販機で購入した缶コーヒーを飲みながら、暫くは適当にネットを閲覧していたのだが、ふと轟のことを思い出し、ブックマークから大学のホームページに接続した。
酒の席にて、自分と同じく怠惰な学生であるサークルの友人に今日の講義や轟自身のことについて聞いてみたが、有益な情報はおろか、存在自体知らないという返答しかなかった。それを聞いて斉藤は、どうやら開始時間も遅いし何より不気味だからあまり知られていないのだろうと思った。
データベースから教授名を入力し検索すると、一名のみ結果に表示された。迷わずクリックすると、詳細が書かれたページが展開される。
「轟珠樹……。歳は四十五で……。あれ?てっきり文学部の教授かと思ったけど工学部の教授なのか……。専門はロボット工学……ふーん。全然違う分野だと思うけど、やはり教授って言うのは凄いわ」
仰々しい独り言を呟いて、一気に缶コーヒーを飲み干した斉藤は、不意の眠気を我慢することなくパソコンの電源を落としベッドに潜り込んだ。もう少し起きていようと思ってコーヒーを選んだのにこれでは本末転倒だと思いながら。
一週間後、二人は同じように玄関で集合してから、教室へ向かった。
「今日から本格的な講義開始か……何やるのかいまいちわかんねえな」
「そうだね。でもあのアンケートはまたやるって言ってたよね」
「そう言えば……。まあ何も言ってなかったけど、出席替わりの余興みたいなもんだろ」
「あーあ、嫌だなあ……」
二人はありがちな学生の文句を口にしながら、先週と似たような位置の席に座る。他の学生もまるでデジャヴのように座っているが、よく見ると一人少ないことに斉藤は気付いた。しかし大学では欠席など取るに足らないことではあるし、あの奇天烈なアンケートで受講する気をなくした可能性のほうが高そうだと予想した。
轟はチャイムと鳴ると同じく入室し、教卓に資料を置いた後マイクを持ち話し始める。
「お集まり頂き有難く思う。結局受講生は五人となったが、今日は一人欠席みたいだ」
その言葉に斉藤は予想が外れたことを実感した。
「さて、前回取ったアンケートだが、これは今日の講義の中で説明に連関させていく。また今日も講義の最後に同じアンケートを取るので、ご協力賜りたい。それでは講義に入る」
淡々とした物言いで轟は前説を終え、早速黒板に見慣れない単語を書き出した。
「『クオリア』この用語をご存知の方は挙手してもらいたい」
轟は指差しながら問いかけたが、六人は全員無反応を貫いた。長瀬は「知ってる?」と小声で斉藤に問いかけるも、斉藤は無言で首を横に振った。
「無理もないか。この用語は主に哲学で使用されるもので、日本語に訳せば『感覚質』と言える概念だ」
「なんだそりゃ……」斉藤は思わず独り言を漏らした。長瀬もつられて同意の首振りを見せる。
「詳しく説明しよう。クオリアとは、代表的な例示を借用すれば、内観に限定された「赤い林檎のあの感じ」の「感じ」もしくは「イメージ」を意味する用語だ。即ち、私達が森羅万象に抱く印象や感情そのものを表現する時にクオリアは用いられる。理解しがたい人は、今自分が持っているものの色を今一度認識してもらいたい。それがクオリアだ」
斉藤は、ペンケースの中にあった青のボールペンを取り出し、ルーズリーフに自分の名前を書いてみた。青く正常に書かれたそれを今までで一番強く意識して眺めてみたが、轟の言う「クオリア」をこれで実感できているのかどうかはよく分からなかった。
「心配は要らない。付け焼刃でこの概念を理解することは難儀であるのだから。もっと噛み砕いて言えば「赤い感じ」と言うことであり、またこれは俗な表現をすれば『うきうき』や『イライラ』などを包括した用語でもある。最も、言語で説明し難いところにこの概念の奥深さがあるわけだが」
斉藤にはむしろ「うきうき」や「イライラ」が俗な表現という意味の方がよくわからなかった。
轟は向かって左側に大きく移動しながら、説明を続ける。
「クオリアについて本格的な理論展開をする前に、まず我々が持つ『意識』というものから少し考えてみよう。意識とはそもそも何なのか、君たちは思考したことがあるか?一般的な生活を送っていれば、恐らく皆無であろう。意識とは単純な命題なようでいて、実際はこれほど難解な概念はそう多くない。しかし残念ながらここで意識について仔細に語ってしまうと、私の予定している講義計画に修正の必要が出てくるので、端的に申し上げると少なくとも本講義で扱う意識は、『ある事象Xについて思考やイメージを形成できる状態および能力』としておく」
