第一章6 『もう一度』
「……それほどまでの決意がおありだとは、大変失礼いたしました」
アードキルはフィオに向かって、深々と頭を下げた。それから顔上げ、フィオに向かって優しく微笑みかけた。
「私はなにも、フィオン様を差し置いて、アンガス殿下こそ真のお世継ぎだと、そう申しているわけではございません。私はただ……あの小さな可愛らしいフィオン様に、ただ普通の……普通の幸せを送って欲しいと思っております」
アードキルは言った。
「誓って、それだけが私の望みなのです。僭越ながらフィオン様の御母君も、いまは亡きガーリンネ様も、きっとそう願っておいでかと存じます」
さきほどまでのフィオを取り巻いていた張り詰めるような空気が、ゆるやかに弛緩してく。まるで、アードキルの言葉にわずかに揺らいでいるかのように。
「おじさまの、おじさまの深いお心遣いには、感謝しています。母のことでも、おじさまは本当に良くしてくださいました。その恩を忘れたわけではありません。私も、おじさまと争うようなことは、本当ならしたくない……けれど。それでも、私には出来ない」
フィオは言った。
「戦争を見て、あのボドの街を見て……何もしないでいるなんて。ただ、自分さえ平穏であれば良いなど、私には思えません。あんなことを繰り返さないために、私に出来るがひとつでもあるのなら。それをしない生き方など、私は望むことが出来ません」
「フィオン様の御心は、このアードキル、痛いほどよくわかりました。しかし、その道を行かれるならば、もはや人としての幸せを望むことは叶いませんぞ。たとえば――」
アードキルはちらりとソイルを見た。それがなにを意図するものなのか、ソイルにはわからなかった。ただ、わずかに。フィオの握りしめている手が、震えているような気がした。
「好きでこんな場所にいるんじゃない。こんなはずじゃなかった。違う生き方を望めたのなら良かった」
フィオは少しだけ微笑んで、言った。
「それでも、立ち上がらなければいけないときがあるのです。私はもう覚悟を決めました。傷つくことも、戦うことも、ためらいはしないと」
フィオの声の、一音一音が、宝石の雫ように輝いている。
ソイルは、ただ。自分がここにいることさえ忘れるほどに、フィオを見つめていた。
ソイルの想像などが及ぼないほどの、気高さ。高貴さ。勇敢さ。
遠い。あまりにも遠い。
自分はただ、空をまたたく流星の、通り道の近くに立っていただけなのだ。
そしてそんな一瞬さえ、生涯にわたって誇れるほどの幸運なのだ。
だから、ソイルは。こう言った。
「……フィオなら、きっと、全部うまくやれるさ」
すでにソイルの遥か彼方に去りつつあるほうき星に、手を振るように。
フィオは振り返り、ソイルを見て力強く頷いた。
同時に、自分の役目は終わったのだということが、ソイルにはわかった。
「本当に、本当に、ご立派になられましたな。フィオン殿下。そして誠に……残念でございます」
アードキルがサッと片手を上げた。
瞬間。
そばに控えていた黒騎士が、目にも止まらぬ速さで剣を抜いた。
「――殺せ」
彼女はおそらく、声を上げることも出来なかっただろう。
ソイルのまたたきの間に、冷たい鋼はすでに彼女の左胸を刺し貫いていた。
ソイルは、ただ、呆然と。倒れるフィオの姿を見て。
「――――え?」
なんだよ。な、んだよ。なんだ。
いったい。なにが。起こって。
「なんなんだよ!?」
ソイルは叫び、弾けるように飛び出した。
「フィオっ!!」
我を忘れて、転がるようにフィオの元に駆け寄った。
全ての音が遠い。全ての色が遠い。
血だまりの中から、ソイルはフィオを抱き起こした。
「お、おい!! しっかり、しっかりしろフィオ!! うそだ、うそだろこんなの。ありえない、こんなこと、あっていいわけが。フィオっ、フィオっ!!」
フィオが小さな口から、ごぶりと血を吐きだす。目はうつろ。
それでもソイルのことはわずかに見えているようで。
彼女の口元が動き、微笑み、言葉にならない言葉を紡ぐ。
『大丈夫?』
瞬間、ソイルの中で鎖が引きちぎれるような音がした。
「がああああああああああっ!!!!」
ソイルはアードキルに飛び掛かった。
こいつの喉元を食い破ってやる。それだけを思って。
アードキルに届くまえに。黒刃がひらりと踊り、ソイルの胸元を切り裂く。
ソイルはそのまま床に倒れ伏した。
なんだこれ、俺、斬られたのか。身体が熱い、血が。血が。あふれて。
おれのと。フィオのと。どっちも。こぼれて。こぼれ、こぼ。
「ぎっがっ……!」
虫のような声を上げ、胴体がかろうじて繋がった状態で、ソイルは地面を這った。
その姿は本当に、虫そのものだった。
ようやくおとずれた激痛が、いそいでソイルの脳を破壊するために走る。
耐えられるわけがないから。この痛みを知ったら、二度と元には戻れないから。
目が赤くかすむ。
そうかよ……最初から、俺も殺すつもりだったのか。
だから、アードキルはあえてソイルも残したのだ。
そんなことを、いまさらながらに悟る。
目の前に、じゃらじゃらじゃらじゃらと何かが落ちる音がする。
ディール? なんで、今、金なんだ?
ソイルが見上げると、アードキルがうっすらと笑っていた。
「ご苦労様です。ラガマフィン殿……。八万ディール、確かにお支払いいたしましたよ」
なるほど。この、悪趣味じじい……。
なかなかどうして、変態じゃねえか……。
ごぶっと血の塊を口から吐き出す。手足の感覚はもうない。
それでも。それでも。少しでも、フィオの近くに。
ソイルは黒くなっていく視界の中、小さな光に向かって手を伸ばした。
それは、銀色の髪飾りだった。
まるで、明かりに群がる羽虫のように。
ソイルはそれに必死で手を伸ばし続ける。
自分が死ぬのは別に良い……。
どうせ死んだように生きていた日々だから。
でももし、違う生き方が望めたら。
こんなはずじゃなかったと思うなら。
それは、全部フィオのために。
彼女のために、違う生き方が出来たなら。
彼女を死なせることなく。
助けることが出来たなら。
良かった、のに、な。
ああ。もう一度でいいから。
笑った、顔、が……。
その瞬間、ソイル・ラガマフィンは命を落とした。