第13章 - 解放
地下室は濃密な闇に包まれていた。空気さえも飲み込むような暗闇だ。湿った壁から冷気が染み出し、藤本カイトの服の隙間を容赦なく這っていく。重い鎖が彼の足を縛り、コンクリートの床に打ち込まれた金属の輪に固定されていた。動くたびに金属が軋み、残酷なほど自分が囚われの身であることを思い知らせてくる。
だが、カイトは諦める男ではなかった。壁に背を預けながら、狩人の目で部屋の隅々を見渡した。湿気と錆び、そして乾いた血の匂いが入り混じっている。
片隅には、もはや食べ物とは呼べないものが盛られたプラスチック皿と、濁った水が入ったボウルが置かれていた。カイトは体を伸ばし、それを手に取ると、慎重に観察した。プラスチックは頑丈だが、壊れないわけではない。
「頼む…何か使えるものを…」彼は小さく呟き、状況の緊張が意識を研ぎ澄ませた。
何度か試みた末、皿を床に押し付け、踵で強く踏みつけて割った。鋭く尖った破片を選び出し、近くの石に擦りつけて研ぎ始める。ザリザリという音が、地下室の沈黙に吸い込まれていく。
作業の合間、脳裏にはどうしてもリナの面影が浮かぶ。あの微笑み、手の温もり、髪の香り…すべてが一夜にして奪われた。そして今、また別の殺人鬼が、子を母から引き離している。
「こんな所で死ぬわけにはいかない…まだ、あいつを止めていないんだ。」カイトはそう呟き、鋭く尖った破片を握りしめた。それは武器であると同時に、誓いの証だった。
夜が明け、細い光が小さな窓から差し込む頃、即席のナイフは完成していた。脆いが、何もないよりははるかにマシだ。
深く息を吸い、計画を頭に描く。勝機は奇襲のみ。カイトは横たわり、目を閉じて呼吸を浅くし、意識を失っているかのように見せかけた。
やがて、軋む音。階段を下りる足音。緊張の鼓動が鼓膜を打つ。
扉がきしみを上げ、背の高い影が差し込んだ。
「おや…夜は少し重すぎたようだな、刑事殿。」嘲りを含んだ声。
殺人鬼はゆっくりと近づき、カイトの顔を覗き込む。
次の瞬間、カイトの目が獣のように開かれた。稲妻のような動きで、研ぎ澄まされた破片を男の首筋へ突き立てる。
「ぐっ…この…野郎…!」男は呻き声を漏らし、傷口を押さえた。温かい血が指の間から溢れ出す。
カイトは一瞬も無駄にせず、男のジャケットを探り、鎖の鍵を見つけ出した。指先が震えながらも素早く錠を外し、足を解放する。金属が外れる感触は、水面から顔を出した瞬間のようだった。
殺人鬼は階段へ這って逃げようとしたが、カイトが素早く押し戻した。壁際にはロープと手錠が掛けられていた。それを使い、彼の手足を容赦なく縛り上げる。
「もうどこへも行けない。」カイトの声は冷たく、感情を削ぎ落としていた。
階段を駆け上がり、一階へ出る。家は古く、埃っぽい。だがテーブルの上には黄色い固定電話があり、まるで待っていたかのようにそこにあった。
番号を回し、警察へ連絡する。
「こちら藤本カイト。……住所は……最近の連続殺人の犯人を確保した。負傷しているが生きている。至急、部隊を送ってくれ。」
通話を終えると、カイトは再び地下室へ戻った。殺人鬼は憎悪と疲労が入り混じった目で彼を睨んでいた。
「…英雄気取りか。」
「いや。」カイトは縛りを締め直しながら答えた。「ただ…もう誰もお前に傷つけさせないだけだ。」
男は苦い笑みを浮かべ、咳き込む。
「…どうして…俺は…化け物を掃除していたのに…」
「お前が化け物だったんだ。」カイトは淡々と告げた。「最初から分かっていたはずだろう。」
もう言葉は必要なかった。遠くからサイレンの音が近づき、地下室の緊張を切り裂いた。
――数時間後。男は拘束され、引き渡された。
カイトは孤児院へ向かう。灰色の空の下、雨は降りそうで降らなかった。
部屋の中で、少年ユウマは窓を見つめていた。カイトが入ると、少年は瞬きをし、表情を和らげた。
「大事な話がある。」カイトはベッドの隣に座った。「君のお母さんを殺した男を捕まえた。もう二度と戻ってこない。」
「ほんとに…?」ユウマの声は震えていた。
「ああ。もう終わった。」カイトは彼の目をまっすぐ見た。「君のお母さんは、これでやっと安らげる。」
少年は彼に抱きつき、強く、強くしがみついた。カイトはその小さな体を抱きしめ返し、自分の喪失と少年の安堵が混ざり合うのを感じた。
「ありがとう…」ユウマのその一言が、何よりの報酬だった。
オフィスに戻ると、部屋は静かだった。カイトは煙草に火をつけ、煙をゆっくりと天井へと流した。事件のファイルを閉じ、机の引き出しに拳銃をしまう。
安堵は確かにあった。だが、あの言葉が胸に残っていた。アイコが言った――「一人で全部を背負うことはできないわ。」
カイトは初めて、その通りだと認めた。
世界は止まらない。だが、次に挑む時は…もう独りではないかもしれない。