新品のチョークで、轟は今しがた口にした定義を黒板に書いた。受講生は反射的にその文章をルーズリーフに書き写す。
「もちろん、医学や心理学の分野ではまた違った解釈がなされているし、哲学においても私が申したこの定義が使用されているわけではないが、ただクオリアと連関させる際には、この程度の認識で良い。さて今君たちは私が書いた文章を書き写したと思うが、それを意識的に行った人は挙手をしてほしい」
またもや受講生は無反応の応酬であった。既に長瀬は机に伏せてしまっていたが、斉藤は思いの他轟の話に魅せられていた。
「いないか……。それはそれで残念だが、昨今の大学生であれば仕方がないのかもしれない。閑話休題、話を戻すと今君たちが行ったことは単なる反射のようなものでしかない。つまり私が何かしら黒板に書いたので、君たちは書き写したというこの一連の現象は、脳の電気的反応によるものであるということだ」
斉藤は自分が今しがた書き写した意識の定義を見ながら、分かったような分からないような気持ちで早くも混乱しかかっていた。そして今まで生半可な態度で講義を受けていたのを少しばかり悔やんだ。
「そして、そのような反射とも捉えられる事象からもクオリアは発生する。このようなことを『意識のハード・プロブレム』と哲学では呼称している。先ほどの例示を今一度取り上げれば、私が板書したことを君たちは視認してそれが脳への刺激となり、その処理結果が書き写すという行動に帰結した。このような刺激から来る人間の反応のことを『機能的意識』というが、それを説明することは容易い。要は刺激と反応を列挙して検討すれば良いからだ。だがクオリアとほぼ同義語である『現象的意識』はそうもいかない。例えばこの中に『試験に出そうなあの感じ』というクオリアを抱いた人がいたとして、それが機能的意識に必ず発現されるかというと、必ずしもそうではない。クオリアが主観的な生成理由に依拠しているが故に、当人以外にそれを観測する術が現在のところ存在しないことが、現象的意識の解明の大きな障害となっている。」
黒板に用語を追加した轟はマイクを置き、白紙の紙を持って配り始めた。
長瀬が伏したままだったので、斉藤が取りに行き、ついでに長瀬を起こした。
「おい……。多分今からアンケートやるみたいだぞ」
「えっああごめん寝てたみたい」
「今日の説明は以上だ」教卓に戻った轟はそう言った。「あまり長丁場になると、君たちの理解が懸念されるので短めにやるつもりだ。残りの時間は恐怖に関係する資料映像の観賞とアンケートに用いる。クオリアを意識しながら見て欲しい」
今日は言語による恐怖の表現方法の映像だと前置きした轟は、プロジェクターを展開させデッキの電源を入れた。斉藤はどのような映像が流れるのかと思っていると、夏になると途端にテレビでよく見かける怪談話が得意なあのタレントの映像が再生され始め、講義とのギャップについ頬杖の力が抜けてしまった。そうは言っても、斉藤はホラー好きとしてはこの人のことも好意的に受け止めていたため、特に退屈することもなく観賞した。一方の長瀬はアンケートでないと知るや否や再び伏せてしまっていた。
約三十分ほどの上映が終わった後、前回と同じようなアンケートを取らされ、講義は終了した。斉藤にはスライドされた画像は全て入れ替わっていたように思えたが、ただ最後の画像だけは同じだったような気がしていた。そして長瀬が再び大量に記入していたことも頭の隅に逆剥けのように捲れて残った。
「いやあ、今日のは何か分かったような分からんかったような感じだったわ」
「うん…というか僕は途中で寝てしまったんだけどね」
「まああの内容じゃ仕方ねえよな。よし飯でも行くか!」
「そうだね」
二人はすっかり日も落ちた道を歩いていった。
翌日の昼下がり、斉藤はゼミでの発表に備え、図書館にて資料作りに勤しんでいた。
何冊かの専門書に囲まれると、それだけで自然に気が滅入ってしまい、なかなか集中力が続かない。斉藤は大きく伸びをすると、気晴らしに本棚を眺めようと立ち上がった。
元来本好きでもあった斉藤は、中学生の頃から小説を読むことを趣味のひとつにしていた。だが斉藤の通う大学の図書館は広大ではあったが、専ら専門書の類が幅を利かせていて、そのような本はほぼないと言っていいほどであった。利用者はテスト期間ではなくともそれなりにはいるが、その目的の大抵は斉藤のような発表のための資料作りか、資格や就職活動に対する個人的な勉強かの二つに大別されている。
