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第1話:最弱スキル

朝の通学路はいつものように賑やかだった。

制服を着た高校生たちが歩道を歩き、車道には通勤ラッシュの車が途切れることなく続いている。ミナト・カワグチは片手にスマートフォンを持ち、昨夜見たアニメの感想をSNSに投稿していた。

『異世界転生もので最弱スキルが実は最強って設定、もう飽きたよな』

そんなことを呟きながら、信号待ちの交差点で立ち止まる。向かいには同じ制服を着た同級生たちが見えた。彼らは楽しそうに会話を交わしている。ミナトは特に親しい友人もいない。いつものように一人で学校に向かい、一人で帰宅する毎日だった。


青信号が点灯する。


ミナトは顔を上げ、横断歩道に足を向けた。その瞬間だった。


「危ない!」


誰かの叫び声が聞こえた。視界の端に、猛スピードで突っ込んでくる大型トラックが映る。運転手はハンドルに突っ伏していた。居眠り運転か、それとも何らかの発作か。

目を覚ますと、そこは見たことのない場所だった。

高い天井、白い石柱、そして荘厳な雰囲気を醸し出す大理石の床。まるで古代神殿のような建物の中にミナトは立っていた。いや、正確には立たされていた。

身体を確認すると、制服も怪我も血痕もない。まるで何事もなかったかのような状態だった。しかし、トラックに轢かれた記憶は鮮明に残っている。ということは、やはり死んだのだろう。


「転生者よ、目覚めたか」


威厳のある声が響く。振り返ると、白い髭を蓄えた老人が金色の装飾が施された椅子に座っている。神か、それに類する存在であることは一目で分かった。その存在感は圧倒的で、見ているだけで膝をつきたくなるような威圧感があった。


「ここは…」


「異世界だ。お前たちは事故や病気で死んだ人間たちだ。我が手によって、この世界に転生させてもらった」


ミナトは周囲を見回した。自分と同じような年頃の人間が十数人、困惑した表情で立っている。男女比は半々といったところか。皆、死んだ記憶があるらしく、青ざめた顔をしていた。

中には泣いている少女もいた。きっと受け入れられないのだろう。当然の反応だと思う。


「この世界は魔物が跋扈し、人類は常に脅威に晒されている。魔王と呼ばれる絶対的な悪が存在し、近い

将来、必ずや人類を滅ぼそうと画策している。お前たちにはそれぞれ特別なスキルを授ける。それを使って、この世界のために尽くしてもらう」


神らしき老人は立ち上がり、杖を掲げた。その瞬間、神殿全体が淡い光に包まれる。


「異世界に転生させてもらった以上、お前たちには義務がある。このサクラディア王国の民を守り、いずれ現れる魔王を討伐することだ。無論、それに見合った力は与える」


転生者たちがざわめいた。困惑と不安、そして期待が入り混じった表情をしている。


「お前たちには前の世界の記憶と知識がある。それに加えて、この世界でしか得られない特殊な能力を授ける。さあ、一人ずつ前に出ろ。お前たちの運命を決定しよう」


ミナトの心臓が激しく鼓動した。ついに来たのだ。異世界転生、チートスキル獲得のイベントが。

最初に呼ばれたのは、茶髪の少年だった。体格が良く、運動部に所属していたような雰囲気がある。顔立ちも整っており、前の世界でもきっとモテていたのだろう。


「カイル・ロンド、前に出ろ」


カイルと呼ばれた少年は、堂々とした足取りで神の前に歩み出た。緊張しているような素振りは微塵も見せない。

神の手がカイルの額に触れると、眩い光が放たれた。その光は神殿全体を照らし、他の転生者たちは思わず目を細める。


「お前には《勇者》のスキルを授ける。剣術、魔法、あらゆる戦闘技術において並外れた才能を発揮するであろう。《神聖魔法》《雷魔法》《剣術マスタリー》《リーダーシップ》。これらすべてを与える」


