第二章1 『再出発』
「ソイルさん? ちょっと聞いてますか? ソイルさん?」
パンッという音で、ソイルは気付いた。目の前にはミントの姿があった。白い手がカウンターの上に置かれている。いつも通りだ。今回も、戻ってくることが出来たんだ。
「……ありがとう」
ソイルは思わず呟いていた。
これまで、このわけのわからない繰り返しは、ソイルにとって呪い以外のなにものでもなかった。死んだし、死にかけたし、精神的にも、肉体的にも痛めつけられたこともあった。
気が狂う寸前になったこともあったし、ループの中を怠惰に過ごしているときでさえ、心はずっと空虚で、後ろめたい思いを抱えながら過ごしていた。
だから、はじめて、ソイルはこの現象を引き起こしている誰かに、何かに、深く感謝した。
俺にまだチャンスを与えてくれて、本当にありがとう。
「え、あ。いえいえ……。これが私の仕事だから良いんですけど……って、ソイルさん……?」
涙がつぎつぎにあふれて、ソイルの頬をつたい、カウンターの上に落ちていく。フィオを救えなかった悲しみと、彼女を救うことをあきらめなくてもいいのだという喜びが。
「そ、ソイルさん!? え、待って、ど、どうして泣いてるんですか!?」
そのときに、ハッとソイルは自分が泣いていることに、気づいた。
「おわっ!? あ、ああ、違う、違うんだこれは。くそっ、なんだこれ……止まらねえ」
ぐしぐしと、慌てて腕で目をこするソイルに、ミントは柔らかく微笑んだ。椅子から立ち上がり、身を乗り出し、ハンカチでソイルの涙をそっと拭った。
「……良いんですよ。急に悲しくなっちゃうときって、私にもありますから。心が泣きたがっているときは、我慢しなくていいんです。おとこの人たちって、すぐ意地張っちゃうんですから」
ミントは言った。
「ソイルさんは、きっと何かを、ちょっとだけ頑張り過ぎちゃったのかもしれませんね」
ソイルの現在の精神状態において、ミントの言葉は反則だった。思わず縋り付きそうになる。ちっぽけな胸の内を吐き出して、訴えたくなる。本当に辛かったと。本当に苦しかったと。胸が張り裂けるほど悲しくて、そして悔しかったんだと。
けれど。それは違うのだ。
そんなことをするために、戻ってきたわけではないのだから。
だから、ソイルは、ただミントの手を両手でつつむようにぎゅっと握り、心の底から言った。
「ありがとう、ミント。俺は、もう、大丈夫だ」
思えば。この繰り返しの日々の始まりはいつもミントからだった。この優しい少女を、過去のループでいたずらに傷つけてしまったことを、ソイルは深く深く悔いた。
「そ、ソイルさん!? え、あ、ま、待って。み、みんな見てるのに……!」
ミントの白い肌はこれまで見たこともないくらい真っ赤に染め上げられていた。顔を隠したくても、ソイルが手を掴んで離さないためにそれも出来ないようで、彼女はただ口ぱくぱくと動かし、目をわずかにうるませ、必死に羞恥に耐えているようだった。
「わるいんだけど、あとで頼みがあるんだ。良いか?」
「は、はいっ。私に出来ることであれば、もちろん! ではお昼くらいにでどうですか?」
「ありがとう! じゃあ、またあとでな!」
ミントの手を離し、ソイルが振り返ると、ハゲ頭の男がすさまじい形相でソイルを睨んでいた。赤黒い肌はこれまで見たこともないくらいに、さらに真っ赤に染め上げられていた。返り血でも浴びてきたのかと尋ねたい。
「こ、こ、こ、このやろ」
声帯が岩で出来ているかのように、野太く、低く、くぐもった恐ろしい声だった。ソイルはパッと顔を輝かせ、レーベンにがしっと抱きついた。
「レーベン!! また会えて嬉しいよ!!」
「どあっ!? は、な、なんだてめぇ急に!! は、離せ、こいつ!!」
レーベンは突然飛びついてきたソイルにオタオタしながら、首根っこをつかんで引き剝がそうとするが、ソイルはまったく離れる様子がない。
「いやだね、離すもんか! おまえ、ほぼ毎回俺の肩掴んできたじゃねーかよ! たまには俺から掴みに行ったって良いだろ! 急にツレなくするんじゃねえよ! 寂しいだろ!」
「はぁ!? いったいなんの話をしてんだてめぇは!? わけのわからねえこと言うんじゃねえ!!」
ひそひそひそひそと、低い呟きがギルド内に満ちていく。
「お、おい!! いい加減にやべえ誤解されてんだよ!! はっ、み、ミント嬢まで!? ち、ちがう!! 俺は何も知らねえ!! 俺は何もしてねえ!! だ、誰か助けてくれえ!!」
早朝のギルド内に、レーベンの絶叫が響き渡る。
ソイル・ラガマフィンの再出発は、このようにして幕を開けた。
◆
「でも珍しいですね、ソイルさんがマスターに会いたいなんて」
ソイルとミントは、並んでゼルドアの街の中を歩いていた。快晴ということもあり、人も熱気もいつも以上に溢れている。季節も秋のなかごろを過ぎようとしていたが、道行く人のほとんどがいまだに軽装だった。