当てもなく、ぶらぶらと本棚を一通り眺めては移動して、散歩も兼ねた気晴らしを行う。歴史学、文学、法学の棚を順繰りに渡り歩くも、これといって興味を引くような本は見当たらない。哲学の棚まできて、そろそろ再開しようかと決心した斉藤の目に、ある本が映った。
「ん?これはあの講義の……」
『クオリア入門』と書かれたその本は、斉藤を誘引するのに十分な効力を発揮していた。そのまま手に取ると、席に戻り目次を見て該当していると思われる頁から読み始めた。斉藤はあの講義の難解さと不気味さに一定の不安を拭いきれないままであったが、一方で大学生になってから恐らく初めてかもしれない学術的興味を俄かに抱き始めていた。幸い、この講義の単位を落としたとしても、予備の講義のどれかひとつでも取得できれば卒業の心配はなくなる。そのことが、四年目にして漸く勉学に目を向けさせるひとつの要因になったことをこの時点で斉藤は自覚していたが、それとは別の禍々しい妖しさの予感にも感化されていることはまだ知らなかった。
「ところで、あの講義あんまり面白くないんだけど」
少し早く集合した二人は、校舎内のカフェテラスで雑談を交わしていた。
「えっ?何で?」
「なんでって……よくわからないんだもの。クオリアとか意識とか。この前は寝てたけど、後でルーズリーフ見たら現象的意識とか機能的意識とか、知らない内に書いてあって何のことかさっぱりだし……」
「まあ確かに難しいよな。だから俺はちょっと自習してみたんだ」
斉藤は偶然の産物であったことは隠して、事の顛末を長瀬に話した。
「ふーん。斉藤くんってそんなに勉強熱心な人だったっけ?」
「いや……。ほらでも殆ど単位の心配しなくてよくなったからさ、興味本位で講義を聞けるようになったことが功を奏したというか……」
しどろもどろに説明する斉藤に、長瀬は薄い微笑で答えた。
「だったら、さっき僕が言った現象的意識と機能的意識の違い分かるの?」
「えっとあれだ、機能的意識はある刺激が脳に入力されて、処理された結果が主に身体行動として出力されることで……。現象的意識は何ていうかその中間というか……。身体には直接出ないけど、脳で感じるあの感じだよ!ああもうわかんねえ!」
「勉強の甲斐はあまりなかったようだね」長瀬はくすくすと笑いを漏らした。
「うるせえ。もうすぐ始まるし講義行くぞ」悔しさと恥ずかしさを滲ませながら、斉藤は鞄を持って立ち上がった。
「今日は人間以外の生物やロボットもといアンドロイド、そして哲学的ゾンビについて説明する」
開始早々、斉藤は重いボディーブローを食らったような気分になった。ただのゾンビならそれなりに知っているつもりだが、頭に哲学的と文句が付けば話は別である。これはまた復習の必要が出たなと思った。
「まずは昆虫だ。昆虫にも脳は存在するが、構造の違いから言って、我々のような複雑なニューロンネットワークを形成してはいない。故に彼らの行動様式は完全に単純な反射に支配されていると考えられている。例を挙げれば、光に群がる、餌があれば食べるなどということだ。一元的な論理により命を紡いでいるだけで、そこに意識の機能もクオリアも全く存在していない。それについては、もし存在するならば、一匹一匹に行動の差異が発生するはずだが、それが確認できないことが一番の理由として提示されている。あまり昆虫などに思いを馳せても仕方がないので、これぐらいでいいだろう」
ルーズリーフに必死にメモを取っていた斉藤は、少し拍子抜けしてしまった。ただ、昆虫にクオリアがないのは何となく想像できた。最も、昆虫は単純そうだからというのがその原因ではあったが。
「次に鳥について説明する。結論から言うと鳥がクオリアを持っているかどうかは定かではない。例えば鳥の視覚は主に中脳の上丘にある丘体系視覚経路により処理されるが、この中脳の部分は人間に置き換えると、瞳孔の収縮やピントを合わせるなどの単なる無意識下の反射を扱う部分である。そこから考えるに、鳥は視覚のクオリアを持たず単なる反射で行動していることが、我々には『ものが見えている』ように見えるだけなのかもしれないという推論が一定以上常に成立する。限定的に展開すれば、鳥の中脳はあくまで機能的で現象的ではないということが言える。」
長瀬は昆虫の時点で伏せてしまっていた。講義当初は自分も迎合しようかとさえ思っていた斉藤だったが、ここに来て少しずつ分かってきたような予感がしていたので、むしろ勿体無いなと思い直すようになっていた。
「全ての動物について語ることは膨大な時間がかかるため、鳥のみとさせて頂く。そしてロボットだが……」そう言うと轟は一呼吸置いた。