カイルの身体が淡い金色の光に包まれる。明らかに他とは格が違った。


「ありがとうございます!必ずや世界を救ってみせます!」


カイルは力強く答えた。その堂々とした態度に、他の転生者たちから羨望の視線が向けられる。


「うわあ、勇者だって」


「すげー、複数スキル持ちじゃん」


「やっぱりあいつが勇者になるのか」


ざわめく転生者たち。ミナトも内心で舌を巻いた。いきなり勇者スキルとは、完全にメインキャラクターの扱いだ。

続いて呼ばれたのは、黒髪の清楚な少女だった。大人しそうな印象だが、よく見ると非常に美人だ。


「エミリア・フォスター」


エミリアと呼ばれた少女は、上品な仕草で神の前に歩み出る。


「お前には《聖女》のスキルを授ける。《治癒魔法》《浄化魔法》《結界魔法》《祝福》。人を癒し、守ることに特化した力だ」


「ありがとうございます。皆さんのお役に立てるよう頑張ります」


エミリアは深々とお辞儀をした。その慎ましやかな態度に、男性転生者たちの視線が集中する。

次に呼ばれた男子には《大魔法使い》のスキル。《火炎魔法》《氷結魔法》《土魔法》《風魔法》の四属性を操ることができるという。

その次の女子には《神速》。《俊敏性強化》《瞬間移動》《時間加速》といった、スピードに特化したスキルだった。

さらに《暗殺者》《重戦士》《召喚師》《弓聖》と、強力なスキルが次々と授けられていく。どれも戦闘に直結する、明らかに有用な能力ばかりだった。


転生者たちは皆、興奮した表情でスキルを授かっている。そして、自分の順番を今か今かと待っていた。

ミナトもその一人だった。胸の高鳴りが止まらない。


『きっと何か凄いスキルがもらえるはずだ。チート級の能力で異世界無双、ハーレム形成、そんな展開もあるかもしれない』


しかし、順番が進むにつれて、嫌な予感が募ってきた。他の転生者たちが次々と強力なスキルを授かる中、なぜか自分だけが最後の方に残されている。

そして、ついに最後の一人になった。


「最後だな。ミナト・カワグチ、前に出ろ」


ついに名前を呼ばれた。ミナトは緊張しながら神の前に歩み出る。他の転生者たちの視線が集中している。皆、どんなスキルが授けられるのか興味深そうに見ていた。


「手を出せ」


言われるままに右手を差し出すと、神の手がミナトの額に触れた。温かい感覚が頭の中に広がっていく。他の転生者たちの時のような眩い光は発生しない。むしろ、ほんのりと淡い光がさした程度だった。

