第7章 – 歌と影と秘密
午後の街は夕陽に染まり、建物の輪郭を橙色に縁取っていた。カイトは事務所の扉を押し開け、仕事があるかと思って中へ入った。
中では、愛子が雑誌をぱらぱらめくりながら椅子にだらしなく腰掛け、玲子は書類の束をめくり、レンジロウは壁にもたれてスマホをいじっていた。
「よう」カイトがいつものそっけない声で挨拶した。
玲子が顔を上げる。
「今日は依頼なしよ、カイト」
彼は小さく息を吐き、踵を返した。
「じゃあ帰る」
「待てよ」レンジロウがスマホをポケットにしまう。「久々に一杯やろうぜ。そう簡単には帰さない」
カイトは眉を上げた。
「遠慮する」
「いいじゃん!」愛子が笑顔で割り込む。「三人でさ。玲子さんも誘ってみようよ」
「私は行かないわ」玲子は顔を上げず、書類をめくりながら冷たく言った。「あなたたちでどうぞ」
レンジロウは口元を歪めた。
「決まりだな。カラオケ行こう。飲んで食べて、ちょっと歌って」
カイトは静かにため息をつき、反論を探したが見つからなかった。
「……わかった。少しだけだ」
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スーパージャンカラ – 午後9時17分
ネオン看板がちらちらと瞬いている。愛子が一番に到着し、シンプルな黒いドレスに髪をまとめていた。数分後にレンジロウ、そしてカイトが現れた。
「全員集合!」愛子がドアを押し開けた。
低いテーブルに座布団、揚げ物の小皿とビールのピッチャーが並ぶ。レンジロウが口を開いた。
「そういや昔の話だが……ヒロシが引退したって知ってたか?」
カイトはグラスから顔を上げた。
「何? あの人、そんな歳じゃなかったはずだ」
「ヒロシって誰?」愛子が首をかしげる。
「俺とレンジロウが知ってる警察署長だ」カイトが簡単に説明する。
レンジロウはビールを一口飲んで続けた。
「去年、犯罪組織のアジトを襲撃したとき、後ろ首に銃弾を食らったんだ。命は助かったが、車椅子生活だ」
愛子は胸に手を当てた。
「……大変だったんだね」
カイトはしばし沈黙し、静かに尋ねた。
「今は……少しは良くなったのか?」
「腕は動く。だが脚は……全然だ」
会話は次第に途切れ、ビールの泡が静かに弾ける音だけが残った。やがてレンジロウは上機嫌になり、近くの女性グループに声をかけに行った。残されたのはカイトと愛子。
「歌わない?」愛子が悪戯っぽく微笑む。
「いや」
「ちょっとだけでいいじゃん」
「歌は好きじゃない」
愛子は視線を落とし、少し拗ねた様子を見せた。カイトはため息をつき、立ち上がった。
「……一曲だけな」
小さなステージに立ち、マイクを握り、深く安定した声で歌い始めるカイト。その姿を愛子は微笑みながら見つめた。しかしその空気は、奥でレンジロウが男を殴り飛ばし、テーブルに叩きつけた瞬間に破られた。
カイトはマイクを置き、すぐに駆け寄った。
「レンジロウ!」
愛子も後を追う。さらに二人の男が乱闘に加わり、店長が怒鳴り声を上げた。
「出て行け! うちは騒ぎはごめんだ!」
外に出ると、レンジロウはふらつきながら呟いた。
「悪いな……一人になるのが怖くて。台無しにしてすまん」
「構わん」カイトは淡々と答える。「カラオケは得意じゃない」
愛子が横目でカイトを見た。
「でも、歌……上手だったよ」
「ありがとう」
「うちに来るか」カイトが提案した。「近い。レンジロウは一人じゃ帰れん」
愛子は頷き、三人は街灯の下を歩き、カイトの家へ向かった。
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カイトの家
二階建てで、庭もついた広い家。
「……すごい」愛子が感嘆の声を漏らす。「一人暮らしでこれは贅沢だね」
「広い方が落ち着く」カイトは鍵を回し、ドアを開けた。
レンジロウは長いソファに倒れ込み、愛子は一人用の椅子に腰掛ける。
「ちょっと外で電話してくる」カイトは煙草をくわえたまま庭へ出た。
残された二人。愛子がそっと呟いた。
「……本当に素敵な家。私もこんな場所に住みたい」
レンジロウが薄く笑う。
「カイトなら当然だ。給料が二つある」
「二つ?」愛子は首をかしげた。
「……忘れてくれ」
レンジロウはふらつきながら立ち上がった。
「トイレ、どこだ?」
「案内するよ」
二階の廊下を進み、一番奥の右の扉を開ける。だがそこは――。
壁一面に貼られた犯罪現場の写真。被害者は全員女性。中央には無数のメモと切り抜きで埋まったボード。そして古びた新聞の見出し――「西田リナ殺害事件」。
愛子は息を呑む。
「これ……何?」
レンジロウが喉を鳴らした。
「……カイトはまだ、奥さんの事件を追ってるんだ」
そのとき、扉に影が落ちた。カイト。
「ここで何をしている」声は氷のように冷たかった。
「……トイレを探して」レンジロウが答える。
「これは……?」愛子が震える声で問う。
カイトは視線を逸らさず煙草に火をつけた。
「知られたくなかった。関わらせたくもなかった」
そして語り始めた。自分の正体。レンジロウとの関係。三年前、妻が殺されたこと。
「……手伝わせて」愛子が言う。
「もう遅い。三年間探し続けたが、何の手掛かりもない」
レンジロウも静かに付け加える。
「お前が去ったあと、リクも調べ続けた。でも……成果はない」
「帰れ」カイトは短く告げた。
二人は黙って階下に降り、夜の街へ消えた。カイトは部屋に残り、ズボンのポケットからネックレスを取り出した。リナのために買ったものだ。
指先でそれを撫でながら、微笑み、囁いた。
「……もう、終わりにしよう」
テーブルにネックレスを置き、初めて前を向こうとしていた。




