第一章8 『夢だけど、夢じゃない』
「――ずいぶんとキッパリ言い切るんだな」
ソイルは言った。誰かとの会話から、ある人物の名前を偶然耳にする。珍しい話ではあるだろう。しかし、完全に無理があるというほどのことでもない。特に、フィオのような雰囲気をまとった少女であれば、印象にも残るというものだ。
「あなたは、私と誰かが会話しているのを聞いたと言ったわね。そこで私の名前を知ったって。でも、それはありえない。だって、私がこの街に来たのは今日が初めてなんだもの」
フィオはソイルからそっと視線を外した。
「さらに言うなら、この街に入って私が話をしたのはあなたが初めて。他にもいくつか理由はあるけど、あなたが嘘をついてると判断するには、それだけで」
そう言って、フィオはどこか寂しそうに笑った。まるで、ソイルに嘘をつかれたことが本当に悲しいとでもいうみたいに。
そんな情報は知らなかった。いや、夢で起こった出来事や会話を本気で信じているという自分の状況が、ただ異様なだけかもしれないが。
それでも、フィオの表情は、ソイルの心にざわりとさざ波を立てるにはじゅうぶん過ぎるものだった。
「私、もう行くわ。これ以上ソイルさんのことを探ったりしない。だけど、ひとつだけ本当に忠告する。私のことや、名前のことは、このまま忘れたほうがいい。信じて。あなたはおかしな人だけど、でもきっと悪い人じゃないって。私も信じるから。それじゃ」
ソイルは立ち止まった。一歩、二歩と遠ざかるフィオの背中に向けて、ソイルは切り札を切った。
「アードキル、さんに」
フィオの動きが止まる。彼女はさっと後ろを振り返った。
「アードキルさんに頼まれたんだ。君を連れてきてほしいってな」
「おじさまのこと、知ってるの? え、と。あ、じゃあ本当にあなたは――」
フィオが立ち止まってくれたことに、さきほどまでの切なそうな表情からうってかわって、どこかほっとしたような顔をみせてくれていることに。後ろめたい安堵を感じながらも。
ソイルは、はっきりと自覚した。何がどうなっているかは、まったくわからないままがだが。それでもこの記憶は。夢だと思っていたものは。
夢のようだが、決してただの夢などではないことを。
◆
「そういう事情だったのね……。最初からそう言ってくれれば良かったのに。え、でも、私の胸をさわる必要はなくない!? ところで、ソイル。これはなに? なんて言うの?」
「あれはただの不可抗力だって。そして、これはメロヌだな。そういや、豊満な胸のことを形容した言い方で、まるでメロヌのようなって言い方ってあるよな。なあ、おやじ?」
「それはわかるヨ! 私もこのお嬢さんみたいじゃない大きなメロヌ持ってる女性と知り合いたいヨ! けど、なんであんたらがここでそんな話始めるのかはわけがわからないヨ!」
ソイルとフィオは、果物屋の露店の前で話していた。
「む。たしかにいったんは許したことだし……蒸し返すのは大人げないけど……。そしてこれメロヌなんだ……。ところで、この人の頭割ってもいいかな? ぐーぱんで。そのあとはソイルの頭も割るけど」
「情報量が多すぎる。さすがにぐーぱんじゃ割れないと思うぞ。せめて、さっき俺にぶちかました魔法みたいなさ。頭に岩を落とすやつじゃないと」
「なにを真面目に相談してんのヨ!? いいわけないヨ!? 止めてヨ!? このお嬢さん笑ってるけど、目は笑ってないヨ!?」
果物屋の親父の懇願を聞き流しながら、ソイルは思った。この場面も見たことがある。会話の細部はまるで違うが、それでもフィオが露店を見たいと言い出す流れは同じだった。
「ソイルこそ済んだことを遠回しにいってくるのね……。これでも裂けてたとこまで、ちゃんとくっつけてあげたんだから」
気を失っていたからわからなかったが、ソイルの頭は熟した果物のようにパックリといっていたらしい。いや、そんなことはいい。とりあえず夢では、仮に夢とするしかないのだが。このあとフィオと少し会話をしたのちに、デリス通りへ向かったはずだ。
