第5章 ―― 炎と影
二人の足音が、廃工場の中に鈍く反響していた。
錆びと水染みで覆われた壁は、ひび割れた窓から差し込むわずかな光を吸い込み、闇をさらに濃くしている。
空気は古びた金属とこぼれた油、そして長年積もった埃の酸味を帯びた匂いで満ちていた。
カイトが先頭に立ち、その影が薄闇を切り裂くように進む。アイコは数メートル後ろを、余計な音を立てぬよう息を殺してついていった。
足元の砂利や細かなガラス片が踏み砕かれる音は、彼女には必要以上に大きく響いた。
「武装した奴らが十人……」
カイトは木箱の角から慎重に覗き込み、小さくつぶやいた。
「一番奥の部屋を守ってるみたいですね」
アイコは囁くように言い、武器を握る手に力を込めた。
カイトはジャケットのサイドポケットから何かを取り出し、彼女に差し出す。
「これをつけろ」
アイコは怪訝そうにそれを見つめた。
口と鼻を覆う黒いマスクだった。
「どうしてですか?」
「顔を覚えられないためだ」
彼の声は低く、短く切り捨てるようだった。
「もしこいつらの中で生き残る奴がいたら、お前の素性を知られたくない」
アイコは無言で頷き、マスクを装着した。
カイトも同じように着け、一瞬だけ二人の視線がぶつかる。
その目は、これから行うことに後戻りがないことを静かに確認し合っていた。
二人が木箱の影を滑るように進んでいたとき、その光景が彼らの動きを止めた。
脇の通路から二人の武装男が現れ、その後ろには二人の子供を引きずる男。
一人は六歳ほど、もう一人は十一歳くらいだろうか。
二人とも打撲や傷が目立ち、ちらつく天井灯の薄明かりでも痛々しい様子がわかる。
片方は足を引きずり、もう片方のTシャツは裂けていた。
「クソ野郎ども……」
アイコは武器を握る手に力をこめ、指の関節が真っ白になった。
カイトは彼女の肩に強く手を置いた。
「アイコ……冷静になれ」
彼女は怒りを宿した瞳で睨み返す。
「子供ですよ! このまま見てるつもりですか!?」
カイトはすぐには答えなかったが、その目には氷のような殺気が宿っていた。
内心では煮えたぎっている。
今見た光景は、任務の意味を根底から変えた。
これは単なる犯罪組織への作戦ではない――児童人身売買だ。
彼は深くゆっくり息を吸い、数秒で状況を計算する。
そして無言のまま、ジャケットの中から発煙弾と暗視ゴーグルを取り出した。
「これをかけろ。煙の中でも見えるのは俺たちだけだ」
アイコはためらわずゴーグルを装着する。
カイトは発煙弾のピンを引き抜き、手首のスナップで放った。
金属音を立てて床を転がり、壁に当たった瞬間――「パンッ」という破裂音とともに、濃い灰色の煙が広がった。
「何だと!?」
男の一人が怒鳴り、音の方へ向き直る。
十人の護衛たちは闇雲に発砲し、弾丸は鉄骨や配管に弾かれて火花を散らした。
煙は渦を巻き、彼らの視界を完全に奪う。
カイトとアイコは影のように素早く、静かに、遮蔽物を縫うように移動した。
放たれる弾はすべて正確。引き金を引くたび、標的は一人ずつ倒れていく。
流れ弾がアイコの頬をかすめ、細い血の筋を残した。
だが彼女は眉ひとつ動かさない。
「大丈夫です」
痛みよりも、その小さな刺激が鬱陶しいと言わんばかりだった。
煙が薄れ始めたとき、武装した男たちはすでに全員、意識を失うか戦闘不能になっていた。
カイトは迷わず、守られていた扉へ歩み寄り、蹴り飛ばした。
爆音が工場全体に響き渡る。
中には、ヨシオが擦り切れた革張りの肘掛け椅子に胡座をかいて座っていた。