数秒間の沈黙。


「…ふむ」


神が眉をひそめた。明らかに困惑している。嫌な予感しかしない。


「お前に授けるスキルは《観察》だ」


「…え?」


思わず間抜けな声が出てしまった。


「《観察》。物事をよく見る能力だ。詳細な情報を得ることができる」


周囲がざわめいた。他の転生者たちが困惑と、そして隠しきれない嘲笑の色を浮かべている。


「かんさつ?それだけですか?」


「それだけだ」


神はあっさりと答えた。まるで興味を失ったかのように、既に視線をミナトから逸らしている。


「でも、他の人たちは《勇者》とか《聖女》とか《大魔法使い》とか、もっと凄いスキルを…」


「お前に授けられるのは《観察》のみだ。文句があるなら、元の世界に帰してやってもよいが」


「い、いえ!そんなことは…」


ミナトは慌てて首を振った。元の世界に帰るということは、もう一度死ぬということだ。それは避けたい。


「《観察》も、使いようによっては役に立つかもしれん。まあ、頑張れ」


神の言葉は慰めにも聞こえたが、同時に明らかに諦めの色が濃かった。まるで「こいつはダメだな」と言っているようだった。

他の転生者たちからくすくすと笑い声が聞こえてくる。


「観察って、要するに見るだけでしょ?」


「戦闘に使えるのかな、それ」


「可哀想に、ハズレ引いちゃったね」


「俺たちとは格が違うな」


耳に痛い言葉ばかりだった。ミナトは顔を真っ赤にして俯いた。

勇者カイルが振り返って、同情するような視線を向けてくる。


「ドンマイ、ミナト。でも大丈夫、俺が頑張って世界を救うから」


善意から出た言葉なのだろうが、ミナトには屈辱的に聞こえた。完全に見下されている。


「それでは、スキル授与の儀式はこれで終了だ。お前たちはこれより王都の冒険者ギルドに案内される。そこで冒険者として登録し、依頼をこなしながら実力を磨くのだ」


神は再び玉座に座り、手を振った。


「いずれ魔王が復活した時、お前たちが人類の希望となることを期待している。特に勇者カイルよ、お前には大きな期待をかけている」


カイルは胸を張って答えた。


「任せてください!必ずや世界を救ってみせます!」


その堂々とした態度に、転生者たちから拍手が起こる。ミナトも拍手をしたが、心の中は複雑だった。


『なんで俺だけ《観察》なんだよ…』


スキル授与の儀式が終わると、転生者たちは王都の冒険者ギルドに案内された。案内役は王国騎士団の副団長を務めるという、アルベルト・ハイムという中年男性だった。


「諸君らには大きな期待をかけている。特に勇者カイル殿には、将来的に我が国の騎士団長になってもらいたいと考えている」


「光栄です」


カイルは謙遜した様子を見せたが、明らかに満足そうだった。

一行は王都の大通りを歩いている。石畳の道の両側には、中世ヨーロッパ風の建物が立ち並んでいた。商店や酒場、宿屋などが軒を連ねている。

住民たちは転生者の一行を興味深そうに見つめていた。特に勇者カイルに向けられる視線は尊敬に満ちている。


「あの方が噂の勇者様ですか」


「なんて立派な方なのでしょう」


「これで我が国も安泰ですね」


住民たちの期待に、カイルは手を振って応えている。まるで英雄のような扱いだった。

その一方で、ミナトに向けられる視線は…特になかった。完全に空気のような存在になっている。


『まあ、《観察》スキルじゃ仕方ないか』


自身の運の無さを悔やみながら、ミナトは列の最後尾を歩いていた。

やがて、大きな建物の前に到着した。『冒険者ギルド』と書かれた看板が掲げられている。


「ここで冒険者として登録し、依頼をこなしながら生活していくことになる」


アルベルトが説明した。


「ランクは最下位のGランクからスタートだ。実績を積めば上位ランクに昇格できる。最高位はSランクで、現在王国内にはわずか三名しかいない」


ギルドの建物は活気に溢れていた。筋骨隆々の戦士や、ローブを着た魔法使い、軽装の盗賊風の人物など、様々な冒険者が行き交っている。壁には大きな依頼板が設置されており、多数の依頼が張り出されていた。

受付には美人の女性が数名座っている。転生者たちが入ってくると、彼女たちは立ち上がって丁寧に頭を下げた。


「転生者の皆様、ようこそいらっしゃいました。私はギルド受付のリリアと申します」


リリアと名乗った女性は、ブロンドの髪を後ろで結んだ美女だった。二十代後半といったところか。


「それでは、お一人ずつ登録をさせていただきます。まずは勇者カイル様から」


カイルが受付に向かう。他の転生者たちが興味深そうに見守る中、登録手続きが始まった。


「スキルは《勇者》ですね。素晴らしい!これまでの戦闘経験はいかがですか?」


「前の世界では剣道部に所属していました。全国大会にも出場したことがあります」


「それは頼もしい限りです。では、まずはDランクからスタートしていただきます」


「Dランクですか?」


カイルが意外そうな顔をした。


「転生者の方でも、最初はDランクからのスタートとなります。ただし、《勇者》スキルをお持ちですので、特別に高ランクの依頼にも挑戦していただけます」


「分かりました」


カイルは登録証を受け取った。続いて聖女エミリア、大魔法使いの田中、神速の佐藤と、次々に登録が進んでいく。皆、Dランクスタートだが、スキルの内容を聞いた受付嬢たちは感心と驚きの声を上げていた。

