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第2話:小さな勝利

翌朝、ミナトは安宿『眠れる子羊亭』の硬いベッドで目を覚ました。


腰が痛い。ベッドのマットレスは薄く、下の木の板が背中に当たって一晩中寝苦しかった。部屋の隅には水の入った洗面器が置かれているが、水は昨日から替えられていない。窓から差し込む朝日が、六畳ほどの簡素な部屋を照らしている。


壁には茶色いシミがあり、床は歩くたびに軋む。天井からは蜘蛛の巣が垂れ下がっていた。他の転生者たちはきっと高級宿の豪華な部屋で、ふかふかのベッドと温かい朝食で快適な朝を迎えているのだろう。


ミナトは昨夜の出来事を思い返した。《迷子の猫探し》の依頼で銅貨30枚を稼いだが、宿代だけで銅貨50枚かかった。老婆からもらった追加報酬がなければ、路上で寝ることになっていただろう。


残金は銅貨10枚。朝食を買えば、ほとんど残らない。


「今日も頑張らないと…」


ミナトは重い体を起こし、顔を洗いに行った。宿の共同洗面所は狭く、設備も古い。蛇口から出る水は冷たくて、歯を食いしばりながら顔を洗った。鏡に映る自分の顔は疲れ切っており、目の下にクマができている。


しかし、文句を言っている場合ではない。今の自分にはこれが精一杯だった。


急いで身支度を整え、ギルドに向かう。王都の朝は既に活気に溢れていた。商人たちが荷馬車を引いて大通りを行き交い、職人たちが店の準備を始めている。パン屋からは焼きたてのパンの香りが漂ってきて、ミナトの空腹な腹が情けなく鳴った。


しかし、パン一つ買う余裕もない。ミナトは足早にギルドへ向かった。


冒険者ギルドは朝早くから活気に溢れていた。


大きな吹き抜けのロビーには、様々な冒険者たちが集まっている。筋骨隆々の戦士が背中に大剣を背負い、ローブを着た魔法使いが手に杖を持ち、軽装の盗賊が腰に短剣を差している。多種多様な職業と種族の人々が行き交う光景は、まさに異世界の冒険者ギルドといった雰囲気だった。


壁一面に設置された巨大な依頼板には、数百枚の依頼書が貼り出されている。《ドラゴン討伐》《古代遺跡探索》《魔王軍偵察》といった高ランク向けの依頼から、《薬草採取》《荷物運び》《掃除》といった低ランク向けまで、実に多彩だ。


受付カウンターでは、美人の女性職員たちが忙しそうに手続きを行っている。昨日世話になったリリアの姿も見える。ブロンドの髪を後ろでまとめた彼女は、今日も笑顔で冒険者たちに対応していた。


ミナトが到着すると、既に他の転生者たちが集まっているのが見えた。昨日の《オーク討伐》の成功で自信をつけたのか、皆堂々としている。高級宿で十分な休息を取ったおかげか、顔色も良く、服装も整っている。