周囲には五人のボディーガード――全員が短機関銃や拳銃で武装している。
「お前ら、何者だ?」
ヨシオの声は嘲りと脅しが混じっていた。
アイコが一歩前へ出て、銃口を彼の胸に向ける。
「どうでもいいことです。知るべきことは一つ――あんたは刑務所行きだ」
ヨシオは鼻で笑い、片手を軽く振った。
「やれ」
銃声が部屋を満たした。
カイトとアイコは左右に転がって遮蔽物に隠れ、瓦礫や壊れた機械の影から応戦する。
弾丸が頭上をかすめ、壁を粉砕し、埃が降りかかる。
的確な射撃で、護衛たちは一人ずつ倒れていった。
残ったのはヨシオ一人。
彼は後ずさりしながら出口を探していたが、突如ブーツからナイフを抜き、室内の少年を捕まえる。
刃を首筋に押し当てた。
「このガキが欲しけりゃ、銃を置け。今すぐだ」
カイトは冷たい視線を向けたまま銃を構える。
「少年を離せ」
「銃を置け……でなきゃこいつの喉を掻き切るぞ」
ヨシオは嗤った。
カイトはゆっくりと腰を落とし、銃を床に置くふりをした――その瞬間、一発の銃声が響く。
「うあっ!」
ヨシオが悲鳴を上げ、ナイフが床に落ちた。
ドア口にはアイコ。まだ温もりを帯びた銃口を彼に向けていた。
「終わりです」
少年はカイトの元へ走り、彼は即座にその身を庇った。
数分後、ヨシオは手を包帯で巻かれ、手錠をかけられて警官に連行されていった。
外ではサイレンが夜を青と赤に染めている。
カイトは警官にバッジを見せ、詳細な状況を説明し、子供たちが保護下に置かれるよう手配した。
報告を終えると、アイコが少し悪戯っぽい笑みを浮かべて近づく。
「今日は最高でした」
「最高?」
カイトが眉を上げる。
「ええ……あなたと組むのが楽しかったんです。それに、私が入ってからあなたが笑ったの、今日が初めてですよね?」
カイトの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「たまに笑うくらい、悪くない」
彼女はしばし彼を見つめ、それから彼は車へと歩き出した。
――
後に、署へ戻った二人はレイコの前で報告を終える。
レイコはアイコに向かって言った。
「少し席を外してくれる? カイトと話がある」
「はい」
アイコは部屋を出て、ドアを閉めた。
レイコはタバコに火をつけ、指に挟んだまま言う。
「アイコを相棒にしてほしい」
「断る」
カイトは即答した。
「考え直しなさい。彼女はあなたを慕ってる。うちで一番の腕を持つあなただからこそだ。あんたが入ってこの二年、すべての事件を解決してきた」
カイトもタバコに火をつけ、深く吸い込み、視線を向けぬまま答える。
「俺は一人で動くのが性に合ってる」
レイコは彼の唇からタバコを抜き、ひと吸いして煙を吐く。
「新しく入った男がいる。彼と一件だけやってみて、どれだけ使えるか見極めてほしい」
カイトは諦めたように煙を吐き出す。
「それが終わったら、また一人に戻る」
「いいわ。年はアイコほど若くないけど、年寄りでもない。元警官よ」
その言葉にカイトの目がわずかに細まる。
「いつ来る?」
「もうすぐ」
その時、アイコが顔を出した。
「レイコさん、あなたに会いたいという男が来ています」
「その新人ね。カイト、一緒に来て」
二人は廊下を並んで歩く。
入口にたどり着いた瞬間、カイトは足を止めた。
そこに立っていたのは黒いスーツを着た長身の男。
その男も驚きと懐かしさを混ぜた目でカイトを見返す。
「おや……これは……」
男は、カイトが東京で葬り去ったはずの名をはっきりと口にした。




