論争
耳元で呟かれた言葉が、意気消沈していたはずの彼方の原動力になった。
地面に落ちた直剣を拾い、ルナの首を真っ二つにする勢いで振りかぶった。
「くはっ、はは、そうだった。俺が初めてリアのことを見たのは『正義の味方』にならないかと誘われたからだった」
奇しくも同じ言葉をルナが使ったおかげで、彼方は再び立ち上がる気力を漲らせた。
自虐的な笑みながら頭に広がる光景に、彼方はただただ感謝していた。
始めはただご飯を奢ってくれる人間というだけの認識でしかなかった。そして腕相撲で負けてリアの願いを聞かせれた時に、彼方の眼に映ったのは大言壮語を語る子供だった。だが交わったその眼は確かな自信に溢れていて、『誰かの為』 になると信じきったものでもあった。
自分と同じような望みを持った人間を信じないで、自分を肯定などできるはずがない。
無傷で引き下がったルナは、彼方の不可解な行動に頭を悩ませていた。
「彼女を助けるなら、それは殺人を幇助することと同義だよ。それでも君は助けたい?」
「リアの正義に対する姿勢は本物だった。だから俺はそれを信じる」
折れた右腕を左手で懸命に支えながら、切っ先をルナに向ける。
「リアが信じる正義を信じる」
彼方は前傾姿勢でルナに駆け寄ると、そのまま直剣を振り上げた。
半身だけを器用に翻して攻撃を避けると、ルナは回し蹴りで直剣を弾く。
勢いを殺しきれずに彼方は直剣と共に、海域が一望できる店内のテラス席の反対側。厨房だった場所まで飛ばされた。だがすぐさま体勢を整えることに成功する。徐々にだが強烈なルナの一撃にも耐えられるようになってきて、彼方は手応えを感じていた。
「なら、仕方ないね。君を排することにするよ」
成りを潜めていたルナの殺気が、容赦なく彼方に牙をむく。
対抗意識の表れか、今度は彼方が友人のような親しみが籠った会話をする。
「『正義の味方』を自称するなら、退いてくれてもいいんじゃないか?」
「痛いとこつくな~。でも残念! 退かないよ。だって所詮『正義』なんて、視点の違い。コインの表裏だもん。君の『正義』と相容れないからといって、私の『正義』が覆る道理はないよ。だから結局人間は争うことでしか前に進むことが出来ないんだよ」
ルナは退かないという意志を示す為、彼方に迫る。
鉄門扉の方ががら空きになるから、攻勢は無いと踏んでいた彼方の反応が若干遅れる。
距離にしておよそ20m。そんな近距離での遅れは致命的かのように思えたが、彼方は眼前に迫りくるルナの拳撃を視認していた。音速に近しい速度の拳を寸でのところで躱すと、直剣を目一杯の力で振るった。技も何もない力任せの一撃に、ルナは飛び退く。
驚愕あるいは警戒か。
今まで反射的な攻防しかできていなかった人間が、いきなり攻撃を見切ったのだ。距離を置く選択肢を最適にさせたというのが、彼方に精神的優位を取り戻させた。
「それはあまりにも極論すぎる。会話が成立するなら話し合いでどうにかするべきだ!」
「その段階はとうに過ぎてるよ。私たちが武力で仕掛けて、君たちは武器を手放すではなく、ましてや抗戦もせず逃亡という道を選んだ。その時点で趨勢は武力による争い。つまり紛争に傾倒したんだよ」
前提にある対話が、そもそも意味がないという暴論に近い言葉を投げかけられて彼方は憤る。
「先に手を出しておいて、武器を手放さないと話し合いが出来ない? 一方的にやられろって言ってるだけだろ! ふざけるなッ!」
「こっちは武力で勝ってるのに、わざわざその有利を捨ててまで話し合いをすると思う? 争いって言うのはね、対等じゃないとそもそも成立しないんだよ」
ぐうの音もでないほど筋の通ったルナの意見に、いくら探そうと返しの言葉は見当たらなかった。
反論できないのを見て、ルナは追い打ちをかける。
「で、私たちは対等?」
する必要のない討論に付き合わせた挙句、善戦すらせず惨敗。それでも彼方のメンタルは然程落ち込んではいなかった。結局振り出しに戻っただけなのだから。
「認めるよ。お前のそれは紛れもない正論だ。だが、お前の『正義』を肯定するわけにはいかない」
ルナとの距離は先程よりも遠い。なのに彼方はその場で下段に構えていた直剣をいきなり振り上げた。床に散らばっていた木片の数々が無作為にルナの元へと突っ込んでいく。
同時に彼方は駆けだした。
目眩ましをしたとはいえ、次の攻撃が致命傷を与えられるとは思っていない。一撃、たった一撃でも入れなければ、この争いに自分がいた意味がないと彼方は考えていた。
ただ不気味なのはルナが微動だにしないこと。
ルナの動体視力なら躱すことは容易。むしろ彼方は躱したところに一撃を加えるつもりでいた。だが木片が目前に迫ってなお、ルナは沈黙を貫いている。それが彼方に不安を与える一助となっていたが、今更迷っている暇はない。柄を握る手に力を込める。
木片がルナの顔に当たると同時に、上段からの袈裟斬り。彼方は確かな手応えを感じたが、同時にその手には違和感も付随していた。木片のせいで相手がこちらの動きが分からないのと同じ様に、こちらもルナの動きを最小限しか計れない。だから彼方がその正体を知ったのは、全ての木片がルナの全身に当たって地面に落ちた後だった。
彼方の攻撃は、ルナが頭上に置いていた左手に止められていた。
振り下ろされた直剣は微動だにせず、ルナの左手がしっかりとその刃を掴んでいる。
何故?