「今日は《ゴブリンの群れ討伐》に挑戦しようと思うんだ」


勇者カイルが仲間たちに提案していた。その声は自信に満ち溢れている。昨日の勝利が彼の自信を大いに高めているようだった。


「ゴブリンの群れか。10匹って書いてあるね。報酬は金貨3枚だ」


《大魔法使い》のスキルを持つ転生者が依頼書を読み上げた。背の高い痩身の青年で、知的な雰囲気を漂わせている。


「昨日のオークより数は多いけど、個体の強さは劣るはずだ。大丈夫だろう」


《神速》のスキルを持つ転生者が分析した。運動神経が良さそうな体格をしており、軽快な動きをしている。


「でも、数が多いということは、それだけ危険も増すのでは?」


聖女エミリアが心配そうに尋ねた。その美しい顔に不安の色が浮かんでいる。


「問題ない。《勇者》スキルがあれば、ゴブリン程度は楽勝だよ」


カイルは胸を張って答えた。


「それに、昨日のオーク戦で俺たちの連携も確認できた。今日はもっとスムーズに行くはずだ」


「そうだな。俺の《神速》で撹乱して、《大魔法使い》の《火炎魔法》とカイルの《剣術》で一気に片付ける。完璧な作戦だ」


転生者たちは昨日の成功に酔いしれていた。確かに、彼らのスキルは強力だ。普通の冒険者なら何年もかけて身につける技術を、最初から持っている。


しかし、ミナトにはそうした戦闘系のスキルはない。彼らの会話を聞きながら、依頼板の下の方に目を向けた。


そこには、小さな文字で書かれた雑用系の依頼がいくつか張り出されている。


《商店の荷物運び》報酬:銅貨15枚

内容:雑貨店の商品を倉庫から店舗まで運搬する作業。特別な技能不要。


《畑の草むしり》報酬:銅貨12枚

内容:農家の畑で雑草を取り除く作業。日当たりの良い屋外作業。


《行方不明の指輪探し》報酬:銅貨25枚

内容:市場で紛失した結婚指輪の捜索。発見困難な場合あり。


《薬草採取(安全地帯)》報酬:銅貨20枚

内容:王都近郊の森での薬草採取。魔物の出現しない安全な区域のみ。


どの依頼も報酬は低い。戦闘系の依頼と比べると10分の1以下だった。しかし、戦闘能力のないミナトには、これらの依頼しか選択肢がない。


その中でも《行方不明の指輪探し》は比較的報酬が高く、《観察》スキルも活用できそうだった。


「この依頼を受けたいのですが」


ミナトは受付のリリアに声をかけた。


「おはようございます、ミナトさん」


リリアは昨日と同じ明るい笑顔で迎えてくれた。しかし、その目には微かに同情の色が混じっているような気がする。


「《行方不明の指輪探し》ですね。承知いたしました」


彼女は依頼書を手に取り、詳細を説明してくれた。


「依頼主はマーサ・グリーン様という商人の奥様です。昨日、中央市場で買い物をされている最中に、結婚指輪を落としてしまわれたとのことです」


「中央市場ですか…」


ミナトは少し不安になった。中央市場は王都最大の商業地区で、非常に広い。そんな場所で小さな指輪を見つけるのは、まさに砂漠で針を探すようなものだ。


「場所が場所だけに、発見は困難かもしれません。それでもよろしいですか?」


リリアが心配そうに尋ねた。


「はい。《観察》スキルがあれば、何とかなるかもしれません」


ミナトは自信のない声で答えた。正直なところ、成功する自信はほとんどなかった。しかし、他に選択肢もない。


「分かりました。では、依頼主の住所をお教えしますね」


リリアは親切に住所を書いた紙を渡してくれた。


依頼主のマーサ・グリーンは、王都の上流商業地区に住む四十代の上品な女性だった。


彼女の家は三階建ての立派な石造りで、商人の妻らしく豊かな生活を送っていることが一目で分かる。正面玄関には美しい彫刻が施され、窓にはレースのカーテンがかかっている。庭には色とりどりの花が植えられており、丁寧に手入れされていた。


ミナトが泊まっている安宿とは雲泥の差だった。こんな立派な家に住む人が、銅貨25枚程度の依頼料で指輪探しを頼むのも少し意外だった。


扉の前に立つと、重厚な木製のドアに真鍮のノッカーが付いている。ミナトは緊張しながらノッカーを鳴らした。


「はい、どちら様でしょうか?」


扉の向こうから、上品な女性の声が聞こえてきた。


「冒険者ギルドから参りました。指輪探しの件で…」


「ああ、ミナトさんでいらっしゃいますね。お忙しい中、ありがとうございます」


扉が開くと、マーサが深刻な表情で迎えてくれた。目が少し赤いところを見ると、泣いていたのかもしれない。


家の中に案内されると、そこは想像以上に豪華だった。天井の高い応接間には、上品な調度品が並んでいる。高価そうなソファ、美しい絵画、繊細なガラス細工。壁には各国の珍しい品物が飾られており、商人の家らしい国際色豊かな雰囲気があった。


