狼警報
短編です。正体不明の人食い狼が災害のようにやってくる日常の話。
狼警報
「狼だ」
「狼が来るぞ!」
「狼警報だ!」
「今度はいくつだ」
「話によると五かける九、だそうだ」
狼、という言葉に僕は身を固くする。ここ最近、毎年のように現れるな。発生場所は東シナ海上、走行速度は毎時五十キロメートル。僕が住む東京に到達するとすれば、大体三日後か。
狼、とは文字通りの狼である。狼は必ず南からやってくる。銃で撃っても死ぬことはない。海も山も川も、彼らの障害にはなりえない。方眼マス上に正確に並べられた「✓」みたいに綺麗に列をなして、時速五十キロメートルで駆け抜けていく。これまでの記録を見る限り、現れる狼の数はどれだけ多くても九かける九、つまり八十一頭がせいぜいらしい。 どこからともなくこの国の端っこに現れて、一昼夜も休むことなく、列島を駆け抜けていく。
彼らは人を襲うのだ。町中を走り抜ける最中、一頭が気まぐれに人のどに食らいつく。そして跡形もなく消えるのだ。そして狼が現れ始めてからというもの、狼が一匹でも残ったまま出ていったためしはない。今回は五かける九、四十五頭だから、きっかり四十五名の命が狼の胃袋に収まることは確定していた。
人は必ず死ぬけれど、きっちり毎年やってくる台風やら日照りやらの方が、今のところよほど人を殺している。だからいつしか人々はこう思うようになった。
「天災に比べればまだましだ」
どうやら地震、雷、火事に狼の一文字が加わったというだけのことらしかった。
随分のんきな考えだけど、狼に食われた人間の死にかたが、随分と穏やかなものらしいこともその危機感の薄い考えに拍車をかけたようだ。先ほどの人を食う、というのは便宜的ないいかただ。狼の犠牲になった人は声も傷跡もなく、ただその場にばたりと倒れるだけだった。土砂崩れに押しつぶされるとか、津波に巻き込まれるとか、災害による死につきものの悲惨さがなかった。
この事実が世に広まってから、自殺志願者が南方に移住し始めた、なんてにわかには信じがたい話もあった。 羊飼いの「狼が来たぞ!」という声を合図に、羊の被り物をした青い顔の人々が、列をなして牧場への坂道を登っていく姿を想像しながら、自分でも趣味が悪いな、とも思った。しかし、僕からしてみれば、狼に食われる最期なんて、天地がひっくり返ってもごめんだった。この世のものかも思えない獣に食われるなんて死に方は、人のそれからあまりにもかけ離れすぎているように思えたから。
どうやら、僕は世間一般に比べて狼を恐れている人間のようだった。
―2—
家に帰って、最初に行ったのは羊製品を捨てることだった。中にはそれなりに高いセーターもあったけれど、迷わず捨てた。赤く染められたラム革のキーホルダーを捨てるのは少し気が引けたが、ゴミ袋に放り込んだ。僕をひとしきり悩ませたのは、カシミヤのコートだった。古着屋で偶然見つけた掘り出し物で、最近の寒さが厳しい晩秋から早春にかけては重宝する。羊を好むという嘘か真かわからない話は聞いたが、山羊はいかがなものか。
たっぷり十分間ほど悩んで、やめにした。そうした類の話を考え出すときりがなかったし、お気に入りのブタ革の財布も捨てなければならないことになるから。
カシミヤのコートの恩赦を決定したところで、居間の五十インチのテレビから速報が流れてきた。
「沖縄で犠牲者 早くも二名」
ふと思い出したのは、前に勤めていた企業の元同僚で、割合親しくしていた男だった。僕が転職したのは三年ほども前だったので、彼の方から声をかけられなかったら、まず間違いなく気づかなかっただろう。
二カ月前の金曜日、新宿の西口だった。
「よくわかったね」
と僕は素直な賞賛の念を込めて彼に言った。
「俺ね、あれ得意なのよ。あの何とかを探せって絵本」
「ウォーリー」
「そう、それ」
彼は少し得意そうにして笑った。
彼はなかなかのハンサムだったが、手足と顔の造形が少々縦に細長かった。最後の記憶からは幾分肉付きもよくなり、動きも以前ほどの機敏さは失われているように見られたが、育ちのいいショウリョウバッタと話しているような印象は三年前と変わらなかった。
どちらから誘ったのかは覚えていないが、自然な流れで飲み屋に入った。そして彼の話を聞く限り、彼は幸福な人生を歩んでいるらしかった。