その理由は、ルナの顔を見れば一目瞭然だった。
ルナの輝かしい双眸が閉じられていた。
つまり木片が飛び交う中、目視せず片手だけで、彼方の攻撃を防いだということだ。
思いついても普通は実行しないであろう行動。
そもそも片手で攻撃を防げるはずがない。
よくよく見ればルナの顔には傷らしい傷がついていない。
錯綜する情報と攻撃が軽々に無力化されたことで、彼方に激しい混乱と動揺が訪れる。
「君の言っていることは正しいと思うよ。悪い奴を懲らしめるって言ったけど、それは見方を変えれば弱い者いじめと変わらないからね。比喩で言ったこととはいえ『正義の味方』という傘の下、その悪行とも捉えられる行いを正当化している私たちは、君の言う通り悪い奴なのかもしれない。それでもね――――――」
ルナはゆっくりと空いているもう片方の手に力を込める。それを彼方の心臓目掛けて突き出す。
「――――――犠牲を出さなきゃ、対価を払わなければ、この世は何も得られないんだよ」
彼方は今もしっかりと両手で柄に力を込めているが、硬直が解かれる気配は微塵もない。それ以前に既に彼方は戦意喪失寸前だった。
膂力がルナより劣っているのは、しっかりと認識していた。だがそれを見越した攻撃が意味を為さなかったのだ。彼方の剣客としてのプライドは、木綿豆腐に等しい脆さに変質していた。そうでなくとも現状彼方に、ルナを打ち倒す術は残っていなかった。
(約束を守れなくてごめんな、リア)
心の脆弱さの露呈と諦観が混ざった時、視界の端が光った。
彼方の謝意を否定するように光るそれは、腕に巻かれた首飾りだ。
彼方は小さく笑みをこぼす。
「そうだな。まだ約束は違えてない」
彼方は強く両手で握っていた柄を、パッと離すとルナとの距離を更に詰めた。
圧し掛かる重さから解放されたルナの身体は、僅かなものだがその重心が崩れる。直剣の方ではなく、彼方を攻撃する為に踏み込んでいた右側にだ。その影響で当然ルナの頭部は低くなる。
彼方は自由になった右手を、ルナの顎に向けて繰り出す。
それは何の変哲のないただのアッパーだ。明らかにルナの拳よりも遅く、良くて相打ちが狙えるかどうか怪しいものだ。
だがルナは自身の攻撃を中断。直剣からも手を放して防御態勢を取った。
その隙に彼方も拳の力みを逃して、落ちた直剣を空中でキャッチする。そのままバックステップでルナから大きく距離を取った。
「へぇー、剣だけだと思ってたけど案外狡い手も使うんだね」
彼方の攻撃がただのアッパーではなくサミングだと見破り、その追撃を期待していたルナの声色からは、驚喜半分落胆半分が滲み出ていた。
交差させた腕を解き視界が広がると、その正面には顔を俯かせて両肩を震わせている、息も絶え絶えな彼方の姿があった。
返答はない。代わりに微かな笑い声が、彼方の口からこぼれる。それが自分に向けられたものだと思いルナは首を傾げる。
「ん? 私なにかおかしなことでも言ったかな?」
「いいや、見るに堪えない無様な姿だなって自虐しているだけだ。綺麗ごと立て並べて信じるって息巻いた手前、俺が本当に信じていたのは『正義』だけだったんだなって」
身体をふらつかせながら彼方は顔を上げた。誰の眼から見ても満身創痍であることに疑いの余地は残っていないが、面に刻まれた二つの瞳孔は絶望に打ちひしがれてはいない。本気でこの窮地を脱すると決意した面持ちだ。
「なんでも俺が俺がって言って、心の底からリアを信じきれていなかった。だからもう迷わない。リアを信じて、約束を果たす」
ルナにはその言葉の真意を計り知ることは出来ない。が、その必要はなかった。
彼方の佇まいが変化したことを覚ったルナの足が無意識に、目の前の脅威を取り払うために動く。
今まで全速力ではなかったのか、その動きは肉眼だけで捕捉するのは不可能なほどの速度が出ている。折角彼方が体力を回復させるために広げた間合いも、数瞬で縮まった。
ルナの動体視力を以てすれば、音速に近しい速度の最中でも、その眼に映る景色を正確に捉えることが可能だ。それに比べて一般人は、その世界の中では自由とは程遠い扱いを強制させられる。例に洩れず彼方もその枠組みに収まっている。身体の一切を動かさずに、ただ呆然と真正面を向いている。
反応を示すことすら容易ではない世界で、その姿を視界に捉えたルナは自分の勝利を確信した――――はずなのに、胸中には不安が蔓延っていた。
追い詰められた獲物は、今際の足掻きを見せることがよくある。散々間近でそれに触れてきたルナは、その雰囲気を肌で感じていた。
得も言われぬ不安が確信に変わったのは、念のため身を屈めて彼方の表情を見上げた時。攻撃を当てる既の所だ。
――――口角が上がっていた。