第二章8 『ギルド受付嬢』
柔らかい夜風が吹いている。冷たい空気が、火照った肌を撫でていく。
見上げると、銀砂をこぼしたような星が一面にきらめき、街のうえに静かな光を降らせている。屋根の上からは、星が少しだけ近くに見えるような気がした。少し、ほんの少しだけ手を伸ばせば、触れられそうなくらいに。
眼下には、ゼルドアの街の灯がまたたいている。人から生まれた、人の灯火だ。それはときに不確かに揺れるが、どの光も懸命に未来を照らそうとしている。どちらが美しいかは吟遊詩人にでも詠わせておけばいい。ソイルは、どちらも同じくらいに好きだった。
「綺麗ですね……街も、空も」
隣に座るミントがポツリと呟く。彼女の白い吐息が、夜空と銀河の中に溶けこんでいく。
「久しぶりにきたけど、変わってないな。こっから見る景色は」
「ソイルさんとここに来たのは、二年……くらい前ですね。あのときもこうして飲み物を持ってきました」
「そうそう、それで思い出したんだ。懐かしい、もうそんなに経ったのか。さすがにどんな会話したのかまでは、断片しか覚えてないんだけどさ」
「私も同じかもしれません。でも、すごく楽しかったことと、すごく嬉しかったことだけは、鮮明に覚えているんです。すごく緊張してたことも……。後から考えて後悔したりもしました。もっといろいろお話出来てたら良かったのになって」
「へんなこというやつだな。ほぼ毎日顔合わせてるし、話なんかこれからだっていくらでも出来るだろ」
ソイルが言うと、ミントは指をあごにピトと押し当てて、うーんと唸った。
「まあ、良いんです。男の人にはきっとこういうのがわからないと思うし、わからなくて良いことなんです」
よくわからないが、これ以上聞いても教えてはもらえなそうだ。
「――そういえば、よく俺たちに気付いたよな?」
ソイルは尋ねる。
「偶然だったんです。お父さんが財布を忘れちゃって、お店まで届けにいって、その帰りでした。ちょうど酒場からソイルさん達が出て来るのを見つけて。それで――」
ミントはそう言って少し俯いた。
「なるほど、酒場から付いてきてたのか。いや、気にしてないよ。別に悪いことでもなんでもない」
それなら火かき棒を持って現れたことにも納得できる。たしかに度肝を抜かれたし、おそらくあんな姿のミントを見ることは二度とないだろう。
「ごめんなさい。普通ならそんなことしないんです。でも――今朝からずっとソイルさんを見てたから、へんな胸騒ぎがしちゃって。ソイルさん、ずっと今日はなにか変だったから。そして、ばれないようにって普通にしてましたけど、今も、ずっと胸騒ぎは続いてるんです」
そこでミントは顔を上げて、ソイルを見た。
「ソイルさん、たぶん、なにか隠していることがありますよね? 違いますか?」
ミントの言葉は、ソイルにとって不意打ちに近いものだった。上手く誤魔化そうにも、それを考えるための時間もない。黙っていればいるほど、それはミントの問いかけを認めることになる。
くそ……。ミントが何も聞いてこないから、完全に油断してた。ソイルが何も言い出せないでいると、ミントはさらに続けた。
「私にだけじゃなく、みんなに隠してることがあるんじゃないかって思いました。さっきのことだってそうです。こんな言い方はどうかと思うんですけど、レーベンさん達が、ただソイルさんと喧嘩してただけって言われたら、まだ納得は出来たんです。でも、まさかソイルさんから頼んだことだったなんて」
「あ、ああ。それは……確かにな。少し普通じゃないことしちまったかな。でもま、それも強くなるための修行っていうかさ」
ソイルは笑ったが、ミントは笑わなかった。
「お父さんも言っていたことですけど、ちょっとの変化じゃないんです。昨日までのソイルさんとは本当に別人なんじゃないかって思うくらいなんです。もちろん、ソイルさんがソイルさんであることを疑ってはいません。それくらいは分かります」
ミントは言った。
「強くなりたいって言い出したことも、急に思い立つことはあると思います。でも、やり方が異常なんです。お父さんとあれだけの訓練したあとに、全然休みもしないで、今度はレーベンさん達とだなんて……」
