12.目的地へ
御年55歳のタクシー運転手、名を亀山沢之助――今回は嫌な目的地だ。
「――ぷはぁ〜。いやぁ悪いねぇ……仕事柄、これがないとやってられなくてねぇ」
「は、はぁ……」
天筒はタクシーに揺られて警察署に向かっていた。
ビルの間を走るタクシー、鼻をつく消臭剤の匂いと煙草臭が混じり合い、都会を走り抜ける。
裸で暴れていたところを確保、か…………いつかやるとは思っていたけど、こんな早いとは……。
黙考していた天筒は紫煙が煙たく、ケホケホ咳き込んで、手を振って煙を払った。痺れを切らし、おずおずと言う。
「あの、せめて窓を開けてくれませんか?」
「いきなり吸い始めたのあんただろ!!」
天筒はびっくりして目を丸くした。
「――びっくりした……! おっきな声出されたから灰落としちゃった……灰皿ある?」
「おぉい! シートを汚すな!! 灰皿ねぇよ! てか禁煙だよ!!」
亀山は一拍置いて、シートに深く座る。
「ったく……それで、煙草を吸う仕事柄って、仕事は何してるんですか?」
「あぁ〜? なんであんたに教えないといけないんだよ〜、私の仕事知って何か捗るんかあんたは〜、曲がりなりにもタクシー運転手なら客の機嫌伺ってなんぼだろがぁ……!」
「よくそんな口叩けるな!? 降ろすぞ!?」
「本当に叩き下ろしたいのは私ってか? ははは、うまいなおじさん、ははは」
「笑うな! 笑う度に灰がポロポロ落ちてんだよ!!」
天筒はやれやれと肩を浮かし、自ら窓を開けて、煙を逃す。
「分かったよ……じゃあティッシュを灰皿にすればいいんでしょ?」
「なにが『じゃあ』なんだよ! 煙草辞めろよ!」
天筒はやれやれと首を振って、近くにあったティッシュ箱に手を伸ばした。――本来勘定をするためのカルトンの、その上に真っ黒なカバーに包まれたティッシュ箱が常備してあった。
天筒は抜き取ったティッシュに躊躇いなく灰を落とす。亀山はチラッとティッシュ箱を一瞥し、喉を鳴らした。
「――しかしお客さん、私が言うのも何ですが失礼ですね、まだ吸ってるし……私じゃなければとっくに降ろされてますよ」
交差点で止まる。亀山はジャケットからポケットティッシュを取り出して、額のコッテリとした脂汗を拭った。
「……………………」
天筒はふぅーーと深く紫煙を吸い込んで、燻らせた。
「――知ってるかあんた、大日本猟闇会のことを」
不意に尋ねられ、亀山は眉を顰めつつ首肯した。
「……? まぁそりゃ知ってますとも。ノクトを退治してくれるんですから、ありがたいもんですよ」
「大日本猟闇会は"ノクトを狩る"っていう、警察や自衛隊にもできない所業を成してる正義のヒーローだ――――そんなわけあるか、反吐が出る、獲物を狙う狩人は全員、人畜生だ」
カッコーと、音響式信号機から規則的な音が僅かに響く。亀山は、前を横切る人間を目で追いつつ、口を開く。
「……ひと、ちくしょう、ですか……ひどいことを仰る……なぜそのようなことを?」
亀山は大粒の汗を垂らした。一刻も早く走り出したい衝動に駆られたが、赤信号が行手を阻む。
息を飲んで、ルームミラーから天筒を覗く。
彼女の口元に灯る煙草の炎――目を見開いた。
――赤信号だ。
「私が人畜生だ」
次の瞬間、ティッシュ箱が爆散し、幾重ものティッシュが車内に舞い上がった。
「――――」
それは、天筒が青信号のあの点滅より素早く、ティッシュ箱を分解したわけだが――
亀山に見えたのは精々、宙で手離されたはずのタバコが、"ティッシュが舞い上がった"と脳で認識するよりも先に、落下することなく、再び彼女の指に寄り添っていたことだけだった。
「ふぅ……黒いティッシュボックスに小型カメラを忍ばせ盗撮……私を乗せるなんてツイてないな」
「い、いつから――」
亀山は唖然として震える。
天筒は平然と、爪ほどの小型カメラを摘んでいる。クイッと顎で前を見ろと示す、信号機は青になっていた。
ゆっくりタクシーは発進する――否、もはやタクシーとは呼べなかった。
「悪いなぁ。仕事柄、敵視とか卑しい目線に敏感でさぁ……このタクシーに乗った時からビンビンに反応してたよ、このカメラ」
「なっ……っ……」
亀山は口篭って冷や汗を流す、息が荒い、酷い動揺――それでも正確に車を走らせるのは、運転手としての手腕だった。
「――けど、ま〜、直感だけで決めつけるのも……アレだろ?」