「ロボットの現象的意識の生成は非常に困難を極めている。そもそも現象的意識の構造や生成要因が解明されてない故に、作成方法も同時に不明である。ただし機能的意識の方は既に一部に実装されていて、これは今までにも何度か触れたように、刺激と反応の関係をある程度作成者がプログラミングしておけば、その通りの行動を行うことができることがその証明となる。このことは感情表現を呈するロボットにも適応される。ただ、そこに現象的意識があるかというとそうではないが……」
斉藤は初めて、轟に人間らしい感情を認めた。しかしそれは見方によって落胆のようであり、恍惚のようでもある混濁した感情ではあった。
「受講生もたった四……いや今日は三人か、それだけなのでここで少し理解度を図るためにもこちらから質問をしたい。そこの帽子を被った君」
「えっあっはい」指名されたであろう出入り口に近い席に座っていたいかにも遊んでいるような金髪の男は、突然の注目に動揺しているようだった。
「君はロボットもといアンドロイドに人間とほぼ同一の機能的意識が備わった場合、自律的に現象的意識、所謂クオリアだが、それを持つようになると思うかね?」
「それは…・・・。でも先生の話によれば、機能的意識があれば現象的意識も生まれるような気がしましたが……」
斉藤は自分の予想以上に指名された男が講義を聞いていたので、子供染みた苛立ちを感じてしまった。しかしそれは違うのではないかと仄かに思った。
「いや、それは私の説明が悪かったせいかもしれないが否定させて頂く。何故ならあくまで現段階の話ではあるが、ロボットは設計された回路による行動しかできない。先ほどの私の説明を反映させれば、未だに人間は機能的意識の部分しか再現できておらず、クオリアを生成するための回路を実装できていない。つまりロボットはむしろ鳥や昆虫のほうに近似しているわけだ。機能的意識が存在することが、クオリアの存在理由には連関されないことを君たちには理解していて欲しかったのだ。」
理解できただろうか、と轟が男に問うと、男は黙って首を縦に振った。
「しかし将来的には、映画や小説などに登場する人間と同じようなアンドロイドが作成されることは有り得ると個人的には予測している。ただしそれはあくまで機能的意識の複雑化を可能にする技術の進捗を勘案しただけであって、クオリアが実装されるところまでは私には想像できないが……。そのようなアンドロイドが誕生した時、人類は人工的な哲学的ゾンビと邂逅することになるだろう」
出た、と斉藤は思った。哲学的ゾンビとはどんなゾンビなのだろうかと妄想を膨らませる。
「ああ、順番が前後してしまった…最後に哲学的ゾンビだが、これは簡単に言えばクオリアがない人間のことを指す。九十年代にデイヴィッド・チャーマーズという哲学者による思考実験の名称として登場した。この用語は本来性質二元論から物理主義……唯物論といった方が理解しやすいか、を批判する際に使用される概念だが、本講義では哲学的ゾンビそのものについて少し考えてみたい」
妄想上のゾンビが抹殺された斉藤だったが、なるほどそういうことかと新たなゾンビ像を再構築できていた。そこにいつの間にか目覚めた長瀬が斉藤の服を引っ張った。
「ねえ……。アンケートまだ?」
「え?今日は話長いみたいだからまだみたい……」
「そこの黒ぶち眼鏡の君。ひとつ質問をしたい」
黒ぶち眼鏡君を自覚していた斉藤は、一応それとなく辺りを見回すという足掻きをしたが、無駄足に終わりはい、と心許なく返事をした。
「君は哲学的ゾンビが存在する、もしくは存在する可能性があると思うか?」
「えっ……」
斉藤は返答に窮した。
「それなら質問を変えよう。君は哲学的ゾンビか?」
「いや……違うと思います……」
「何故だ?」
「それは……『わくわく』とか『イライラ』も感じますし、他のクオリア的な感覚だって多分あると思うからです……」
「そうか。では少なくとも君は哲学的ゾンビではなく、ついでに言えば私も違う。君達はどうだ?」
長瀬と金髪の男は、違うと思いますと自信がないような声色で返事をした。
「何度か申し上げたように、現段階ではクオリアの保持確認は主観的な感覚による申告に依拠している。よって、私には今の君たちが本当に哲学的ゾンビではないという確証は厳密には獲得できていない。だが哲学者たちの信仰を引用すれば、彼らはほぼ哲学的ゾンビが存在するという判断を下してはいない。安直だが私もこれに迎合しているし、ここは君たちを全面的に信用して、少なくともこの教室内には哲学的ゾンビは存在せず、また全人類においてもその存在可能性ほぼ零であるということにさせて頂く。便宜上に近いものがあるが」