「お茶をお持ちしますね」


マーサは丁寧にお茶を淹れてくれた。上質な茶葉の香りが部屋に広がる。陶磁器のカップも高級品で、ミナトにとっては久しぶりのまともな飲み物だった。


「昨日、市場で買い物をしていた時に指輪を落としてしまったんです」


マーサは悲しそうに語り始めた。その声は震えており、相当なショックを受けていることが分かる。


「夫からもらった大切な結婚指輪なんです。結婚20周年の記念に、夫が商売で成功した利益を使って奮発して買ってくれた特別な指輪で…」


彼女の目に涙が浮かんでいる。


「私たちは貧しい商人の家庭から始まったんです。最初の結婚指輪は、とても簡素なものでした。でも20年頑張って、ようやく夫がこの美しい指輪を買ってくれたんです」


マーサの話を聞いて、ミナトは胸が痛くなった。単なる装飾品ではなく、夫婦の愛情と努力の象徴なのだ。


「どこで落としたのかも分からなくて…気づいた時にはもう遅くて…昨日は夜遅くまで市場中を探し回ったんですが、見つからなくて…」


彼女は涙ぐんでいた。


指輪の特徴を詳しく聞くと、金製で中央に小さなダイヤモンドが埋め込まれているという。かなり高価なもので、買い直すには数年分の生活費が必要とのことだった。


「市場のどの辺りを歩かれたか、覚えていらっしゃいますか?」


「魚屋、八百屋、肉屋、パン屋、雑貨屋、香辛料屋…本当にあちこち回ったので、正確には覚えていないんです」


マーサは困った顔をした。


「あ、でも買い物リストがあるんです。これを見れば、どの店を回ったか分かるかもしれません」


彼女が差し出したリストには、十数軒の店の名前が書かれていた。中央市場をかなり広範囲に歩き回ったことが分かる。朝の10時頃から昼の2時頃まで、約4時間にわたって買い物をしていたようだ。


「分かりました。《観察》スキルを使って、必ず見つけてみせます」


ミナトは決意を込めて答えた。


「本当にありがとうございます。もし見つからなくても、一生懸命探してくださるだけで十分です」


マーサは深々と頭を下げた。その姿を見て、ミナトは絶対に成功させたいと思った。


中央市場は王都最大の商業地区だった。


朝から夕方まで多くの人々で賑わう、活気あふれる場所だ。東西南北に約500メートルずつ広がる巨大な区域に、数百軒の商店が軒を連ねている。売り子たちの威勢の良い声が響き、客との値段交渉が絶え間なく続いている。


魚屋では水揚げされたばかりの新鮮な魚が氷の上に並べられ、強烈な潮の香りが漂っている。肉屋では大きな牛肉や豚肉が鉤に吊るされ、職人が手慣れた様子で肉を切り分けている。八百屋には色とりどりの野菜や果物が山積みにされ、農家の人々が熱心に品質をアピールしている。


パン屋からは焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、通りがかる人々の食欲をそそっている。雑貨屋には日用品から珍しい輸入品まで、ありとあらゆる商品が所狭しと並んでいる。


人通りも非常に多い。主婦たちが買い物籠を手に品定めをし、商人たちが荷車を引いて商品を運んでいる。子供たちが店の間を駆け回り、老人たちがゆっくりと歩いている。貴族らしい上品な服装の人々から、労働者の質素な格好の人々まで、あらゆる階層の人々が行き交っている。


『こんな混雑した場所で、小さな指輪を見つけるなんて…』


立ち尽くしたミナトには、一見不可能に思えた。しかし、諦めるわけにはいかない。マーサの悲しそうな顔を思い出すと、必ず見つけてあげたいという気持ちが湧いてきた。


『《観察》発動』


心の中でそう呟くと、視界が鮮明になった。細かい部分まで詳しく見えるようになる。石畳の表面の傷や汚れ、建物の壁の細かいひび割れ、人々の表情の微細な変化。普通では気づかないような細部まで認識できるようになった。


色彩も鮮やかになり、光の反射や影の濃淡まで詳細に把握できる。まるで世界が高解像度になったような感覚だった。


ミナトはマーサが回ったという店を順番に調べていくことにした。買い物リストを頼りに、最初に魚屋から始める。


最初に向かったのは『海の幸マルコ』という魚屋だった。


中央市場の北東角にある老舗で、新鮮な魚介類で有名な店だ。店の前には大きな氷の台があり、その上に色とりどりの魚が並べられている。鯛、鮭、イワシ、タコ、エビ。どれも目が澄んでおり、新鮮さが伝わってくる。