「俺、結婚したんだ」
もしゃもしゃとお通しのキャベツを齧りながら彼は言った。
「おめでとう」
奥さんがどんな人かはそこまで興味はなかったが、半ば儀礼的になれそめを聞いてみた。どうも営業先との飲み会で後ろの席に座っていたところを見初められたらしい。彼が少し緩んだ口元とともに見せてくれた写真には、少し吊り目で気の強そうな、ほっそりとした美人が彼の隣に映りこんでいた。大きな黒い目をした彼女は、夜のカマキリを彷彿とさせた。カマキリもまた僕の中で悪いイメージというわけではなかったけれど、バッタとカマキリとでは些か力関係がはっきりし過ぎている。彼がベッドでランジェリーを付けたカマキリ細君に頭からかじられている様を想像するのはなかなかに面白いものだった。僕が少し噴き出したのを見て、
「なんかおかしいか」
と彼は怪訝な顔をした。
「君が尻に敷かれている様が目に見えるようだよ」要約はしたが、嘘はなかった。
彼は軽く天を仰ぐようにして、半ばあきらめたようにして言った。
「亭主としての威厳なんてものは親父にもなかった、あれは遺伝だな」
聞いたところによると、彼らの新婚旅行先は沖縄らしかった。
「ベタだろ?俺はスイスがいいって言ったんだけど押し切られちまったよ」
「ベタにはベタなりの理由があるんだよ」
彼の提案が独創的かどうかはさておき、僕はカマキリ細君の肩を持つことにした。
「お前の方はどうなの」と彼は出し抜けに僕に質問した。僕は一瞬逡巡したのちに、結婚のことかと気が付いた。自分のことになると、僕は少々察しの悪いところがあった。
「よりを戻すだとか、そういった話は今のところない。これからも多分ない」
「そうかぁ、きれいな奥さんだったんだけどなあ」
彼は残念そうに言った。
「ああいうのがタイプか、聞かれると奥さんに怒られるぞ」
彼は面白いくらい素直に口を閉じた。吹き出しそうになるのをこらえるのに苦労しながら、僕は続けた。
「彼女とは住む場所が違ったんだよ、家の違いだとか、仕事の年収だとかじゃなくて」
正確には「住める場所」だろうか、と僕は小さくつぶやいた。
僕の答えに彼はふぅーん、と返すと、新人のケーキ屋のアルバイトがケースの中からケーキを出すときのような顔をして言った。
「俺と彼女の住む場所が同じであることを願うよ」
僕は少し、しかしゆっくりと頷いた。
大丈夫だろ、カマキリとバッタなんだから。とは、さすがに言わなかった。
それに、たとえ関係性が捕食者と被捕食者であろうと、一緒に居られること自体は幸福な事実であるような気がしていた。
彼とは二時間ほどで別れた。彼は酒に弱かった。脚を喪ってバランスを崩したバッタみたいに歩く彼を、改札口まで見送った。騒がしい場所で過ごしたわりには楽しい夜だった。
その時の話によれば、彼らの新婚旅行はちょうど今頃のはずだった。連絡を取るために携帯電話を手に取ったが、テレビの速報が更新されてすぐに机に戻した。犠牲者の名前が彼ら二人のものだったからだ。
―3—
犠牲者の報が出てからというもの、心なしか通りを走る車の量も少なくなっているようで、比較的静かになっていた。羊飼いに追い立てられて納屋に入った羊は、例えばこんな気持ちなのだろうか、と想像した。しばらく本を読んでいたが集中できそうにもなかったので、夕飯も兼ねたコンビニのサンドイッチと一緒に酒を飲んで、無理やり昼寝をした。
夢をみた。ショウリョウバッタ君との話を思い出したせいだろうか、別れた妻と初めて会った時の夢だった。
初めて会ったのは、大学に入ってから参加した剣道サークルの新歓合宿だった。彼女は海外のバンドのロゴがプリントされた赤いTシャツを着ていた。かなり派手だったが、彼女が身に着けると不思議と調和がとれているように見えた。体育会のそれとは違い、あくまでのんびりやりましょう、といった雰囲気だった。合宿自体は平凡なもので、簡単なレクリエーションと夕食の後、飲み会が始まった。一時間ほどが過ぎるころにはグループは自然といくつかに分かれており、その一つに偶然、僕と妻がいた。僕らのグループが始めたのは絵しりとりだった。僕の後が彼女の番だった。
何周かした後、何度目かの僕の番が回ってきた。前の絵はおそらく「スマホ」であった。
「『ほ』ね、『ほ』…」とつぶやきながら紙の前でペンを回して考え込んだ。
