第9章 – デコイ
昼下がりの光が悟の小さな居間に差し込み、半分閉じたカーテンを通して柔らかく揺れていた。メカニカルキーボードのカタカタという音が途切れることなく響き、悟の指が次々とキーを叩いては、昨夜カイトが見つけた新しいメモの暗号を解読していく。カイトは腕を組み、画面に現れては消えていくバイナリ数字をじっと見つめていた。
「……出たぞ」悟が小さくつぶやき、背筋を伸ばした。「『土曜日の22時』……そして新しい住所だ」
カイトは眉をひそめた。
「二夜連続か……奴は俺に遊びを続けさせたいらしい」
悟は椅子を回し、重い表情で彼を見据えた。
「カイト……昨日お前を見たなら、今夜は待ち伏せしているかもしれん。いや、そもそも現れない可能性もある。これはお前を殺す罠か、あるいは完全な陽動だ」
「わかってる」カイトは火をつけないまま煙草を口にくわえた。「だが少しでも捕まえる可能性があるなら、行く」
「だったら早く行け。ずっと早くだ。1時間でも2時間でも……とにかく10時ちょうどはやめろ」
「2時間前に着く」カイトはきっぱりと言い、メモをコートのポケットへ滑り込ませて立ち上がった。「もし奴が来なければ、それもまた一つの情報になる」
悟は深く息を吐いた。
「……頼む、気を付けてくれ。もしお前に何かあったら……俺は一生後悔する」
カイトはわずかに口元を緩めた。
「ありがとう、悟」
カイトが部屋を出ると、スマホが震えた。画面に玲子の名前が光る。
「どうした?」
「事件の進展を知りたいの」玲子の声には、いくつもの思考を同時に抱え込んでいるような緊張が混じっていた。
カイトは新しいメッセージと住所のことを伝える。
「今夜行く。時間より前に」
「奴は現れないと思う。でも……行きなさい。もし姿を見せたら、逃す隙を与えないで」
「了解」
通話を切り、カイトは家に戻った。数時間は静かに準備に費やす。装備を点検し、マガジンを確認し、懐中電灯と小型のタクティカルナイフを用意した。午後8時きっかり、カイトは既に現場の前にいた。
二階建ての家。ベージュ色の外壁。小さな庭。室内の明かりは灯っている。
カイトはベルを鳴らした。ドアを開けたのは三十歳前後の女性。髪は乱れたお団子、エプロンには小麦粉の跡。
「どちら様?」わずかな警戒を含んだ声。
「俺はカイト。私立探偵だ。話がある」声は低く落ち着いている。「殺人犯がお前を狙っている」
女性は神経質な笑いをもらした。
「何それ……ありえない」
「いや、現実だ。中で説明させてくれ」
「誰に頼まれたか知らないけど、ここに殺人犯なんていないわ」ドアを閉めようとする。
カイトはバッジを掲げた。
女性は一瞬ためらい、やがてドアを開いた。
ダイニングに入ると、焼きたてのパンの匂いが漂っていた。
「コーヒーでも?」まだ警戒の色を残しながら彼女が尋ねる。
「いや、結構だ」カイトは椅子に腰を下ろす。「奴は今夜10時にここへ来ると手紙に書いていた」
「でも……今はまだ8時よ」女性は自分の手を見下ろしながら言った。「……まあ、夕食の準備をしてくるわ」
彼女が台所に消えると、カイトは周囲を見渡した。棚に並ぶ写真。女性と十歳ほどの少年が笑っている。
「息子か?」彼女が水の入ったグラスを持って戻った時、カイトが尋ねた。
「ええ。私の全てよ」
カイトの眉がさらに寄った。最近の犠牲者は皆、母親だった――あまりにも出来すぎた一致。
時間が過ぎ、カイトは部屋の隅々まで静かに観察した。監視装置の痕跡や侵入の形跡を探す。
突然、子供の悲鳴が家中を突き抜けた。二階から。
女性はスプーンを落とし、口を両手で覆った。
「悠司!」
カイトは即座に立ち上がり、拳銃を抜いた。
「ここにいろ」
静かに階段を上り、手すりに指を添えて足音を消す。半開きのドアの前で止まり、蹴り開けた。
中では少年が床に座り、ホラー映画を観ていた。銃口を向けられて肩を震わせる。
「大丈夫だ」カイトは銃を下げた。「守るために来た」
「ママ!」少年が叫ぶ。
返事はない。家全体が冷えたように感じられた。カイトはドアを外側から閉めた。
「ここで待て。絶対に開けるな」
階段を駆け下りると、玄関は大きく開け放たれていた。台所へ走る。
女性は椅子に縛られ、口にはテープ。彼女の目が安堵で潤む。カイトはテープを引きはがした。
「後ろ!」
左側の気配――大柄なフードの男がバットを振りかぶっていた。
強烈な一撃がカイトの腕を打ち、拳銃が床に落ちる。
カイトはよろめきながらもカウンターの上を探り、ガラス瓶を掴むと、相手の頭に叩きつけた。
男は一瞬ふらつき、唸り声を上げると出口へ走った。
カイトが追いかけようとすると、バットが投げつけられた。彼は身を沈め、木製の塊が頭上をかすめる。
立ち直ったときには、男はすでに黒い車へ飛び乗っていた。エンジンが唸り、車は夜道へ消える。
カイトは短く舌打ちし、女性の元へ戻った。
「大丈夫か?」縄を切りながら尋ねる。
「ええ……ありがとう」女性の手は震えていた。
「警察を呼べ。全部話せ。そうすれば少しは安心できる」カイトは銃をしまい、ドアへ向かった。
「あなたは? 一緒に……」
「いや」カイトは優しく遮った。「俺には追うべきものがある」
出て行く前に、もう一度だけ振り返った。
「奴から何か手紙を受け取ったか? 変わったものでも」
「いいえ……何も」
カイトはうなずき、夜の闇に消えていった。残されたのはパンの香りと、空を切ったバットの残響だけだった。