「すみません、昨日指輪を落とした方がいらっしゃったと思うんですが…」


店主に声をかけると、五十代の貫禄のある男性が手を止めて振り返った。海の男らしく日焼けした顔に、長年の経験を感じさせる深いしわが刻まれている。


「指輪ですか?ああ、そういえば…」


店主は魚を洗っていた手を拭きながら考え込んだ。


「昨日の昼頃でしたかね。上品な奥様が慌てた様子で何か探してましたよ」


「何か光るものを探してるって言ってました」


店主の妻らしい女性も思い出したように言った。四十代の快活そうな女性で、エプロンに魚の鱗が付いている。


「『大切な指輪を落とした』って、泣きそうになってました。可哀想でしたねえ」


「俺たちも一緒に探したんですが、見つからなくて…」


それは間違いなくマーサのことだった。少なくとも、この辺りで指輪を落としたことは確実だ。


ミナトは《観察》スキルを使って、魚屋の周辺を詳しく調べ始めた。石畳の隙間、店の前の排水溝、商品が置かれた台の下、店の看板の影、建物の壁際。


普通なら見落としてしまうような場所まで、丁寧に調べていく。《観察》スキルのおかげで、小さなゴミや落ち葉の下、コインの影に隠れた部分まで詳しく見ることができる。


魚の鱗や氷の欠片、野菜くず、紙切れ。様々なものが落ちているが、指輪らしきものは見当たらない。店の裏側まで調べたが、十五分ほど探しても発見できなかった。


次に八百屋『緑の恵み』に向かった。


「指輪?ああ、昨日の奥様ですね。心配そうに探してらっしゃいました」


八百屋の女主人が答えた。六十代のふくよかな女性で、野菜作りに精通しているらしく、手は土で汚れている。


「『結婚指輪を落とした』って、本当に困ってらっしゃった」


「うちでもトマトと人参を買ってくださったんですが、その時はもう指輪がなかったみたいで」


「でも、うちの周りでは見つからなかったと思いますよ。一緒に探したんですけどね」


ここでも同じように《観察》スキルで詳しく調べたが、やはり指輪は見つからない。


肉屋『精肉王』でも同様だった。


「ああ、あの奥様ね。うちでも豚肉を買ってくださったんですが、その時はもう指輪を落とした後だったみたいで」


「『買い物の途中で落とした』って言ってました」


「気の毒でしたねえ。高そうな指輪だったって聞きましたが」


パン屋『黄金の小麦』、雑貨屋『何でも屋トン』、香辛料屋『東方の香り』…次々と回ったが、どこでも同じ結果だった。皆マーサのことは覚えているが、指輪を見つけた人はいない。


店主たちは皆親切で、一緒に探してくれた人も多かった。しかし、成果は上がらなかった。


午前中いっぱい探し回ったが、手がかり一つ見つからない。


『やっぱり無理なのか…』


ミナトは焦り始めた。このままでは依頼失敗になってしまう。マーサの悲しそうな顔を思い出すと、諦めるわけにはいかなかった。


昼過ぎになっても成果が上がらず、ミナトは一度休憩を取ることにした。


市場の片隅にある簡易食堂『庶民の味』で、最も安い麦のスープを注文した。銅貨3枚。残り少ない所持金が更に減ったが、空腹では探索を続けられない。


店内は狭く、木製のテーブルと椅子が数組置かれているだけの質素な造りだった。客層も労働者や商売人が中心で、庶民的な雰囲気が漂っている。


運ばれてきたスープは薄味で、具もほとんど入っていない。野菜の切れ端と麦が少し浮いているだけだ。しかし、温かくて胃に優しく、疲れた体には染み渡るようだった。久しぶりの温かい食事で、少し元気が出てきた。


『もう一度、最初から探し直そう』


ミナトは気持ちを新たにした。《観察》スキルをもっと集中して使えば、何か見落としがあるかもしれない。


その時、市場の向こうの方で小さな騒ぎが起きていることに気づいた。


「おい、それは俺が拾ったんだ!」


「嘘をつくな!俺が先に見つけたんだ!」


二人の男が何かを取り合っている。周囲に人だかりができており、野次馬たちが興味深そうに見物している。口論する声が徐々に大きくなっており、今にも喧嘩が始まりそうな雰囲気だった。