その時だけ、歯切れ悪く呟いてから
「だから試しに煙草を吸ったんだけどぉ〜――案の定私を降ろさなかったな〜? そりゃあんたが私に客以上の目的があったからだろぉ? 盗撮という名のな」
まぁ、ティッシュボックスあんのにわざわざポケットティッシュ取り出した時点で、確信100%になったんだけど……。
――車内に重苦しい静寂が流れる……天筒は身を屈め、散らばったティッシュを拾い集めていると、亀山がポツリと口を開いた。
「…………す、すみません、ほんの出来心だったんです――あの、盗撮していたのは全部顔だけです」
「顔だけ?」
天筒は身を起こす。
「……はい、実は私、顔フェチなんです……顔以外に興味ないんです……! だからっ、慰めにもならないと思いますが、撮影していたのは顔だけなんです」
つらつらと性癖を暴露した亀山、天筒は無意識に顔に触れていた。
「そ、そうか……まぁ私スーツだし、盗撮するもんもできないもんな……」
天筒が少し動揺していると、亀山はグッと歯噛みして、呟く。
「もう辞めます、だからどうかこのことは――」
「許してくれって? こんなことが許されるとでも? あんた、一体何人の『人の尊厳』を踏み躙ったんだ?」
「…………」
亀山は無理だろうなと分かっていた、なので最後の運転手としての業務を全力で遂行していた。
天筒はトントンとティッシュに灰を落とす。
「だから私は煙草を吸った」
「……は?」
亀山はもう反射的に、鏡越しの天筒と目を合わせていた――その目は、鹿の目だ。漆黒の瞳に、美しいまつ毛、湿潤に見えて渇き切っている。神々しささえ漂わせ、だのに雨景色そのものが持つ蕭索たる陰鬱を匂わせている。
な、何言ってるんだこの人……。
「言ったろ、私は人畜生だってな。お前がどんなクズでもカスでも犯罪者でも――あんたは獲物じゃねーからな」
「――――」
「だからあえて言う――――"ありがとう"。あんたのおかげで、タクシーの中で煙草が吸えたよ」
「あ、あり――」
亀山は、何を言われているのか分からなかった。
――否、何を生きてきたのか分からなかった。
亀山には三十年間、ずっと罪の意識があった。
しかし、そのさらりと突き付けられた価値観は、己の全く頭にない極地にあり、思春期に味わう自己と外界のギャップに難色を想起させるが如く、曖昧な屈辱を感じていた。
"悪に対し悪を行う"――その寛容さ、要領の良さ、つまりは小狡さが、大人である己を精神性で上回っているからだ。
「……………………」
亀山は真っ直ぐ先をただ見つめて、沈黙する。
――これより警察署到着までの残り数分間は、両者無言で過ごした。
亀山は人生を見直す時間としてこの時間を使い、天筒もまた心で反響する叫びと向き合っていた。
***
警察署に到着し、亀山は路肩に停車する
「ほぉ〜凄いな……」
天筒は目を張りつつ、煙草を握りつぶしてティッシュで包んだ。
亀山の運転手としての技能は、天筒の心を虚をついた。
天筒が乗車した地点から警察署までの道のり、その最短時間、最低料金――つまり完璧の運転により天筒を送り届けたのだった――。
「ありがとう」
天筒は料金を支払いつつ、言った。
「…………」
ありがとう、か……。
眩い夕焼けがタクシーに差し込む。
亀山はすぅと呼吸を吸い込み、振り向く。
天筒はキョトンと、目を合わせてきた。
――きっと世間的に見れば、この人も悪だ……
だが"悪"から見れば、あの人はあまりに可憐だった。
「私も降りますよ。――お先にどうぞ、後から追わせてもらいますので」
――面と向かって言った、含意に満ちた表情だった。
「そうか、じゃあ、先に行く」
天筒はタクシーを降りる、ふわっと風が通り過ぎる、夏風にしてはやけに冷たかった気がした。
「…………」
カラスが鳴いた。夕陽が沈みかけ、東京は闇に沈み始めている。
亀山は車内から天筒の様子を見ていた。
――天筒はポケットに手を突っ込み、警察署の玄関に歩き出す。
「……ありがとうございます……」
亀山はそう呟くと、ハンドルを愛でるように撫でて湿った吐息を漏らした。
充分に時間を置いた後、証拠品の小型カメラを持って警察署に歩き出したのだった。
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