そして、ついにミナトの番が回ってきた。


「次の方、どうぞ」


ミナトは重い足取りで受付に向かった。他の転生者たちは既に登録を済ませ、早速依頼板を眺めている。皆、どの依頼に挑戦しようか楽しそうに相談していた。


「お名前をお聞かせください」


「ミナト・カワグチです」


「スキルは何をお持ちでしょうか?」


リリアは明るい笑顔で尋ねてきた。しかし、次の瞬間には、その笑顔が微妙に変化することになる。


「《観察》です」


「《観察》ですか」


リリアの表情が困惑に変わった。明らかに戸惑っている。


「えーっと、《観察》というのは…どのような効果なのでしょうか?」


「物事をよく見る能力だそうです」


ミナトの答えに、リリアは更に困惑した。受付の奥にいる他の職員たちも、こちらの様子を心配そうに見ている。


「一応確認させていただきますが、戦闘経験やその他の技能はお持ちですか?」


「いえ、何も…」


「そうですか」


リリアは職業的な笑顔を保っているが、明らかに同情の色が混じっていた。


「では、まずは雑用や情報収集系の依頼から始めることをお勧めします。《観察》スキルでしたら、そうした分野で活用できるかもしれません」


彼女はギルドの依頼板を指差した。そこには様々な依頼が張り出されている。


《魔物討伐:オーク5匹》報酬:金貨2枚

《護衛任務:商人の馬車護衛》報酬:金貨3枚

《薬草採取:回復薬の材料集め》報酬:銀貨50枚

《行方不明者捜索:商人の息子を探せ》報酬:金貨1枚

《迷子の猫探し》報酬:銅貨10枚


戦闘系の依頼は報酬が高い。金貨や銀貨での支払いだ。しかし、ミナトのような戦闘能力皆無の人間には

不可能な内容ばかりだった。

一方、《迷子の猫探し》のような雑用系は報酬が格段に安い。銅貨10枚では、まともな食事も取れないだろう。


「この世界の通貨価値について説明させていただきますね」


リリアが親切に教えてくれた。


「銅貨10枚で銀貨1枚、銀貨10枚で金貨1枚に両替できます。一日の食費は銅貨20枚程度、宿代は銅貨50枚程度が相場です」


つまり、《迷子の猫探し》の報酬では食事代にもならない。これで生活していけるのだろうか。


「登録証をお渡しします。Gランクからのスタートとなります」


木製の簡素な登録証を受け取った。他の転生者たちが受け取った登録証と比べると、明らかに材質が劣っている。


「頑張ってください」


リリアの言葉は慰めの意味が込められていた。

登録を済ませたミナトは、依頼板の前に立った。他の転生者たちは既に高ランクの依頼を検討している。


「《オーク討伐》なんてどうかな。5匹くらいなら余裕でしょ」


カイルが自信満々に言った。


「でも、いきなり魔物との戦闘は危険じゃない?」


聖女エミリアが心配そうに答える。


「大丈夫。《勇者》スキルがあるから、オーク程度なら問題ない」


「じゃあ僕も一緒に行こうかな。《大魔法使い》スキルの威力を試してみたい」


田中も参加を表明した。

転生者たちは次々とパーティを組み始めた。皆、戦闘系のスキルを持っているので、魔物討伐の依頼に挑戦する気満々だった。


「ミナトも一緒に来る?」


カイルが振り返って声をかけてきた。しかし、その顔には明らかに社交辞令の色が濃い。本気で誘っているわけではないことは明白だった。


「いえ、僕は別の依頼を…」


「そっか。じゃあ頑張って」


カイルはあっさりと言って、再び仲間たちとの相談に戻った。完全に興味を失っている。

ミナトは一人、依頼板の前に取り残された。周囲には他の冒険者たちがいるが、誰も声をかけてくれない。新人で、しかも最弱スキルの持ち主では当然だろう。


『《迷子の猫探し》しかないのか…』


情けない気持ちになりながら、ミナトはその依頼書を手に取った。

最初の依頼は、やはり《迷子の猫探し》だった。

報酬は銅貨10枚。この世界での最低賃金以下の金額だが、他に選択肢はない。


「猫の特徴は、白い毛色に黒い斑点、首輪は赤色です。名前はミルクと言います」


依頼主は七十歳ほどの老婆だった。シワだらけの顔に深い心配の色を浮かべている。


「三日前から姿が見えなくて…きっとどこかで迷子になっているんです。お願いします、ミルクを見つけてください」


