第3章 – 先斗町の影
二年――
それは、仁科浩人という男がこの世から消えてしまってからの年月だった。
京都は、余計な詮索をしない町だ。うまく目立たずに暮らせる者には、静かに受け入れてくれる。浩人は名を変え、過去を焼き払い、全ての橋を落とした。今の彼は「白銀海翔」という名の私立探偵。観光地の地図にも載らない裏路地に、ひっそりと事務所を構えている。
――二年経っても、煙草なしじゃ眠れない。
湿った路面を歩きながら、海翔はそう思った。
東京とは違い、京都の夜明けは穏やかな静けさを運んでくる。古木の香りと緑茶の匂いが漂い、どこかで煙突から上がる細い煙が空へと溶けていく。薄暗い路地を抜けると、古びた木の扉が現れた。塗装は剥げ、真鍮の表札はくすんでいるが、かろうじて「白銀探偵事務所」と読めた。
扉を押し開けると、濃いコーヒーの香りと古書の匂いが鼻をくすぐった。
書類と空のマグカップに埋もれた机の向こうに、麗子が座っていた。髪はきっちりとまとめられ、細縁の眼鏡がその表情に厳しさを加えている。
「時間ぴったりね、海翔」
新聞から目を離さず、彼女は言った。
「いつも時間通りだ」海翔は向かいの椅子に腰を下ろした。
麗子は新聞をめくりながら告げる。
「仕事よ」
「聞こう」
「元恋人を殺した男がいるわ。京都、それも先斗町あたりで目撃されてる」
そう言って、一枚の写真を差し出した。
若い顔、強張った顎、傲慢さと怯えが入り混じった目――逃げ続ける者特有の表情だった。
その時、事務所の扉がきしみ、高い位置で束ねた黒髪を揺らす若い女が入ってきた。鋭い目つきで、腕にはファイルを抱えている。
「また事件ですか?」写真を覗き込みながら尋ねる。
「そうだ」海翔は短く答えた。
「私も行きたいです」
海翔は片眉を上げた。「足手まといはいらない」
「あなたが来てから、依頼は全部成功してる。だから学びたいんです」
麗子が口を挟んだ。
「机にかじりついてるよりは、現場を見たほうが勉強になるわ」
海翔は後頭部を掻き、ため息をついた。
「……いいだろう。ただし邪魔はするな」
若い女は勝ち誇ったように笑った。「もちろん」
夜の先斗町は、提灯の明かりに照らされた回廊のようになっていた。鴨川の水面にはネオンの光が揺れ、焼き魚や出汁、熱燗の香りが漂う。開け放たれた茶屋からは三味線の音色と笑い声が漏れていた。
「来るのは初めてです」若い女が小声で言う。
「観光じゃない」海翔は群衆を見渡しながら答えた。
彼女は店先の料理を一つ一つ目で追っていたが、突然、表情が変わった。
「いた」
視線の先には、写真と寸分違わぬ男。
男は店の扉に手をかけたが、二人に気づいた瞬間、肩を強張らせて走り出した。
「行くぞ!」海翔は人混みをかき分けて追う。
観光客、腕を組む恋人たち、料理を運ぶ店員――人波を縫いながら、二人は左右に別れ、逃げ道を塞ぐ形で走った。
若い女は腰の拳銃に手を伸ばしたが、ここで撃つのは無謀だと判断した。
海翔はベンチを飛び越えて視界を確保するが、男はすでに脇道へ消えていた。舌打ちし、さらに速度を上げる。
次の瞬間、鋭い声が夜を裂いた。
「動くな!」
曲がり角を抜けると、袋小路の突き当たりに男が立ちすくんでいた。その前には若い女。拳銃を真正面から突きつけている。
「手を上げて」
男はゆっくりと両手を挙げた。海翔が追いつき、冷たい息を吐く。
「よくやった」
彼女はわずかに頬を染めた。「ありがとうございます」
「縛って、場所を変えよう」
「取調室」と呼ぶにはお粗末な部屋だった。小さな机と椅子、ぶら下がる裸電球。それだけだ。
片面鏡の向こうで、若い女と麗子が様子をうかがっている。麗子は煙草に火をつけ、無表情で煙を吐いた。
海翔は男を椅子に押し込み、フードを剥いだ。
「女のことを話せ」
「知らねえ」
被害者の写真を机に置く。男の顔から虚勢が消え、唇が震えた。
「俺じゃねえ……あいつらだ」
「“あいつら”?」海翔は視線を外さない。
外で若い女が麗子にささやく。
「なぜ急に黙ったんでしょう」
「さあね」麗子が答える。
「なぜその組が関わった?」海翔は低い声で問う。
「……博打だ。借りた金を倍にして返すつもりが、全部すった。返済期限が来ても、金はなかった」
拳を握りしめながら続ける。
「ある夜、彼女の部屋にいたら、あいつらが押し入ってきた。仮面と刃物で。二人とも縛られて……金を要求された。頼み込んだが、聞く耳持たず。刃を抜いて……その場で彼女を殺した。俺がやったように見せかけてな」
部屋の空気が重くなる。
「名前を」
男はうつむいたまま、組員の名を口にした。
海翔は立ち上がり、観察室に入る。
「警察に引き渡せ」
若い女が眉をひそめる。「あなたは行かないんですか?」
「まだ決めてない」
外に出て煙草に火をつける。冷たい夜気が肌を刺した。若い女が後を追う。
「行くなら、私も連れてって」
「行くとは言ってない」
「どうして?」
「お前の仕事はヤクザと戦うことじゃない」
「じゃあ、なぜ組の話が出た途端に黙ったんです?」
海翔は横目で見た。「……埋めたはずの記憶が、顔を出した」
若い女は一歩引いた。「行かないなら、私が一人で行きます」
そう言い残し、建物へ戻っていった。
海翔は煙を吐き、火が尽きるまで黙って見つめた。そして吸い殻を踏み消し、中へ戻る。
「麗子、その組の情報を全部洗ってくれ」
若い女は、静かに微笑んだ。




