第一章 最後の任務
静まり返った京都の街――伝統と現代の喧騒が共存するその路地裏では、影がただの闇以上のものを隠している。そこには、血と復讐、そして贖罪の物語が潜んでいるのだ。
この物語は、数えきれないほどの映画やドラマに影響を受けた警察小説への憧れから生まれた。しかし、単なるアクションやミステリーの枠を越え、人間の儚さを描くことを目指している――孤独な捜査員、事件が刻む心の傷、そして正義と執念を隔てる紙一重の境界線。
藤本海翔――型破りな手法で知られる私立探偵。暗い路地、雑然とした事務所、そして常識を超えた犯罪者たちの心理を渡り歩く。各章は一つのピースであり、それは犯人を暴くだけでなく、登場人物それぞれの内に潜む影をも明らかにしていく。
偉大な犯罪・サスペンス作品から着想を得たこの物語は、手がかり一つ、会話一つ、沈黙一つに至るまで意味を持たせることを意図している。都市そのものが登場人物であり、真実は掴みどころがなく、そしてヒーローと悪役の境界は、ネオンが夜を照らす光のように曖昧だ。
ここに確かな答えはない。ただ一つ約束できるのは――影がある限り、それを追いかける者が必ず存在するということだ。
霧雨が東京の夜を包み、アスファルトの水たまりに街灯がにじんでいた。
古い木壁と紙提灯に囲まれた小さな料理屋。その奥の席で、西田浩人と妻の梨奈は静かに箸を動かしていた。
笑い声と温かな光に包まれたその空間では、時間の流れさえ、少しだけ遅く感じられた。
「ねえ、明日が何の日か覚えてる?」
麺をすくいながら、梨奈が目を細める。
浩人は顔を上げ、口元に笑みを浮かべた。
「もちろん」
わざと間を置き――
「俺の最後の特殊任務の日だ」
梨奈は眉を寄せ、腕を組んだ。
「それじゃないわ。……結婚記念日でしょ、浩人」
「え、本当? てっきり祝日かと」
芝居がかった口調に、梨奈は呆れたように見せつつも唇に笑みを残した。
「ほんと、しょうがない人」
「でも、そのしょうがない俺は君のものだ」
浩人は彼女の手に触れた。
「明日が終わったら……もう防弾チョッキも夜の出動もなしだ。君と二人で、新しい生活を始めよう。……子どもが家の中を走り回ってるかもしれない」
梨奈はしばらく彼を見つめ、目元をやわらげた。
「……最高ね。でも、一つだけ約束して」
「何でも」
「明日、必ず帰ってきて。何時でもいい。疲れててもいい。ただ……帰ってきて」
浩人はその手を強く握った。
「必ず帰る。約束だ」
「それと、プレゼントも忘れないでね」
ウインクする梨奈に、浩人は笑った。
「……さては思い出させるための作戦だったな」
翌朝、梨奈は美術館の勤務で早く出かけた。
一人で朝食をとった浩人は、新聞をめくりながらも記事の内容が頭に入らない。
出かける前、流しにカップを置き、壁にかかった結婚写真を見上げる。
(最後の任務だ)――心の中で呟く。
警視庁本部。強いコーヒーと銃油の匂いが漂う執務室で、渡辺浩志警視正が待っていた。
「浩人、今回の後、異動願を出したそうだな」
「はい。特殊部隊を離れたいんです。もっと……落ち着いた仕事を」
「お前は優秀だが……まあ、人はいつか何を守るかを選ばなきゃならん」
浩志はため息をつき、
「任務が終わったら、異動について話そう」
「ありがとうございます」
「気をつけろ。……もう葬式はごめんだからな」
午後、黒いバン三台が兵舎を出て、人気の少ない通りを抜けていく。
車内では隊員たちが武器を確かめ、防弾ベストの紐を締め直していた。
「西田、また逮捕状にサインする気はあるか?」
若い狙撃手・健太が笑う。
