第14章 - 影の盗人
午後の時間がゆったりと流れる中、藤本カイトのオフィスには、京都の交通音が窓から微かに入り込み、蝉の鳴き声と混じり合っていた。室内には温め直したコーヒーと古びた紙の匂いが漂う。机の上には事件ファイルの山。解決済みのものもあれば、未解決のものもある。それらは静かに、しかし無言の圧力で「平穏は長くは続かない」と告げていた。
その中に、血塗られた唇の殺人鬼のファイルがあった。カイトは無意識のうちにそれを手に取り、惰性のようにページをめくる。被害者たちの写真、冷徹な報告書――すべてが、癒えることのない傷跡のように脳裏に焼き付いていた。
突然、電話が鳴った。思考が現実に引き戻される。
「藤本だ。」
「カイト、私よ。レイコ。」上司の声は、余計な言葉を許さない冷たさを帯びていた。「今すぐ来なさい。新しい事件があるわ。」
カイトは眉をひそめ、机上の書類を見つめたまま訊く。
「どんな事件だ?」
「電話じゃ話せない。オフィスまで来て。」
一方的に通話が切れた。カイトはため息をつき、椅子を押しのけて立ち上がる。レイコが「緊急」と言った以上、逃げ場はなかった。
事務所に着くと、廊下は不自然なほど静かだった。研磨された床を踏みしめる足音が、やけに響く。レイコは腕を組み、厚い封筒を机に置いたまま待っていた。
「最近は随分と忙しそうね。」皮肉を込めた口調。だがすぐに声を引き締めた。「でも、この事件はあなただけに任せたいの。」
カイトは封筒を手に取り、中を覗く。鮮明な写真が何枚も入っていた。整然とした美術館の展示室――ただし、最も高価な展示品が忽然と姿を消している。
「盗難事件か。」カイトは軽く鼻で笑った。
「しかも、極めて巧妙なやり口。京都の美術館ばかり狙われているわ。痕跡は一切なし。」
カイトは写真を机に戻し、肩をすくめる。
「警察に任せればいいだろう。」
その瞬間、ドアが開き、中村アイコが現れた。高く結んだポニーテール、腕には資料の入ったフォルダ。表情は真剣だが、瞳には決意が宿っていた。
「カイト、この事件はあなたがやらなきゃだめ。」アイコはためらわず言い切った。「私は何ヶ月も彼女を追っているのに、まだ捕まえられていない。」
カイトは首を傾げた。
「女の盗人なのか?」
アイコは頷く。
「速く、几帳面で…消えるのも上手い。」
レイコは壁のカレンダーを指差した。赤い印がいくつも付けられている。
「パターンがあるの。毎月26日、必ず真夜中に犯行。今日は9月26日。次の標的は…京都国立近代美術館。」
カイトは信じられないという表情を見せた。
「もう場所が分かっているのなら、警備員を増やせばいいじゃないか。」
「警備員には何を探せばいいか分からない。」レイコの反論は鋭かった。「あなたたちなら、見抜ける。」
カイトは腕を組み、渋々うなずいた。
「分かった。調べてみよう。」
レイコは二人を分析室へ案内した。壁一面のボードには地図、写真、メモが赤い糸で結ばれ、五つの盗難現場が印されている。六つ目は赤い丸で囲まれ、今夜の標的を示していた。
「すべての盗難には共通点がある。」レイコは説明を続けた。「毎回、カメラが犯行前にハッキングされている。」
カイトは美術館の設計図に目を落とし、廊下や出入口を確認する。
「即興じゃない。館内の構造もシステムも熟知している。」
アイコはノートをめくり、手書きの一文を指差した。
「前回の盗難では、ガラスケースに損傷がなかったの。」
「内部の鍵を持っているか、あるいは誰も知らない出入口を使っている。」カイトは即座に推理する。
午後、二人は最後に狙われた「京都北山美術館」へ向かった。淡い石造りの外観、暗い木の扉、整然とした庭園。品のある佇まいだ。
内部は静かで、足音が微かに響く。絵画展示室へ入ろうとすると、制服姿の警備員が立ちはだかった。
「ここは立入禁止だ。」
アイコは迷わずバッジを取り出し、掲げる。
「日本連邦警察だ。すぐに通してもらおう。」
警備員は緊張し、バッジと二人の顔を交互に見た。やがて渋々道を開けた。
「五分だけだ。」
展示室へ入ると、カイトは小声で訊く。
「いつから連邦警察に?」
「なってないわ。偽物よ。」
「違法だぞ。」
「便利なの。」アイコは微笑を浮かべた。「心配しないで、藤本。」
カイトは鼻を鳴らしたが、それ以上は言わなかった。
展示室は完璧に整えられていた。ガラスケースには傷一つない。消毒剤と磨かれた木の香りが混ざる。指紋も、破壊の跡も皆無。
「指一本触れた痕跡もない…」カイトは呟く。「完全なプロだ。」
アイコは床を調べていたが、やがて声を上げた。
「カイト、こっちを見て。」
部屋の隅、大きな青銅の彫像の周りに、円形の微かな跡が残っていた。
「見える?」
「…ああ。最近ここから何かを動かしたな。」
二人は力を合わせて彫像を押しのけた。下には床にぴったりはまった木製のパネル。カイトは端を指で探り、慎重に持ち上げた。懐中電灯を照らすと、地下へ続く細いトンネルが現れた。冷たい空気がふっと吹き上がる。
アイコは目を見開いた。
「信じられない…これで出入りしてたのね。」
カイトは懐中電灯を握り、深く考え込む。
「ただの泥棒じゃない。計画も技術も、完璧だ。」
二人は顔を見合わせ、無言で頷いた。
――ついに、核心へ辿り着いたのだ。