ミナトは《観察》スキルで状況を詳しく見た。人だかりの中心で、二人の男が取っ組み合いをしている。そして、彼らの手の中に金色に光る小さなものが見える。


大きさといい形といい、まさに指輪のようだった。太陽の光を反射して、キラキラと輝いている。


『まさか…』


心臓が早鐘を打った。もしかしたら、あれがマーサの指輪かもしれない。


ミナトは急いで食事代を払い、人だかりに向かって駆け出した。


人だかりをかき分けて中心部に近づくと、二人の男の詳細が見えてきた。


一人は体格の良い太った男で、四十代半ばといったところ。商人風の服装をしており、指には何本もの指輪をはめている。顔には欲深そうな表情を浮かべ、目が金色に光っていた。


もう一人は痩せた男で、三十代前半くらい。市場で働く労働者のような格好をしており、服は汚れているが目は正直そうだった。手にタコができており、肉体労働に従事していることが分かる。


「何を取り合っているんですか?」


ミナトが声をかけると、太った男が振り返った。


「指輪だよ。金製で、ダイヤが付いてる高級品だ」


太った男が答えた。その声には明らかに興奮が混じっている。


「俺が先に拾ったんだから、俺のものだ」


「いや、俺の方が先だった!」


痩せた男が反論した。


二人は激しく言い争っている。しかし、ミナトには《観察》スキルで真相が見えていた。


太った男の視線の動き、体の緊張具合、手の震え方。全てが嘘をついていることを示している。一方、痩せた男の表情は真剣で、怒りよりも困惑の色が強い。


実際に指輪を拾ったのは、痩せた男の方だった。太った男は、それを見つけて横取りしようとしているだけだ。


しかし、今重要なのはそこではない。この指輪がマーサのものかどうかを確認する必要がある。


「すみません、その指輪を見せてもらえませんか?」


「何だお前は?関係ないだろう」


太った男が警戒心を露わにした。明らかに機嫌が悪く、ミナトを睨みつけている。


「実は、指輪を探している人の代理で来ているんです。もしかしたら、その指輪がその方の落とし物かもしれません」


ミナトは丁寧に説明した。


「だったら、俺が届けてやる。謝礼も俺がもらう」


太った男が欲深そうに言った。完全に金目当てだ。


「でも、あなたが拾ったわけじゃ…」


「何だと?俺が拾ったんだ!この痩せっぽちが横取りしようとしてるんだ!」


太った男が怒鳴った。しかし、痩せた男の方が指輪を差し出してくれた。


「本当に探してる人がいるなら、見せてあげるよ」


優しそうな顔をした男だった。名前はトム・ウィルソンというらしい。市場で荷物の運搬をして生計を立てている労働者だった。


ミナトは慎重に指輪を受け取った。


手のひらに載せると、確かに金製の美しい指輪だった。中央には小さなダイヤモンドが埋め込まれており、太陽の光を受けてキラキラと輝いている。大きさも形も、マーサが描写した通りの特徴だ。


しかし、外見だけでは確実ではない。似たような指輪は他にもあるかもしれない。もっと詳しく調べる必要がある。


『《観察》』


指輪を詳しく見ると、様々な細部が明らかになった。金の純度、ダイヤモンドのカット、細工の技術。どれも高品質で、相当な値段がしたであろうことが分かる。


そして、内側に小さな刻印があることが分かった。


「M&J Forever」という文字が繊細に彫られている。マーサ(Martha)とジョン(John)のイニシャル、そして「Forever(永遠に)」という言葉。まさに結婚指輪にふさわしい刻印だった。


