第二章17 『不遜な男』
目の前にあいつがいる。レト・ティルヴィングが。ソイルの中にいる獣が吠えたてる。はやくあいつに牙を突き立て、爪で斬り裂けと。
「この……!!」
立ち上がり、駆け出そうとしたソイルだが、それは片手によって制される。
「ソイル、落ち着いて」
フィオが飛び出そうとするソイルの前に手を置いていた。
「……あ、ああ」
「あなたが強いことはわかってる。でも、あの人が現れた以上、闇雲に突っ込んでもやられるだけだと思うわ。状況としては二対二ではあるけど、私はあなたたちみたいには戦えないから」
フィオの言葉で、ようやくソイルは我に返った。獣は小さく唸り声をあげながら、心の暗闇の中へ溶け込んでいく。フィオの冷静さが頼もしい。彼女の言う通りだった。
ソイルはレトを見た。繰り返す刻の中で、レトの姿もまた、幾度も思い描いてきた。おそらくはそれは、フィオの姿と同じくらいに。憎しみや怒りだけでは説明の出来ない、恐れ。どこか執着にも似た感情。それはソイルが無意識ながらもレトという人物に一目置き、認めていることの証左に他ならない。
「貴様!! いままでどこをほっつき歩いていたのだ!!」
アートギルがレトに言った。
「はあ? 脳みそわいてんのかよ、耄碌じじい。てめぇが俺を気にいらねえっつーから、言われた通りに後詰めしてやってたんだろうが」
「く、口の利き方には気を付けろ!! 貴様はそもそも――」
「ああ、はいはいうぜえうぜえ」
レトはハエでも払うように、アードキルに向かって手の甲を軽く振った。
「それにしても、くくっ。ずいぶんいいようにやられちまってるなファーガス。おまえが押し込まれてるとこ見るのは、ほんとに久しぶりだ」
「……辯解するつもりはない。レト、貴様あの男のことを知っているか?」
「あん?」
レトはソイルに視線を向ける。
「いや、知らねえな。会ったことも、見たこともねえ。剣はそこそこ出来るみてえだが。そういやあの兄ちゃん俺の名前を知ってたな。てっきりお前がばらしたのかと思ったが。違うのか?」
「違う。あの男は最初から我々の名を知っていた。お前がここにいることも。不可解だ。こんな経験は記憶にない」
「……へえ。たしかにそれは意味がわからねえな。というか、いろいろあり得ねえ話だ。世の中のことなんざ、だいたいわかってた気になってたが……やっぱ世界っつーのは広いな、ファーガス。他にあいつの特徴はあるか?」
レトは再びソイルを見ながら言った。
「……剣の腕は悪くない。あとは型破りな言動。礼儀知らずで、常識外れという意味だが。性格がお前に少し似ている。私では相性が悪い」
「なんだそりゃ……。まあ、意味がわからなかろうが、俺にとっちゃ僥倖だ。お姫さん一人を殺すだけなんざ、くそつまんねえ仕事だと思ってたが、あの兄ちゃんのおかげでちったぁ楽しめそうじゃねえか」
レトは愉快そうに笑う。アードキルが耐えかねたというように怒鳴った。
「貴様ら!! いつまで無駄口を叩いているのだ!! さっさとあいつらを殺せ!!」
レトは笑いながら、剣先を流れるようにアードキルに向けた。
「ヒッ!!」
「うるせえんだよ。いちいち癇に障るじじいだ。ファーガスがてめぇの尻を拭いてやってたんだろうが。そんなに殺りたきゃてめぇでやれ。それが出来ねえっつーんなら、ここで大人しくあやとりでもしてろ。わかったな?」
アードキルがピタリと押し黙る。
「……ソイル。あなた、あの人のことを何か知ってるの?」
フィオが言った。
「……どうしてそう思うんだ?」
「なんとなく。ここに入ってきたときから、あなたはずっと飄々としてたのに、あの人を見た途端、なんていうか……雰囲気が変わった気がしたから」