斉藤は自らが哲学的ゾンビである可能性について考えてみたのだが、やはり違うような気がした。それに、他人が哲学的ゾンビである想像も上手くできなかった。「わくわく」とか「イライラ」を感じない人間などいるのだろうか?と。
「さて、今日は多少話が過ぎたようだ。残りの時間は同じく恐怖に関連する映像とアンケートに使う」
今日の映像は数年前に大ヒットしたホラー映画だった。斉藤は既に何度か視聴したことがあったので、大して怖くはなかったが、長瀬は轟の眼が気になって寝ることもできず、怖そうなシーンが近づいたら両手で顔を覆い隠すことで何とかやり過ごしていた。
時間がないので途中で映画は中断され、最早恒例となりつつあったアンケートを記入し講義は終了した。斉藤は、三回目になってもあの画像だけはどうしても嫌な感じがすることに違和感を覚えていた。
教室を出て、斉藤は長瀬に質問をした。
「なあ、お前はあの画像怖いと思うか?」
「あの画像って?」
「ほら、いつも最後に出てくるあれだよ」
「あああれね。僕はあまり怖くないかな。アンケートにも一度も書いてないし」
「そうか……」
「あれ?もしかして斉藤くんはあれが怖いの?」
「いや別にそういうわけじゃあ……」
「遠慮しちゃって」
「べ、別にそういうわけじゃねえよ!」
斉藤はどこかで、自らが怖いと思っていることを暴露することに恥を感じていた。もちろん、取るに足らない些細なプライドということを本人は自覚していたが、逆に隠していても問題はないとも考えていた。あの筆舌尽くし難い「ぞっ」とする感覚……それが斉藤のクオリアでもあった。
だがそのクオリアが、斉藤にとっては運命を指揮するものであることに気付くのに、それほどの時間はかからなかった。
これで三度目となる電話をかける。
聞き慣れたダイアル音が五回、その後の留守番電話サービスを告げる音声が一回。
長瀬が音信不通になって既に三週間が過ぎようとしていた。
最も、電話に出ないだけでメールは返ってくるため、完全な音信不通というわけではない。しかしゼミにも姿を見せないし、メールが返って来るのも以前であればそう時間はかからなかったのに、今では一日の遅延は最早当たり前となりつつあった。
斉藤は家に押しかけようかとも思ったが、運の悪いことに長瀬の家に一度も行ったことがなかった。それにそこまでのお節介を焼くほどの間柄だったか?という斉藤特有の人間関係への不信や心配が祟り、具体的な行動に今一つ踏み出せないでいた。また一応メールをすれば「バイトが忙しくて」や「就活の予定が入っちゃって」という弁解のお言葉は返って来る。そのことで、斉藤の重い腰はさらに不動になってしまってもいた。
頭の片隅に長瀬への不安を残滓のように拡散させつつ、斉藤はあの講義に出席するため校舎を歩いていた。
歩きながら、斉藤はもう一つの不安について考えていた。即ちそれはあの講義への出席者が一人ずつ減っていることである。先々週は長瀬、そして先週は帽子の男が欠席していた。このことは一体何を意味しているのか。帽子の男については、偶々個人的な用事で先週欠席しただけかもしれないので、まだ何かオカルト的なものを断言することはできない。しかしそうは言っても、あの講義に関しては一度欠席した人間が再び出席した例がないという事実も斉藤の前に聳え立っていた。
若干の勇気を出して、斉藤は教室のドアを開けた。
そこには誰もいなかった。
斉藤は、ああやっぱりという面持ちで席に座った。既に先週から、ど真ん中の一番前に座るように指示されていたので否応なくそこを定位置とする。後は轟が来るのを待つしかなかった。
「一人だな」
轟は出席簿のようなものを見ながら、マイクを使うことなく誰に対してでもないように取れる口調でそう言った。
斉藤は沈黙を選んでいた。名状しがたい直感が、喉下まで出掛かっている疑問を塞き止めていたからである。
しかしそれは、轟のある一言によって溜飲された。
「だが、それについては致し方ない部分がある。君は恐らく、友達も含め受講生が一人ずつ減っていくことに疑問を抱いているはずだ。違うか?」
淡い銀色のフレームが鈍く光り、レンズの奥の切れ目から発せられる冷たい視線に恐々としながらも、斉藤は返事をした。
「まあそれは…確かに変だなとは思っていましたが…」
「当然の帰結だ。そしてそれは、私が元凶である」