「これです!マーサさんの指輪に間違いありません」


ミナトは興奮して声を上げた。


しかし、太った男は納得しなかった。


「待てよ。本当にその女の指輪だという証拠はあるのか?」


「内側にM&J Foreverという刻印があります。マーサとジョンのイニシャルです」


「そんなもの、でっち上げかもしれないだろう。お前がグルになって騙そうとしてるんじゃないのか?」


太った男は執拗に食い下がった。明らかに謝礼目当てで、簡単には諦めるつもりがない。


「それに、俺が先に拾ったんだから、俺に決める権利がある」


「嘘をつくな!」


トムが反論した。


「俺が雑貨屋の裏のゴミ箱の陰で光ってるのを見つけて拾ったんだ。お前はそれを見て後から寄ってきただけだろう」


「証拠があるのか?誰か見てたのか?」


「皆見てただろう!」


周囲の野次馬たちがざわめき始めた。


「確かに痩せた方が先に拾ってたよ」


「太った方は後から来たんだ」


「『俺のものだ』って言って横取りしようとしてるだけじゃないか」


「見苦しいぞ」


民衆の声は明らかにトムの味方だった。太った男の顔が赤くなる。


「くそっ!覚えてろよ」


太った男は悔しそうに舌打ちして立ち去った。その背中は明らかに不満そうで、時折振り返ってミナトたちを睨んでいた。


「ありがとうございます、トムさん」


ミナトは深々と頭を下げた。


「いえいえ。本当の持ち主に返すのは当然ですよ」


トムは照れたように頭を掻いた。


「でも、拾った指輪を返すなんて、立派ですね。売れば結構な金額になったでしょうに」


「そりゃあ、誰かの大切なものでしょうからね。俺だって結婚指輪を落としたら困りますよ」


トムは優しい笑顔を見せた。


「俺にも妻がいるんです。まだ結婚して3年ですが、貧しいから指輪は買ってやれませんでした。でも、いつかは立派な指輪を買ってやりたいと思ってるんです」


「きっとトムさんの奥さんも喜ばれますよ」


「そうだといいんですが」


ミナトは感動した。この世界にも、こんな心優しい人がいるのだ。お金よりも道徳を重んじる、立派な人格者だ。


「せめて、お礼をさせてください」


「いえいえ、そんなことは…」


「お願いします」


ミナトは自分の所持金を確認した。銅貨7枚しか残っていない。昼食代で3枚使ったので、朝より更に減っている。


そのうち銅貨5枚をトムに差し出した。


「こんなにもらえません。あなたも大変そうじゃないですか」


トムは遠慮した。確かに、ミナトの服装や様子を見れば、余裕がないことは一目瞭然だった。


「あなたの善意に報いたいんです。きっと奥さんも喜ばれますよ」


「でも…」


「お願いします」


結局、トムは銅貨5枚を受け取ってくれた。ミナトの所持金の大部分だったが、彼の善意に報いることができて嬉しかった。


マーサの元に指輪を届けに向かう途中、ミナトは達成感に満たされていた。


《観察》スキルを使って、ついに指輪を発見することができたのだ。戦闘はできないが、こうした調査では確実に役に立っている。


マーサの家に到着すると、彼女は庭で花の手入れをしていた。しかし、その表情は暗く、昨日から続く悲しみが顔に現れていた。


「マーサさん」


「あら、ミナトさん。お疲れさまです。どうでしたか?」


マーサは期待と不安の入り混じった表情で尋ねた。


「見つかりました」


ミナトがそう言うと、マーサの表情が一変した。


「本当ですか?」


「はい。これです」


指輪を差し出すと、マーサは手を震わせながらそれを受け取った。


「見つかった!本当に見つかったのね!」


マーサは指輪を受け取ると、大切そうに胸に抱きしめた。涙が頬を伝って流れている。20年間身に着けていた大切な指輪が戻ってきた喜びで、声も震えていた。


「よかったです」


「ありがとう、ありがとう!どうやって見つけてくれたの?」


ミナトは経緯を詳しく説明した。《観察》スキルで市場を調べ回ったこと、最終的に二人の男が取り合っているところを発見したこと、刻印を確認して本物だと判断したこと。


「素晴らしいわ!あなたのような人に依頼してよかった」


マーサは何度も頭を下げた。


「それに、親切な人が拾ってくれていたのね。その方はお元気でしたか?」


トムの善意についても話すと、マーサは更に感動した。


「その方にもお礼をしたいわ。今度市場に行った時に探してみます」


「きっと喜ばれると思います」


マーサは家の中に入ると、報酬の銅貨25枚を取り出した。しかし、そこに追加で銅貨25枚を加える。


「規定の報酬では申し訳ありません。せめてこれだけでも受け取ってください」