参ったな。このミントの言い方だと、今朝からの俺を見て、違和感をずっと考え続けていたのかもしれない……。適当に誤魔化すにしたって、急ごしらえの言い訳など通用しないだろう。
正直なところソイルは、何回も繰り返しているせいで、『昨日』のことなどほとんどもう覚えていなかった。しかし、ミントが知っているソイルは、あくまで『昨日』までのソイルだ。フィオに出会う前の、目的も持たずに、日々を死んだように生きていたソイルなのだ。
「ソイルさんが急に言い出したことや、しようとしていることには、もちろん何か理由があるんだと思っています。もちろんすごくすごく心配ですよ? でも、それを無理やり聞き出そうとか、詮索しようとは思っていません……。ただ」
ミントはそこで言葉を切って、ソイルを見つめた。目の中は少しだけうるんでいた。
「もし、誰にも言えないことをひとりで抱えて、あなたがずっと苦しんでいるのなら、私に出来ることがひとつでもあるのなら、私はソイルさんの力になりたいんです。だって、ソイルさんは今日の朝、泣いていたから。ソイルさんが泣いているのを見るのは、とても、私にとってとても、辛いことなんです」
星のしずくみたいな涙がひとつぶ、ミントの瞳から零れ落ちた。ソイルは、もう、観念するしかなかった。ミントには、今のミントにだけは、これ以上嘘をつきたくなかった。
「……隠してたわけじゃないんだ。でも、なんというか、ぶっ飛び過ぎてることでさ。誰に言っても信じてもらえないだろうし、それこそ異常者だって思われるようなことなんだ。だから、黙ってたというか、誰にも話してこなかった」
「そういう事情があったんですね……。ねえ、ソイルさん」
ミントは優しくソイルの手を握った。彼女の体温が伝わる。伝わってくる。想いも一緒に。
「どんなお話だろうと、私は信じます。ソイルさんのことを、異常者だなんて絶対に思ったりしません。だから……ソイルさんが私を信じてくれるなら、それで少しでも気持ちが楽になるのなら、話してみてもらえませんか?」
「……ミントのことを信じてないとか、そういうことじゃないんだ。ただ、本当に、荒唐無稽というか、聞いたこともないような話で……。当事者の俺だって何がどうなってるのか、いまだにわかっちゃいないことなんだ。だから、そんな話をしてもいいのかって、そう思っちまってさ」
「……さきほども言いましたが、私はソイルさんの力になりたいんです。そこに個人的な感情がまったくないといったら、嘘になってしまいます。けれど、それ以前に」
ミントは微笑んだ。それはいつもの、ギルドの受付で彼女が見せている顔だった。
「ソイルさんは冒険者です。常に未知に挑み続け、誰も信じないことでも、どんな夢物語でも、信じるのが冒険者です。信じて、そこにまっすぐ向かっていく人たちなんです。誰の手も届かなそうにみえる場所にも、手を伸ばし続けるのが冒険者なんです」
ミントは言った。
「そして私は、あなたが所属しているゼルドアギルドの受付嬢です。受付嬢のお仕事はなにも、冒険者さんに依頼書を渡したり、終わった依頼の確認をするだけじゃないんですよ? 舐めてもらっては困ります」
誰かにこのような感情を抱くことは、人生のうちに何度もあることではないと、ソイルの直感が告げていた。とてもじゃないが適わない。目の前にいる少女は、俺なんかが勝てるような相手ではない。そう思うと、ソイルの表情からは思わず笑みがこぼれてしまった。
「――参った。降参するよ。どこから話したらいいものかって感じだし、正直いって、あまり楽しい話でもない。それでも良かったら……聞いてくれるか?」
「はい。聞かせてください。私に話したことで、ソイルさんに後悔なんで絶対にさせませんから」
ダメ押しの一撃とミントの笑顔をまともに喰らって、ソイルもまた覚悟を決めた。ソイルはすぅと息を一度吸い込んだあと、語り出した。ソイルが迷い込んでしまった、不思議な世界の話を。
「俺、実はさ――」