えっ、と斉藤は思わず声に出した。受講生が減っていく元凶が教授とはどういうことなのだろうかと。
そして轟は、今しがた教卓に置いたばかりの資料を回収すると、斉藤を見据えてこう言った。
「着いてきたまえ。ここからが本講義における本題となる」
突然の命令に動揺した斉藤だったが、早くも教室を出ようとする轟を対し、無視を決め込むことだけはどうしてもできなかった。それは好奇心とも義憤ともどちらでもありどちらともつかない感情ではあったが、少なくとも長瀬の所在は確認すべしという正義感だけはそこに存在していた。
まるで競歩をしているかのような速さで歩く轟に着いていくのがやっとで、斉藤は自分が大学のどの辺りにいるのかを把握できたのは、轟が漸く立ち止まった時だった。
斉藤はあまり見覚えがない建物を、息を切らしながら見上げた。
「ここは理系の研究棟で、七階が私の研究室だ」
轟は一言そう漏らすと、再び歩き出し入り口から右手のエレベーターのボタンを押した。二歩後ろで、斉藤もエレベーターが来るのを待った。
エレベーター内は静寂が支配していた。斉藤は季節外れの汗を拭いながら、横目で轟の様子を視認しようとしたが、言い知れぬ圧力を感じて竦んでしまった。既に斉藤は、恐怖という名の布に包まれていた。
七階で降りた二人は、目的の研究室へと歩いていく。斉藤は道中に他の教授の研究室と思われる部屋の前を通り過ぎ、そんなはずはないと思いつつも、ついここにはこいつみたいな気が触れていそうな教授ばかりなのではないかと想像した。
轟の研究室は廊下の一番奥だった。鍵を取り出し、開錠する。
「良いか?」轟は主語のない疑問文を斉藤に投げつけた。
「ここまで来たら…」しかし内実は、本能が踵を返せと命令してきていた。斉藤は生唾を飲み込むと、自らの怯えに纏われた鎌首を無理矢理抑えつけた。
そしてドアは開いた。
「!うっ…!」
壁際には本棚があり、奥には木材で作られた作業机があり、中央には至ってシンプルなソファと机がある部屋に入室した斉藤は、まず嗅覚の異常を確認した。傍目にはどうと言うことはない部屋なのだが、その臭いは例えるなら鉄分のみの芳香剤が置かれているようなもので、それが部屋一面に漂っていた。
「なんですかこの臭いは……まるで……」
「そうだ。しかしここからではない」
轟は作業机の引き出しを開けると、リモコンを取り出し壁にかかった時計に向かってスイッチを押した。すると戸棚がゆっくりと擦れる音を出しながら、左に移動した。そしてそこには鋼鉄製のドアがあった。
斉藤は映画を見ているような気分になった。
「これは……?」
「真の研究室への入り口だ。この部屋は幻想でしかない」
バルブハンドルを回し、古臭い金属音が鳴り響く。同時に臭気がさらに強くなり、斉藤はたまらず戻しそうになるのを寸前でこらえた。
「君の友達はここにいる」
そう言うと轟は中に入っていった。口元を押さえながら、斉藤も続く。
ビニール製のカーテンをくぐると、手術台のようなものが、手前から二台ずつ計八台ほど並んだ部屋が広がっており、また一台ごとに機械的な光を放つ電子機器が置かれていて、何かしらの演算結果を忙しなく表示していた
しかしそれらは今の斉藤にとっては気になる箇所ではなく、斉藤の目線は全て電子機器の配線の先に接続されている台に乗っているモノに注がれていた。
ほぼ暗闇と言ってもいいぐらいの薄暗さの中でも斉藤は確信と疑念を持っていた。接続されていない片方は人間であると。しかし接続されたもう片方は、どうやら箱のようだった。中身はここからでは窺い知ることはできない。
轟は手術器具のようなものが置かれたケースからゴム手袋を取り出し、嵌めながら斉藤を見た。
「ここがどういう場所か分かるか?」
斉藤は気持ち悪さと不気味さでまともに考えることが難しくなってきていたが、回らない頭を叩きながら答えた。
「いや……。手術室のように思えますが……」
「違う!」今までとは桁違いの大声に、斉藤はひどく驚いた。
「ここは『転生と新生の間』であり、私は創造主だ」
轟は狂った笑みを止められなくなってきていた。それほどまでに、ここは轟にとっては悦楽が満ち溢れた部屋であった。
「こちらに来い」
液体を踏み付けるような音をさせながら、人間が乗っている台の傍まで移動した轟は斉藤を呼びつけた。
その音が何によるものなのか、理解することを必死に拒みながら斉藤はにじり寄った。
轟が天井から吊り下げられた電球のスイッチを入れると、そこには見覚えのある金髪の男が横たわっていて、残酷な現実が露になり、斉藤は我慢の臨界を超え遂に吐寫物を床に撒き散らしてしまった。