「そんなに…」


「お願いします。この指輪は私にとって何よりも大切なものなの。お金には代えられないわ」


マーサは嬉しそうに指輪を指にはめた。20年ぶりに元の場所に戻った指輪が、彼女の手で美しく輝いている。


「それに、あなたの《観察》スキルは本当に役に立つのね。きっと他にも困っている人を助けることができるわ」


「ありがとうございます」


結局、ミナトは銅貨50枚を受け取ることになった。規定の倍の報酬だ。これで今夜の宿代と食事代は確保できる。


「本当にありがとうございました。あなたは私たち夫婦の恩人です」


マーサは何度も感謝の言葉を述べた。その笑顔を見て、ミナトも心から嬉しくなった。


ギルドに戻って依頼完了の報告をすると、受付のリリアが驚いた表情を見せた。


「中央市場で指輪を見つけるなんて、まるで奇跡ですね」


「《観察》スキルのおかげです。普通では気づかない細かい部分まで見えるんです」


「それは素晴らしい能力ですね。調査系の依頼にはもってこいです」


リリアは感心したように言った。


「実は、他の冒険者からも『調査能力の高い新人がいる』という噂が広まり始めているんです」


「噂?」


「昨日の猫の救出と、今日の指輪発見。どちらも《観察》スキルの成果だと聞いています。特に今日の件は、市場の商人たちの間で話題になっているそうです」


ミナトは少し照れくさくなった。自分の活動が評価され始めているのは嬉しい。


「実は、明日も調査系の依頼があるんです。《盗まれた商品の捜索》という依頼なのですが、いかがですか?」


「ぜひお願いします」


ミナトは即答した。《観察》スキルが役に立つ依頼なら、積極的に受けたい。


「報酬は銀貨2枚です。昨日より大幅に上がりますね」


銀貨2枚は銅貨20枚に相当する。まだまだ戦闘系依頼には及ばないが、確実に前進している。


「ありがとうございます。頑張らせていただきます」


リリアは依頼完了の手続きをしてくれた。


「それから、もう一つお知らせがあります」


「何でしょうか?」


「Cランクの冒険者の方から、共同依頼のお話があるんです」


「共同依頼?」


ミナトは驚いた。自分のような新人に、そんな話があるとは思わなかった。


「詳しくは後ほど説明しますが、《観察》スキルが必要な特殊な依頼だそうです。かなり高額の報酬になる予定です」


その時、ギルドの入り口が騒がしくなった。


勇者カイルたちが《ゴブリンの群れ討伐》から帰還したのだ。しかし、朝の自信満々な様子とは打って変わって、全員疲労困憊している。


カイルは服が破れ、顔や腕に小さな傷がいくつも付いている。《大魔法使い》の転生者は左腕に包帯を巻いており、明らかに怪我をしていた。《神速》の転生者も足を引きずって歩いている。聖女エミリアは無事だが、疲れ切った表情をしており、ローブも汚れていた。


「お疲れ様です。どうされたんですか?」


ミナトが声をかけると、カイルが苦い顔をした。


「ゴブリンが予想以上に強かった」


「10匹の群れと聞いていたが、実際は15匹いた。しかも、その中にホブゴブリンが2匹も混じっていたんだ」


ホブゴブリンは通常のゴブリンより一回り大きく、知能も高い上位種だ。戦闘能力も格段に上で、一筋縄ではいかない相手として知られている。


「《大魔法使い》の奴が炎魔法で攻撃したんだが、ホブゴブリンに避けられて反撃された」


「《神速》の奴も素早い動きで攻撃したが、逆に包囲されて苦戦した」


カイルは悔しそうに語った。


「ホブゴブリンが他のゴブリンに指示を出して、組織的に攻撃してきたんだ。まるで軍隊のような連携だった。俺の《勇者》スキルでなんとか勝てたが、予想以上に苦戦した」


幸い、聖女エミリアの《治癒魔法》で怪我は治療できたが、全員が疲労している。


「でも報酬は金貨3枚もらえたから、まあよしとするか」


カイルは強がっていたが、明らかに自信が揺らいでいる。初めての本格的な苦戦で、戦闘の厳しさを実感したのだろう。


他の転生者たちを見ると、皆不安そうな表情をしていた。自分たちも同じような目に遭うかもしれないという恐怖があるのだろう。


「戦闘って、思ってたより大変なんだな…」


「怪我したら治療費もかかるし…」


「次はもっと慎重に行こう」


転生者たちの間に、微妙な緊張感が流れていた。


その様子を見て、ミナトは複雑な気持ちになった。


確かに彼らは高額の報酬を得ている。金貨3枚は銅貨300枚に相当し、ミナトの6倍だ。しかし、その分リスクも大きい。怪我をする可能性もあるし、最悪の場合は命を落とすかもしれない。