描こうとしていた「骨」は既に出ていた。酔った頭に三十秒の制限時間はあまりに短い。
とっさに書いたのは、黒く塗りつぶした三角形をピラミッド状に三つ、積み上げたマークであった。彼女はしばらく考え込んで、
「あーっ! 北条氏!」
と叫んで、それに続く絵を描いた。直方体に先端に円錐をくっつけたものを横に倒したものに顔のようなライトが描かれている。そばには「びゅーん」なんていう文字も書かれていた。おいおい、効果音なんてつけていいのか、と思った次の瞬間、
「おあーっ!」
彼女は先ほどよりも大きな声で叫んで床の上を転げまわった。
絵しりとりは、「新幹線」を描いた彼女の敗北で幕を閉じたのである。
飲み会の片付けをしている最中、彼女に話しかけてみた。
「北条氏、よく分かったね」
「そりゃまあ、私、日本史選択だったから」
小柄な体を少しそらして得意そうにしている彼女はまるで、
「まるで羊みたいだよね」
目の前の彼女は僕の眼をまっすぐ見据え、はっきりと言った。いや、言ったはずだ、見据えていたはずだ。だって僕は、君の目を見ることができなかったんだから。だけどその言葉をぶつけられたのはこの時じゃない、もっと後の…。
ひどい夢だった。
目を覚ますと、夜九時をとっくに回っていた。つけっぱなしにしていたテレビからは、狼についての情報が垂れ流されており、僕が眠っている間に犠牲者は二十三人に増えていた。幸いなことに(不謹慎なのは重々承知の上だが、)、最初に襲われた二人を除く二十一人の中に知人の名前は含まれていなかった。
僕は幾分ほっとした。居間のソファに腰かけようとしたが、少し考えを変えて、ベランダに出て煙草を一本吸った。ヘヴィ・スモーカーというわけではない。煙草の箱を開けるのも二カ月前、ショウリョウバッタ君と酒を飲んだ時が最後だ。だけど、今日はどうしても煙草が吸いたい気分だった。あんな夢を見たせいかもしれない。二カ月ぶりに吸った煙のせいで、くらくらと視界が揺れた。二本目は中ほどで火をもみ消してしまった。
ガールフレンドを呼んでみようかと考えた。一種の欲望を発散させるためなら、この時間というのは特段遅いわけではない。
しかし、この気分が喫煙と性交で振り払えるような性質のものでないことは僕自身も重々承知だった。プラスとかマイナスだとか、何らかの事象の差し引きで解決できる類の話ではなかった。 考えるのもだんだんうんざりしてきたので、僕は携帯の液晶を裏にして、机に放りだし、シャワーを浴びて眠ることにした。残ったアルコールと久しぶりに摂取したニコチンのせいでひどい眠りだったけれど、夢は見なかった。それが何よりありがたかった。
狼はあと二十二頭、犠牲者は二十三人。数字に変化がないことを確かめて、テレビの電源を落とした。
―4―
顔を洗って、歯を磨いて、一杯だけコーヒーを飲む。僕の一連の行動は多くの人々からしてみれば、バナナを食べるために皮をむく、それくらいの意味しか持たない当たり前かつありふれた行動だった。
だけど、明日にも死ぬかもしれない今の状況下にあって、これらの行動は実に重要だった。だから僕は実に注意深く顔を洗った。タオルは一回だけ洗濯して水に慣らした、一番新しいものを使った。「かたい」と書かれた新しい歯ブラシの封を切って、口の中の隅々まで磨いた。うがいの時間は、いつもより三秒長かった。コーヒーはミネラルウォーターで淹れたが、味の変化はわからなかった。
「人間であるための条件」と書かれたリストにのチェック欄に、注意深く「✓」を書き込むような作業だった。
一通り人間であるための内在的な証明を終えてしまうと、外在的な証明に取り掛かるために携帯電話の電源を入れた。
液晶画面には、それなりの数の通知が、分厚い魚の鱗みたいにびっしりと並んでいた。その中の多くは、警報が発令されたことによる知人友人家族やらからの連絡だった。こうしてみると、僕の人間関係の網の目がそれなりに細かくなっていることに気が付く。切れた糸もあるが、その逆もしかりというわけだ。
それぞれに自分の安否と現在位置を返信していると、人間関係の網の目のようなものが、ある程度見えてくるのだった。
片手間に頭の片隅で想像を巡らせる。もし僕が狼に食われたとしたら、いったいどれほどの影響が出るだろう?