「さあ、もしかしたら前世の彼女か何かかもな。……フィオ。あいつは俺がなんとか食い止める。ただ、そうすると、もう一人のやつがおまえを狙ってくる。行けるか?」
ソイルはレトから視線を外さないまま言った。フィオが髪を結いながら答える。以前にも見た、彼女が本気で戦ると決めたときの仕草だ。
「こっちのことは気にしないで。黒騎士の実力は知ってる。倒せるなんて考えてない、でも、ここで死ぬつもりもないわ」
「本当に一か八かだけど、仕込みをしておいた。なんとか時間を稼ぐんだ。俺たちふたりが生きている時間を、少しでも長く」
「……何か考えがあるのね。わかった、死なないようにあがいてみせる。だから、そっちこそ死なないでよね、ソイル」
「ああ……。今度こそ期待しててくれ」
ソイルは柄を握る手に力を込めた。
正念場だ。あいつに呑まれるなよ、ソイル。
ソイルとフィオは少し離れて、同じように前を向いた。
「よう、おふたりさん。そっちの兄ちゃんはどうしてか俺の名を知ってるみてえだが、お姫さんとは間違いなく初対面になる。レト・ティルヴィングだ」
そう言って、レトは兜を外した。透き通るような白い肌。曇天の空のような灰青の髪。細い氷柱の眉の下にある、鋭く凍てついた青い瞳が、ソイルとフィオを捉える。
「あんたらがこの世の最期に見る男になる。恨んでも良いし、惚れても良いぜ。俺ぁどっちも嫌いじゃねえからな」
レトが軽薄そうに笑う。
「あっちにいるファーガスとは、ガキん頃からの付き合いでな。奴の肩に開けた穴の分は、あんたらの血で贖ってもらう。といっても恨んでるわけじゃねえ。ファーガス相手にやり合える奴はなかなかいねえからな。あんたらと殺し合いが出来て光栄だ」
どこか芝居がかった口調だが、顔の造形の美しさがその違和感さえ消してしまう。標的とされているフィオでさえ、レトの言葉にはどこか聞き入っているようだ。本心なのか、それとも、わずかでも相手の心理的動揺を誘おうとしているのか。おそらくは両方だとソイルは思った。
「このじいさんはお姫さんをだまし討ちしようとしてたみてえだが、俺ぁそういうのがいまいち好きになれなくてな。正面から戦ろうぜ。一対一でも良いし、二対一でも構わねえ。後者なら俺が楽しめる。ご機嫌だ」
「あら、それはどうもありがとう。暗部って言われてるあなた達の中にも、まともな人はいるのね。少しはって意味だけど」
フィオは言った。
「ははっ。胸はねえが肝はでかいお姫さんだな。こっちのくそじじいじゃなく、あんたみてえなやつの下に付く方がいろいろ面白そうだが、あえて敵に回るのもそれはそれで面白れえ。ふたつは取れねえのが人生の辛いとこだ」
「申し出は嬉しいけれど、あなたみたいな傲慢な男の人って一番嫌いなの。死んでもお断りだから安心してちょうだい。あと、女性の価値は胸じゃないから。もういっぺんでもそれ言ったら、あなたを倒すついでに、そのうざったらしい髪の毛、全部燃やすからね」
レトを前にしてもフィオは一歩も引かず、むしろ堂々と言い放っていた。たとえようもない頼もしさを覚えるのと同時に、ソイルはひそかにある誓いを立てていた。今後、フィオの胸のことをからかうのはやめようと。
「くくっ、わはははっ!! それは勘弁してもらいてえ。そっちの兄ちゃんも威勢が良かったが、お姫さんはそれ以上だな。あんたらみてえなのと殺し合うのが一番楽しいんだ。で、どうするんだ? ふたりとも俺が喰っちまっていいのか?」
「あなたの相手はソイルがする。ファーガスって人の方が、少なくとも礼儀はわきまえているもの。話は以上。あなたに乗せられてるつもりはないけど、始めましょう」




