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第一章2 『痛みを拭う魔法』

 

 全身が固まったまま声も出せずにいるソイルに対して、少女は何かに気付いたように目をパチクリとさせた。


「口の端、血が出てる。ちょっと待ってね」


 少女は白いハンカチを取り出すと、ほうっと息をあててから、ソイルの口元そっと拭った。


「あ、反対側も切れてるじゃない」


 甘いような、香水だろうか。この世のものとは思えない、優しく良い匂いがソイルの鼻をくすぐる。そこで正気に戻ったソイルは、思わず少女の手を払いのけた。


「あ……」


 ソイルはごめんと口に出そうとしたが、唇がパクパクと動いただけだった。手を払いのけられた少女だが、さして動じた様子はなかった。少しだけ眉を寄せ、唇をわずかにすぼめただけだった。


「む。取って食いやしないわ。大丈夫だから、すこしじっとしてて」


 少女はまったく臆することもなく、再びソイルの口元を拭っていく。


「これで良しと。ふふっ。あなた、喧嘩でもしてきたあとみたい」


 そう言って少女は、ソイルに向かって小さく微笑んだ。亜麻色の長い髪のうえで、銀の髪飾りが優しく光った。ありがとうと、言わなければいけなかった。声をかけてくれたこと。気遣ってくれたこと。ソイルが無礼に手を払ったにもかかわらず、それを咎めず、立ち去らずに居てくれること。


 俺は彼女にただ。ありがとうと、言わなければいけないのに。


「余計な真似してんじゃねえよ」


 ソイルは言った。少女の笑顔が眩しくて、眩しくて。だからこそ、いまの自分が惨めで。


「頼んでもないことを勝手に……! 良い気分だろ、恵まれないやつに、上から手を差し伸べる気分は!」


 違う。そんなことを言いたいわけじゃないのに。醜い感情が溢れだし、言葉を止めることが出来なかった。急に明るい光に照らされた岩の下の虫が、次々と這い出してくるかのように。


「お、俺だって、好きでこんなことしてるわけじゃない! こんなはずじゃなかった! もっと、もっと、違う生き方を……お、俺はっ」


 違う生き方が出来ていたなら。この子に、ちゃんと伝えることが出来たのだろうか。俺と出会ってくれて、ありがとうと。

 

 ソイルはハッと我に返った。なにを。自分はなにを口走ってしまったのか。出会ったばかりの少女に、助けてくれた彼女に。少女は黙ってソイルの言葉を聞いていたようだった。さきほどまでの微笑みは消え、銀の瞳は、まるでここではないどこかを見つめているみたいに、じっと一点から動かなかった。


 全身の血の気が引く。背中にはいやな汗が浮かぶ。


「ちが、違うんだ。俺はただ、君に」


 心臓は狂ったようにバクバクと動き続けている。怖かった。少女の次の言葉が、ソイルはただ怖かった。少女は瞳を動かし、もう一度ソイルを見ると、ふわりと微笑んだ。


「じゃあ、私とあなたは同じね」


 彼女の口が言葉を紡いだ時。震えるような衝撃が走った。畏怖するとは、このような感情を言うのだろう。ソイルは雷に打たれた気さえした。鈴のような声音が鼓膜を叩いたとき、自分の存在、その全ての根幹を成す、ちっぽけな命そのものが揺さぶられた気がした。


「そのままじっとして」


 少女はソイルの胸あたりに手を触れ、そっと目を閉じた。


「――プテラ・ノヴァエアングリア」


 少女が何かを唱えると、何かがソイルの身体に流れ込んできた。少女の手が淡い青色の光を帯びる。さきほどまで身体中をさいなんでいた痛みが、溶けるように消えていく。


「魔法……」


 ソイルは思わず呟く。


「癒しの魔法。あんまり得意じゃないから、効果はほどほどで期待して」


 どこか照れくさそうに少女が笑う。

 暖かくて、涙が出そうなくらいに、それは暖かくて。

 身体の痛みだけではなく、まるでこれまでの心の痛みも。

 そして、これから先に出会う痛みすらも、拭い去ってくれるような魔法。


 少女はソイルから手を離すと、スッと立ち上がった。


「好きでこんな場所にいるんじゃない。こんなはずじゃなかった。もっと違う生き方が出来たら良かった」


 少女が口にしたのは、さきほどソイルが言ったことの反覆。だがそこには、微塵も後ろ向きな響きはないのだ。


「それでも。立たなきゃいけないときはある。私とあなたが同じなら」


 少女は微笑んで、ソイルに向かって手を差し出した。


「大丈夫。あなたもきっと立てるから」


 ソイルは震える身体で手を伸ばし、導かれるように少女の手をぎゅっと掴んだ。少女はぐっと力を込めて、ソイルを引っ張った。


「私はフィオン。フィオン・レアルタ。白い星って意味なの。フィオって呼ばれると嬉しいかも。あなたは?」


「ソイル……」


 ソイルは言った。


「ソイル・ラガマフィンだ」


 ソイルは空を仰いだ。青く高い空は、さきほどよりもずっとずっと、近くにあるように見えた。

 