僕と周りの人をつなぐ糸が切れたところで、網全体が落ちてしまうことはない。軽業師がバランスを取りながら渡る綱とは訳が違うのだ。そこまで考えて、一つの通知に目を止めた。別れた妻の友人からだった。初めて会ったのは妻と待ち合わせをしている時だった。「友達を紹介したい」と連れてきた、高校時代からの友人というのが彼女だった。何度か三人で食事にも行った。彼女がいると、妻の表情は年端もいかない少女のようだった。数年間妻と連れ添って初めて見る表情だった。
離婚してからは当然だがすっかり疎遠になった。メッセージの内容だって、安否を確認するだけの、極めてありふれた内容だ。
僕もまた形式的に返答をしてから、『今日会えないか』という旨のテキストメッセージを送った。
メッセージを送信したあとで、自分の行動が些か突拍子もないものであることを自覚したが、今更どう思われたところで知ったことではなかった。
返信も一段落ついたので、テレビをつけて公共放送にチャンネルを合わせる。
犠牲者は増えてこそいたものの、狼はまだ十五頭残っていた。これまでなら、終息を迎えてもおかしくないほどの時間がたっていたにもかかわらず。
もしや狼は僕を狙っているのではないか?そんな考えが僕の心を掠めていったが、僕個人に紐づけられる要素はなかった。
だからといって、狼たちの何を信用できただろうか。そもそも得体のしれない存在だ。国も自衛隊も警察も、どうしようもないから放っておいているだけだ。僕が狼たちについて知っていることは少ない。もしかしたら、今回ばかりは奴らも何かしらの方針を定めて日本列島を駆けているかもしれないのだ。
「今回はあいつの人間関係を伝って食っていくことにしようじゃないか」
そんなことを、東シナ海で狼たちが輪になって相談しているところを想像した。絵面は少々メルヘンではあったが、内容の凄まじさを打ち消すほどにはならなかった。
這い上がりようのない深みに陥った思考をリセットすべくもうひと眠りしようと考えたところで、携帯の通知に気が付いた。例の妻の友人からだった。
『久しぶり。いいよ、私もちょうど暇してたところだし。住んでるとこ仙台だけど』
『ちょうど北に逃げたいところだったんだ。十四時には仙台駅に着けると思う』
『相変わらずの羊君だ』
返信はしないまま、財布と携帯電話だけを持って駅まで歩いて行った。窓の施錠を忘れたが、そんなことはどうでもよかった。テレビによれば、狼はまだ十頭残っていた。
―5—
彼女とは合宿の後から付合い始めた。思いを告げたのは僕の方からだった。彼女はあっさりとOKした。なぜ僕なのか聞いてみた。
「羊みたいだからかな」僕は少しおどけて、
「めえめえ」
といった。彼女が心底楽しそうに笑うと、彼女の周りだけ八月になったようだった。
結局、僕は文学サークルに入った。静かな人間関係を求めて入っただけだったが、図らずも大変居心地が良かった。月に一度の機関誌に乗せるエッセイを書き、年に一度ある文化祭にさえ参加すれば、あとは自由だった。静かだったが、陰気ではなかった。本気で文学の道を志す者もいれば、三文小説を書き散らしてあとは部室でニコニコとしているだけの者もいた。後者は僕のことである。
一方、彼女は剣道サークルでめきめきと頭角を現していた。彼女が部長となった三年の春には僕が一回生のころの緩い雰囲気はどこへやら、体育会の剣道部と張り合うまでの勢力と化していた。
彼女には欠点が一つあった。正確には、あったらしかった。というのは、僕の目の前にはっきりと現したことはなかったから。それに欠点といっても、美徳ととらえる人も多くいたと思う。