そういえばと、ソイルは思い出したように言った。
「親父、そのメロヌもらうよ。半分だけでいい。ひとつぶんの料金は払うから」
「え? メロヌ買うの?」
驚いたようにフィオが尋ねた。
「ウチはそういう売り方はしてないんだけど、まあいいヨ! 毎度あり!」
ソイルは代金を支払いメロヌを受け取ると、腰から短刀を取り出し、スッと切り分けた。
「ほら、やるよ」
ソイルから切り分けられたメロヌを受け取ったフィオは、しばらくじっとそれを見つめていた。
「美味しそう……。それにすごく良い匂い」
「ウチのメロヌは格別に美味いヨ! たくさん食べたらお嬢さんのメロヌもこんな風に――ヒィッ!?」
眼力だけでおやじを蹴散らしてから、フィオはソイルに礼を言った。
「ありがとう……。お金とかいいの? 私持ってる! 200ディール」
「いいって。フィオの虎の子から奪うなんて恐ろしくて出来ねえよ。それに」
言いかけて、ソイルはその言葉を飲み込んだ。
「それに?」
「いや、なんでもない」
二人でメロヌ食べるって、約束したから。それを覚えているのが自分だけだとしても。それでも。約束は、約束なのだ。
◆
メロヌを食べ終わったフィオとソイルは、デリス通りまでの道を歩いていた。メロヌをほうばったフィオは本当に嬉しそうで。それだけに、その平和な景色は。これから起こるかもしれない出来事との落差があまりにも激しい。ソイルは自然と険しい顔になっていく。
「おじさまに雇われたって言ってたけど、どのくらい聞いたの? 事情というか」
口数が少なくなったソイルを気にするかのように、フィオが話しかけた。
「なにもだ。フィオのだいたいの特徴を教えてもらったくらいだな」
「そうなの。でも、それだけで私を見つけちゃうって、ソイルってすごい人なんだ。さすが冒険者って感じね」
無邪気に笑うフィオの顔を、正面からは見られなかった。ハッキリ言って身体的な特徴だけで人を探し出せるほど、ゼルドアは小さな街ではない。不可能ではないにしろ、もちろんソイルにそんな芸当は出来なかった。それでもフィオは、特に疑うこともなく信じたようだ。
「――全部は話せないけど。私がおじさまに会いにきたのは、普通の事情じゃないの。跡目争いというか、私と、お腹違いの兄のことでね。おじさまに会えるのは嬉しいんだけど、そんな話だから、どうしても気分は落ち込んじゃってて」
――王位継承権。ソイルはアードキルと話していたフィオの姿を思い出した。ソイルでは想像すら出来ないような重圧。
この国に住むすべての人間の未来どころか、隣国の未来までをも、この小さな身体でためらいなく背負おうとしている。にもかかわらず、彼女は明るさを失わない。夢の出来事だったとはいえ、事情を知っていると、余計にフィオの強さがわかる。
しかし、さきほども感じたように、やはりこれはただの夢じゃない。
予知夢……? そんなものを見たこともないし、水晶玉だって触ったことすらない。
すでにこころから余裕などは消え去っている。不安は徐々にソイルの中でその色を濃くしていた。
「だから。最初はいろいろあったけど……ソイルに会えて、私、いまは本当に良かったって思ってる。ありがとう」
鼻の奥がツンと染みるような感じがした。
くそ。なんだ。なんなんだこの気持ちは。
ソイルは唇をぎゅっと噛み、感情を外に出さないように堪えた。
悪い方ばかりに考えても仕方ない……。
未来が絶対に決まっているなんてことはあり得ないのだから。
とにかく今は進むしかない。大筋の展開が同じでも、細部は違っている。
だから、この先のことだって。
二人はデリス通りに入り、そこからまたしばらく歩いた。そして、それは現れた。
記憶と同じように、なんの前触れもなく。圧倒的な恐怖を纏いながら。
「――お待ちしておりました。フィオン様」