一方、自分の依頼は報酬は少ないが、安全だ。《観察》スキルを使えば、戦闘を避けながらも成果を上げることができる。


『これはこれで、悪くないのかもしれない』


そう思った時、一人の冒険者が声をかけてきた。


「君が《観察》スキルの転生者かい?」


振り返ると、30代前半の男性冒険者が立っていた。短髪で精悍な顔立ちをしており、軽装の革鎧を身に着けている。腰には短剣と小さなナイフが数本、背中には弓を背負っている。動きに無駄がなく、経験豊富な冒険者であることが分かる。


「はい、そうですが…」


「俺はレックス・ハンター。Cランクの冒険者だ」


Cランクということは、かなりの実力者だ。ミナトのようなGランクとは格が違う。


「実は、君の力を借りたい依頼があるんだ」


「僕の力を?」


ミナトは驚いた。Cランクの冒険者が、自分のような新人に依頼するとは。


「《古代遺跡の調査》という依頼なんだが、戦闘力よりも調査能力が重要なんだ。君の《観察》スキルがあれば、きっと役に立つ」


レックスは真剣な表情で言った。


「報酬は銀貨10枚。どうだ?」


銀貨10枚は銅貨100枚に相当する。今までで最高額の依頼だ。


しかし、古代遺跡という響きが不安を誘う。罠や魔物がいるかもしれない。


「大丈夫だ。俺が戦闘は担当する。君は調査に専念してくれればいい」


レックスは安心させるように言った。


「詳しい話を聞かせてもらえませんか?」


「もちろんだ。こっちに来てくれ」


レックスはギルドの片隅のテーブルに案内してくれた。


テーブルに座ると、レックスは依頼の詳細を説明してくれた。


「王都から2時間ほど歩いた場所に、古代遺跡がある。そこに古代文明の宝物が眠っているという情報があるんだ」


「宝物ですか?」


「ああ。古代の魔法具や貴重な鉱石、それに古代文字で書かれた書物もあるかもしれない」


レックスは地図を広げて場所を示してくれた。


「ただし、遺跡には様々な罠が仕掛けられている可能性が高い。俺一人では見落としがあるかもしれない」


「それで僕の《観察》スキルが必要だと」


「そういうことだ。細かい部分まで見ることができれば、罠を事前に発見できる」


確かに理にかなった話だった。《観察》スキルは戦闘には向かないが、こうした調査には最適だ。


「他にも冒険者はいるんですか?」


「いや、二人だけだ。人数が多いと遺跡内で動きにくいからな」


「分かりました。やってみます」


ミナトは決断した。いつまでも安全な依頼ばかりでは成長できない。


「よし、それじゃあ明日の朝、東門で待ち合わせしよう」


レックスは満足そうに握手を求めてきた。


「ところで、なぜ僕を選んだんですか?」


「君の評判を聞いたんだ。《観察》スキルで猫を救出し、指輪を発見したって」


ミナトは少し照れくさくなった。


「それに、転生者なら前の世界の知識もある。古代遺跡の謎を解くのに役立つかもしれない」


確かに、現代日本の知識があれば、古代文明の謎解きに応用できる可能性がある。


「期待してるぞ」


レックスはそう言って去っていった。


その夜、ミナトは久しぶりにまともな宿に泊まることができた。


銅貨50枚の報酬があったおかげで、『王都の星亭』という中級宿に宿泊できた。部屋は個室で、ベッドも柔らかい。窓からは王都の夜景が見渡せ、昨夜の安宿とは雲泥の差だった。


夕食も豪華だった。肉の煮込み、焼きたてのパン、新鮮な野菜のサラダ、それにスープまで付いている。久しぶりにお腹いっぱい食べることができた。


『明日は古代遺跡か…』


ベッドに横になりながら、ミナトは明日のことを考えていた。不安もあるが、同時に期待もある。ついに本格的な冒険に参加できるのだ。


《観察》スキルがどこまで通用するか分からないが、精一杯頑張ろう。レックスの期待に応えたい。そして、自分の可能性を試してみたい。


窓の外では、王都の夜景が広がっている。無数の灯りが瞬いており、多くの人々が生活している証拠だ。


他の転生者たちも、きっと同じような夜景を見ているのだろう。彼らは今日の苦戦で疲れているかもしれないが、それでも着実に成長している。


『俺も負けてられない』


ミナトは決意を新たにした。《観察》スキルは戦闘には向かないが、必ず他の分野で活躍してみせる。


明日からは、いよいよ本格的な冒険の始まりだ。


第2話 終

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