「ねえソイル。これはなに? なんて言うの?」


 露店に並べられた商品を指さしながらフィオが尋ねた。


「メロヌだ。果物だよ。見たことないのか?」


「え゛っ。これメロヌなの? こんな、虫がぶわわって這いまわった跡があるやつが? 」


「そういうもんなんだよ。言ってることはわかるけど本当に虫がいるわけじゃない。中は綺麗だし、食べごろだと思うぞ」


「私が知ってるメロヌはもっとこう、つるつるしてるもの。うーん。私はこんな虫が這ったようなの食べたくないかも……だってソイル見てよ。ほら、こんなにいっぱい虫が」


「お嬢さん、さっきから人聞きわるいこといわないでヨ! 果物屋の前で虫虫連呼するとか、通報もんだヨ!!」


 露店のおやじの嘆きをまるで無視して、フィオは言う。


「ねえ、ソイル。ちょっとこのメロヌ割ってみても良いかな? ぐーぱんで」


「ぐーぱんじゃさすがに割れないと思う。せめて手刀とかさ」


「なにを真面目に相談してんのヨ!? いいわけないヨ!? 頭おかしいの!?」


「ねえソイル。じゃあこの人は?」


「果物屋のおやじだ。顔が真っ赤だろ? たぶん熟しかけてる。あと少しでもここにいたら、頭をカチ割られるかもな」


「ぜんぶ代弁してくれて感謝ヨ!! 何も買わないでいちゃつくだけならよそでやってヨ!!」


 フィオとは、あのまま別れるという流れになるのが当然だと思っていたソイルだが、そんな彼をよそに露店に行ってみたいと言い出したのはフィオだった。さして断る理由もなく、ソイルは彼女に言われるがまま、行動をともにしていた。


 怒りの形相で果物屋のおやじに追い払われても、フィオは満面の笑みだった。ソイルは腕を組み、フィオの姿を目で追いかけていた。さきほどのまでの、まばゆいばかりの雰囲気はどこへやら。目の前ではしゃぐフィオは、ただの年相応の少女だった。亜麻色の髪を揺らし、陽の光を受けて髪も彼女自身も快活に輝いている。


 白を基調にした衣服は、飾り立ては少ないが、ところどころに金や青の刺繍が施されており、生地もシワひとつない。高級で洗練された、魔術師の装束という言葉が浮かぶ。ひとめで一般人の着るものとは違うと判別できるものだ。


 衣服だけ見れば、どこかの貴族の令嬢。そんな言葉が頭に浮かんだが、それにしては付き人はおろか、護衛の一人も付けている様子がない。本当に謎だらけだ。


 ただひとつだけ。全体的に小ぎれいな、彼女の身に付けているものの中で、銀の髪飾りだけは、少しだけくすんで、どこか年季が入っているもののように見えた。ソイルは思わず尋ねていた。


「なあフィオ」


「ん、なに?」


「その髪飾りだけど、それって」


「あ、これ? ふふ。お目が高いですね。アステライア様の髪飾り。お気に入りなの。どう? 可愛い?」


 フィオは小生意気な表情で、ソイルにそれを見せ付ける。確かに似合っているとは思うが、年齢的にはもう少し上の女性が付けるものだという印象を受ける。


「まあ……。それって純銀か?」


 ソイルが尋ねると、フィオはこのロマンも乙女ごころもわからないクソ男しね、というような目でソイルを見た。嘘だ。さすがに誇張したが、それに限りなく近い表情ではある。


「はぁ……。純銀かどうかなんて知らない。調べたこともないし、売るつもりなんか絶対にないもの」


 そう言うと、プイとフィオはそっぽを向いてしまった。なにやら踏んではいけないものを踏んでしまったようだ。ソイルは少し慌てて言った。


「あー……と。アステライアっていうと、あれか。星の女神。子どものころに母ちゃんから聞いたことがある。二回、願いを掛けると、それを叶えてくれるっていう」


 そういうたぐいの、わりとどこにでもあるような話だ。


「知ってるじゃない。でも、ただ願うだけじゃだめなの。本当に、こころからお祈りしないと。これはけっこう難しいことなのよ。私もお母さんから聞いた話なんだけどね」


 少しだけ機嫌をなおしたフィオを繋ぎとめるため、ソイルは話を続けることにした。


「うーん、そういうものなのか」

 

「誰でもいろんな望みを持って生きているけど、そのなかでたったひとつ。自分が本当に望んでいるもの。本当に成し遂げたいと思うこと。こころのすごく奥にある本当の願い。それをしっかりわかってる人なんて少ないと思うの」


 たしかにソイルも、日々、様々な欲望を持って生きている小市民だ。しかしそれらの願いが叶ったことなど一度たりともないような気がする。フィオに言わせれば、それらは本当の望みではないということになるのか。


 とはいえそれも、女神に願掛けしたのに、一向に願いが叶わないことに対する、逃げ口上のようにも思えるが。って。しょせんはおとぎ話だ。真面目に考えるほど価値のあることじゃない。ソイルは言った。


「フィオも母ちゃんから聞いたのか。母ちゃんは元気なのか?」


「……もう亡くなってるの。私が小さいころにね。この髪飾りは、母がくれたものだから」


 彼女の表情からはなにも読み取れない。しかし、フィオがさきほど怒った理由がわかった気がした。


「……悪い。知らなかったとはいえ」


「ううん、良いのよ。でも、湿っぽくなっちゃうからもう一回だけ聞いてあげる」


 フィオは笑って言った。


「どう? 可愛い?」


 ソイルは少しだけ笑い、それから黙って頷いた。

  


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