第15章 - 盗人との遭遇
ギャラリーに残る自分たちの足音の余韻がまだ消えぬうち、カイトとアイコは発見したばかりの隠し通路から身を引いた。美術館の脆い静寂を壊さぬよう、一挙手一投足さえ慎重だった。磨かれた大理石と消毒液の匂いが漂い、歴史と秘密に押し潰された空気が重くのしかかっていた。
だが、その静寂を破る足音が響いた。重く、意図的な足取りで廊下から近づいてくる。カイトは即座に反応し、懐中電灯を消して木製パネルを閉じ、通路を隠した。アイコは振り向き、目を見開いた。
――警備員……と唇が動く。
数秒後、肩幅の広い屈強な男が現れた。懐中電灯の光が床を舐め、二人の姿を照らし出す。表情からは、先ほどの説明をまるで信用していない様子がありありと伝わった。
「お前たち。」警備員の声は冷たく、短い。「今すぐ出て行け。」
アイコは平静を装ったが、声がわずかに震えていた。
「すみません。私たちは調査中で――」
警備員は目を細め、一歩近づいた。
「調査? お前のバッジ、確認したが……偽物だ。」
アイコの顔から血の気が引いた。瞬間、彼女は決断した。ポケットからバッジを取り出し、わざと床に落とす。金属音が高く響き、警備員は反射的に拾おうと身をかがめた。
その一瞬で、アイコは数歩後ろに下がり、カイトを横目で見る。カイトはすでに彫像を元の位置へ戻し、通路を完全に隠していた。
警備員はバッジを懐中電灯にかざし、険しい表情で言った。
「これは重大な犯罪だ。今すぐ出て行かないと、警察を呼ぶぞ。」
アイコは抗議しかけたが、カイトが先に口を開いた。
「分かった。すぐに出る。」
警備員の疑念は残ったままだったが、脅しは十分に効いていた。カイトはアイコの腕を軽く引き、出口へと向かう。二人は美術館を出るまで一言も発さなかった。夜の京都の冷たい空気が、やっと呼吸を楽にした。
車に戻るまでの沈黙は重苦しかった。座席に腰を下ろすと、アイコは大きく息を吐き、ハンドルを軽く叩いた。
「信じられない……あのバッジ、完璧だったのに!」
カイトはシートに背を預け、冷静な口調で言った。
「言ったはずだ、アイコ。そんな小細工に頼りすぎるなと。」
「じゃあ、どうすればよかったの? あのまま捕まるのを見てろって?」
「考えてから動けと言ってる。」カイトの声は平坦だったが、鋭かった。「危うく大事になるところだった。」
アイコは不満げに唇を尖らせたが、やがて肩の力を抜き、ため息をついた。
「……分かった。あなたの言う通り。でも、悔しいわ。」
カイトは返事をせず、窓の外を見つめた。夜の街灯が宝石のように瞬いている。やがて低く言った。
「オフィスに戻ろう。レイコに報告が必要だ。」
レイコのオフィスは、机上のランプだけが灯っていた。腕を組んで待っていたレイコは、二人が入るなり問いかける。
「どうだった?」
カイトは率直に答えた。
「北山美術館の彫像の下に隠し通路があった。普通の盗難じゃない。犯人は痕跡を残さず出入りしている。」
レイコの目が鋭く光る。
「やっぱり……そういうことね。」
アイコが小さく手を挙げ、苦笑混じりに言った。
「それと……ちょっと警備員にバレそうになったわ。バッジが偽物だって。」
レイコは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに通路の件に意識を戻した。
「もし犯人が通路を使っているなら、内部の情報を持っている人物がいる。しかもカメラは毎回ハッキングされてる。単独じゃない。」
カイトはうなずき、声を低めた。
「内通者がいるってことか。」
「そう。」レイコは断言した。「だから尻尾を掴めなかったのよ。」
カイトは髪をかき上げ、苛立ちを隠せない。
「じゃあ、どうやって捕まえる?」
レイコは不敵に笑みを浮かべた。
「ユウジ・タカハシに頼むわ。天才ハッカーよ。今夜、彼がカメラを掌握する。」
カイトとアイコは視線を交わした。これ以上の策はない。
「分かった。やろう。」カイトが答え、作戦が決まった。
数時間後、夜11時。美術館近くの暗い通りにアイコの車が停まる。黒いバンが滑るように現れ、髪を乱した眼鏡の青年が降りてきた。
「ユウジだ。よろしく。」
「藤本カイト。」
「中村アイコ。」
「よし、後ろへ来い。」
バンの中はケーブルとモニターの海。ユウジは指を踊らせるようにキーボードを叩き、呟いた。
「三分でカメラを奪う。それが猶予だ。」
「十分だ。」カイトの声は低く静か。
「今夜こそ捕まえる。」アイコの瞳が鋭く光った。
ユウジの親指が上がった瞬間、二人は動いた。夜の冷気を切り裂くように、美術館の裏口へ。
内部は暗闇に沈み、異様な静けさに満ちていた。カイトの本能が警鐘を鳴らす。――誰かが、もういる。
二人は事前の計画通りに分かれた。アイコは監視室へ、カイトは通路のあるホールへ。
だが、アイコが部屋に足を踏み入れた瞬間、凍り付いた。床には警備員が倒れていた。息はある。
『カイト……もう入ってる。』イヤーピース越しの声が緊迫していた。
カイトの声もまた低く研ぎ澄まされていた。
『俺もだ。』
ホールの先に、女が立っていた。
逃げない。隠れない。薄い笑みを浮かべ、挑発的な光を宿した瞳でカイトを見つめる。
――今宵、狩りは始まった。