彼女には、何か歯止めのきかない攻撃性のようなものがあった。自分の敵と認めたものには、容赦なかった。相手の論理の弱いところにかみついて、徹底的に糾弾した。合宿後も交友があった友人たちから話を聞いた。なんでも、後輩の指導方針について、彼女と同期の一人とで意見が割れたらしい。最初はただのありふれた口論だったが、だんだんとヒートアップしていった。最終的には彼女はOBやらコーチやら、多くの関係者を説得し味方につけ、相手を叩きのめしたのだという。哀れな同級生はサークルをやめる一歩手前まで追い詰められたとかなんとか。
「あれは怖かったなぁ」
友人の声に僕も同意したが、彼女への評価を下げることはなかった。なぜなら、その攻撃性こそ、僕が欲してやまない性質の一つでもあったからだった。
彼女の試合を初めて見に行ったのは三年の秋のことだった。彼女は強かった。ひたすら速く、そして相手の隙は必ず見逃さなかった。それはほとんど狩りといって差し支えなかった。残心をとる彼女の背中に赤いたすきがひらりと舞った。新歓合宿で得意げに胸を張っていた彼女とは、似ているようで、どこか別人のようだった。
彼女とは、大学を卒業してから二年で夫婦になった。社会人二年目の懐具合はそこまで豊かなものでもなかったから、阿佐ヶ谷に1DKのアパートを借りた。それなりに古い建物だったが、僕らは気に入った。
そこから二年ほどは、穏やかな暮らしが続いた。晴れた平日の公園か牧場みたいに、ほとんど退屈といってもいい暮らしだった。僕は全く満足だった。
だけど妻にとっては違ったようだった。いや、妻というよりも、妻の中に巣食っている攻撃性が、という話である。
出し抜けに彼女は言った。
「子供が欲しいの」
僕はたっぷり二分考え込んだ。彼女は僕を見据えたまま、じっと待っていた。いや、待っていたというよりも、とびかかる前の一瞬の動作を、スローモーションで再生しているようだった。
「少し状況を整理しよう」と僕は言った。
僕らは二十七歳で、子供がいてもおかしくない年だった。それなりの貯金もしてあった。仕事も順調だった。車は両親から譲ってもらえる。
妻は将棋の盤面を整えているみたいに、論理的に説得した。それらはおおむね事実だった。僕の方はあと数手で「詰み」になるらしかった。友人から聞いた彼女の話を思い出した。どうやら僕は、これからその攻撃性の矢面に立たされるらしかった。
しかし、僕は首を縦に振ることはできなかった。僕にとってはただの沈黙だったが、妻にとっては鼻面に一撃を食らわされたに等しいものだったらしい。一瞬、泣きそうな顔になった気がした。僕の沈黙をどう解釈したのか、
「まるで羊みたいだよね」
と妻は言った。
僕は、肩透かしを食らった気分で椅子に座ったままでいた。
顔を上げた僕が意味を問う前に、妻は微笑を浮かべてごめんなさい、とだけ言った。
それから半年ほどして、僕らは離婚した。話を切り出したのは、僕の方からだった気がする。半年の間に何か別の出来事があったわけではない。離婚という一種の結末のための、単なる準備期間に過ぎなかった。
彼女とは住む場所が違ったんだよ。
いや、「住める場所」だったっけ。
―6—
仙台についたのは十四時半だった。警報の影響で新幹線にも遅れが生じていた。
改札の外で手を振っている、鶯色のセーターにベージュのパンツを合わせたショートボブの女性が彼女だった。
「久しぶりだね、北の国へようこそ」
「久しぶり。急な話でごめん。でも、もうちょっと北でもよかった。宮城じゃそれほど北へ逃げてきたって感じがしない」
「文句言わないの、今日中に向こう帰れなくなるよ」
「それもそうだ」
わざわざ来てくれたお礼に御馳走してくれるというので、僕と彼女は仙台駅から十五分ほど歩いたところにある団子屋に入った。彼女は席に着くと僕に尋ねた。
「それで?まさか本当に狼から逃げたい一心で仙台まで来たわけじゃないんでしょう」
僕は言葉に詰まった。狼から逃げてきた、というのもあながち間違いではなかったからだった。