老婆は涙ぐみながら頼み込んだ。ミナトは胸が痛くなった。報酬は安いが、この老婆にとってミルクは大切な家族なのだろう。


「分かりました。必ず見つけてみせます」


「ありがとう、ありがとう」


老婆は何度も頭を下げた。

ミナトは王都の街を歩き回った。《観察》スキルがどの程度役に立つのか、まだよく分からない。とりあえず、意識的にスキルを発動してみることにした。


『《観察》』


心の中でそう呟くと、視界が少し変化した。細かい部分がより鮮明に見えるようになった気がする。色彩も若干鮮やかになったような…

足跡、毛、爪痕。猫に関係しそうな痕跡を意識して探してみる。すると、確かに普通では気づかないような小さな手がかりが見えてきた。

石畳に付いた小さな肉球の跡。建物の角に引っかかった白い毛。塀の上に残された爪の痕跡。

《観察》スキルのおかげで、こうした細かい証拠を発見することができる。思っていたよりも有用なスキルかもしれない。

痕跡を辿っていくと、やがて王都の外れにある廃屋にたどり着いた。古い倉庫のような建物で、人の気配はない。

建物の陰に回り込むと、小さな鳴き声が聞こえてきた。


「にゃあ、にゃあ」


見ると、確かに白い毛色に黒い斑点の猫がいる。首には赤い首輪をしている。間違いなくミルクだった。

しかし、猫は何かに怯えているようだった。廃屋の中から、低いうなり声のようなものが聞こえてくる。

ミナトは《観察》スキルを使って廃屋の中を詳しく調べた。すると、建物の奥に何か大きな影が見えた。


『魔物…?』


小型の魔物のようだった。ゴブリンより少し小さく、ネズミのような外見をしている。レッサーラットという下級魔物だろう。

ミルクはそのレッサーラットに追い詰められて、廃屋の外に逃げ出せずにいるのだった。


『どうしよう…』


ミナトに戦闘能力はない。魔物と戦うなど不可能だ。しかし、このまま見捨てるわけにもいかない。

ミナトは周囲を観察した。レッサーラットは夜行性で、昼間は動きが鈍くなる習性がある。今は昼過ぎなので、恐らく半分眠っているような状態のはずだ。

また、廃屋の構造を詳しく見ると、裏口があることに気づいた。そこから侵入すれば、レッサーラットに気づかれずにミルクを救出できるかもしれない。


『よし、やってみよう』


ミナトは慎重に廃屋の裏口から侵入した。《観察》スキルで室内の状況を詳しく把握しながら、足音を立てないように歩く。

レッサーラットは建物の奥で丸くなって眠っていた。予想通り、昼間で動きが鈍っている。

ミルクは入り口付近で震えていた。ミナトの姿を見ると、安堵したような表情を見せる。


「静かに、ミルク」


ミナトは小声で呼びかけながら、そっと猫に近づいた。ミルクも状況を理解しているのか、鳴き声を上げずにミナトの腕の中に飛び込んできた。


『成功…』


そう思った瞬間、足元の古い床板がきしんだ。


「グルル…」


レッサーラットが目を覚ました。赤い目でミナトを睨みつける。


『まずい!』


ミナトは慌てて出口に向かって走った。しかし、レッサーラットの方が速い。廃屋の出口を塞がれてしまった。


「グルルル!」


レッサーラットが威嚇の声を上げる。鋭い牙を剥き出しにして、今にも飛びかかってきそうだった。

ミナトは必死に《観察》スキルで周囲を見回した。何か脱出の手がかりはないか。

すると、天井近くに小さな窓があることに気づいた。積み上げられた木箱を使えば、そこから脱出できるかもしれない。


『あそこだ!』


ミナトはミルクを抱えたまま、木箱によじ登り始めた。レッサーラットが慌てて追いかけてくるが、ネズミの魔物では高い場所まで登ってこれない。

窓から外に出ると、ミナトはほっと息をついた。


「大丈夫だったか、ミルク」


猫は安心したようにゴロゴロと喉を鳴らしていた。

老婆の家に戻ると、彼女は涙を流して喜んだ。


「ミルク!よかった、本当によかった!」


「ミルク、お帰り」


老婆は猫を抱きしめて、何度も何度も撫でている。ミルクも嬉しそうに鳴いていた。


「ありがとう、本当にありがとう。どうやって見つけてくれたんですか?」


「《観察》スキルで痕跡を辿りました。廃屋にレッサーラットがいて、ミルクがそれに追い詰められていたんです」


「まあ、レッサーラットまで!危険だったでしょうに…」


