10.目星
――明日香の拳は、ノクトの顔面に完全に沈み込んでいた。
***
「――やーっと静かになった……」
明日香は手に付いている血を、ノクトが脱ぎ捨てたスーツであらかた綺麗にする。そのすぐ隣には、血溜まりを広げるノクトが伸びている、その顔は見るも無惨に火山口のように空いて、血が噴き出していた。
「さっさと逃げよっと」
明日香は手を拭くのも程々に、小走りで駆け出した。血を踏まないよう「ととと」と片足で避けつつ、明るい大通りへと出た。
――あ〜あ……逃げられちゃった。
ノクトは明日香が去る足音を聞いてから、筋肉を弛緩させた。湿っぽい風が傷口を撫でる。
いてて……。まぁ当たり前かー、勝算もなしにノクトと戦うなんて……初めてやったわ。じゃなくてもパンチのパの字も知らないワシなんだ、さらさら勝てるわけなかった。
明日香は薄暗い路地を出て、人の流れに乗じて姿を紛らす。
…………ワシは弱いから、昔から相手をイラつかせることに全力を注いできた、手より口を、足より口を、何より口を――一言でも癪にさわれば上々。
――ワシは勝ち負けに囚われない。
少し歩いていると、明日香は人混みの先で発見した、蠢く人の波の中で見えにくいが、厳かな制服に身を包んだ二人の女性警官だった。
それと同時に、警官も明日香を視認した。
「――!」
あ、あいつッ……!
明日香は踵を返して走り出した。警官側は当然、警察を見て取り乱した人物を追いかけ始める。
ワシはワシの全てに満足している。
――筈なのに、じゃあなんだこれは――
この熱は!!
ノクトの握られた拳は、プルプル震えていた。蒸気を噴き出すやかんのように、溢れ出る熱が、止まらなかった。
思うに――これが"人間"なんじゃないか。混ざり合った"人間"が、ノクトとは違う……"今を生きようとする熱"を燻っているんだ、きっと。
心中で爆ぜる消化不良感。口が崩壊して深呼吸できない代わりのように、血が溢れ出る。
血の匂いに釣られたカラスやネズミが群がってくる。
……いや、落ち着け、まずこの損傷を直さないとどうしようもない。この路地裏の暗さなら……一時間くらいか、どのみちアイツを捕まえるのは無理だ。
流れ出る血と一緒に、この熱も冷めてくれる――
次の瞬間――突然ノクトの顔に、真っ黒な布が覆い被さった。
「――――」
傷口が闇に閉ざされ、ノクトの砕けた骨と肉が急速に再生されていく――。
――でもなぁ、なんでかなぁ――。
ノクトは事態を把握するより先に、手が、足が動いて、駆け出した。
「いた!」
「ッチ! いってぇな!」
「謝れよクソ女!」
「――あんのクソノクト〜! やっぱ既に通報してたんじゃねぇ〜かよぉォ〜!!」
明日香は通行人を押し退けて逃げ回り、周囲から罵倒が飛ぶ。しかし、その非常識さが功をなし、警官二人は明日香を見失いつつあった。
な、なんで私がこんな目に……私、なんか悪いことした――?
その瞬間、誰かが明日香の肩を掴んだ。きっと、要らぬ正義感を持った人間が引き止めたんだと、明日香は威嚇と一緒に振り向いた。
「なにっ――」
――こっちの方が、『生きる』って感じなんだよなぁ……!!
「どこ行くんだよ〜!! 全力はこっからっつったろ〜!?」
「なッ、あ、あんたッ……!? なんで……!!」
明日香は目を見開いて喫驚した、不測の事態に足を止めざるを得ない。
何度も何度も負けて、無様に地べたにへばりついてたのに――なんでまた顔を見せられたんだ!?
ノクトがいかにこの速度で復活したのかよりも、その精神力を真っ先に疑った。
「うわ何アレ! やば!」
「これバズるっしょ!!」
二人は円形に世界から隔離される。東京、昼、大通り沿い、事件が日常茶飯事になったここでさえも、その二人は異様なものだった。
「…………」
――はたして、何度も何度も打ち負かして、打ち砕いた奴が、何事もなきように自分の行手を遮ってきた時、沸く感情は一体何だろう。
「ワシは今を生きてんだよ〜!!」
「――――意味わかんない」
倦厭と滑稽を差し置いて――明日香はとうとう恐怖した。顔を青くして、冷や汗をかいて、鳥肌を浮かべて、身を捩らせて、理解不能な存在を嫌悪した。
「――ッ、助けて……!!」
なんと、明日香は周囲の人間に助けを求めた。なんて都合が良いのだろうと、ノクトは可笑しくギャハハと笑った。
「お、おい!!」
すると、スーツの男が緊張した様子で現れ、手を伸ばした。
「ギャハハッ!! もう逃げられね〜なぁ〜――」
「お前だよこの変質者」
「!?」
男はノクトの腕を掴んで明日香から引き剥がした。
「おいアホか! 善悪判んねぇならスッこんでろよハゲ!」
「どう考えたって全裸で血塗れの奴の方が危ないだろ、あんなか弱そうな女の子狙って、何が目的だこの変質者!!」
「殺すんだよあの殺人者をなぁ! 今殺さなきゃもう二度と会えねぇかも知んねぇ――だから『今』殺すんだよ!!」
「うお……」
男はノクトの狂気じみた表情と狂言にドン引きした。その時、追っていた二人の警官が到着した。
「ハッ、よかった! お巡りさん! アイツ殺してください!」
ノクトは叫んで言い、指を向けた。しかしそこに明日香の姿は無かった。
「――っていねぇ! 逃げ足早ッグフッ――」
「――13時59分、お前を公然わいせつ罪で逮捕する!」
「離れて! 離れてください!!」
気がつけば地面にうつ伏せに押さえつけられ、カチャリと手錠が掛けられていた。ノクトは首を捻って、自分の上に乗っかる警官を睨んだ。
「こうぜん、わいせつ……? 何の罪だよそれ!! 電話しただろ、ノクトが人殺してますってよぉ! ノクト追えよクソ無能共が!!」
ポニーテールの女性警察官は、眉を寄せ仲間と顔を見合わせてから、答えた。
「……? いや、私たちはただ巡回していただけだ。それにノクトの殺し案件なら警察に通報しても、実際に動くのは猟闇会だ」
「猟闇会〜? じゃあそいつらどこに居んだよ〜」
「知らなくていい、ひとまずお前を連行する」
「死ね無能――」
ゴンっと、アスファルトに頭を打ち付けられた。
***
「はぁ、はぁ、はぁ――!」
――び、ビビった〜!!