「何で……こんなことを……何のために……」
口元を拭いながら、斉藤は絶え絶えにそう言った。
「良い質問だ。では講義を再開する」
眼鏡をずり上げて、轟は教授に一旦戻った。
「私の専門はロボット工学だ。ロボットについては先週の講義までに扱ったが、自らのロボット作成に対する研究において、数年前から私はある壁に悩んでいた。それが『クオリア』だ。機能的意識の再現に比べ、この現象的意識は困難を極める概念だった……。人間と等しい完全なアンドロイドをこの手で作成したいと考えていた私には、この概念は最大の難問であった」
轟は絶命しているであろう人間の顔を撫でながら、講義を続ける。
「様々な電子回路を組んでは、現象的意識の再現を試みたが、演算結果は常に私を祝福するものではなかった。そこで私は考え方を変更することにした。即ち、人間の脳に人工知能の一部もといクオリアの生成を担ってもらうことで、その部分のみであるがクオリアの実装を可能にする理論を立てたのだ」
斉藤にとって、今の講義はおよそ理解できる範疇のものではなかった。そもそもこんな血痕や死体が散見される部屋で何かを学べるわけがないのだが。
気を失いそうになりつつも、ここでそうなっては何をされるか分からないという一点が斉藤の「医学的な」意識を保つ原料となっていた。
「そうは言っても、簡単に連結できたわけではない。医学的な脳については素人同然だったため、研究と思考実験と治験を繰り返し漸く手法を確立することができた…・・・。そして完成したのがこれだ」
右側の箱を開け中身を取り出した轟は、力なく座り込んでいた斉藤を掴んで近くまで連れて行った。
斉藤は掠れる視界で、その取り出されたものを見た。
それは電子基盤の集合体と得体の知れないものが二つあり、それらは全て配線で接続されていた。
電子基盤は、透明の小さな棚のようなものに複数枚収納されていて、基盤から伸びた幾重にもなる銅線が小瓶と基盤ごとの橋渡しをしている様子が確認できた。
一方の小瓶に入っている得体の知れないものは、よく見るとどちらも中に緑色の液体とアーモンド状の肉片と細長い肉片が入っていた。またその頭頂部からは二本配線が伸び、電子基盤と小瓶に繋がっていた。
「この中身は特殊な培養液と脳の一部…即ち扁桃体と海馬だ」
「扁桃体と海馬……?」
「これは特に情動的や古典的な恐怖を感じる部位だ。人間の情報処理の方法は、簡潔に言えば外部刺激がまず感覚器により感知された後、視床に送られそこから大脳新皮質やこの扁桃体などに送られ、また海馬が記憶したりそこから情報を送るわけだが、『怖い』と判断される時は、扁桃体と海馬の活動が関与している。そして恐らくここで、恐怖に関するクオリアが生成されると私は仮説を立てた。よってこの部位を使用することとした」
「で、でも、何故恐怖に関するクオリアなのか……」
「恐怖とは人間の古典的感情の代表格だ。有名な説話に、人間は蛇や火に恐怖を示すことが多いと言うものがある。それは、人間の進化の過程でそれらのものに生命の危機を感じてきたからというのが定説だ。私は恐怖こそが、人間足り得る重要な要素だと考えているが故に、私の作るアンドロイドに人間らしい振る舞いをさせるためには、人工的な恐怖ではどうしてもそうはならないことを無視はできない。クオリアを伴った人間的な活動をさせることに、新時代のアンドロイドの使命がある。この演算結果が正常に終了すれば後は身体部分と連結させ、起動を確認するだけだ。身体については既に完成している。」
轟は再び笑い出していた。自分の好きなものの話をする時は、気がついたら頬が緩んでしまうのは至って人間らしいと思った。
「何もかもがわかりません…。だからと言って人を殺すことが許されるわけないじゃないですか!」
斉藤は震えた声で正論を唱えた。最初に感じた「狂気の科学者」が、よもや当たるとはという絶望を感じながら。
「君は勘違いをしている」ゴム手袋を引っ張りながら轟は答えた「死んではいない」
「えっ?だって脳を取り出したわけだから死んだのでは……」
「それは安易な判断だ。同時に私は、人工的な扁桃体と海馬を作成したのだよ。そして彼らには既に移植済みだ」
手前から二つめの台に轟は移動し、斉藤も着いていった。轟が同じように電球を点すと、するとそこには長瀬が現れた。
「長瀬!」斉藤は激しく肩を揺さぶった。「起きろよ!」
「無駄だ」斉藤を引き剥がしながら轟は言った。