「さてはあの子の話を聞きに来たか。羊君も存外あきらめが悪いと見た」
目の前に運ばれてきた湯呑に目を落としながら、彼女は淡い笑みを浮かべた。
本意ではないが、沈黙を打開してくれたのはありがたかったし、まったく興味がないといえばそれも嘘だった。
「実際、私もあの子が今何してるのか、よくわからないんだよね。九州にいく、ってだけ言ってたっけ。どこかは全く教えてくれなかった」
具体的な情報を得られなかったことを半分残念に思ったが、半分ほっとしていた。
「ほんとに急な話だったんだよ、いきなり南に行きたいって言いだして」
いつからか、あの子は変わっちゃったの、と彼女は少し寂しそうに言った。もしかして、僕が彼女と夫婦として過ごしていた二年間を言っているのか、と僕は彼女に質問した。
「そうじゃないの」彼女は言った。
「高校二年のころ、あの子が好きな人が死んでしまったの。遺体には外傷もなく、穏やかな顔つきだった。狼が出たって話題になったよ。」
「でもその年、狼の出現記録は…」
「そう。狼なんていなかった。死因は睡眠薬の多量服用。経緯はわからないけれど」
しかし自殺だと判明した後も、妻は狼の仕業だと言い張り続けた。妻の攻撃性が現れたのはそれからのことだった。時を同じくして、自殺した男子生徒のクラスメイトが何人かが、学校に来なくなった。
「本当におとなしい子だったの、人と口論なんてもってのほか」
「でも羊君と出会ってからは、少し落ち着いたみたいね。いつも言ってた。あの人と一緒だとどこか安心するって。私の中の許せない気持ちみたいなものが増えるのがすごく遅くなるんだって」
あの退屈なまでの二年間は、彼女の心の中の攻撃性を何か別のものに変化するのを助けていたに違いなかった。しかしそれはベクトルが外の誰かから、彼女自身に向いただけのことではなかったか?
「子供が欲しいの」
出し抜けに言った彼女の気持ちが、少しわかるような気がした。
僕の沈黙は、どんなに彼女を傷つけただろうか。目の前の団子はあまり味がしなかった。
団子屋を出ると、僕らは仙台駅まで黙って歩いた。改札の前で今日の礼をして、帰りの新幹線に乗り込んだ。だいぶ疲れていたが、なぜか眠れなかった。
―7—
夜八時ごろ、最寄りの駅に着くころには警報は解除されていた。残り十人が運悪く狼たちの胃袋に収まったというわけだった。ひとまず、大きく深呼吸を一つした。
その夜、夢を見た。
暗闇の中、妻が立っていた。彼女の体の内側には、真っ赤で大きな風船があった。風船にはテープで雑に補修したあとがたくさん残っていた。やがて妻にどこかから石が飛んでくる。それをはじき返したのは狼だった。だが狼が石つぶてをはじき返すたびに、心の中の風船は膨らんでいく。いくつ石つぶてが投げられただろうか。補修していたテープが破れ、中から空気がすっかり漏れてしまった。彼女の体の内側では、破れた箇所を十七歳の女の子が泣きながら、テープで直していた。
石つぶては投げ続けられていた。狼も変わらず、彼女を石つぶてから守り続けていた。僕も彼女を守ろうと手を差し伸べると、たちどころに爪と灰色の体毛が生えてきた。
ひどい夢だった。
翌朝、郵便受けに新聞や水道料金の通知と一緒に、一通の便せんが入っているのを見つけた。
居間に戻って差出人を見ると、妻だった。消印は鹿児島県になっており、赤い蝋で封がしてあった。慌てて便せんを開けようとした僕の手を止めたのは、狼の到来を告げるテレビのアラートだった。
「狼だ」
「狼が来るぞ!」
「狼警報だ!」
「昨日解除されたばかりじゃないか」
「おや、たったの二頭か」
僕は手紙の封を切らないまま、新幹線の切符を買いに走った。
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