明日香は人影のない小道で息をつき、激しい脈動を静める。ここまでの人生で、これ程の恐怖に駆られ無我夢中に走ったことはなかった。
「……ッは〜……マ〜ジで、死ねよあのクソ女〜(?)」
てか、そんな焦んなくたって、普通にヤバいのはあっちだし、誤魔化せたかも知れなかったな。殺人ノクトとして通報したなら、来るのは猟闇会なんだし――。
明日香は額の汗を拭って、
「――ノクト、殺しちゃうんスか」
「勿体無いって二度と言うなよ、それが被害に遭った方たちにどれだけ無礼か覚えとけ」
寂れた生活音が飽和する、車一台分の小道の先から、スーツの男が二人、迫ってきていた。
無精髭を生やした短髪の三十路の男と、その後ろに気怠げで顔立ちの良い黒髪の青年。異様なのは青年の右手にバールが握られていることだ。
「――――」
分かる、年の功だろう――あれは猟闇会だ。
この道には日がよく差し込む、ろくに戦えないだろう。明日香は唾を飲み込む。動揺しかけた心をなんとか持ち直し、足を出した。
仮にあのノクトが私の服装や特徴を伝えていたとしても、ワンピースに黒髪、珍しい格好ではない。衣服に血は付着させなかった、多少汚れているが……今、私が殺人ノクトだと判ずる証拠はない――。
――だから"堂々"……! 引き返さず、立ち止まらず、毅然とすれ違う!
「…………」
接近する猟闇会――明日香は道の隅を、あえて胸を張り悠々と歩く。
まるで、オオカミを前に息を殺してやり過ごすウサギのような心持ちで、彼らが放つ、肌を突き刺す"攻撃"の空気を全身で受け止めて、歩みを止めない。
バレないバレないバレないバレないバレないバレないバレないバレないバレないバレないバレない――――。
「――――」
すれ違った――――彼らは気が付かなかった。
「――っフハッ……!」
――猟闇会を通り過ぎた瞬間、爆発しそうだった心臓が解放された。
明日香はか細く息を吐き出した。
「――あぁー……本当に殺しちゃうんスか」
「――――」
心臓がギュッと萎んだ。
明日香はギギギと、動揺で硬直する首を回して、振り返った。嫌な予感がした――否、明日香にとって予感なんてものではなく、もっと明確に――事実だ。
「通報にあったノクトだな、駆除しよう。よし、柳川、やってみろ」
「――見逃してあげません?」
二人の猟闇会は、明日香に指差して言った。
「ど、どうしてっ……!」
「白いワンピースに黒髪の女、血痕の付着が目立つ……君しかいないだろう?」
「けっ、こん……――」
嘘よ、そんなの一滴だって付けなかった――――ま、まさかッ――!?
『どこ行くんだよ〜――』
あの時か――!!
明日香は歯を噛み締め、ノクトに掴まれた肩に触れる。そこには、明日香に見えない位置、感じ取れない程度に、殴られたことによる流血が、付着していた。
あのクソは最初から私に目印を付けることが目的だったのかぁ――クッッッソぉ……殺してぇェェ……!
「――どうした、構えないのか」
「――ヒッ……」
怒りを爆発させている間に、バールを持った青年がこちらに向かってきていた。その鋭い瞳は間違いなく、自分を屠ろうとしていて、明日香は思わず慄いた。
く、くる――嫌だ嫌だ死にたくない死にたくないあんな奴のせいで死ぬなんて、死ぬほど嫌だ――。
明日香が青年の漂わせる強者の空気に気押されつつ、戦闘態勢に入った時――青年はバールを右手だけで大きく振りかぶった――明日香はカウンターを狙うためそれを注視する――。
「――……こんな明るい場所で――」
――今際の際に聞こえたその平坦な声は、一瞬自分を憐んでいるように思えたが、どこか違うような気がした――。
その正体がなんなのか判別する前に――バールが振り切られる鈍い音が、昼の路地に響いた。
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