「お前が外さなきゃ、俺も外さない」
浩人の口元にもわずかな笑みが浮かぶ。
標的は「レッドサーペント」と呼ばれるマフィア組織。廃工場に潜伏し、大量の違法武器を出荷しようとしていた。
「突入から二分以内に制圧だ。逃走ルートを封じろ」
曹長の低い声が響く。
湿った空気が肌に張り付く。浩人はヘルメットを締め直した。
「側面を封鎖しろ。俺が先頭に立つ」
――耳に「ツッ、ツッ、ツッ」と三度の合図。
扉が破られ、銃声が静寂を裂いた。粉塵と火薬の匂い、怒号と足音が入り乱れる。
浩人は錆びたコンテナの陰から正確に撃ち返した。敵が一人、床に崩れ落ちる。階段を駆け上がる影――脚を撃たれ、転げ落ちた。
「制圧完了!」
二階から健太の声。
生き残った者たちは手錠をかけられ、護送車に押し込まれた。
浩人の息は荒かったが、瞳にはわずかな光が宿っていた。
家に戻ると、カレーの香りが迎えてくれた。
「うまくいった?」
エプロン姿の梨奈が振り向く。
「ああ……成功だ」
浩人は背後から抱きしめた。
「よかった……じゃあ明日はちゃんと一緒ね」
梨奈は微笑み、唇を重ねた。
夕食時、テレビからニュースが流れた。
「危険な組織が壊滅……」
画面には浩人が映り、
「もう東京も日本も脅かされることはない」と話していた。
「立派なヒーローじゃない」
「……ただの仕事だ」
翌朝も静かだった。
梨奈はすでに出かけ、浩人は午後、宝飾店に立ち寄った。
そこで見つけたのは、開くと写真を入れられるハート型のロケット。中には結婚写真を収めた。
家に戻ると、彼女が帰る前に引き出しへ隠した。
その後、警視庁での表彰式。拍手の中、浩志が壇上で言う。
「この男は命を懸けて市民を守ってきた。その勇気と誠実さを称える」
勲章を胸に留められ、肩を叩かれる。
その夜、異動の最終確認のため署へ戻った。
「異動願、承認だ。……静かな生活を送れ」
浩志の言葉に、浩人は笑みを浮かべた。梨奈に知らせる時の顔を想像する。
だが――家は静まり返っていた。
「梨奈……」
鍵を置き、寝室へ向かう。
毛布を首まで掛け、眠っているように見えた梨奈。
そっと毛布をめくった瞬間、世界が砕けた。
口は開き、舌はなかった。
胸の上、血に濡れた紙片――
《お前は私から大切なものを奪った。今度は私がお前から奪う》
浩人はその場に崩れ落ち、声にならない叫びを漏らした。
それからの日々は、サイレンと質問、そして沈黙の中で過ぎていった。
鑑識が家を隅々まで調べ、浩人は虚ろな声で答えた。
「脅迫は?」
「直接は……でも、こうなることは覚悟していた」
仲間の陸が訪ねてくる。
「浩人……ここに一人でいるな。数日、うちに来い」
「いや……ここにいれば、まだ彼女の声が聞こえる」
夜は眠れず、家の中を彷徨う。
梨奈が洗わずに残したコーヒーカップを見つめ、まるで聖遺物のように扱った。
葬儀の日、空は灰色だった。
僧侶が静かに言う。
「梨奈さんは光のような人でした。その喪失は、我々を深く打ち砕きます」
梨奈の両親が彼を抱きしめた。
「……息子よ、元気でな」
「あなたが彼女を誰よりも愛していたこと、知っています」
「……すみません」
浩人の声は震えていた。
浩志が近づき、
「この罪を一人で背負うな。必ず犯人を見つける」
浩人は何も答えなかった。胸の奥で、暗い影が膨らんでいく。
皆が去った後も、墓の前に立ち尽くした。空が暗くなるまで――。
その夜、勲章とロケットを手に、浩人は静かに座っていた。
梨奈と共に自分の一部は死んだ。
だが――もう一つの部分が、今まさに目を覚ましたのだった。