老婆は心配そうにミナトを見つめた。


「大丈夫でした。戦うことなく、うまく逃げられましたから」


「あなたのような優しい方に助けてもらって、ミルクも幸せです」


老婆は銅貨10枚をミナトに差し出した。しかし、そこに追加で銅貨20枚を加える。


「規定の報酬では申し訳ありません。せめてこれだけでも受け取ってください」


「いえ、そんな…」


「お願いします。私にとってミルクは家族同然なんです。あなたは命の恩人です」


結局、ミナトは銅貨30枚を受け取ることになった。規定の三倍の報酬だった。

ギルドに戻って依頼完了の報告をすると、受付のリリアが驚いた表情を見せた。


「レッサーラットがいる廃屋から猫を救出されたんですか?」


「はい。戦闘は避けて、うまく逃げました」


「それでも十分すごいことです。Gランクの冒険者がレッサーラットのいる場所に単身で乗り込むなんて…」


リリアは感心したように言った。


「《観察》スキルが思っていたよりも有用でした」


「そうですね。情報収集や調査に特化したスキルとして、きっと重宝されると思います」


少しだけ自信が湧いてきた。《観察》スキルも、使い方次第では役に立つのかもしれない。

しかし、ギルドに戻ると現実を突きつけられることになった。

他の転生者たちは既に《オーク討伐》の依頼から帰還していた。全員無傷で、意気揚々としている。


「いやあ、簡単だったね。《勇者》スキルがあれば、オークなんて相手にならない」


カイルが自慢げに語っている。


「僕の《火炎魔法》も効果抜群だった。オークが一撃で倒れたよ」


田中も興奮した様子で報告していた。


「報酬は金貨2枚か。悪くないね」


「これなら高級宿に泊まれるな」


「明日はもっと上位の依頼に挑戦しよう」


皆が華々しい成果を報告する中、ミナトの《迷子の猫探し》はあまりにも地味だった。


「観察君はどうだった?」


カイルが振り返って尋ねてきた。しかし、その表情には明らかに嘲笑の色が浮かんでいる。


「猫は見つかりました」


「そっか、よかったね」


カイルはすぐに仲間たちとの会話に戻った。完全に興味を失っている。


「やっぱり《観察》じゃあ、その程度が限界だよな」


「戦闘系スキルとは格が違うよ」


「でも、誰かがやらなきゃいけない仕事だし」


転生者たちの会話が耳に入ってくる。悪意はないのかもしれないが、確実に見下されている。

ミナトは小さくなって、ギルドの隅の席に座った。銅貨30枚では、安宿の一泊分にもならない。明日も、また同じような雑用依頼を受けることになるだろう。


『本当に、この《観察》スキルで生きていけるのだろうか』


不安が胸を締め付けた。

夜、王都の安宿『眠れる子羊亭』の狭い部屋で、ミナトは一人になった。

部屋は六畳ほどの広さで、ベッドと小さなテーブルがあるだけの簡素な造りだった。窓からは王都の夜景が見える。

他の転生者たちは高級宿に宿泊している。金貨2枚の報酬があれば、それくらい余裕だろう。一方、ミナトは銅貨30枚で精一杯この安宿に泊まっている。

明日の食事代も心配だった。


「これでどうやって生きていけるのか…」


呟きは虚しく部屋に響いた。

天井を見上げながら、ミナトは今日の出来事を振り返った。確かに《観察》スキルは思っていたよりも有用だった。レッサーラットから猫を救出することもできた。

しかし、それでも他の転生者たちとの格差は歴然としていた。彼らは魔物を討伐し、高額の報酬を得ている。そして住民たちからも英雄として扱われている。

一方、自分は猫探しが精一杯だった。


『俺だけが取り残されていく』


そんな絶望感に包まれながら、ミナトは眠りについた。

明日もまた、小さな依頼をこなす日々が続くのだろう。他の転生者たちがどんどん強くなっていく中、自分だけが最下層に留まり続ける。

異世界での新しい生活は、想像とは全く違う形で始まったのだった。

しかし、ミナトはまだ知らない。《観察》スキルには、誰も予想していなかった可能性が秘められていることを。

そして、この世界の真実を『観察』することができるのは、彼だけなのだということを。


第1話 終

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