第16章 - 盗人の逃走
美術館の静寂は、カイトがホールの奥へ一歩踏み出すごとに濃くなった。
そこにいた――数か月もの間、影のように追跡をかわしてきた女。
磨かれた床を踏むブーツの音は落ち着き払っており、その姿勢は緊張とは無縁で、むしろ優雅ですらあった。
唇に浮かぶ笑みは挑発的で、まるで「勝負は始まる前から私のもの」と告げているかのようだった。
カイトは鋭い視線を彼女に向け、声を低く放つ。
「終わりだ。もう逃げ場はない。投降しろ。」
盗人は片眉を上げ、微かに笑った。
「投降? なんて味気ない響き。――本当にそう思ってるの?」
その声は柔らかく、遊び心すら感じさせたが、同時に冷たい嘲りが混じっていた。
「ふざけるな。」カイトは一歩近づき、体勢を崩さない。「やったことは分かっている。トンネルも、カメラも、絵画も……今夜で終わりだ。」
女は芝居がかった溜息をつき、肩をすくめた。
「ごめんなさい、でも私はそんな簡単には捕まらないの。」
言葉の直後、彼女は動いた。
猫のような俊敏さでカイトの顔を狙い、鋭く一撃を放つ。
だがカイトは身をひねり、寸前でかわすと同時に手首をがっちりと掴んだ。
彼女は身を捩って逃れようとするが、警察で鍛えた彼の握力は鉄のように固い。
体勢を変え、今度は蹴りを放つ盗人。カイトは前腕で受け、力を計算して押し返した。
大きなダメージは与えず、あくまで制圧するための動きだった。
女は数歩よろめき、驚きの表情を浮かべる。
「……速いわね。バッジを失った人にしては。」
「経験は消えない。」カイトの声は平然としていた。
幾度かの攻防が続く。
彼女はフェイントを織り交ぜ、しなやかに攻める。
カイトはそれを受け流し、かわし、最低限の力で反撃する。
やがて決定的な瞬間が訪れ、カイトの押しで彼女は後方へ弾かれ、床に崩れ落ちた。
髪が広がり、大理石の上で光を反射する。
息を整えつつ、カイトは慎重に近づいた。
「……終わりだ。」
だが次の瞬間、彼女はジャケットの内ポケットから銀色の小型スプレーを引き抜き、ノズルを押した。
「くっ……!」
カイトの目に唐辛子の炎が走り、視界が焼ける。
「ぐああっ!」
女は軽やかに立ち上がり、挑発的な微笑みを再び浮かべた。
「ごめんね、ハンサムさん。」
そして駆け出す。足音が遠ざかり、暗闇へと消えた。
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数秒後、アイコが側面の入口から駆け込む。
「カイト! 一体何が――」
「……追え……逃がすな!」
カイトは痛みに顔を歪めながらも、指先で奥の廊下を示した。
アイコはためらわず走り出した。
響く足音が古びた廊下を導くように連なり、ついに視界の先に盗人の背中を捉える。
「止まりなさい!」
叫びながら追い詰めるが、女は振り返らずに笑みを見せた。
そしてベルトから円筒状の物体を取り出し、床に投げつける。
次の瞬間、白い煙が濃く広がり、視界を覆った。
アイコは咳き込みながら前へ進むが、霧が晴れた時には――もう姿はなかった。
しかも、壁の展示ケースの中は空。高価な絵画がいくつも消えていた。
アイコは拳を柱に打ちつけ、悔しさを押し殺す。
「……やられた。」
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翌朝。山本レイコのオフィスには重苦しい空気が漂っていた。
カイトは罪悪感を滲ませながら報告を終える。
「……また逃した。」
レイコは静かに首を振り、厳しい声で言った。
「自分を責めすぎないで。この女は想像以上に手強い。でも次こそ仕留める。」
アイコも悔しさを滲ませながら、強くうなずいた。
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そしてその日の夜明け。
カイトは美術館の静まり返ったギャラリーに立っていた。
日曜で閉館していることが、唯一の救いだ。
無線からユウジの声が届く。
『カメラの改ざんはまだバレてない。今のうちだ。』
「了解。」
カイトの目が、別の彫像に刻まれた円形の跡を捉えた。
「また同じ手口か……。」
彫像を動かすと、隠された通路が現れる。
懐中電灯を灯し、地下へ降りると――そこには広大な空間が広がっていた。
壁に沿って並ぶのは、これまで盗まれたすべての絵画。
さらにいくつもの扉が続き、それぞれが別の美術館へと繋がっているようだった。
カイトの胸が高鳴る。
「……ついに。」
無線に手を伸ばしたその時、闇の奥から声が響いた。
「素晴らしい働きね、探偵さん。」
カイトが振り向くと、あの女が再び姿を現した。
唇に浮かぶ笑みは、初めて出会った夜と同じ――挑発的で、謎めいていた。