「友達には今全身麻酔をかけている。彼らの海馬から電気信号並びにシナプスの配列パターンを検査した後、電子回路にパターンを設計して移植し、既存の脳と私の作った電子回路を同期させながら脳の機能を全て回復させるには、それなりの調整と時間がかかるためだ。その演算結果をこうして記録し、微調整を施している」
指差された電子機器を今一度よく見ると、C言語のような配列が映し出されている画面と、心拍数や脈絡などが表示された画面の二つに分かれていることに斉藤は気付いた。そして左腕から伸びるチューブの先に、点滴のようなパックが吊り下がっていることも確認できた。これが本物なら、長瀬はまだ生きていることになる。
「いやはや、君の友達は実に興味深いクオリアを持っていたから、さぞかし深みのあるアンドロイドが作成できそうだ」
ニタニタとした顔で轟はそう言った。
「本当に…長瀬も他の人も死んでないのですか?」
「その通りだ。ただし彼らは、私の仮説に沿って言えば、哲学的ゾンビではあるがね」
「えっ……」
「つまりだ、私はクオリアの生成方法が分からないから脳を代用することで、一部であるが獲得することが出来た。となると摘出され私の電子回路が組み込まれた人間はどうなる?ここまでの講義から自ずと分かるだろう」
「クオリアの生成ができない人間の誕生……」うわ言のように、斉藤は呟いた。
「そうだ!即ち私は、人間型アンドロイドと哲学的ゾンビを誕生させた創造主というわけだ!」
轟はここぞとばかりに大声で笑った。それは、世界で今一番自分が愉快だという自信に溢れた笑いだった。
斉藤は大きな身震いをした。理屈などではなく、間違いなくこいつは狂っている。それが今頃になって、斉藤の五感を直撃した。
「あんたは気が触れている…」斉藤は小声ながら、力強く言った。
「どこがだ?」
「どこがって…もちろん脳を使うなんて正気の沙汰ではないし、そもそも人間の脳を組み込んだアンドロイドなんて、完全なアンドロイドじゃない!それなのにどうしてこんな馬鹿げたことを…」
「それなら君は、義手や義足やペースメーカーを付けた人は人間ではないと?」
「いや…そういうわけでは…」
「ならば、このアンドロイドの脳も完成すればまたアンドロイドではないか。それに人間は義手を嵌めても良いが、アンドロイドは脳を使用してはいけない理由はどこにあるのだ?」
「そんな理屈が…。彼らだって、どうせあんたが無理矢理ここに連れてきて…。」
「確かにそうだ。しかし彼らは目覚めた時、私のこの創造に同意したという記憶を持っているから問題はない」
斉藤は耳を疑った。
「そんなはずがない!」
「君は劣悪な学生だな」轟はおかしくてたまらないようだった。「私はつい先ほど、扁桃体と海馬を移植したと言ったはずだ…。その海馬に既にそのような回路をインプットしていたとしたらどうだろうか…?」
最早斉藤に、言葉は味方してくれなかった。
「答えは言わずもがなだ。彼らは人生の内の矮小な時間とクオリアを私に提供しただけで、他の損失は感じられないまま、そしてクオリアを失ったまま、そのしがない一生を終える。怠惰な学生には、所詮そのままでは学術的な生産を望めるはずもない。むしろ感謝してほしいぐらいだ。最も、人類初の哲学的ゾンビとなった彼らがどのような人生を歩むのか、それには興味はあるが」
足取りよく、轟は台から台へ移動し、その度に電球を点していった。一番奥の台には、誰も乗っていなかった。
「これで講義は終了だ。質問はあるか?」
斉藤は立ち尽くしたまま、その問いには無言だった。
「では、これから転生の儀を執り行いたい」
いつのまにか手に握られていたスタンガンを弄びながら、一番奥から轟は一歩ずつ斉藤に近づいていった。
「先ほど君に『劣悪な学生』と言ったが、それはあくまで大脳新皮質に対する侮蔑だ…それが扁桃体と海馬になれば、話は別だ」
「な、何のこと……」
轟の歩調に呼応するように、斉藤は一歩ずつ後退する。
「あのアンケートで君だけが、『紫色の林檎』に恐怖を示していた。『紫』は古代よりその抽出が困難なことから、王や貴族など位の高い人間の色とされ、また『林檎』は最初の人間が食らった禁断の果実…新たな人間型アンドロイドが持つクオリアとして、これほど適したものはない。始まりに相応しい特質だ!」
しかし斉藤の脳には、そのような御託を理解する余裕は既に存在せず、脳は古典的恐怖を示す命令を全身に出すことに注力していた。肉体はそれに答え、出口に向かい、扉が開かないことを感じ、迫ってくる轟の姿を捉え、そして扁桃体と海馬は最後の決断を下した。
彼の脳に、眩いばかりのクオリアの宇宙が広がった。