クリームパンを半分こ
田町駅の芝浦口を出るたびに、僕は今も視線で「忘れ物」を探している。
意識してそうしているわけじゃない。ただ、信号待ちの背中、コンビニの自動ドアが開く音、夜のバスの曇った窓。脳の、どうしても書き換えられない古いOSが、彼女の輪郭を勝手に演算してしまうのだ。
彼女の名前は、柚。
三年前、田町駅から徒歩七分のドトールで出会った。当時の僕は、芝浦の広告代理店で「誰かの欲望を一行で焚きつける」コピーライターの端くれだった。朝、冷え切った胃にブラックコーヒーを流し込み、擦り切れた神経で出社するのが儀式だった。
隣の席の彼女は、いつもA4のレポート用紙にペンを走らせていた。
「手紙、ですか?」
三度目に隣り合った時、沈黙に耐えかねて声をかけた。彼女は一瞬、書く手を止めて僕を見た。
「そうかもしれないし、返事かもしれない」
「誰への?」
「まだ、ここにはいない人への」
彼女の書く文字は、あまりにも小さく、几帳面だった。まるで、自分の内側から溢れ出しそうな「何か」を、細いインクの檻で必死に閉じ込めているみたいに。
付き合い始めてからも、彼女はどこか「期限付きの借り物」のような佇まいをしていた。
ある日曜、芝公園のカフェで、彼女は五分以上メニューを迷ってホットラテを頼んだ。なのに、僕のアイスコーヒーが届いた瞬間、子供のように眉を下げて呟くのだ。
「……やっぱり、冷たい方が正解だったかも」
「交換しようか」と僕が言うと、彼女は頑なに首を振る。「いいの。自分で決めたことだから」
でも、三分後には僕のグラスを結露した雫ごと見つめている。
「一口、飲む?」
僕が差し出すと、彼女は「……ほんの一口だけ」と、申し訳なさそうにストローを吸った。
「やっぱりこっちだった。完璧にこっちだった」
至極真剣に、世界の真理を見つけたような顔で彼女は言う。僕は可笑しくて笑った。
彼女は笑わなかった。「笑わないで。私はいつだって、選ばなかった方の人生を後悔してるんだから」
その言い方がこまっしゃくれた少女のようでかわいい、と思った。
最後になったのは、春を目前にした、刺すような雨の日。
駅近くのベーカリーカフェ。柚は薄いベージュのコートを丸め、トレイの上の二つのパンを凝視していた。
丸いクリームパンと、無骨なソーセージロール。
「ねえ、どっちが幸せになれると思う?」
「パン一つで大袈裟だな。半分こすればいいだろ」
僕が何気なく言った瞬間、彼女が僕を睨んで言った。
「……半分こ。そうだね、いつも半分だよね。たまには全部食べたいよ。」
店を出ると、雨は雪に変わりそうなほど冷たかった。
「送るよ」と言う僕を、彼女は「仕事、あるんでしょ」と遮った。
実際、スマホにはクライアントからの修正依頼が溜まっていた。僕はその通知の数に気を取られ、目の前の彼女のことは若干上の空だった。
「あ、そうだ」
改札に吸い込まれる直前、柚が振り返った。
「あのさ。クリームパン。感激するほど美味しかった!やっぱり半分じゃなくて、一個まるごと、独り占めして食べればよかった。」
「よくばりだな」
僕が笑うと、彼女は笑い返した。
「だって、好きなものは、ちゃんと全部自分のものにしておかないと。……『次』なんてないかもしれないでしょ?」
それが、僕が見た彼女の最後の表情になった。
二日後、彼女は東名高速の多重衝突事故に巻き込まれた。
知らせを聞いた時、僕は会議室で「永遠に続く幸せ」をキャッチコピーにした保険広告の案を練っていた。
彼女の四十九日が過ぎた頃、遺品の中から最後に会った日付のレポート用紙を渡された。
あの日、彼女がドトールで書いていたのと同じ小さく、震えるような文字。
『あなたの書く言葉が好きでした。
電車の吊り広告や、街のポスター。
あなたは知らないだろうけど、私はあなたの言葉に何度も救われて、あなたの言葉に「私を見つけて」と返事を書いていました。
でも、あなたは私の隣に座っても、いつも仕事のことで頭がいっぱいで私が書いた返事を読んではくれなかった。
あなたは、遠くの人を幸せにする言葉はたくさん持っているのに。
私の、このすぐ隣の空腹には、一度も気づいてくれなかった』
膝の力が抜けて、その場に崩れ落ちた。
仕事が死ぬほど忙しかった。数週間メッセージの既読すらつけずに連絡できない時もあった。彼女といても仕事のメッセージの通知が次々ときてふくれられたこともあった。
でもわかって、僕が振り向いた時はいつでもいてくれる子だと思っていた。
僕は言葉のプロのつもりだった。人を感動させ、行動させる言葉を必死に紡いできた。
なのに、一番近くにいた彼女が、どれほどの孤独でレポート用紙を埋めていたのか、そのたった一行すら読み取れなかった。
彼女が求めていた「全部」を僕は「半分こ」にしようと言って、無意識に削り取っていた。
胸の奥が、物理的に痛い。
心臓を冷たいピンセットでつまみ上げられ、少しずつ引きちぎられるような痛みが、田町の改札を通るたびに蘇る。
もうじき、柚と出会ってから四度目の春が来る。
芝公園の桜が、今年も無遠慮に咲き誇っている。
彼女が「独り占めしたかった」と言ったクリームパンを、僕は今日、二個買った。
一人で二個食べる。甘すぎて、喉の奥が焼けるようだ。
それでも、半分に割ることなんてできない。
一人で全部食べても、僕の腹は、心は、一向に満たされない。
信号が青に変わる。
僕は一歩を踏み出す。彼女がいない、半分だけの世界を。
振り返っても、そこには街灯に照らされた雨の粒が光っているだけだ。
でも、その光の粒が、彼女が必死に書き留めていた、小さな、小さな文字の羅列に見えて、僕は初めて、人目も憚らずに声を上げて泣いた。
明日もまた、僕は仕事をしに田町に来る。
誰にも届かない「ごめん」というコピーを、胸の中で、何度も何度も書き直しながら。




