第二章23 『菜の花』
ソイルは、その場に立ち尽くしていた。どのくらいの間、そうしていたのかはわからない。数舜のようにも一年のようにも感じられた。ソイルが立っているのは、石畳の小路の上だった。
空は素晴らしく青く、ところどころにちぎれた白い雲が浮いている。寒くはなく、また暑くもなかった。見渡す限り、一面に菜の花が咲き乱れ、静かに揺れていた。
「……なにがどうなってんだ」
ソイルは呆然と呟いた。空が明るい。さきほどまでは確かに夜だったはずだ。繰り返しという不可解な現象を幾度も越えてきているソイルだ。夜がいきなり昼になった程度ではそこまでうろたえることはない。
しかし。
ソイルは再度辺りを見回した。黄色く小ぶりな花が、陽光を浴びて輝き、それがどこまでもどこまでも、菜の花だけが長く広く遥か地平まで続いている。吸い込む空気に、花の香が混じっている。むっとむせ返るようなものではなく、どこか遠くから、微かに匂ってくるような。
「――普通に考えて、これは夢だよな。今度こそ間違いなく」
ソイルは片手を頬に当て、ぎゅいっと思い切りつねった。痛かった。頭に少し血がのぼった。
「……夢じゃねえのかよ」
そしてまた呆然と呟く。夢ではないというならば、ここはいったいどこだ。一面の花畑から、ソイルが最初に連想した場所は死後の世界。すなわちあの世だった。思わずパニックを起こしそうになる。やっとループから抜け出したと思ったら、有無を言わさず天国行きなど、あまりにも理不尽過ぎやしないだろうか。
「そうは言ったところで、たしかに俺は死んでるしな……」
そう。その事実は揺らがない。ループという檻に魂が囚われていたとするならば、そこから解放されたあとで送り込まれる場所があの世というのは、道理としては正しいような気もする。
そこまで考えたときに、ソイルはようやく前方を見据えた。ゆるやかにうねる小路が遠くまで続いている。その突き当りに、建物のようなものがあるのがかすかに見えた。
「しょうがねえ。とりあえずあそこまで行ってみるか……」
ソイルは一度息をつき、ゆっくりと歩き始めた。
小道を辿っていき、ソイルは家の前までたどり着いた。なんということはない、普通の小さな家だった。都会風ではなく、田舎の木造の一軒家という感じの外観。草葺きの屋根に、木を不器用にノミで繰り抜いたようなぼこっとした窓がひとつ。素朴で暖かな雰囲気はあるが、ここに住めと言われたら、一週間と経たずに逃げ出したくなるだろう。
戸口は白い塗料で染色されているようだが、最後に塗ったのがいつのなのか、というくらいにはくすんだ色になっていた。けれど、荒れているという印象は受けない。何年も使い込まれた道具のようなどこか丸みを帯びた温もりが、そのドアからも家全体からも感じられた。
ソイルは少し悩んだすえに、軽く扉を叩いてみた。中からは、女性の声がした。
「はい。どうぞお入りください」
その声は美しく、どこか品が有り、そして少しも驚いている様子がなかった。まるでソイルが来ることを予めわかっていて、待っていたんですよ、とでもいうみたいに。
ソイルはそっと扉を開け、家の中へ入った。そこは居心地が良さそうな小さな部屋だった。窓からは淡い光が差し込んでいた。部屋の中央には使い込まれたような色合いのテーブルがあり、その前に一人の女性が座っていた。
美しい女性だった。ソイルは、これほど美しい女性を見たことがなかった。ほっそりとしているが、柔らかな顔立ち。腰まで届く長い亜麻色の髪。銀色の瞳は優しくソイルを見つめていた。
その女性を見ていると、ソイルはふと、たとえようもない感覚になった。この人とは初めて会うはずなのに、なんでこんなに、胸が締め付けられる気がするのだろう。
「ようこそいらっしゃいました。さあ、そちらにおかけになってください」
ソイルは慌てて会釈し、テーブルをはさんで女性の前に腰をおろした。ソイルがそうしている間もずっと、その女性はソイルに、どこか慈しむような、優しい笑顔を向け続けていた。
「あっと……。い、いきなりすみません。俺は――」
「あなたのことは存じております。ソイル・ラガマフィンさん」
女性は言った。小さな鈴がそっと鳴っているような、心地の良い声だった。
「ソイルさん、と、お呼びしても構いませんか?」
「は、はあ。それはもちろん……」
「ありがとうございます。あなたにお会いできて、本当に嬉しく思っています」
そう言って、女性はまた優しく微笑んだ。
「俺のことを、知っているんですか?」
「あなたのことだけではありません。ミントさん、レーベンさん、オニールさん、イザルトさん、それから、フィオンさんのことも。あなたが知っている方のことはすべて。私は、そういう者なのです」
流れるように、女性が言葉を紡ぐ。近しい人間の名前を次々と並べられ、驚きよりもぞくりとした恐怖の方が勝った。ソイルは震える声で尋ねた。
「あなたは、あなたは誰なんですか?」
「私は、アステライア。あなた方が、星の女神と呼んでいるものです」
ソイルは直感的に確信することがあった。今まで押しとどめてきた感情があふれて、あふれて。目の前の女性を抱きしめたいような、首を絞めたいような、喜怒哀楽のすべてがぐちゃまぜになったような、言葉に出来ないどす黒いものが胸中を渦巻いた。
「……あなたが、俺に同じ一日をずっと繰り返させていたんですか? 何度も、何度も、何度も。あなたが、俺をあんなわけのわからない世界にいきなり放り込んだんですか?」
ソイルは低い声で言った。
