第2章 家に潜む影
夜明けの東京に、淡く金属のような灰色が忍び寄っていた。細かな霧がビルの間を縫い、通りを囁きで包み込む。遠くから電車の低い響きが、電柱に張られた電線のうなりと混ざり合う。
武田陸はパトカーを中央警察署の前に停めた。書類上は静かな夜だったが、体は確かにその重みを覚えている。ドアを閉める前に腕を伸ばし、肩にのしかかる見えない負荷を振り払おうとした。
ロビーは淹れたてのコーヒーと湿った紙の匂いで満たされていた。入口の警備員は気怠そうに敬礼し、自販機にもたれかかる同僚たちは小声で何かを囁き合っている。
――「よう、武田。パトロールはどうだった?」
――「退屈すぎて運転中に寝そうだったよ。」陸は片笑いを浮かべ、廊下へと足を進める。
――「武田さん。」
柔らかな、聞き覚えのある声が彼を呼び止めた。受付の春香が、書類の束を整理しながらカウンター越しに立っていた。
――「何だ、春香?」
――「署長が呼んでます。今すぐに。」
――「こんな朝っぱらから? 何かあったのか?」
――「理由は言わなかったけど……顔が真剣だったわ。」彼女は視線で、これはただの用件じゃないと告げた。
執務室へ続く廊下は、絨毯の軋む音だけが支配していた。陸は渡辺浩司署長のドアをノックする。
――「入れ。」低く疲れた声が返る。
窓際に立つ浩司は、開かれたファイルを手にしていた。朝の光が彼の顔に影を落とす。陸の姿を認めると、書類を置き、手を差し伸べた。
――「来てくれてありがとう、陸。」
――「もちろんです。何かあったんですか?」
浩司は深く息を吐き、座るよう促した。
――「浩人のことだ。梨奈の件から二週間……署にも顔を出さないし、電話もメッセージも無視だ。」
――「やっぱり……そうなってましたか。」陸は奥歯を噛みしめる。
――「お前に様子を見てきてほしい。辛いだろうが……浩人に届くのはお前だけだ。」
――「今すぐ行きます。」
――「陸……覚悟して行け。もう昔の浩人じゃない。」
更衣室で、陸はロッカーから制服と拳銃を外し、静かにしまった。鍵の冷たい音が響く。トイレから出てきた同僚が声をかける。
――「もう帰るのか?」
――「ちょっと大事な用があってな。」
――「その顔……良くない話だな。」
陸は短く笑って鞄を肩にかけ、署を後にした。
浩人の家までの道のりは、普段よりずっと長く感じた。渋滞はないのに、足取りは重く、信号は妙に遅い。
到着したのは整然とした平屋――だがカーテンは閉じられ、動きの気配もない。ベルを鳴らす。
返事はない。
――「浩人、俺だ。」軽くノックする。
沈黙。
もう一度、今度は強く叩く。反応なし。
背筋を冷たいものが走る。陸は家の裏へ回り、落ち葉を踏みながらガラス戸を叩いた。中は暗く、静まり返っている。小さな道具を取り出し、鍵を開ける。金属音がやけに大きく響いた。
台所は冷え切り、シンクには食器が積まれ、カウンターには乾ききったコーヒーのカップ。ほこりと湿気の匂いが漂う。廊下を進むたび、足音が空間を侵す。
リビングから、ちらつく青白い光が漏れていた。ソファにはくしゃくしゃのTシャツと短パン姿の浩人。手にはビール、テーブルには拳銃。やつれた目が、陸を見てもほとんど動かない。
――「……何だよ、これは。」安堵と警戒が入り混じった声が漏れる。
――「……どうやって入った。」
――「返事がないから……心配でな。」
――「知ったことか。」浩人は視線をテレビに戻す。
陸は銃を避けて腰を下ろした。
――「こんな生活、やめろよ。」
――「どんな生活だ。」
――「埋葬を待つ幽霊みたいな生活だ。」
浩人の口元に苦笑が浮かぶ。
――「それが望みだったら?」
――「梨奈はそんなこと望まない。」
浩人の顎が強張る。
――「彼女が何を望むかなんて言うな。」
――「お前は彼女を愛してた。自分を壊して、それで彼女の記憶が報われるのか?」
ガラスが砕ける音。浩人は瓶を叩きつけ、鋭い破片を陸に向ける。
――「お前の言葉なんか聞きたくない。何もいらない。」
――「落ち着け……心配だから来たんだ。」
――「彼女の願いだけじゃない。俺の願いもある。」
その時、陸は浩人の前腕に走る赤い線に気づく――古傷と新しい傷が混ざる。胸の奥に冷たい重みが沈む。
――「お前は……」息を呑む。
――「お前が対テロ部隊に入ったのは、人を救うためだろ。子供の頃、お前は奴らに誘拐され、地獄を見た。だが警官が救ってくれた。だからお前は同じように人を救う側になったんだ。」
浩人は答えず、リモコンで音量を上げる。
陸は立ち上がり、悔しさを噛み殺す。
――「何度追い出されても、俺はまた来る。」
背を向けかけたとき、浩人の声が届く。
――「梨奈が安楽死した日……妊娠してたんだ。二人とも失った。」
陸の息が止まる。
――「……知らなかった。」
――「誰にも言ってない。」涙が光る。
――「……お前の言う通りかもな。でも東京にはもういられない。全部が彼女を思い出させる。街を変える。名前も。」
――「それでも……連絡は絶対に切るな。お前は兄弟みたいな存在なんだ。」
――「安心しろ。それはない。」
二人は残された何かを抱きしめるように強く抱き合った。
翌朝、浩人は古いトランクを開け、大きなスーツケースを取り出す。服、書類、最低限の物を詰める。その合間に、梨奈のスカーフや彼女の字が残る本、欠けたマグカップが目に入り、動きが止まる。
ベッドに腰を下ろし、結婚記念日に贈るはずだったロケットペンダントを開く。中には二人の結婚式の写真。
脳裏に一瞬、粉まみれの鼻で笑う梨奈と、それをつまみ食いしようとする自分の姿がよぎる――その温もりは胸を裂く刃だった。
――「ここから持っていくのは……お前の記憶だけだ。」
ロケットをポケットに入れ、スーツケースを閉じ、階段を降りる。ドアの前で一度だけ振り返る。家の静寂がすべてを飲み込んでいた。
ドアを開け、外へ出て、もう二度と振り返らなかった。