「たしかにな。最後に会ったのなんて数カ月前だし。元気にしてんのか? マスターは」
「元気過ぎて毎日手を焼いてるくらいですよ……。最近だってシーラディム地方にあるダンジョンを攻略するって息巻いて、誰も連れずにひとりで行っちゃったんですから。まったく……」
「わはは。オニールさんらしいな。相変わらずぶっ飛んでる」
オニール・クレイグ。潜ってきたダンジョンは数知れず。屠った魔物は数知れず。齢四十五を越えても、いまだに現役絶頂期継続中。
性格は豪放快活、富や名声には興味がなく、情にもろく、女に弱い。面倒見が良いが、ひとたび怒ると手が付けられない。実力と人望を兼ね備える、押しも押されぬゼルドアギルドの頂点である。
「いい加減少しは更生して欲しいんですけどね……。いつまでたっても、街の不良みたいなことばっかりして……。娘の私はほんとに苦労してるんですよそれで……」
ゼルドアギルドにどちらかというと荒くれ者が集まるのは、マスターであるオニールの影響によるところが大きい。ミントの実の父であり、田舎から出てきたソイルを拾ってくれた恩人でもある。
「オニールさんには死ぬまでそうあって欲しいよ。あの人がマスターだから、俺はこのギルドが好きなんだ」
「そ、そう言ってもらえるのは嬉しいんですけどね。ソイルさんにも、みなさんにも。でも、さすがにこういうのとかは直して欲しいんです……私もやめたいのに……」
ミントはそう言いながら、短いスカートのすそをなんとか下に引っ張ろうとさきほどから四苦八苦していた。ギルドを出てからずっと、すれ違う男の八割が、ミントを見て振り返っているのを感じる。
彼女の名前の由来ともなっている、明るい緑青の長髪は、柔らかくうねりながら下に伸びていて、それをリボンで結っている。均整の取れたスタイルに少々似つかわしくない、豊満な胸、見事なくびれと形の良い尻。それにくわえてまだあどけなさの残る美貌。ミント本来の魅力もあるが、それ以上に。
「ちょっと待ってほしい。気持ちはわからなくもないが、ミントや他の受付嬢がその服装をやめるっていうなら、ギルドで暴動が起きるぞ。俺も含めてな」
「ぼ、暴動が起きるんですか!? たかが服ひとつで!?」
ミントが着ているのは、ダークブラウンのショート丈のタイトなワンピース。胸元がこれでもかと強調され、尻のラインもくっきり見える。そこに白の網タイツだ。わかっているとしか言いようがない服装。だが、はっきり言えば、一般的なギルドの受付嬢の正装からはほど遠いデザインである。
これはオニールがマスターに就任して行った最初の仕事である。「俺はこういう服装の受付嬢があっても良いと思う!!」高らかに宣言したそれは、男性冒険者の圧倒的な支持を得て、速やかに施工され、現在に至るまで継続されている。
「たかが、じゃねえんだ。それが無くなったらゼルドアギルドはゼルドアギルドじゃなくなっちまう。それくらい重いものなんだ。そんなのランクDの俺だってわかるぜ」
「そ、そういうもの、なんですか……。でも、ほんとに歩くだけで恥ずかしいのに……うー」
スカートをくいくいと下に引っ張ろうとするたびに、メロヌが揺れる。そこまで計算されているのかと疑いたくもなる。あるていど見慣れているソイルでさえも、油断したら生唾を呑んでしまうほど。
「前に、おとうさ、マスターが他のギルドにもこの服を持っていって、受付嬢の正装はこれにするべきだって直談判したらしいんです。そこのマスターが女性だったので、ボコボコにされて叩き出されちゃったみたいですが」
生きざまが男すぎるぜ、オニールさん……。
でも、なにをしてんだあんたは……。
「そういえば、マスターになんの用事があるのか聞いていませんでしたね」
「あ、ああ。情けない話だけど、剣を教えてもらいたくてな」
そんな人物であるオニールだが、実力は間違いなく本物である。ソイルはそのオニールにこれから剣の師事を仰ぎに行こうとしていた。レト、ファーガス。ソイルが黒騎士に対して同等の実力で対抗できる人物と考えた結果、それがオニールだったのだ。
「なるほど。でも、それがどうして情けないことなんです?」
ミントは本当にわからないといった表情をした。
「いや、だってそうだろ。六年間も冒険者やってんのに、いまだにランクDの男が、いまさら剣を教えて下さいなんてさ」
本来のソイルであれば、このような発想は絶対に出てこなかったに違いない。そうしようする、勇気も。決意も。
「そんなの関係ないです。私は、かっこいいと思います。そういう事情なら私にも応援させて下さい」
ミントがソイルを覗き込みながら言った。ソイルは、照れくさくてなんと答えたらいいかわからず、頭をかきながら、ミントに礼を言った。