「その通りでもあり、また、その通りではないとも言えることです」
ソイルは思わず乱暴に立ち上がっていた。
「ふざけないで下さい。下らない謎かけなんかをしたいわけじゃないんだ。違うというなら、そう言ってくれるだけで良いんです。でも、もしそうだと言うなら――どうして俺を、俺なんかをそうさせたんですか!? そのせいで、フィオは、あいつは何度も死んだんだ。俺は何度もあいつが死ぬのを見てきたんだ……実際にそれを目にしていない時だって、そんな一日の中だって、フィオは……何度も……」
「あなたの怒りも、後悔も、嘆きも、戸惑いも、痛みも。想いの全てを、私は存じています。あなたの目を通して私はあなたと同じもの見て、あなたの心を通して、私は同じものを感じてきました。私はあなたと共に在ったのです。最初から、ずっと」
ソイルは椅子を蹴り倒し、机を叩き壊したい衝動に駆られた。家の中をめちゃくちゃに荒らして、目の前に座っているアステライアと名乗る謎の人物のことも――。しかし、そんなことをしたところで、なんの意味もなさないこともわかっていた。
それに、たしかに繰り返しの日々は過酷だったとはいえ、ソイルはそれに感謝していたこともあった。自分が変わった、などとは思わないが、冒険者を辞めようと考えていた時からみれば、少しは成長も出来たのだとも思う。それは否定出来ない。結果的に、今回フィオは死ななかった。ソイルの一番の望みは叶ったのだ。
ソイルは深く、深く息を吸い、吐いた。それからもう一度、椅子へ座りなおした。
「――ありがとうございます。堪えて下さったのですね」
アステライアは本当にありがとうとでもいうような、儚い笑みを見せた。
「いえ……。こちらこそ、取り乱してすみません。でも、代わりにちゃんと聞かせて下さい。それだけ俺のことがわかっているというなら、俺が知りたいと思っていることも、あなたは全て知っているはずだ」
「ええ。私にお答えできることは全てお話いたします。少し、長い話になりそうですが、ここには刻というものがありません。ソイルさんが納得されるまで、いくらでも居て下さって構いませんからね。今、お茶をお持ちします。待っていて下さい」
◇
アステライアと名乗る女性――星の女神が淹れてくれたお茶を飲みながら、ソイルはゆっくりと呼吸を繰り返していた。女神が淹れてくれた茶を飲んだ人間など、歴史からみてもおそらく稀な存在であるはずだ。しかしソイルはというと、味などまったく気にする余裕はなかった。それでも温かさとどこかほのかな花ような香りは、ソイルのこころに落ち着きをもたらした。
「――何から、お話すればいいのかわからないくらい、ソイルさんは私に尋ねたいことがあるはずです。まずはそちらのお話からにしましょうか」
アステライアは優しくソイルに言った。
「えっと、じゃあ。お言葉に甘えて、ですけど。ここはいったいどこなんですか?」
「ソイルさんは、どこだと思われますか?」
尋ねてこいといった直後に、質問を質問で返される。なんなんだこの人・・・いや、人ではないのかもしれないが。ソイルがアステライアを見つめていると、彼女は口元に手をやり、小さくくすりと笑った。まるで母親が子どもの質問にたいして、考えさせている時のように。
「わかんねえっすよ……。ただ、もちろん現実じゃないし、かといって夢でもない、俺が考えたのは、天国とか、あの世とか……。あとはなんていうか」
「なんていうか?」
「絵本の中に迷い込んだみたい、というか。景色とか、雰囲気とか……。それくらいしか、思いつかないです」
「ありがとうございます。意地悪をしてしまってごめんなさい。でも、一生懸命考えているあなたがとても可愛らしくて」
意地悪だったのかよ……。ソイルは呆れそうになるが、なぜか怒る気にはなれないのだ。
「ここは現実でもなければ、夢でもない。死後の世界とも違います。ここは私の作り出した空間。あなたは私の中にいる、と言い換えても良いかもしれません。この空間自体が私なのです。菜の花のひと房。白い雲のひとつに至るまで、すべて」
最初から理解など到底及ばない途方もない話だった。とはいえ、繰り返しをさせている張本人だとさきほど認めたのだから、この程度のことなど当たり前なのかもしれないが。
「そういった意味では、さきほどソイルさんが言った、絵本の中にいるというのは言い得て妙かもしれませんね。ひとつの絵本が私なのです。そして、私はソイルさんをあちらからこの場所へお招きしたと、そういうわけです」
「ってことは、つまり。俺はまだ死んでないってことで良いんですか? 元の場所にも戻れるってことで?」
アステライアは頷いた。ソイルはほっと胸を撫でおろす。ひとまずはもうフィオや、みんなに会えないということは無さそうだった。以前はあれほど生に対して無頓着だったのに、いまやこんなことを思うようになるなんて。ソイルはどこか不思議な感じがした。
「ただし、向こう側へ戻るときには、こちらで過ごした記憶を全て置いていかなければなりません。置いていくというより、向こうへは持ち込むことが出来ない、といった方が正しいでしょうか。この空間のことも、私のことも、私と話したことも、見たもの、聞いたもの。その全てを」
アステライアは言った。
「ソイルさんは、あなたが好きなときに、いつでも向こう側へ戻ることが出来ます。そう望みさえすればいいのです。これは最初に伝えておかなければいけないと思い、お話しました。そのうえで、私に尋ねたいことは、いくらでも、お尋ねください」




